見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

できる女+かわいい女/アップルパイ神話の時代(原克)

2009-03-16 22:11:48 | 読んだもの(書籍)
○原克『アップルパイ神話の時代:アメリカ、モダンな主婦の誕生』 岩波書店 2009.2

 「はじめに」の冒頭3パラグラフを読むだけで、本書の主題と方法は容易に把握できる。過不足のない、実に気持ちいいほど明晰な説明を、さらに無理やり要約すれば以下のとおりだ。

 20世紀前半の米国、「モダンな主婦」という神話が仕掛けられた。モダンな主婦とは、最新の電気製品を難なく使いこなし、家事を合理的に遂行する「できる女」と、夫や子供に無償の愛をそそぐ「かわいい女」の二本柱でできている。どちらが欠けてもいけない。そのもっとも完成された姿は「完璧なアップルパイを焼く主婦」であり、この「アップルパイ神話」(お袋の味神話)こそ、現在の「主婦」像の生みの親なのである。

 本書は、上記の仮説をポピュラー系科学雑誌および女性向け家庭雑誌の「語り口」によって検証していく。「物証」として、いちばん多く取り上げられているのは商品広告である。数枚の写真とセリフまたは説明で構成された、短いマンガ(あるいは紙芝居)仕立てのものが多い。夫のYシャツの汚れが落としきれなかった不甲斐なさに涙する妻。でも○○石鹸を使えば、もう安心。甘ったるいサラダ(なんだ、それ?!)にダメ出しをする夫と息子。でも○○社の無糖ゼラチンを使えば、夫は大喜び。妻に「世界の料理チャンピオン」と書かれたブルーリボンを進呈する、等々。実に分かりやすい、微笑ましいほど臆面もないメッセージだ。

 著者によれば、「モダンな主婦」の完成形「ミス・アメリカンパイ」は1950年代に全貌を現すという。それは「豊かで強い国アメリカ」「あたたかく無償の愛に満ちた20世紀型米国家庭」の幻想と表裏を成していた。現実には、朝鮮戦争、アフリカン・アメリカン系住民の苦難など、幻想は破られつつあったにもかかわらず。

 著者は「モダンな主婦」であることを要請された女性たちに同情的である。けれども本書は、要請される「客体」としての女性/要請する「主体」としての男性というような、ありがちな二分法からは限りなく遠い。著者は、自分の分析対象が「20世紀前半」「米国」「白人中流社会の女性」という限定つきの歴史的事例であることを強く意識している。また「お袋の味」幻想は、女性たちを「かわいい女」に追い込んでいくだけでなく、男性たちの食欲を「お袋の味」という「仮構された規範」に追い込んでいくことも鋭く指摘している。私が本書を最後まで興味深く読めたのは、この点が大きいのではないかと思う。
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御前立ち、出開帳/石山寺の美(そごう美術館)

2009-03-15 22:23:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
そごう美術館 『源氏物語千年紀 石山寺の美 観音・紫式部・源氏物語』(2009年3月7日~29日)

 西国巡礼十三番札所の石山寺(滋賀県大津市)では、この3月1日から7年ぶりのご開帳が始まっている。来週末はご本尊を拝みに行ってくる予定なので、その予習と思って、横浜に出かけた。

 ポスターになっている如意輪観音は、ご本尊の「御前立ち」であるそうだ。江戸期の作だというが、悪くない。衣服に残る唐草文様が、世紀末絵画のお姫様のようだ。蓮華座ではなくて石山の上に、座布団みたいな扁平な台座を敷き、片足を垂らして座っているのが独特である。秘仏であるご本尊のお姿を忠実に写したものであるそうだ。ふうーんと思って、並んだ写真パネルを順に見ていたら、「ご本尊(秘仏)」という説明のついた1枚があって、びっくりした。「秘仏」のわりはおおらかだなあ…。比べてみると、確かにご本尊と御前立ちは、そっくりの格好をしている。表情は、御前立ちのほうが目元の涼しい締まった顔立ちであるのに対し、ご本尊(平安後期)は茫洋ととらえどころのないお顔に思える。

 『石山寺縁起絵巻』は江戸期の摸本がいくつか出ており、6、7巻に感心した。6巻は、焼き討ちされる貴族の邸宅を描いており、黒というよりチョコレート色と赤の縞模様で表現された猛火が美しい(と思ったが、Wikipediaで谷文晁の”原本”を見たら段違いの迫力に息を呑んでしまった)。7巻は、暴風雨の湖面に浮かぶ白い馬(石山観音の化身)とそれにすがる娘の姿が童話的な美しさ。嵐の後の湖面は緑と黒で描かれている。文晁もこんな色遣いをしていたっけかしら。

 衝撃だったのは『天川弁才天曼荼羅』。蛇頭人身、三面十臂の弁才天である。フツーの立ち姿の襟首から、蛇の頭が3つ生えているという、異形ぶり。グロい。左右上方の脇侍(?)も蛇頭。弁才天の足元で、手を打ち合わせて踊るような天女の能天気ぶりも恐ろしい。南都の真言系の寺院を中心に伝わった図像だそうだ。(→個人ブログに画像あり。下の方の「琳賢筆」とあるものが、今回の展示品に近い)

 本展の主役は、江戸~明治につくられた源氏物語ゆかりの絵画・工芸品だが、ここはさらりと見流す。唯一、室町時代の『白描源氏物語絵巻断簡』が面白かった。絵巻といっても、戯れ描きみたいなもの。せいぜい、気安い相手と楽しむために描いてみたという呑気さが愛らしかった。
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クライマックス近し/Pluto007(浦沢直樹)

2009-03-14 22:57:05 | 読んだもの(書籍)
○浦沢直樹、手塚治虫『Pluto(プルートゥ)』第7巻 小学館 2009.3

 第6巻のロボット刑事ゲジヒトに続き、この巻は、光子エネルギーロボットのエプシロンの「死」を描く。これで物語冒頭で紹介された「地上最強」のロボットたちは全て退場してしまった。いよいよ「姿」を現したプルートゥと、仲間たちの「意識」を受け継ぎ、目覚めたアトムの最後の戦いが始まる。次の第8巻完結が予定されている。ここまで、長くて暗い物語だったという印象が強いが、果たして最終巻でその印象は変わるのだろうか?

 本編では、目覚めかけたアトムが垣間見る「ボラー」の正体が絵になっているが、砂嵐に浮かぶ前かがみの巨人の姿、ああ、ゴヤの絵だ、と反射的に思った。でも画集を引っ張り出して、いちばん有名な『巨人』の絵を見ると、あまり似ていないんだな。ゴヤには、ほかにも巨人を描いた絵が何点かあって(月光の下に座り込んだ孤独な巨人、棍棒を持って殴り合う2人の巨人など)それらのイメージが私の中で輻輳しているのかもしれない。
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長崎、寛永年間/黄金旅風(飯嶋和一)

2009-03-13 21:39:26 | 読んだもの(書籍)
○飯嶋和一『黄金旅風』(小学館文庫) 小学館 2008.2

 表紙に描かれた美しいジャンク船を見て、先月の長崎旅行の記憶がよみがえり、買ってしまった。物語の舞台は、寛永5年から10年(1628~1633)の長崎。主人公の平左衛門(二代目末次平蔵)は、かつて長崎のセミナリオで学び、稀代の悪童として、宣教師たちを恐れ、呆れさせた過去を持っていた。

 ふむふむ、末次平蔵という名前は、長崎歴史博物館で見たような。いや、あれは初代平蔵の父である末次興善だったかもしれない。いずれにしても、赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』(講談社、2005)によれば、寛永期の長崎は、キリシタンの改宗事業が一段落し、国内外(高麗・中国)から集まった人々によって、新たな貿易都市・長崎が形成され始めた時代だ。この「初期長崎」の面影は、寛文3年(1663)の大火で灰燼に帰してしまう。主人公の悪童仲間の平尾才介は、内町火消組頭として登場するので、ドキドキしながら読んでいたが、物語がまだそこまでいかないうち、才介は若くして炎の中に消えてしまった。

 また、この夏、『イエズス会の世界戦略』(高橋裕史著、講談社、2006) という本も読みかけた。途中で挫折してしまったのだが、イエズス会の日本セミナリオ(神学校)の具体的な様子(日課、服装、食事など)が少し分かっていたので、この小説の情景を思い浮かべるよい手がかりになった。

 悪役となるのは、長崎奉行の竹中重義。実在人物で(知らなかった)キリシタン弾圧・密貿易など、あまり芳しい評判がないが、物語中では、呂宋(ルソン)征伐によってイスパニアを駆逐し、オランダ貿易・唐人貿易の巨利を独占しようとたくらんでいる。長崎の民を戦禍から守るため、この企てをくじくのが平左衛門。しかし、危機感を煽って気をもたせたわりには、最後の解決策は、松平伊豆守(知恵伊豆殿だ~)にチクるだけというのは、ちょっと拍子抜けである。でも、松平伊豆守が解き明かす家光の胸中は、なかなか興味深かった。

 楽しみながら、いろいろ新しい知識も仕入れた。寛永7年(1630)、寛永の禁書令は、キリスト教関係の書籍だけでなく『天文略』『幾何原本』など天文、数学、地理書(もちろん漢籍)などの輸入も禁じたこと。あと、チラリとだけ登場する日本人宣教師、金鍔次兵衛。長崎の歴史って、面白いなあ。

 
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週末秘仏の旅(5):奈良といえば…。

2009-03-12 00:05:57 | なごみ写真帖
 せんとくんとまんとくん。だんだん、せんとくんが可愛く感じられるようになってきた。



 修二会の頃に奈良に来ると、どこにでも咲いている大好きな馬酔木。



 興福寺、奈良博のあとは、大仏殿の裏をぶらぶら歩いて、また二月堂に向かった。階段の下の食堂(じきどう)では、錬行衆が食事中らしかった。食事を終えた錬行衆が(カタカタ食器の音を立てて、膳を下げるよう促す)外に出てきて、生飯(さば)というおひねりを閼伽井屋の屋根に投げ上げるのを見物。

 私もお腹がすいたので、二月堂の南北にあった茶屋に寄って行こうと思う。私は、庫裏のような佇まいの北側の茶屋が好きで、確か「観音力うどん」と称するうどんを出していたはずだ。と思ったら、いつの間にか廃業して、ただの無料休憩所になっていた。自分の記憶が何もかも古くなっていることに愕然。南側の茶屋はまだ商売をしていたので、わらび餅で小休止。



 このまま、何日でも修二会の参籠を続けたいなあ、と思いながら、そろそろ帰京の途についた。


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週末秘仏の旅(4):興福寺国宝館

2009-03-11 22:31:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
 3月8日の朝、興福寺に寄った。31日から東京国立博物館で始まる『国宝 阿修羅展』に備えて、阿修羅像はもうお出かけかな?という野次馬的な興味があったためだ。国宝館の外壁には「阿修羅像展示は3月10日まで」という貼り紙がされていて、どうやら、まだ中においでのようだった。

 朝いちばんの国宝館は、さすがに人が少なくて気持ちがよかった。阿修羅と一緒に東京にやってくる八部衆と十大弟子の一部が展示されている。注目したのは、獅子の冠をかぶった乾闥婆(けんだつば)像。解説に「髷に結わず、背中に長い髪を垂らしている」とある。国宝館では壁面のガラスケースに収められているため、背中を見ることができないが、東博では露出展示だというので期待できる。「乾闥婆」とは、西域では「作楽を仕事とする者」の意味だそうだ。目を閉じた表情は、自ら奏でる音楽に聴き入っているのだろうか。

 阿修羅は、先日『芸術新潮』3月号で見た、両脇面のアップが印象的だったので、これを確認する。私はとりわけ、向かって左側の、眉根を寄せて唇を噛んだ細身の面が好きだ。『芸術新潮』は「8世紀少年」というキャプションが巧いなあ、と思った。同号で私がいちばん面白かったのは、入江泰吉、土門拳、小川光三など、写真家によって千変万化する阿修羅の表情である(杉本健吉のスケッチもよい)。



 さて、興福寺国宝館には、今回の『国宝 阿修羅展』のために、写真家・金井杜道氏が撮った八部衆と十大弟子の写真パネルが飾られている。これがすごい。金井杜道の写真がすごいのか、ミストグラフという高精細のプリント技法がすごいのか(その両方なのだろう)。唸ったのは、鳥頭人身の迦楼羅(かるら)像だ。興福寺の迦楼羅像は、肩のスカーフが撫で肩を強調しており、細いウエスト、広がったスカートが、華奢な少女の立ち姿のように見える。むかし、友人と無遠慮にも「これは失敗作だよね」と笑い合ったことさえある。ところが、金井杜道の撮った迦楼羅像のアップには、見る者をたじろがせる猛禽の獰猛さが確かにある(複雑に隈取られた大きな目とか)。この表情は、カメラを通じてこそ捉えられるものだと思う。

 同じく金井杜道氏の特大写真パネルで、阿修羅像は片方の瞳にだけ白いハイライトが残っていることにも気がついた。偶然なのだろうけど。

 ほかに気になったのは、鎌倉初期の梵天立像。定慶の作として知られる。解説に「彼は独特の作品を残している」とあったが、確かに宋風の影響が強く、しかも「ステレオタイプでない宋風」(ごくわずか中国に残っている優品)を感じさせる。東金堂の文殊・維摩も定慶なんだな。

■金井杜道展(2009年4月1日~11日、於:壺中居3Fホール)
http://www.kochukyo.co.jp/2009_kanai-index.html
これは忘れず行きたい。

■阿修羅展、搬送本格化へ 奈良・興福寺で魂抜く法要(asahi.com:2009年3月10日)
http://www.asahi.com/national/update/0310/OSK200903100066.html
いよいよ出発ですね。

※子供たちが1人1文字ずつ書いたらしい習字。東金堂の壁に掲げられていた。


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週末秘仏の旅(3):特別陳列・お水取り(奈良博)

2009-03-10 23:56:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』

 一夜明けて、3月8日(日)は、朝いちばんの興福寺の国宝館に寄り(後述)、続いて奈良国立博物館へ。秋の正倉院展の混雑がウソのように静かな館内である。本館の「仏教美術の名品」を流し見て、地下のミュージアムショップを覗く。と、東大寺修二会の関連文献本が多数。写真の多いものを片っ端から開いて、3月7日「小観音出御」に関する記事を探していく。

 すると、あった! 昨夜、私が見た光景と全く同じ、2人の練行衆(僧侶)が、内陣の後ろ正面の戸に背を向け、両腕を上げて格子をしっかり掴んだ姿。説明には「ツレ五体」(連れ五体)とある。あれは「五体投地」の変形版だったのか…。7日後夜の勤行(8日未明)だけに行われる、独特の作法であるそうだ。珍しい光景を間近に見ることができた喜びをしみじみと噛みしめる。(→毎日.JP 奈良:2009年3月9日

 それから、新館で上記の特別陳列を見学。「絶対秘仏」と言われる二月堂の大観音・小観音って、実は鎌倉時代のスケッチが残っているのだなあ。買って帰った図録を読んでいたら、久安4年(1148)の修二会最中に「練行衆が小観音の厨子を打ち敷くという事件」が起きたと書いてあった。一体、何が原因だったのだろう…。あと、常設展で何度か見ている大観音の光背の断片(寛文7年=1667年の火災で被災)は、明治になって、建築史家の関野貞が発見したものだということも初めて知った。

 バスケットボールとテニスボールほども差がある大小の法螺貝を見て、昨日の演奏、高音と低音の特徴的な掛け合いが耳によみがえってくるように感じた。同様に鈴の音にも高音と低音があったが、大導師鈴は全面に紙貼りを施してある(音が籠るんだろうな)のを見て、なるほど、と思った。念珠も、激しく擦り合わせて音を立てる、重要な楽器だった。油差しとか柄香炉とか、あ~昨日もこんなの持っていたなあ、と思う。紙衣(かみこ)や差懸(沓)は、実際に近年使用されたもので、汚れ具合がリアルである。

 パネル展示のコーナーで、再び「連れ五体」の写真を見つけ、ボランティアの解説おばさんに「小観音出御・後入」について聞いてみた。小観音のお厨子は、夕刻の「出御」の際、内陣の西正面から礼堂に運び出され、南隅に安置される。深夜の「後入」では、礼堂の南隅から内陣に再び入って大観音の前に移される。だから「後入では、ちょっとの距離を動くだけなんですよ」とおばさんは言っていたが、あとで図録の解説を読んでみると、そうではなくて、「後入」の際は、いったん外陣を右回りにまわり、南側から再び内陣に入るらしい。

 ということは、もう少し待っていれば、目の前を小観音のお厨子が担がれて通り過ぎていくのが見られたのだな。ちょっと残念だが、またの楽しみとしておこう。でも、いまいち、お厨子の動きが完全には理解できない。やっぱり修二会って、何度も行ってみないと分からないものだ。

 ミュージアムショップで『特別陳列・お水取り』の図録と『東大寺修二会・お水取りの声明』(主要な唱句の本文と解説を収録)を購入。非常に役に立って嬉しい。
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週末秘仏の旅(2):東大寺修二会(3/7小観音出御)

2009-03-09 23:38:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
東大寺二月堂 修二会

 修二会には何度も来ているつもりだったが、このブログを検索してみたら、2005年にお松明を見たのが最後だった。そうか、4年も来ていなかったか。修二会を初めて聴聞したのは、20年以上も前になる。奈良のガイドブックを読んで(当時は「読む」ガイドブックが主流だった)小林秀雄が韃靼(だったん)の行法を「バッハだ」と賞したというのに惹かれて、3月14日に参籠した。人の流れに押されるまま、正面の局に入り込んで、深夜までそこにいた。その後も、さまざまな友人と来たり、ひとりで来たりしている。

 2000年頃だと思うが、久しぶりにひとりで14日に参籠した。北側の局(つぼね)に座っていたが、クライマックスの韃靼のとき、内側の下陣(げじん)に電灯が灯っているのに気づいた。観光客への配慮?安全確保のため? 燈明のかたちを模した小さな電灯ではあったけど、興を削がれること甚だしかった。さらに、まわりの客が一斉にフラッシュを焚いて、写真を撮ろうとすることに腹が立った。下陣の客(むろん男性)が無遠慮に立ち上がるので、いちばん外側の局からは、内陣の様子がよく見えないことにもフラストレーションがたまった。むかしはもっと荘重で宗教性の高い儀式だったのになあ、と思って、ひどくガッカリした。

 今年は、人気の高い12-14日を避けて、前半(上七日)を狙うことにした。上七日の最終日にあたる3月7日は、本尊が入れ替わる「小観音出御」の日として知られる。具体的に何が行われるのかは、サッパリ分からなかったが、ネットで入手した日程表には、18:00「小観音出御」とあったので、これに間に合うよう、東大寺に向かった。境内はお松明を待つ人たちでかなり埋まっていたが、二月堂に上がってみると、思ったほど混んではいない。警備のおじさんに「局に入ってもいいですか?」と聞いてみると「いいけど。18:00ちょっと前から19:30過ぎまでは外に出られませんよ」とのこと。了解して、お堂の背面(東)の局に上がり込む。二十畳ほどの細長い座敷だ。二重の格子戸を通して、内陣の荘厳を整える僧侶たちの姿が見える。まもなく背後の扉が閉じられ、先客だったおじさんが出て行くと、私は暗闇の中でひとりきりになった。外では「境内は大変混雑しています。参観のお客様は第二会場にお進みください」という放送が、繰り返し流れている。
 
 18:00になると、左手(南)から、沸き上がるように雅楽の演奏が響いてきた。「小観音出御」らしいが、オモテで何が起きているのかは皆目不明。ひたすら耳を澄ます。19:00になると遠くでくぐもるような鐘が鳴り、堂内で「案内つかまつれ」「かしこまって候」(?)というような問答が2回、聞こえた。それから、外で大きなどよめきが起こり、パチパチと松明がはぜる音、高らかな沓音によって、練行衆が入堂したことが分かる。内陣の燈明が増え、外陣の中央に吊るされたカンテラにも大きな燈火が点されて、少し視界が明るくなり、室内に松脂の(?)甘い香りが立ち込める。お松明を見終えた人たちが局に入ってくるが、懐中電灯や高声の会話をたしなめる声が飛ぶ。下陣のお客も、マナーよく床に座ってくれるのでありがたかった。

 局はすぐに静かになった。正面(西)だと、なかなか扉を閉めてくれないので、外の雑音がうるさくて声明が聞き取りにくいのだが、後ろ(東)は、暗闇の中で「聴聞」に集中できてよい。修二会の音楽は、ほら貝も鈴の音も、高音と低音のかけ合いであることにあらためて気づく。20:30頃に最初のクライマックスの「宝号」(南無観)を聴く。あっという間だった。ゆったり流れる神名帳を聴き、22:30頃に2度目の「南無観」を聴く。私の好きな、咒師(しゅし)の活躍するパートもこのあたり。聴き慣れた歌劇を聴くように、ちょっと美声すぎるなあ、などと思う。

 23:00を過ぎて、ちょっと時間が気になり出した。私は、自分の精神力が0:00までは持たないだろう、と予測していたのだ。ところが、全く疲れないし、飽きない。こんなことなら、宿の門限をよく確認してくるんだった。どうしよう…。と気を揉んでいると「ごめんね。邪魔しないから」と大きなカメラを抱えたおじさんが、私の隣りに入り込んできた。夕方にもパチパチ写真を撮りまくっていて、無粋なおじさんだな、と思っていたが、見ると首から四角い札を下げている。「報道の方ですか?」とお聞きすると「いや、記録を撮ってるのよ」とおっしゃる。「このあと、何が起きるんですか?」と聞いてみると、「小観音後入(ごにゅう)よ。夕方、ここからお厨子が出ていきはったでしょ」と言うが、暗くてよく分からなかった。局の正面中央をキープしていた私は、「今日はずっとこの場所? いちばんいい場所やわ」と褒められた。下役の僧侶たちによって、下陣に吊るされていたカンテラが下ろされ、長い柵が左右に取り除けられた。これから「何か」が起こることは間違いない。

 また声明が始まった。3度目の「南無観」の声に、私がうっとりと目を閉じかけていたとき、両隣のカメラマンのおじさんが立ち上がった。はっと前を見ると、内陣の格子戸に背を押しつけるようにして立つ2人の僧侶の影。格子戸のサン(横枠)を両手でつかみ、体を大きく前後に揺らす。まるで、堂内から飛び出そうとする、大きな力に抗うようなパフォーマンスだ。2度、3度、大きく床を踏みならす沓の音は、いつまで続いたのだったか。「ありがとう」と小声を残して、カメラマンのおじさんはいなくなってしまった。目の前の僧侶の黒い影も、夢のように消え失せた。茫然。何だったんだ、今のは…。

 時刻は0:30を過ぎた。どうしよう、まだ声明は続いているが、このあとに見るべきものがあるのかどうか、よく分からない…。結局、私はここで席を立ち、深夜の東大寺境内をトボトボと通り抜けて、1:00過ぎに市内の宿に戻った。この日の謎解きは、翌日、奈良国立博物館にて。



※内陣の祭壇の裏に積まれた壇供(だんぐ)の餅。修法の休止時間に撮りました。
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週末秘仏の旅(1):華厳寺(岐阜県)ご開帳

2009-03-08 23:54:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○第三十三番 谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡)

 昨年秋に始まった「西国三十三所結縁ご開帳」。冬の間はあまり動きがなかったが、3月に入って、また新たな札所の特別公開が始まった。谷汲山華厳寺は、本当は三十三所の「満願」に参拝するお寺だが、この3月1~14日がご開帳だというので行ってみた。

 先週、参拝に行った友人から「ご本尊の姿はよく見えない」「ご朱印所はすごい混雑」という情報を得ていたので、だいたい覚悟は決めていた。幸い、一番早いバスで着いたので、ご朱印所はそれほど並ばなかった。「10時半を過ぎるとすごいですよ」との話。ご本尊の十一面観音は厨子に入っていらっしゃるので、正面に立たないと見えないのだが、正面には参拝客が列を成していて、とてもゆっくりできない。しかも垂れ幕が邪魔。腰をかがめて、なんとかお顔の輪郭の下半分が見えるくらい。調べたら木造らしいが、黒光りして、堂々としたお姿だった。「約7尺(2メートル15センチ)の男性的な姿」(asahi.com:2008年11月28日)の片鱗はうかがえたように思う。

 本堂裏の笈摺(おいづる)堂を覗き、その奥の満願堂に進むつもりが、登り始めた道が、違う方向に折れていく。実はこれが奥の院への入口だった。あれれ…と思ったが、こういうときは神仏に招かれたと思って、引き返さずに進む。公称1.5キロ(片道30分)。岩だらけの狭い山道、足が上がらないくらいの段差もあって、かなりキツい。「西国三十三ヶ所でも最大の難所の一つ」と書いているサイトもあった。それでも、道筋の三十三観音の石像に励まされて(行くつもりのなかった)奥の院に参拝。ふだんはあまり人が行かないところらしいが、老若男女、何組かの参拝客の姿があった。息を整えて、また下山する。

 下山途中、すれ違ったおばあちゃんに「奥の院の不動さんまで行きはったの?」と聞かれ、ああ、あれは不動明王だったのかと知る(堂内はよく見えなかった)。もっとも、調べてみたら、奥の院からさらに上に不動堂があるらしいので、混同しているかもしれない。

 さて、三十三観音の石像を逆にたどって下ること30分余り。いつの間にか観音の姿がなくなってしまった。木立の切れ目に華厳寺の本堂らしき屋根が見えるのだが、ずいぶん遠い。私の歩いている道は、なんだか違う方向に向かっている。ええ~道を間違えた?! 慌てて、1つ前の三叉路に引き返してみるが、そこも違うような気がする。誰かに聞こうにも、さっきまで時々すれ違っていた参拝客の姿もなく、あたりは森閑としている。本気でおろおろしかけたとき、さっき奥の院で見た記憶のある、地元のオジサンらしい男性が静かに崖下を見下ろすように佇んでいた。

 「すみません、華厳寺に下りるには…」と聞いてみると、私が登ってきた道ではなく、このまま進んで山門の横に出る別の道を教えてくれた。男性は「上に忘れものしちゃって、また戻らなくちゃならないんだよ」と言い残して、すぐに消えてしまった。もしや私は、不動明王の化身に助けられたんじゃないかしら…と思った(私の生家は真言宗なので不動様とは縁が深い)。

 美しい竹林を抜け、無事、山門に到着。時計を見ると、帰りのバスの時間が迫っていたので(乗り遅れると次は2時間くらい無い)お戒壇めぐりも満願堂も振り捨てて、バス乗り場へ急ぐ。まあいいや、本当に「満願」になったら、また来よう。

 さて、この後は、バス~揖斐駅~養老鉄道~大垣駅~JR東海道線~京都駅~近鉄~近鉄奈良駅着。今夜(3月7日)の宿は奈良に取ってある。もちろん(この時期に関西に来るなら外せない!)大好きな修ニ会を聴聞するためだ。宿にチェックインを済ませたあと、夕暮れ迫る東大寺に向かう。南大門の扁額に「大華厳寺」と書かれているのを発見し、そうか、東大寺には「大華厳寺」という別称もあったんだな、と気づく。今回の私の旅は「華厳寺→大華厳寺」コースというわけだ。以下、奈良編に続く。
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多事多端の四半世紀/戦争と戦後を生きる(大門正克)

2009-03-05 23:57:22 | 読んだもの(書籍)
○大門正克『戦争と戦後を生きる』(全集 日本の歴史 第15巻) 小学館 2009.3

 同シリーズの第13巻・牧原憲夫『文明国をめざして』、第14巻・小松裕『「いのち」と帝国日本』と力作が続いたので、続巻を非常に楽しみにしていた。その割には、ちょっと期待外れの読後感が残った。

 

 本書は1930年代から1955年という、戦前-戦中-戦後にまたがる四半世紀を一挙に扱う。近年、戦前と戦後の断絶性よりも、その連続性に言及する著作によく出会うが、実際にそのような時代認識に基づいて書かれた通史は、まだ珍しい。この点でも、本書の取り組みは革新的であると思う。

 しかし、読んでみて思った。この四半世紀は、あまりにも多事多端すぎる。技術の進歩、風俗の変化、生活意識の革新…それら全てを1冊の単行本で記述することは不可能で、いきおい、他の文献の紹介に留まらざるを得ない。そうすると、たとえば日本の兵力動員がいかに「根こそぎ」だったかという話は、吉田裕『アジア・太平洋戦争』を、空爆の悲劇性は、荒井信一『空爆の歴史』を思い出させるが、当然ながら、個別テーマを深く掘り下げた著作のほうがずっと面白い。本書は、歴史の多くの側面に触れようとし過ぎて、消化不良に陥っている印象がある。

 もちろん、初めて知ることもいろいろあった。総動員体制の下、生活と政治は否応なく結びつき、医療・衛生を含む、生活の改善(合理化)が強く求められた。その結果、庶民の福利厚生の水準は上がったが、私のような無精者には、きっと生きづらい時代だったろうなあ、と思う。戦時中の「性」をめぐるダブルスタンダード(一般の婦女を暴力から守るために商売女性たちが差し出された)や、戦後の在日朝鮮人教育の疎外(あれだけ民主的な教育基本法を定めておきながら何故?)なども、あらためて淵源を問い直したい問題である。

 それから、日本が受諾したポツダム宣言には、カイロ宣言の履行義務が含まれており、「カイロ宣言で明記された領土返還を含めて考えると、日本は日清戦争以来のすべての戦争に降伏したと考えられる」という一文にはあっと思った。これ、ある派の人々は絶対に認めないだろうけど。

 また本書には、一目見たら忘れがたい写真が何枚か収録されている。その一例、アメリカ海兵隊のカメラマン、ジョー・オダネルが撮った「死んだ弟をおぶって焼き場に来た少年」は、当分、私の瞼を去りそうにない。オダネルは広島や長崎で撮った写真をトランクに秘めて、40年以上封印していた(向き合うことができなかった)という。考えさせられる。
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