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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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平和と公正さ/働くということ(R・ドーア)

2007-01-18 23:19:51 | 読んだもの(書籍)
○ロナルド・ドーア『働くということ:グローバル化と労働の新しい意味』(中公新書) 中央公論新社 2005.4

 雇用と労働を考えるマイブームに乗って、また1冊、新しい本を読んでみた。著者のロナルド・ドーア氏は、日本ふうに言えば大正生まれの、日本研究の大御所。いわゆる「日本型」社会・経済システムの研究者として定評がある。

 本書は、現在、日本経済が直面している問題(市場のグローバル化と不平等の加速)について述べるとともに、過去半世紀にわたる著者の日本研究を回想・総括したものでもある。その中には、いろいろ知らなかった事実が含まれていて、興味深い。たとえば、古い話では、日清戦争まで、工場では職工も書記も、夏は6時半、冬は7時に出勤する規則だったという。早いな~。まあ、夜も早く帰ったんだろうけど。大正9年の不景気で、7時半出勤となり、昭和14年、工員が7時半か8時、事務員が8時半出勤となったそうだ。

 それから、最近は低賃金層の長時間労働が話題になっているけれど、2000年までの調査によれば、日本では(アメリカと同様)所得階層と労働時間に正の相関関係があるそうだ。つまり、一般職員よりも管理職のほうが長く働いているのである。いずれもトリビア的な知識に過ぎないけれど、日本人の労働実態に全く無知であった私には、素朴にびっくりしたり、感心したりする事実だった。

 年功制度は、日本の専売特許のように言われるが、決してそうではなく、イギリスの官庁・警察・軍隊でも行われているという。ただし、英米の民間企業は職務給制度で、同じポストに留まっている限り、昇給は上司の任意に頼るしかない。一方、ドイツの工場は今も出来高払い(成果主義)が多い。このように、ひとくちに「日本型システム」と言っても、それに対峙する、唯一の非日本型システムがあるわけではなく、欧米諸国も、国によってさまざまである、というのも、本書によって知ったことだ。

 しかし、全体として著者が懸念するのは、世界中が、アングロ・サクソン諸国の牽引する方向に進んでいることである。株主の利益を最大限に実現する経営が「公正」であるという考え方を、経営者ばかりでなく、多くの人が支持するようになっている。従業員の福祉や社会的連帯は犠牲にされてもやむを得ない。有能なCEOが、莫大な報酬を独占し、一般従業員との格差が拡大するのは正当なことだ。このような考え方を、市場個人主義と呼ぶ。

 この流れを押し留める要因があるとすれば、ひとつは資本主義の多様性である。大陸ヨーロッパ型、日本型、あるいは中国型資本主義には、アングロ・サクソン型資本主義(対立のゼロサム関係)に再考を促す可能性があるのではないか。

 もうひとつの手がかりは、「あなたの不安は私の平和を脅かす」という箴言である。行き過ぎた格差は、対立や怨嗟の種となり、社会に不安を撒き散らす。どんなに監視や統制を強めても、見えない不安を完全に解消するのは難しい。だとすれば、我々が安心して生活するためには、できるだけ多くの人が納得する「公正」を実現するよう、努力するしかないのではないか。新年このかた、凶悪事件のニュースの連続に付き合っていると、迂遠なようで、これは真実と思われてくる。
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大国への執念/特集・岸信介(雑誌・現代思想)

2007-01-17 22:50:26 | 読んだもの(書籍)
○現代思想2007年1月号「特集・岸信介-戦後国家主義の原点」 青土社 2007.1

 岸信介は、私が生まれたときの総理大臣である。しかし、さすがに全く記憶はない。最近まで、歴史の中の人物だと思っていた。

 岸の名前が気になり始めたのは、安倍総理のせいではない。満州国について、いろいろ読むようになったのがきっかけである。はじめは、満州国といえば、東條英機や石原莞爾、板垣征四郎などの軍人ばかりを気にしていたが、実は、文官として満州国に乗り込み、計画経済の大胆な実験を行った岸の存在は、満州国と戦後日本との連続性を示す、圧倒的に重要な存在であるということが分かってきた。

 最近、破綻を見せている戦後日本の雇用政策(終身雇用、年功序列、男性正社員優遇)も、遡れば、岸がデザインした総力戦体制に行き着くように思う。この正月はベトナムに行ってきたわけだが、戦後日本と東南アジアの関係も、岸内閣の対米協調外交が根底にある(本号では、倉沢愛子さんの「岸信介とインドネシア外交」が詳しい)。それから、靖国問題、改憲問題にも、岸は大きくかかわっている。というわけで、最近、興味を持った政治・経済・社会問題のほとんど全てが、磁場のように岸信介の存在を呼びよせているのだ。

 ただ、岸信介が、戦後日本の保守政治の本流だったと考えるのは、どうやら誤りのようだ。渡辺治さんの「戦後保守政治の中の安倍政権」が手際よくまとめてくれているので、以下、この論稿にしたがって述べよう。

 吉田茂に始まる戦後保守政治の本流は、再軍備を放棄し、経済成長に専念するという、小国主義路線を選択した。これを否定し、帝国の復活を志したのが岸である。しかし、岸は、国内においては「戦後民主主義の経験を持った民衆の力と軍国主義への嫌悪」を、対外政策においては「旧植民地諸国のもっている植民地支配に対する怒りと警戒心」を、ついに理解できなかった。岸の挫折以後、長い小国主義の政治が続く。

 80年代に登場した中曽根康弘は、戦前の植民地支配の反省と、「戦後的なるもの」を踏まえたうえで、大国主義的ナショナリズムの復活を模索した。しかし、根強い小国主義の伝統と、アジア諸国の批判に遭って、うまくいかなかった。90年代、アメリカから、軍事大国化の圧力(西側の一員として責任を果たせ)が強まるにつれて、再び保守政治の方向転換が始まった。安倍晋三は、軍事大国化路線を完成させる使命を帯びて、登場したといえる。

 この中曽根と安倍の比較は興味深い。80年代当時、中曽根政権だって、かなりキナ臭くて、嫌な感じを持ったものだが、安倍の主張よりはマシらしい。本号の各所に引用されているする安倍の著書『美しい国へ』を読むかぎり、その「ノッペラボー」として内容空疎なことは、驚愕に値する。やっぱり、一度、全文を読んでみようと思った。

 岸信介は、安倍晋三などに比べたら、ずっとイヤらしくて、ずっと魅力的である。東大法学部では我妻栄と1番を争った秀才で、しかも遊び人(遊ぶ金欲しさに満州に行ったのではないか、と小林英夫さんの曰く)。むかしの政治家は器が大きかったなあ。いまの日本の経済・雇用・福祉などが直面している数々の問題に、岸だったら、どんな処方箋を書くだろうか、と考えるのも、興味がある。

 しかし、秀才・岸信介も、戦後民主主義が日本の社会に与えた影響の大きさは理解し損ねた。軍事大国化をめぐって、岸の「反復」もしくは「エピゴーネン」として現れた安倍政権との対決は、渡辺治さんの言葉を借りれば、我々戦後世代の「正念場」である。
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働く研究者/14歳からの仕事道(玄田有史)

2007-01-16 00:07:14 | 読んだもの(書籍)
○玄田有史『14歳からの仕事道(しごとみち)』(よりみちパン!セ) 理論社 2005.1

 玄田有史さんの本、2冊目。中学2年生くらいの読者のために、働くとはどういうことか、どうすれば、やりがいのある仕事につけるのか、ということを説いたもの。

 面白い。本当の中学生がどう感じるかは、聞いてみないと分からないが、私は非常に面白く読んだ。労働市場がどうなっているか、分析的に語れる研究者は、ほかにもいるだろう。しかし、中学生に分かる文体で、「仕事道(しごととみち)」を語れる労働経済学者は希少だと思う。

 公表データによれば、玄田先生の閲歴は、学生→大学院→講師→助教授という、研究一筋のキャリアである。研究者なんて、実生活や実社会には疎いに違いないと思っていたが、こんな酸いも甘いも噛み分けたアドバイスができるなんて。たぶん、玄田先生と同じ大学に勤める、一般事務職員より、よほど「仕事道」を体得しているのではないか。研究者あなどるべからす。

 たとえば、「忙しい」は禁句。大学でも、本当に良い研究をしている人ほど、教育とか大学の業務に時間を割いて真剣に取り組んでいて、その割に、本人は「忙しい」と言わない、とか。エライ人に会うときは、言葉遣いや態度に気をつけなければならない。しかし、「本当にエライ人」は、こちらに本気の覚悟があれば、多少の言葉遣いの失敗など、基本的に許していただける、とか。いちいち、膝を叩きたくなるような指摘が多い。

 壁に突き当たったときは、壁の前で真剣にウロウロしていれば、ちゃんと誰かが助けてくれる。「わけが分からない」状況に耐えられるタフネスが大切。すぐに損得を計算するようなケチなやつは、いい学者にならない。自分の研究には直接関係ないと思ったことでもやってみよう。人が人を完全に評価できると考えることは間違っている。だから、上司にどんな評価をされても、心の中で「自分の本当のボスは自分なんだ」という気持ちを持っていてほしい。――どれもいいアドバイスである。これら全て、著者が体験から学んだのだとすれば、研究者も我々と同じ、「働く人生」を生きているんだなあ、と思った。

 それから、「向いている仕事」について。自分は明るい性格だから、マスコミでみんなを明るくする番組が作りたい、と思っても、その仕事に就いてみると、まわりは、自分と同じか、自分以上に才能のある人ばかりだったりする。だったら、「自分はみんなを明るくする才能があると本気で思ったら、どうぞぜひ、大学の先生になってください」と著者は言う。地味で真面目な人が多い世界だから、あなたの明るさが際立つはずです、と。これは、冗談のようで、けっこう含蓄あるアドバイスだと思う。

 本書は、具体的な個々の職業については語っていないが、ひとつだけ、数ある職業の中で、これからいちばん変わっていくものは「まちがいなく公務員です」と言い切っている。著者自身の勤める東京大学が、2004年に法人化されて、「私も公務員ではなくなりました」という体験を踏まえているのだろう。これからは、不安定でもいいから「変化すること自体を楽しんでみたい、って心の底から思える人だけが公務員には向いている」という。

 笑った。実をいえば、私は、親(特に父親)から「公務員は安定した仕事だから公務員になれ」と盛んに勧められたクチである。しかし、私は、自分が「安定した仕事」に向かないと思っていたから、全く乗り気ではなかった。乗り気ではなかったのに、公務員になってしまって、あれあれと思っているうち、「仕事」のほうが変わり始めた。「向いている仕事」を選んだつもりのなかった私は、ラッキーである。まだまだ変化を楽しめると思う。その一方、かつて慎重に安定した仕事を選んだつもりの人たちは、可哀相だと思うけれど。
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2007博物館に初もうで/東京国立博物館

2007-01-15 00:26:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 新春企画『博物館に初もうで』

http://www.tnm.jp/jp/

 特別展『悠久の美-中国国家博物館名品展』を見たあとは、ぐるりと常設展を見てまわった。

 今年も特別1室・2室では、干支にちなんだ特別展示が行われていた。イノシシといえば、思い出すのは森徹山の『和合図』くらいかなーと思っていたら、ほんとにあったので嬉しかった。以前、見たのは大倉集古館だったかな。個人蔵だそうだ。あとは切支丹銅版画を持ち出すやら、十二神将の亥神やら、数を揃えるために、だいぶ苦心したのではないかと思われた。関連展示で、ちょっと面白かったのは、将棋の駒のかたちをした歌かるた。百人一首かと思いきや、どうも全て万葉集の歌らしかった。

 国宝室では長谷川等伯の『松林図屏風』を公開中である。昨年も同じ時期に公開されたが、東博のホームページのTOPに「松林図公開」という宣伝が掲載された効果か、ものすごく観客が多かった。今年は、幸い、ひっそりと公開中である。土曜日、私が行ったときは、展示室内に3人ほどの観客しかいなかった。足を止めずに通り過ぎていく人も多いので、誰にも邪魔されず、画面全体を視野に入れることができる可能性はかなり高い(昨年は全く無理だった!)。どうか、このまま静かにしておいて...と祈りたい。私はあまり歩きながら音楽を聴かないのだが、何かBGMを聴きながら、ゆっくり眺めたい作品である。
 
 「屏風と襖絵」の展示室には、池大雅筆『楼閣山水図屏風』(国宝)が出ているが、私は、その真向かいの『松図屏風』に惹かれてしまった。金地に緑の松を描いたものだが、松の幹がほとんど金地に埋もれているので、寸足らずのキノコが並んでいるように見える。ヘンな作品だなあと思ったら、「対青軒」というのは、宗達の印章だそうだ。そういえば、平家納経の装丁でも、宗達はこんな松を描いていたような気がする。

 それから東洋館で、中国の書画を見る。絵画では、伝馬麟筆『梅花双雀図』(南宋時代・重文)が正月のご祝儀というところだろうか。書の特集陳列『抵抗と恭順-明末清初の書人たち-』は、背景となった世相を考えると気が重くなるので、激しい連綿草(れんめんそう)を傍観的に楽しむのが、正月気分にはちょうどいい。

■参考:昨年(2006年)の『博物館に初もうで』見学記
http://blog.goo.ne.jp/jchz/d/20060107
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悠久の美・中国考古文物の名品/東京国立博物館

2007-01-14 22:02:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展『悠久の美-中国国家博物館名品展』

http://www.tnm.jp/jp/

 今年の「行ったもの」は、何からスタートしようか。ちょっと考えたけれど、やっぱり、いちばんお世話になるだろう、上野の東博から始めることにした。新春の特別展は、中国国家博物館の名品展である。北京の天安門広場にある中国国家博物館には、4、5年前に行ったことがある。幅広い地域と時代の名品を揃えた博物館だった。半日かけて見学して、お昼は地下の食堂で北京名物ジャージャー麺を食べたっけ。

 今回の名品展は、最初が「新石器時代(前1万年頃~前2000年頃)」と題されたセクションで、陶器や玉器などの考古文物が並んでいる。それから、ようやく「歴史時代」に入って、商(殷)、周、春秋、戦国と続く。このへんまでは、確かに高度な技術に感心はするけれど、どうしてこんなもの作ったんだか、現代人には理解不能の「あやしい」(呪術的な)名品が多い。

 山東省出土の鉞(エツ・まさかり)は、罪人の首を切る斧の歯の部分だが、そこに歯をむき出した人物の顔がデザインされている。目尻の上がったドングリ眼、四角い顎、耳のつきかたなど、ああ、中国人の顔だなあ、と思ってしまった。

 秦・漢時代に入ると、写実的な武士俑や騎兵俑が登場して、現代人の美的感覚に親しくなる。四川省出土の説唱俑は、太鼓を叩き、大きく手足を振り上げながら、歌い踊っているさまを表す。ふと、額に刻まれた深い皺が目に入った。やっぱり、中国でも、歌語り(説唱)は老齢者の役割だったのかしら。芸能の誕生を論じた、折口信夫の「翁の発生」を思い出して、興味深く思った。

 次は「西南中国の滇文化」というセクションで、私は「おお!」と軽く興奮した。滇(てん)は、紀元前3世紀に、中国西南の雲南省にあった辺境国である。一般的な中国史では無視されるのが普通なのに、わざわざセクションを設けてくれたことは、雲南省びいきの私としては、とても嬉しい。滇国は、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印によく似た「滇王之印」が出土していることで有名である。この金印、雲南省の博物館で見た記憶があるが、北京の国家博物館が本物を所蔵しているのだとすれば、あれはレプリカだったんだなー。

 雲南省出土の「祭祀場面貯貝器」は、本展の白眉だと思う。直径40センチくらいの青銅器の、平たいフタの上に、さまざまな姿態を示すミニチュアの人物が120人余り、載っている。高床・屋根つきの小屋の中では、向き合って座った人々によって、厳粛な祭祀が執り行われている様子。外の広場では、牛や豚の解体と料理、飼育された猛獣の見世物、さらには石碑に磔にされた男もいる。そのほかにも、物乞い?物売り?夫婦喧嘩?洗濯しながらお喋り?押しくらまんじゅう?などなど、見ていると飽きない。私がいちばん気になったのは、磔にされた男の隣、蛇の巻きついた石柱のようなものがあって、寝かされた人の姿が見えるんだけど、あれも中国の極刑のひとつ、石臼で挽かれる死刑執行の様子じゃないのかなあ...。

 最後は「三国時代~五代」。隋唐(6~8世紀)に至ると、もうすっかり文化の爛熟が感じられる。陝西省西安市の李静訓墓は、9歳で亡くなった貴族の娘の墓だそうだ。金に細かな真珠と宝玉をあしらった首飾り(9歳の女の子の首には重すぎないかしら)や、透きとおるような白玉に金の縁取りをつけた杯が出土している。ほんとに長いなあ、中国の歴史。
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男と女/覚えていない(佐野洋子)

2007-01-13 21:15:00 | 読んだもの(書籍)
○佐野洋子『覚えていない』 マガジンハウス 2006.8

 正月休みで、ふだん行かない本屋のふだん行かない棚を漁っていたら、本書が目についた。パラパラめくっているうちに、懐かしくなって買ってしまった。むかし(80年代)、「本の雑誌」を読んでいて、群ようこと佐野洋子の2人ヨーコの連載エッセイが好きだったのだ。

 当時は、群ようこさんのほうが、年も若くて、シャイな文学少女の面影が残っていて、自分に近い感じがした。佐野洋子さんは、すでに離婚経験者で、大きい息子さんもいたと思う。子どものような純真さと残酷さで、男と女の真実をズバズバと言ってのけるエッセイは、世間知らずの私には驚異の世界だった。男がどれだけ美女に目がないか。妻と母親にだらしなくたより切っているか。女がどれだけタフで悪がしこいか。夫より息子に夢中になるか。等々。

 本書の前半に収められたエッセイは、1990~91年に「本の雑誌」に発表されたものだという。一読すると、なんだか違和感が先立った。たとえば、会社のために滅私奉公で働き、家庭では「うるさい、仕事だ」といえば通ると思っている男たち。そうだ、10年前って、まだこういう男がフツウだった。でも、今はこういう男を配偶者として許しておかないものなあ、女性が。

 男は女の美貌に欲情するが、女はそうではない。しかし、たまに「例外」的な女性も現れる。著者は、男の顔のよさにこだわる女友だちを、揶揄的に紹介しているが、今どきなら、女が男の美貌に惚れたと公言しても、別に驚くほどのことではない。こうしてみると、男と女のポジションって、この10年あまりで、ずいぶん変わったんだなあと感慨深い。

 後半には、著者の好きな作家や本の書評が収められている。私は初めて聞く「ねずみ女房」に興味を持った。子ども向きの寓話。しかし、「これは明らかに不倫である」と著者は言い、「初めてこの本を読んだ時、私は本の上のねずみ女房の上に突っぷして泣いた」と言う。読んでみたい。
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中高年にできること/仕事のなかの曖昧な不安(玄田有史)

2007-01-12 00:56:54 | 読んだもの(書籍)
○玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安:揺れる若年の現在』 中央公論新社 2001.12

 私の場合、ときどき唐突に、新しいトピックの本に行き当たることがある。今年の「読んだもの」は、『労働ダンピング』(岩波新書 2006.10)に始まった。非常に興味深かったので、雇用問題を考える本、2冊目。玄田有史さんの名前は、ずっと気になっていたが、読むのはこれが初めてである。

 『労働ダンピング』を読んで、それじゃあ、ダンピングの裏側で「貰い過ぎているのは誰?」というのが、私の感じた疑問だった。本書は、きわめて明快に、その「答え」を言い切っている――最も優遇されているのは、中高年であると。

 喧伝される「働く意欲のない若者」や「中高年ホワイトカラーの雇用不安」というのが、つくり出されたイメージに過ぎないことを、著者はさまざまな統計学的手法で明らかにする。多くの若者は、長期的に安定した身分で働きたい、と思っている。しかし、企業は中高年の雇用を維持するために新卒の採用を抑制しており、その結果、若年の就業機会が奪われているのである。

 仕事の中味を問わなければ、若者にも就業機会はある。しかし、やりがいのある仕事を中高年が占有している結果、若者には、体力的にきつい、長時間労働しか回ってこない。知識や技能を高める機会もなく、将来的な展望も、誇りや満足もない仕事のなかで、無力感を味わっているのが、若者の真実の姿である。彼らを叱咤激励しても、何も変わらない。変えなければならないのは、中高年の既得権益を擁護する社会・経済構造そのものである。

 以上が、今ではすっかり有名になってしまった著者の主張の主眼点である。しかし、本書には、他にもさまざまな視点から、雇用や労働環境の問題を扱った論考が収められている。

 たとえば、成果主義について。単に成果主義だけを導入しても、労働意欲の向上確率は低い。どんなに成果を挙げても「使い捨てにされる」と感じさせる成果主義の寿命は長くない。成果主義の成否は、その会社が社員の能力開発に積極的に取り組むか否かにある。それは会社という組織の問題であると同時に、上司の役割でもある。短期重視の成果主義だからこそ、長期的な視野に立って部下の能力育成に心を砕く上司の役割が重要になってくる。そうした上司を通じて、社員ひとりひとりを大切にする職場の雰囲気が生まれ、働きがいが生み出されるのである。

 この「良き上司」論は、現実の自分の立場と年齢に引き比べて、いちばん興味深かった。私は、若年雇用不安の元凶とされる「中高年」(45歳以上)に含まれるので、「既得権益」という、著者の指弾は甘んじて受けなければならないが、今の立場に留まりながら、働く若者のために、できることもありそうだと感じた。

 もうひとつ。著者は、経済学が教える「ハッピーに暮らすコツ」は、「みんながやらないことをやる(希少価値のある人間になる)」ことだという。今の世の中、責任ある地位に就きたいと思っている人は非常に少ない。気楽に人の後をついていきたいという人が大多数である。だから、発想を転換して、みんながやらないボスになることは、実は「ハッピーになる可能性が高い」。少なくとも「自分で自分のボスになる」という意志を持つことが大切である。

 この提言は、著者が高校生を前に話した内容の一部なのだが、私は私なりに(中高年なりに)励まされたように受け取った。考えてみれば、「仕事のなかの曖昧な不安」を抱えているのは若者ばかりではない。中高年に属する者にとっても、自分の働きかたを考える上で、いろいろ触発される点の多い本である。

■参考:2002年度サントリー学芸賞選評
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/sei_kei0043.html
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哲学的リテラシー/世界を信じるためのメソッド(森達也)

2007-01-10 23:10:29 | 読んだもの(書籍)
○森達也『世界を信じるためのメソッド:ぼくらの時代のメディア・リテラシー』(よりみちパン!セ) 理論社 2006.12

 「よりみちパン!セ」は、「中学生以上」を対象とする、ヤングアダルト新書。癖のある執筆者陣を揃えた、面白いシリーズである。私が読んだのは、小熊英二さんの『日本という国』だけだが、手抜きのない良書だった。その後も売れ続けているようで、嬉しい。

 「メディア・リテラシー」とは、メディアを批判的に読み解く思考力を言う。日本でこの言葉が広まり出したのは、菅谷明子さんの同名の著書(岩波新書 2000)が刊行された頃だろうか。カナダやイギリスでは、1980年代後半から、「メディア・リテラシー」科目が公教育に取り入れられてきたということも、その頃、知った。なるほど、これは大切な能力だ、さすが欧米の公教育は進んでいる、と素直に感心したものだ。

 日本の教育現場も対応を考えないとなあ、と他人事のように思っていたら、この5、6年で、なんだか大変なことになってしまった。問題は子どもの教育の範囲を遥かに超えてしまい、メディアに対する批判力のない大人が、うじゃうじゃ現われてきたのだ。30代、40代、いや50代、60代の大人に、もう少し「メディア・リテラシー」というものがあったなら、小泉政権のポピュリズム戦略に惑わされず、まともな政策論議や外交論議が行われていたのではなかろうか。

 メディアは、なぜ、どうやって、嘘をつくのか。その「理由」や「手法」を分析的に学習することは大切だ。しかし、根本のところで必要なのは、メディアは人の作るものであること、そして、人には好き嫌いがあるし、人は間違えるし、人は嘘をつく(時には悪意で、時には善意で)という理解であると思う。

 ヒトラーが宣伝相ゲッペルスに語ったとされる言葉(74頁、ただし本当にヒトラーがこのように語ったという確証はない)は、あまりに生々しく印象的だったので、以下に抜粋しておきたい。

 青少年に、判断や批判力を与える必要はない。彼らには、自動車、オートバイ、美しいスター、刺激的な音楽、流行の服、そして仲間に対する競争意識だけを与えてやればよい...国家や社会、指導者を批判するものに対して、動物的な憎悪を抱かせるようにせよ。少数者や異端者は悪だと思いこませよ...みんなと同じように考えないものは、国家の敵だと思いこませるのだ。

 しかし、このように、比較的「悪意」の明らかなメディア操作は、その意図を見抜きやすい。より大きな問題は、人は「善意」で嘘をついたり、間違えたりするという点だ。そうした「善意」のメディアが狙いを定めるのは、我々の心の中にある「悪い人が悪事を為す」という思い込みである。

 オウムの信者も北朝鮮の工作員もアルカイダのテロリストも、我々と同じ喜怒哀楽を持つ、普通の人たちである(かもしれない)。しかし、我々はそれを認めたがらない。それを認めることは、「自分の中にも悪事を為す何かが潜んでいると認めることになる」からだ。ここで、著者の語るメディア・リテラシーは、プラグマティックな技術論から、哲学の問題に転化する。それは、たぶん正しい。「メディアは人である」なら、メディアを批判的に捉える能力とは、結局、(自分を含めた)人間の本性を批判的に捉える力なのではないかと思う。

 私が、本書をこのように読み解いてしまうのは、森達也さんと姜尚中氏との共著『戦争の世紀を超えて』(講談社 2004)に影響されているところが大きいかもしれないけど。
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誰が貰い過ぎているのか?/労働ダンピング(中野麻美)

2007-01-09 23:26:03 | 読んだもの(書籍)
○中野麻美『労働ダンピング:雇用の多様化の果てに』(岩波新書) 岩波書店 2006.10

 就職して、まもなく20年になる。思い返せば、最初の10年は、じわじわと定員削減が進行した時代だった。それでもまだ、組織には、削減に耐えるだけの余力というか、余剰があった。けれども、次第に削減だけでは立ち行かなくなり、代替措置として、多くの非常勤職員が投入されるようになった。気がつけば、この10年は、「派遣」「外注」「有期雇用」など「非正規雇用」の人々とばかり、仕事をしてきたように思う。

 「非正規雇用」の賃金はものすごく安い。私は雇用者ではないが、雇用にかかわる仕事も少ししていたので、知っている。でも、それは仕方がないのだよ、文句があるなら、競争者に打ち勝って、正規雇用になってみればいい。そう思っていた時期もある(今でも多少はそう思っている)。だが、じっくり本書を読んでみると、40時間勤務の正職員と30時間勤務の有期雇用職員が、実質的に「同じ仕事」をしているなら、4:3以上の賃金格差があるのはおかしい、それは「労働ダンピング」である、という指摘が、きわめて正論に思えてきた。

 同じ仕事をしていても、非正規雇用職員の労働単価は(さまざまな手当のつく)正職員の半分以下である。だから、200人時間の仕事を、40時間×5人の正職員ではなく、40時間×2人と30時間×4人のアルバイトに請け負わせれば、1人分の人件費は浮く。そして、こういうのを「コスト意識の高い」「すぐれた経営」として持ち上げるのが最近の風潮である。しかし、「競争入札」「アウトソーシング」の美名のもとで、行き先の見えない外部に投げ出された仕事は、際限のない「労働ダンピング」を煽り、労働基準法や最低賃金法の適用も受けられない(したがって、存在するはずのない)「労働者」を闇の中に生み出し、この社会に不安と貧困を撒き散らしているのではないだろうか。

 それでは、逆に、誰が貰い過ぎているのか? 著者は、正規雇用者が「自分たちに配分されてきた原資を削減してでも、非正規雇用で働く人たちの待遇改善を決断すればいい」と提言する。これはなかなか難しい。いまどき、正職員だって、自分が「貰い過ぎている」と実感している人はあまりいないだろう。しかし、実際、われわれ(正職員)の給与水準は、非正規雇用者の搾取(古い言葉だなあ)を前提として、巧妙に維持されているのだということは、自覚しておく必要があると思う。

 この問題の出発点には、著者が指摘するとおり、女性のパートタイム労働を家計補助の範疇に押し込めることで、正社員である男性の賃金を確保してきた、性差別の歴史がある。(ただし、男女ともに非正規雇用が拡大してしまった今日では、性差別の視点を強調することには、あまり意味がないように思う。)

 いや、正職員のわれわれだって、決して貰い過ぎてはいない、という意見もあるだろう。それなら、そもそも、100円のハンバーガーや500円のフリースジャケットが存在する社会がおかしいのではないか。モノはまだいい。医療や教育や交通や安全など、さまざまなサービスが、「限りなくゼロに近い」対価で手に入ると思っていることが、もしかしたら間違っているのではないだろうか。

 結局、「ダンピング」の裏側で「貰い過ぎ」ているのは誰? 読み終えてから、ずっと考えているのだが、まだよく分からない。
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謹賀新年・ベトナム土産

2007-01-07 11:58:09 | なごみ写真帖
本日早朝、成田着の便でベトナムから帰国しました。
お土産の中から、お気に入りの逸品をご紹介。

1、ホイアンの裏通りで、おじいちゃんが作っていたブリキの船のおもちゃ。水とオイルを装填すると、動く。

2、ベトナムビール「BIERE LARUE(ラルー)」の空き瓶。レストランで飲んだあと、赤地に黄色のトラの絵(ラベルではなく、瓶に直接プリントされている)が可愛くて、そっと貰って帰ってきた。アジアで初めて醸造された欧州風本格ビールの由→詳細



本年も、どうぞよろしく。
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