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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

金毘羅さん・書院の美(東京藝大美術館)

2007-07-08 23:59:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京藝術大学大学美術館 『金刀比羅宮 書院の美-応挙・若冲・岸岱-』

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/kotohiragu/kotohiragu_ja.htm

 香川県の金刀比羅宮(こんぴらさん)境内にある2つの書院、表書院と奥書院の障壁画を公開するもの。2004年、金刀比羅宮において『平成の大遷座祭斎行記念:金刀比羅宮のすべて』と題した大展覧会が開かれ、通常非公開の奥書院が特別公開されたのは記憶に新しいところである。このとき初めて、金刀比羅宮に若冲筆の障壁画があることを知ったが、展覧会は結局、行き逃してしまった。

 あれから3年。金刀比羅宮の書院の障壁画を、今度は東京で公開するという。えー、どうやって!? 半信半疑で初日(土曜日)から見に行った。いや、上手くしたものである。広い会場に、現地から外して来た障壁画を立て並べ、舞台セットみたいに「書院の美」を再現している。

 最初の部屋は、表書院「鶴の間」。応挙筆で、8面の襖に7羽の鶴が描かれている。左から右へ視線を流すと、飛び立ち、再び舞い降りる分解アニメーションのようにも見える。襖の厚さギリギリにガラス板を据えているので、鼻がくっつきそうな距離まで近づいて、手だれの筆致を味わうことができて、うれしい。

 その裏にまわると「虎の間」。これも応挙筆。かなり広めの空間で、三方16面の襖に8匹の虎が描かれているのだが...か、可愛すぎる! 虎というより、「今日のわんこ(にゃんこ?)」状態。どの子もちょっと太め。特に足が太すぎる。ルーズソックスをはいた女子高生みたいだ。柴犬の仔犬もこんなものか。水飲み親子の子トラのお尻のあたり(ふわふわした白い毛)、肩に首がめり込んだような真正面ポーズ、張子のように四肢を踏ん張る姿、どれも抱きしめてスリスリしてあげたい。理性が飛んでしまいそうになるのを必死で抑えていたのだが、見ていると、どの観客もつい口元がほころんでしまうのが分かる。蘆雪の虎も、岸駒の虎も、光琳の虎も好きだが、これは反則だろう~と思った。

 「柳の間」は岸岱(がんたい)筆。初めて聞く名前だが、虎の絵で有名な岸駒(がんく)の息子だそうだ。壁一面を占める大きな柳樹に白鷺を配した図はなかなかよかった。あと、「菖蒲の間」の上部の塗り壁(長押=なげしや鴨居の上部、なんていうの?)をぐるりと囲む群蝶図には目を見張った。ものすごく斬新で、きれい。でも、惜しむらくはカラープリンタで出力した複製品だった。襖は外してこられるけど、壁は無理なんだろうなあ。

 そして、奥書院「上段の間」が若冲の花丸図。これも襖4枚だけが本物である。うーむ。ちょっと残念。しかし、各種の植物を装飾的に並べたものでありながら、枯葉や虫食いが平然と描かれているのが面白い。ふつう、もっと理念的な姿を描きそうなものなのに。フランドル派の絵画を思い出してしまった。

 それから、表書院に戻って「山水の間」で再び応挙登場。壁一面を使った「瀑布古松図」にしびれた。金沙の靄の中を斜めに下る白い瀧。その白さを際立たせる、黒い岩。奇怪な枝ぶりを見せる水辺の松。その厳格無比な構成美にしばらく見とれてから、実は複製品であることに気づいて慌てた。しかし、伝わってくる感動は本物である。その対面に当たる襖には、対照的に、のどかな山間の田舎家の風景が描かれている。なんとなく信濃路あたりが似合いそうだ。これは本物。

 あとで解説パネルを読んだら、これらの制作年は1787年と1794年だそうだ。円山応挙(1733-1795)最晩年の作にあたる。完成度の高さも道理か。応挙は現地には赴かず、京都のアトリエで制作していたが、1788(天明8)年の大火で一時中断を余儀なくされたそうだ(解説の「アトリエ」って表現に、ちょっと笑った)。

 明治の画家、邨田丹陵による富士巻狩の図も面白い。地階の展示室では「金毘羅狗」をお見逃しなく。「流し樽」といい、ゆかしい風俗である。
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森の奥へ/プラハ国立美術館展(Bunkamura)

2007-07-06 23:55:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
○Bunkamuraザ・ミュージアム 『プラハ国立美術館展-ルーベンスとブリューゲルの時代』

http://www.bunkamura.co.jp/shokai/museum/index.html

 上野の「パルマ」展の翌日、興が乗って、また西洋絵画を見に出かけた。本展は、プラハ国立美術館が所蔵する作品の中から、ルーベンスとブリューゲルに代表される、17世紀フランドルの画家たちに焦点をあてたもの。ルーベンスはバロック芸術を代表する画家の一人で、躍動感溢れるダイナミックな作風が特徴。一方、ピーテル・ブリューゲルら「ブリューゲル・ファミリー」は、農民の風俗、田園の情景、静物画の秀作を数多く残した。

 私はどちらも好きだ。ルーベンスの宗教画やギリシア・ローマ神話を題材にした作品は、表面的な光彩・世俗的な美しさには溢れているけれど、高貴な精神性が希薄で、ちょっと辟易するところもある(「フランダースの犬」で、ネロ少年が最期に見たがったのがルーベンスの作品である、と知ったときは、正直、えええ~とがっかりした)。だが、ルーベンスの肖像画はいいと思う。徹底した世俗性(写実)が、作品の厚みとなり得ている。

 ブリューゲルは、農民風俗の背景として描かれる、静謐で神秘的な「森」の姿に強く惹かれる。東洋絵画とは、全く異質な自然が捉えられているように思う。だが、ダーフィット・テニールス(子)の『巡礼者のいる岩山』は、遠景の山、中景の大木、近景の岩、画面を斜めに横切る道と、そこを行く小さな人影という構成が、東洋の山水画そっくりで、ちょっとびっくりした。

 フランドルの逸名画家による『バベルの塔』は嬉しかった。ブリューゲルにも同名の作品があるはずだが、ふだんは農民風俗を写実的に描いた画家たちが、どうしてこんな空想的なテーマを競って取り上げたのか、不思議に思う。青空を背景に、円柱などの装飾パーツを繰り返し積み重ね、建築物の巨大さを表現しようとしている。SFXのための、たとえばスターウォーズの設定画を思わせる。

 後半は博物画および静物画。腐りかけた果物、斑入り・虫食いの植物など、だんだん趣味が病んでくる。サヴェレィの『鳥のいる風景』は、ルドルフ2世の動物園を素材にしたとはいえ、一緒にいるはずのない鳥類を、これでもかとばかり同一画面に押し込めた図で、中国の『百鳥図』を思い出した(三の丸尚蔵館で見たもの)。

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Google「本の中身」検索サービス

2007-07-05 23:53:35 | 見たもの(Webサイト・TV)
○NIKKEI NET(日経ネット):米グーグル、「本の中身」検索サービス開始(2007/07/05)

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070705AT1D0505J05072007.html

 「米グーグルは5日、書籍の全文をキーワードで検索し、内容を見られる『グーグル・ブック検索』サービスの日本版を始めたと発表した」という今日のニュースを、さっき、見つけた。2ちゃんねるふうに「キター!」と言うべきか。風林火山ふうに「武者震いがするのう!」と言うべきか。なんて、馬鹿なことを書きながら、いろいろな感慨が頭の中をめぐっている。

 Google社が「本の中身」を検索対象にした「グーグル・プリント」プログラムを開始したのは2004年のことだ。当初は出版社から提供されたコンテンツを対象にしていたが、現在は英米の大学や公立図書館と協力し、絶版本を含む図書館の蔵書をスキャンして公開する作業が着々と進んでいる。書籍『NHKスペシャル:グーグル革命の衝撃』の中で、野口悠紀雄氏がこのプロジェクトに触れて「英語でなければおよそ知的な作業ができなくなってしまう」とおっしゃっていたものだ(そこまでいうか!感もあり)。なお、現在、検索サイトの名称は「グーグル・プリント」から「グーグル・ブックサーチ」に改められている。

 確かに「本の中身」が検索できるというのはすごい。かなり画期的である。そう思って、何度か「グーグル・ブックサーチ」を試してみたことはあるのだが、如何せん、コンテンツが横文字中心なので、何が便利になったのか、どう使えばいいのか、実感としてはサッパリ分からなかったのだ。

 それが、とうとう日本語サービス登場である。記事によれば、「日本の出版社を含む1万社以上、100万点以上の作品を検索できる」由(この表現だと、日本語の書籍がどれだけあるかは不明)。まあ、大いに使ってみようではないか。二、三、試してみて、最初に感じたのは、ノートパソコンの画面は、縦書きの書籍のイメージを表示させるのに適当でないということだ。1行ずつ縦スクロールさせないと読めない。これはかなり痛い。

 たぶん私はこれからも、読書のためには紙の書籍を買い続けるだろう。しかし、実はこのサービスに期待していることがある。私は、本を読んだ後、再び本をひねくり返しながら、読書ブログを書く。必要に応じて本文を引用するためだが、そうすると、どうしても記憶の箇所が見つからないことがある。自分の記憶違いなのかどうなのか。真相が判明しないと、いつまでも気になる。そのたび、本の中身が検索できたら...と思っていた。

 私は、コンテンツにお金を払うことは全くやぶさかでないので、もし追加料金で中身検索ができるなら、有料でも検索オプションを買うと思う。そのくらい、「検索できる」という付加価値は高い。さて、このサービス、日本の情報流通と日本人の読書習慣をどう変えていくか、自分を実験台に試してみたい。

■7/6追記:
NIKKEI NET(日経ネット):米グーグル、図書電子化で慶大と提携・ネットで閲覧可能に(2007/07/06)

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070706AT1D0606R06072007.html

 朝日新聞の朝刊を見たら、「(米グーグルは)図書館蔵書の検索も始める予定で、まず有力大学1校と提携する」という下りがあった。「有力大学」ってどこだよ、と気になっていたのが、帰ってから、この記事で判明した。慶応か。そうだなあ、もし福沢諭吉が生きていたら、こういうプロジェクト、反対しないだろう。Web2.0大賛成って言いそうだな。『福翁自伝』に描かれた、新しもの好き(アメリカ好き)の福沢の気性を思い出して、なんとなく納得した。
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よみがえるディティール/明治の話題(柴田宵曲)

2007-07-04 22:50:08 | 読んだもの(書籍)
○柴田宵曲『明治の話題』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2006.12

 原本は、明治30年(1897)生まれの著者が、昭和37年に上梓したもの。「提灯行列」「憲法発布」あるいは「ミルクホール」「苗売り」「幻燈」など、硬軟取り混ぜた明治の風物について、それぞれ600~800字程度の短いエッセイを収録している。

 特に何かまとまった知見を得られるたぐいのものではない。ただ、性急な通史では窺い知ることのできない、当時の生活のディティールが浮かび上がる。特に、物売りの声、火の用心の口上、ニコライ堂の鐘のやかましさ(日本の寺院の鐘と違う)など、耳に感じるものが多いことが奥ゆかしい。あるいは土蔵の壁の湿り気、牛鍋の甘辛い匂い、かるた会の熱気なども、今ここにあるかのようによみがえってくる。その結果、自分も明治の人になったようで「気持ちがのんびり」するのが本書の効能である。

 著者の体験だけではなく、有名人の逸話、明治の小説や俳諧の引用もあり、今日では、あまり読まれない作家や作品が上がっているのも興味深かった。「鴎外夫人の作によれば」という表現がたびたび出てきて「え?」と思ったが、鴎外夫人(後妻)森しげは、小説家であり、雑誌「青鞜」の賛助員でもあるそうだ。北原白秋がカステラを題材にした新体詩はめずらしいが、食いしん坊の子規には、牛鍋、アイスクリーム、パン売りなど、食べもの関連の句が多数ある。

 作家のエピソードでは、漱石門下の人々が先生をルナパークの木馬に乗せようとする話が秀逸。また、漱石が大学の附属図書館で、話し声のうるさい館員に腹を立て坪井(九馬三)学長(文科大学長=文学部長)に書面で申し立てた、というエピソードが引用されている。原文は?と思って検索をかけたら、漱石の「(朝日新聞)入社の辞」が原典らしい。

 一方、明治の政治家のエピソードは、ここに書くに耐えないくらい、粗暴で野卑なものが多いが、それはそれで私は好きなのである。
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消費社会の中で/作家の誕生(猪瀬直樹)

2007-07-03 23:14:25 | 読んだもの(書籍)
○猪瀬直樹『作家の誕生』(朝日選書) 朝日新聞社 2007.6

 本書は、明治34年(1901)雑誌『女子之友』の誌友懇話会の場面で幕を開け、1970年の三島由紀夫の自決に至るまでを、作家たちのエピソードでつづった近代日本文学史である。

 作品(表現)中心ではなく、作者中心の文学史を「文壇史であって、文学史でない」と貶める立場がある。確かにそれも一見識だろう。しかし、作家たちは生身を抱え、家族を養う生活者でもあった。ある者は文学者といえどもマーケットの中で生きることを自覚してベストセラーを生み出し、ある者は気まぐれな消費者に翻弄されて消えていった。その悪戦苦闘ぶりは、正統な文学史ではないかもしれないが、読み応えがあって面白い。

 本書に登場する主な作家を挙げていくと、田山花袋、森田草平、川端康成、滝田樗陰、菊池寛、島田清次郎、賀川豊彦、大宅壮一、芥川龍之介、小林多喜二、太宰治、三島由紀夫。著者の「作家評伝三部作」『ペルソナ:三島由紀夫伝』『マガジン青春譜:川端康成と大宅壮一』『ピカレスク:太宰治伝』が本書の基礎になっていることは見てのとおりだが、ふつうの近代文学史とは、少し視点がズレていることが分かる。

 滝田樗陰、菊池寛、大宅壮一らへの注目は、彼らがいかに文学を「売りもの」にしたか、編集者としての才覚と手腕への興味である。島田清次郎、賀川豊彦、そして小林多喜二は、当時の読者(消費者)の心を掴んだベストセラー作家であった。逆に、今でこそ近代文学史に名を輝かす、太宰治、三島由紀夫は、初めから売れっ子作家であったわけではなく、地味なスタートを切った、等々。

 森田草平と平塚明子(らいてう)の恋に憧れる川端康成。芥川を意識し、また小林多喜二ふうの文章をかいてみせる太宰治。一度だけ太宰に会いに行った三島由紀夫。作家たちが、微妙な邂逅とすれ違いを繰り返して、歴史を織りなしていく様子も興味深い。そのほか、平塚らいてうのぶっとび方など、個別にも面白いエピソードが多数。やっぱり、いちばん読み応えがあるのは、太宰治の生涯かなあ。
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階級社会の昨日と明日/階級社会(橋本健二)

2007-07-02 23:55:34 | 読んだもの(書籍)
○橋本健二『階級社会:現代日本の格差を問う』(講談社選書メチエ) 講談社 2006.9

 たまたま、本屋で手に取って、パラパラめくっている際、『愛と誠』に言及した部分が見えた。不良少年・大賀誠と財閥の令嬢・早乙女愛の純愛を描いた1970年代の少年マンガである。懐かしい! そうだ、あの時代、一億総中流意識なんて言われ出す前、日本は確実に階級社会だった。貧困も格差も、当然のようにそこらに転がっていたではないか。そんなノスタルジーに動かされて、本書を読み始めた。

 私の見るところ、本書の読みどころは2箇所ある。前半では、戦前から高度経済成長期までの日本における「階級」の意味を総ざらいする。今和次郎の見た『東京銀座街風俗記録』に始まり、戦後青春映画『いつでも夢を』『下町の太陽』に階級上昇と階級適応の物語を読む。

 圧巻は『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』等の原作者、梶原一騎を論じた段。『あしたのジョー』の終幕近く、財閥令嬢の白木葉子が、リングに向かおうとするジョーを制し、「すきなのよ矢吹くん あなたが!」と告白する場面は、「ドヤ街の孤児であり都市下層だったジョーが、財閥令嬢に対して決定的な優位に立ち、資本家階級に勝利した瞬間」であり、「愛を得ることによって資本家階級に勝利する」というテーマは、梶原の「作品」だけでなく、人生そのものの主題にもなっている。

 しかし、現実の社会において階級が見えにくくなり、階級闘争が成立しなくなった80年代以降、梶原の活躍の場はなくなり、作家として自滅していった。面白い。思えば、1960年生まれの私は、幼少時代、梶原一騎原作のマンガにずぶずぶにハマッて育った。にもかかわらず、思春期以降(1970年代半ば~)は、てのひらを返したように、梶原マンガを忘れていた。そこには、戦後文化論として、また作家論として、非常に面白い問題があるように思った。

 後半は、一転して社会経済学の立場から、「アンダークラスとしてのフリーター・無業者層」を読み解く。これがまた面白い。著者によれば、マルクスは、技術革新が進むと、一定量の生産手段を運用するために必要な労働者の数は減少するので、「資本が必要とする労働者の数を超える部分は、失業したり、あるいは不安定就業の状態におかれる」ことを予言しているという。これを読むと、マルクスの労働理論って、決して過去の遺物ではないのだなあ、と思う。

 しかし、マルクスもアダム・スミスも、失業とは、労働者(=労働力の所有者)が一時的に陥る状態と考えていた。これに対して著者は言う。企業が高卒者を雇用しない理由として最も多いのは「高卒の知識・能力では業務が遂行できないから」である。つまり、労働内容の変化(IT化、専門化)によって、単なる肉体労働力しか持たない者は、「搾取不能な労働力」あるいは「労働力の非所有者」に転落してしまった。これは過酷な宣告であるが、真実だと思う。フリーターや無業者を救済するには、最低限、彼らのステイタスを「資本家による搾取可能な労働力」にまで引き上げなければならないのだ。

 このほか、女性の階級所属、階級移動と機会不平等について論じた段も読み応えあり。
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優美、ドラマチック/パルマ展(国立西洋美術館)

2007-07-01 23:53:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立西洋美術館 『パルマ-イタリア美術、もう一つの都』展

http://www.nmwa.go.jp/index-j.html

 16世紀から17世紀にかけてイタリア北中部の都市パルマに花開いた美術を紹介する展覧会。最近、ヨーロッパ史、とりわけ美術史の本を立て続けに読んでいたので、作品が見たくなって足を向けた。本格的な西洋美術の展覧会は、ものすごく久しぶりだったが、すぐに会場の雰囲気に溶け込めた。あまり混んでいなかったのもよかった。やっぱり、この時期の西洋絵画はきれいだ。高貴な人々を飾る赤と青、そして金。男女問わず、裸体の肌の、赤みを帯びた艶やかな白。パルミジャニーノの『ルクレティア』は、ただただこの肌の輝きに魅了される。

 パルミジャニーノは、『聖チェチリア』のような大作もいいが、素描(版画の下絵?)の小品『クッションを持つ女性』に惹かれた。クッションを抱えて、少し俯いた少女の横顔が可憐。江戸時代の愛らしい風俗画みたいである。このひと、優美にしてドラマチックという、1980年代の少女マンガ家が喜びそうな作品を描く。本人も美形。肖像画を見ていたら、森川久美の名前を思い出した。

 展示は時代順に進んで、最後が「バロックへ-カラッチ、スケドーニ、ランフランコ」と題したセクションだった。自慢じゃないが、この3人の画家、誰も知らないなあ、と思って見ていったら、スケドーニの『慈愛』と題した作品に目が留まった。2人の乞食の子どもにパンを与えようとする女性を描いたもの。乞食のひとりは見えない目を観る者に向けている。女性の足元には、金髪の健康そうな幼児。岡田温司さんの『もうひとつのルネサンス』に掲載されていた作品だ、と思い当たった。

 あらためてスケドーニの名前と作品を探すと、『キリストの墓の前のマリアたち』(→『墓を訪れる三人のマリア 』に同じ)も強烈な色彩と明暗が印象鮮烈である。さらに、もう一度「素描および版画」のセクションに戻って、小品ながら異様な迫力のただよう『洗礼者聖ヨハネの説教』『嬰児虐殺』がスケドーニ作品であることを確認し、なるほどと納得した。

 私は、どうにも、このバロック期の作品が好き! ランフランコでは『聖マタイの召命』。机を囲んで銀貨・銅貨を数える男たちのひとりを、赤と青の衣のキリストらしき人物が手を差し伸べて招く。マタイって収税人だったのよね(中高をキリスト教系の学校で過ごした私は、こういうときに聖書の物語がよみがえってきて有り難い)。立ち読みした図録の解説によれば、この作品は、ある銀行家組合の求めによって描かれたそうだ。画中の男たちは、17世紀のイタリアの服装をまとっている。つまり、今であれば、背広姿のビジネスマンの真ん中にキリストが現れたような場面なのかもしれない。

 カラッチは『戴冠の聖母』の威厳に満ちた美しさに惹かれた(ただし、これはコレッジョのフレスコ画の模写、下記に画像あり)。超有名どころの作品はないけれど、いい展覧会である。混まないうちに行くことをおすすめ。

■展覧会公式サイト
http://www.parma2007.jp/
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