○佐野洋子『覚えていない』 マガジンハウス 2006.8
正月休みで、ふだん行かない本屋のふだん行かない棚を漁っていたら、本書が目についた。パラパラめくっているうちに、懐かしくなって買ってしまった。むかし(80年代)、「本の雑誌」を読んでいて、群ようこと佐野洋子の2人ヨーコの連載エッセイが好きだったのだ。
当時は、群ようこさんのほうが、年も若くて、シャイな文学少女の面影が残っていて、自分に近い感じがした。佐野洋子さんは、すでに離婚経験者で、大きい息子さんもいたと思う。子どものような純真さと残酷さで、男と女の真実をズバズバと言ってのけるエッセイは、世間知らずの私には驚異の世界だった。男がどれだけ美女に目がないか。妻と母親にだらしなくたより切っているか。女がどれだけタフで悪がしこいか。夫より息子に夢中になるか。等々。
本書の前半に収められたエッセイは、1990~91年に「本の雑誌」に発表されたものだという。一読すると、なんだか違和感が先立った。たとえば、会社のために滅私奉公で働き、家庭では「うるさい、仕事だ」といえば通ると思っている男たち。そうだ、10年前って、まだこういう男がフツウだった。でも、今はこういう男を配偶者として許しておかないものなあ、女性が。
男は女の美貌に欲情するが、女はそうではない。しかし、たまに「例外」的な女性も現れる。著者は、男の顔のよさにこだわる女友だちを、揶揄的に紹介しているが、今どきなら、女が男の美貌に惚れたと公言しても、別に驚くほどのことではない。こうしてみると、男と女のポジションって、この10年あまりで、ずいぶん変わったんだなあと感慨深い。
後半には、著者の好きな作家や本の書評が収められている。私は初めて聞く「ねずみ女房」に興味を持った。子ども向きの寓話。しかし、「これは明らかに不倫である」と著者は言い、「初めてこの本を読んだ時、私は本の上のねずみ女房の上に突っぷして泣いた」と言う。読んでみたい。
正月休みで、ふだん行かない本屋のふだん行かない棚を漁っていたら、本書が目についた。パラパラめくっているうちに、懐かしくなって買ってしまった。むかし(80年代)、「本の雑誌」を読んでいて、群ようこと佐野洋子の2人ヨーコの連載エッセイが好きだったのだ。
当時は、群ようこさんのほうが、年も若くて、シャイな文学少女の面影が残っていて、自分に近い感じがした。佐野洋子さんは、すでに離婚経験者で、大きい息子さんもいたと思う。子どものような純真さと残酷さで、男と女の真実をズバズバと言ってのけるエッセイは、世間知らずの私には驚異の世界だった。男がどれだけ美女に目がないか。妻と母親にだらしなくたより切っているか。女がどれだけタフで悪がしこいか。夫より息子に夢中になるか。等々。
本書の前半に収められたエッセイは、1990~91年に「本の雑誌」に発表されたものだという。一読すると、なんだか違和感が先立った。たとえば、会社のために滅私奉公で働き、家庭では「うるさい、仕事だ」といえば通ると思っている男たち。そうだ、10年前って、まだこういう男がフツウだった。でも、今はこういう男を配偶者として許しておかないものなあ、女性が。
男は女の美貌に欲情するが、女はそうではない。しかし、たまに「例外」的な女性も現れる。著者は、男の顔のよさにこだわる女友だちを、揶揄的に紹介しているが、今どきなら、女が男の美貌に惚れたと公言しても、別に驚くほどのことではない。こうしてみると、男と女のポジションって、この10年あまりで、ずいぶん変わったんだなあと感慨深い。
後半には、著者の好きな作家や本の書評が収められている。私は初めて聞く「ねずみ女房」に興味を持った。子ども向きの寓話。しかし、「これは明らかに不倫である」と著者は言い、「初めてこの本を読んだ時、私は本の上のねずみ女房の上に突っぷして泣いた」と言う。読んでみたい。