見もの・読みもの日記

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中国文学史あれこれ/随筆三国志(花田清輝)

2007-07-17 12:14:10 | 読んだもの(書籍)
○花田清輝『随筆三国志』(講談社文芸文庫) 講談社 2007.5

 たまたま書店で立ち読みしたときは、張飛を論じた一段が目に入った。直情径行で無教養な乱暴者、張飛について、著者はいったん「わたしには語るべきなにものもない」と断じながら、小川環樹の『中国小説史の研究』を引き、「張飛の登場の画期的意味」について考え直す。同書は、宋代以後の庶民の勃興に、元朝という異民族支配が加わり、伝統的価値観(儒教=読書人の絶対的優越)が崩壊する中で、初めて張飛のような庶民的英雄が出現した、と考える。

 同書は、武田泰淳が四大奇書を論じた「淫女と豪傑」の中の「反省もない。ためらいもない。ただ生きて行くことの強さ。生きること、淫すること、殺すことの絶対性の前に、理屈や詠嘆が無意義となる」という評言を、共感を持って引用しているという。そう~この「理屈や詠嘆が無意義となる」造型って、なかなか日本の古典文学には認めがたい。だから、私は恐いもの見たさで、時折、かの国の文学と歴史に溺れるのである。

 ところが、この本、買ってみたら、三国志のおなじみの主人公たちを論じた章段は極めて少ない。「随筆三国志」というタイトルは、詐欺じゃないかと思うくらい。しかし、三国志をマクラに、中国史・中国文学のさまざまな局面に話題が飛んでいくので、中国好きには無類の好著である(ただし、ちょっと上級者向き)。

 たとえば、司馬遷の「任小卿に報ずる書」について。これは、任安という人物が、任官の推薦を依頼してきたのに対し、これを断る体の書簡である。司馬遷は、当初、依頼を黙殺していたにもかかわらず、任安が失脚し、死刑囚として獄につながれるに及んで、表面上は極めて慇懃に、その実、猫が鼠をなぶるような返書を送っている。本書には、ほぼ全文が引かれているが、凄まじいものだ。これを読んだら、どんな歴史好きでも、司馬遷本人とは付き合いたくないと思うに違いない。もっとも、このへんの消息によく通じた奥野信太郎は、『史記』を論じて、「司馬遷の目はサディストのそれであります」と述べているという。

 それから、曹植・曹丕の兄弟について。詩人の曹植は、兄弟間の確執を「豆を煮るに豆がらを燃やす」という即興詩で嘆じてみせた。しかし、「いい子」の曹植こそ「豆がら」で、「憎まれっ子」の曹丕のほうが「豆」だったのではないか、と著者は考える。そして、もしかすると曹丕が同時代の人々に憎まれた最大の理由は、いやしい稗官のまねをして、小説『列異伝』を書いたことではないか。確かに、中国では、詩よりも小説を低く見ることが、根づよい伝統である。詩人皇帝はいくらもいるが、曹丕は唯一無二の”小説家皇帝”だった。

 このほか、建安七子を論じ、左思の『三都賦』に序を書いた皇甫謐を論じる。いずれも、透徹した理解と深い愛情が感じられ、わずかな史料の行間から、さまざまな個性が髣髴と立ち現れる趣きがある。
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