見もの・読みもの日記

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「作品」としての知/学術書の編集者(橘宗吾)

2016-09-01 22:10:54 | 読んだもの(書籍)
○橘宗吾『学術書の編集者』 慶応義塾大学出版会 2016.7

 「名古屋大学出版会の編集長として、数々の記念碑的な企画を世に送り出し、日本の学術書出版を牽引する著者が、編集・本造りの実際について縦横に語る、現役編集者必携、志望者必読のしなやかな鋼のごとき編集論」というのが、本のオビに小さな活字で印刷されたキャッチコピーである。地味な(目立つことを嫌ったような)装丁なのに、言っていることは妙に熱い。名古屋大学出版会は、私がかなり偏愛する出版社(者)だ。著者の名前は知らなかったが、あの名古屋大学出版会の編集長と聞いては、読んでみないわけにはいかない。

 本書に収録されているのは、2005年から2015年まで、けっこう長い間に発表してきた原稿等を集めて、加筆・整理したものである。しかし、日本出版学会大会での講演とか、雑誌「大学出版」の記事とか、業界外の人間には、ほぼ目に触れる機会のないもので、どれも新鮮で面白かった。

 本書の大きなテーマは、出版不況を背景に、学術書の役割とは何かを考えることである。まず、日本における書籍の新刊点数と実売部数の統計をもとに、1990年以降、国民全体の読書量が大きくは減らない中で、(A)新刊点数は増えたが(B)1点あたりの平均実売部数は減少していることが示される。AとBは、どちらが原因でどちらが結果とも言い切れない。しかし、増えた新刊点数の分だけ優れた原稿が増えたとは考えにくいので、平均的な質の低下(粗製乱造)が生じているはずである。この傾向を逆転し、製作過程のコンピュータ化によって効率が上がった分を、点数ではなく質の向上へ振り向けることが、編集者には求められている。大いに同感。

 いま学術出版の世界ではデジタル化による「情報爆発」が起きている。電子ジャーナルを主とした自然科学系の学術コミュニケーションのモデルが規範化し、書籍の軽視が起きている。しかし「知識」は全て「情報」に還元できるのか。それは違うのではないか、と著者は述べる。知識には、体系性・全体性・身体性と結びついた面がある。読者は書籍を通じて「知の全体性」に触れ、「『作品』としての知」を体験する。このとき、書籍は必ずしも紙である必要はない。しかし、書籍(学術書)は経験財・信頼財であって、単なる情報とは明らかに違う価値を有するのである。ここも大いに同感。「情報」至上主義的な風潮に対し、いつもモヤモヤと感じていたことを、すっきり整理してもらえて嬉しかった。長谷川一さんの『出版と知のメディア論』(2003)が参照されていたのも嬉しかった。むかし読んだ本だけど、名著だと思っている。

 では、学術書の出版において、編集者が担う役割は何か。編集者は個々の学術分野の専門家ではない。しかし、だからこそ分野Aと分野Bを媒介したり、専門知の協同化を図ったり、専門家を挑発したりできるのである。ああ、こういう編集者の存在によって、私はたくさんの知的に面白い本に出会えているんだな、と思うと、感謝しか言いようがない。ひとことで言えば、編集者は知の「産婆役」である。 

 以下は世に広めたいので、しっかり書き抜いておく。「この産婆的行為は、今日の大学において、学問分野の違いをかえりみずに半ば強制されている短期的なプロジェクト型の研究や、若手研究者に不遇を強いてインスタントな、すぐに結果の出そうな研究へと誘導してしまっているあり方とは、正反対のものです。」(中略)「こんなやり方を続けていては、やがて研究の源泉は枯渇してしまうでしょうし、それは、将来に手渡すべき遺産を悔いつぶすということでもあるはずです。」

 次に、けっこうな頁数を割いて、著者が実際に担当した「一冊の本」に即して、企画・編集の実態が語られる。それがなんと、斎藤希史氏の『漢文脈の近代』(2005)だったので、私のテンションはむちゃくちゃ上がってしまった。私の大好きな本で、「名古屋大学出版会すごい」を実感した本でもあるのだ。初刷1200部、2016年2月現在で第二刷1900部だそうで、私はその1冊を買っている。

 2000年に籠谷直人氏の『アジア国際通商秩序と近代日本』(これ面白そうだ、読んでみよう!)を出した頃から、話は始まるが、次のテーマが確定するまでが長い。そして執筆者である斎藤希史さんに巡り合うまでがさらに長い。学術書の編集者って、本や論文を読み(ついでに目次を「捨て目」しておく)、著者に会って研究の話を聞いたり、研究者の評判を聞いたりしながら企画を考えるのが大事な仕事なんだな。さて執筆を引き受けてもらい、目次案が決まると、斎藤さんは収録予定の論文を少しずつ書いていく。ところが、なかなか刊行の目途が立たない。目次案を見直し、当初は外すつもりだった、梁啓超についての論文を入れることにすると、すんなり仕事が進み始めた。おお、そうだったのか! 私にとって『漢文学の近代』は、梁啓超と森田思軒についての本、という印象なので、意外すぎる裏話だった。

 なお、著者は、別の箇所で「自分らしさが表れた担当作品を紹介してください」とうインタビューを受けて、『漢文学の近代』に加えて、伊勢田哲治著『動物からの倫理学』と岡本隆司著『属国と自主のあいだ』を挙げている。岡本さんの本も、難しかったけど印象深い本だった。情報は速やかに消費されていくけれど、「作品としての知」の耐用年数は長い。著者がこれまで生み出した学術書、これから生み出す学術書の恩恵を、私はずっと受け続けていくと思う。心から感謝。
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