見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2012京の冬の旅:院政ゆかりの地巡り(4)

2012-03-20 23:07:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○2日目:天龍寺~祇王寺~滝口寺~念仏寺~相国寺(大光明寺~墓地)

 嵯峨野・嵐山は、以前は京都の定番観光コースだったが、ここ10年くらい全く足を向けなくなった。2009年夏に少しだけ散策してみて、変貌ぶりに驚いたが、今回は奥嵯峨まで行ってみようと思う。天気は、昨日に続き、あいにくの雨。

天龍寺…まず京福嵐山駅前の天龍寺から。むかしは単に「大きい寺」という印象だったが、唐門の塔頭、瓦を塗り込めた土塀など、どことなく中国風(禅宗様式)を感じ、夢窓国師作庭の曹源池庭園も、海の風景を意識したものかな、と思う。方丈から少し離れた多宝殿に後醍醐天皇の尊像を祀る。案内板を読んだら、天龍寺は後醍醐天皇(南朝)の菩提を弔うために光厳上皇(北朝)の院宣によって創建されたのだそうだ。時代は異なるが、やっぱり祟り神を恐れたのかな…。

祇王寺…このへんは20年ぶりくらいじゃないだろうか。懐かしい。妓王、妓女、仏御前らの像を祀る。緑の苔が美しい。白猫が庵室に上がり込んできたので、え?と思ったら、障子の陰に、ちゃんと猫のおうちが用意されていた。祇王寺のマスコットなのだそうだ。

・滝口寺…祇王寺の少し上。滝口入道、横笛像を祀る。私と入れ替わりに出て行ったお客さんがいたが、境内はひっそりして誰もいなかった。むかしは、このお座敷で滝口入道の物語を語ってくれるおばあちゃんがいたのだ。私は、おばあちゃんの語りが好きで、二度も三度も聴きに来た。おばあちゃんは、庭の手入れもご朱印を書くのも、全てひとりでなさっていたと思う。



 ネットで検索したら、1999年の記事(個人ホームページ)に「4年ほど前にお亡くなりになった」と書いている方がいた。実は、拝観受付のおじさんに、おばあちゃん(の語り)のことを聞いてみたのだが「ええ、もう今はやってないんです」としか答えていただけなかった。突然、15年以上も前のことを持ち出されて、とまどわれたのかなあ。こんな記事も見つけた。高校生のとき、おばあちゃんの語りを聞いて、ストーリーテラーになられた女性のブログ。人間のつながりとか、影響の与え方って、面白いなあ、としみじみする。

念仏寺…道すがらのあだしのまゆ村とか竹の店とか覚えがあるのだが、境内の間際まで住宅地化していることに驚く。これで嵯峨野観光は切り上げ。昼食を抜いて(手焼き煎餅をかじりながら)市内に戻り、相国寺を目指す。

・相国寺塔頭 大光明寺…最後に「京の冬の旅」特別公開中の寺院をもう1ヶ所。本尊は、座った白象に乗り、胸前で合掌するめずらしい普賢菩薩像。顔立ちが、いかにも宋風な感じである。若冲の絵画が2点出ていて、彩色の『芭蕉小禽図』も見たくて訪ねたのだが、むしろ富岡鉄斎旧蔵(確か)の墨筆『龍図』に惹かれた。

・相国寺墓地…最後に相国寺を訪ねた目的は、初日レポートでも言及した『平安京を歩こう』サイトに「藤原頼長の桜塚」という記事を見つけたためである。



 山門横の境内地図で確認すると、確かに「藤原頼長墓」の案内が。墓地の入口には「関係者以外立ち入り禁止」の表示があるので、これまで入ったことがなかったが、おそるおそる奥に進んでみる。墓地に入るとすぐ、「藤原定家之墓」「足利義政之墓」「伊藤若冲之墓」という、何だか分からない3点セットの墓碑が一角にまとめられていた。



 頼長の墓は「義政の墓と隣接している」とあったが、これがよく分からない。向かって左は「長藩士戦没霊塔」とあって、禁門の変で敗れた長州藩士の戦死者を祀るものらしい。



 向かって右の区画の右隅にある五輪塔が、上記サイトの写真と同じものではないかと思ったのだが、手前の細長い石碑が磨滅していて、読めない。五輪塔の隣りの、赤茶けた大きな石碑を読みかけたが「絹絲紡績株式会社…」で始まっており、最後に「明治四十年六月」の年記がある。これは違うな、と判断して、あたりをきょろきょろ探したが、それらしいものが見当たらなかった。どこか別の場所に移動したのかなあ、と疑いつつ、心を残して去る。

 後日調べたら、やっぱりその五輪塔が頼長の墓(首塚)だったようだ。隣りの石碑の大意は、上京区(現左京区)東竹屋町の絹糸紡績株式会社の構内に藤原頼長の首塚があり、明治40年、会社を増築することになり、塚を相国寺に移築した、という説明だった(※藤原頼長墓副碑)。うわああ。碑文の見かたが素人だと、こういう失敗をするのである。次回、お参りしておかないと。

※参考:京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都
上掲の碑文は「いしぶみを探す(京都のいしぶみデータベース)」の中のコンテンツ。
内容は充実しているが、Googleで個別データを検索するほうが早い。

※参考:平安京探偵団
「平安京を歩こう」はこの中のコンテンツ。ちょっとデータ(写真)が古いかもしれないが、役に立つホームページ。今回行き逃した「源為義の墓(供養塔)」(下京区・権現寺)および「源氏堀川館跡」(若宮八幡宮旧社地)は、ぜひ次の機会に探してみよう。

※おまけ:天龍寺の開運招福守

普通の「宝船」なんでしょうけど、なんとなく天龍寺船を連想させて、中国旅行のお守りにもなりそうだったので。青磁とか天目茶碗とか、いっぱい運んできそうである。
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2012京の冬の旅:院政ゆかりの地巡り(3)楽美術館など

2012-03-20 17:28:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○初日:三十三間堂~安井金毘羅宮~崇徳天皇御廟~六波羅蜜寺~長講堂~因幡薬師(平等寺)~本法寺~楽美術館~白峯神宮

 初日、まだ続き。本法寺(堀川寺ノ内)から再びバスで堀川通を下る。

楽美術館…春期特別展『楽歴代の名品 秘蔵の長次郎を見る 利休所持・利休の婿 万代屋宗安伝来黒楽茶碗「万代屋黒」』(2012年3月10日~6月24日)開催中。階下の展示室では、初代・長次郎から当代(十五代)・吉左衛門氏までを一人一作で紹介する。以前も、この形式の展覧会があったように思うけれど、楽茶碗入門には、とてもありがたい展示だと思う。二階は、手前の展示室に、茶入・水指・香炉など、茶碗以外の作品。奥の部屋に、いよいよ名品中の名品が取り揃えられていた。

 見どころは、長次郎の『万代屋黒』と道入の『唐衣』。うーむ、『万代屋黒』は、作為を廃した徹底ぶりが逆に息苦しく感じられて、あまり好きになれない。『唐衣』は、軽やかな薄作に厚みのある釉薬、外側には山の端状の白い剝げ目、内側には赤い斑点など、技巧に満ちたところが好き。その隣り、光悦の『立峯』は飴色釉。鏡を置いて見せている裏面の外側に焦げ目があって、ぎょっとするようなアクセントになっている。左入の『雨雲写』は光悦の茶碗を写したものだが、黒楽茶碗を縁取る白色(釉?)が、夜桜みたいできれい。

・白峯神宮…最後は、今回のテーマ「院政ゆかりの地巡り」に戻って、徒歩で白峯神宮へ。主祭神は、讃岐院こと崇徳天皇と、淡路廃帝こと淳仁天皇である。もと蹴鞠の宗家・飛鳥井家の屋敷跡地であり、蹴鞠の守護神・精大明神を摂社に祀る、というのは知っていたが、行ってみたら、本殿に山のようにサッカーボールやアメフト、野球のボールが奉納されていて、折しも少年野球チームが参拝中だった。ええ~違うだろう、と思ったが、もはや白峯神宮=「球技全般ひいてはスポーツの守護神」になっているらしい。



 崇徳院に勝負事の勝ちを願うってどうなの、と思うのだが、祟り神の功徳は強力無比だから、いいのかしら。祇園の御廟は歌舞練場と場外馬券売場のそばで、どちらも安閑とできないのがお気の毒である。まあ賑やかなのは、よろしいか。



 境内の伴緒(とものを)社。案内板に「保元の乱に崇徳上皇方に馳せ参じた源為義(源氏の棟梁)と弓で名高い鎮西八郎為朝父子の二公をお祀りします。…なお、為朝公は琉球王家の祖になったと言う伝説があります」とある。保元の乱の帰趨を、はっきり記さないところが何とも(泣ける)。

 夕食は、同じく東京から週末旅行に出てきた友人と合流。(京都市内の宿が取れなかったので)高槻泊。
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2012京の冬の旅:院政ゆかりの地巡り(2)等伯の涅槃図(本法寺)

2012-03-20 08:40:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
○初日:三十三間堂~安井金毘羅宮~崇徳天皇御廟~六波羅蜜寺~長講堂~因幡薬師(平等寺)~本法寺~楽美術館~白峯神宮

 初日続き。

本法寺…前日、携帯で京都の観光情報を収集していたら、長谷川等伯筆の『佛涅槃図』(縦8メートル×横5.3メートル)公開というニュースを見つけた。そのサイズを見て、思い当たる作品があったので、もしやあの涅槃図?と思って、行ってみることにした。場所はバス停「堀川寺ノ内」下車すぐ(東側)。堀川通を北上するバスに乗ったが、二条城とか一条戻り橋とか、なじみの観光地をどんどん過ぎて、少し不安になり始めた頃、到着した。裏千家、表千家に程近い。近年、あまり来たことのないエリアだ。同寺は日蓮宗。門を入ると、広壮な境内に、大きな多宝塔が目を引く。本阿弥光悦ゆかりの松や庭園も残されていた(おおらかで自由な感じのする庭。竹組みの垣根は光悦垣かな)。



 近代的な宝物館に入ると、巨大な涅槃図。これだ~。博物館の壁に掛け切れなくて、床に垂らして寝かせていたのを覚えている。待て待て、京博だったかしら、東博だったかしら。東博の没後400年『長谷川等伯』展(2010年春)だったような気がしたが、思い返すと、京博の『日蓮と法華の名宝』(2009年秋)だったかもしれない。等伯も光悦も、日蓮宗と縁が深いことを、はじめて知った展覧会だった。

 画幅の下部に描かれた鳥獣たちは、どこか人間的。人面猫みたいネコ。リア充っぽく首を寄せ合う鴨のカップル。平たく伸びているのはミンク?いやカワウソ? 涅槃の釈迦の周囲に集まった仏弟子と神々は涙をぬぐう仕草を見せている者が多い。古い図様だと、顔を歪めたり号泣している者はいても、少し表現が違うような気がする。

 涅槃図は2階のバルコニーからも拝観することができるようになっている。2階に上がると、釈迦と周囲の人々を少し見下ろすような位置になる。人々の左端に緑色の衣(+袈裟?)をまとった髭面の人物が頬杖をついていて「あれが等伯自身だと言われています」と案内の方が教えてくれた。仏涅槃図の公開は、3/15~4/15。毎年行われているのだそうだ。知らなかった。こういうのを見ると、東京人が東博の『松林図』だけ見て、等伯ステキ!とか言っているのとは、全く違ったかたちで町衆とともに生きている等伯を感じる。2階には、ほかにも室町時代の羅漢図など寺宝展示あり。

 帰りがけに外の案内板を読んだら、ここは朝鮮通信使の宿所として使われたこともあって、秀吉の死の直後、1604(慶長9)年、朝鮮から遣わされた松雲大師惟政(日本軍と戦った僧兵の総指揮官)は、この本法寺に滞在し、伏見城で徳川家康と会見するなどして、国交回復につとめたそうだ。

 ん?もしや?と思い出したのは、以前、韓国旅行で訪ねた俗離山(ソンニサン)の法住寺。自分のブログ記事を検索したら「壬辰倭乱(文禄の役)の際、豊臣軍に対する抵抗の拠点となった」とメモを入れている。いろいろ調べたら、韓国語のサイトに「"法住寺捌相殿舍利荘厳具"によると、惟政四溟大師(※松雲大師惟政)が俗離山法住寺で僧兵大将として武術研磨(鍛練)をしたという記録がある(1968年発見)」という記事が見つかった(原文はハングル。機械翻訳で読めるのだから、ほんとに便利な時代だなー)。

 門外に石造の大きな十三重塔があったが、これも朝鮮と関係するのかはよく分からない。以下、まだ続く。
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