○日本橋高島屋 聖徳太子1390年御遠忌記念『法隆寺展』(2012年3月3日~3月20日)
正月に黄檗山万福寺展をやっていた日本橋高島屋で、今度は法隆寺展だという。仏教(仏像)ブームで、着実な集客が当てこめると分かったのかな。忙しいが、ありがたいことだ。しかし、黄檗宗なら江戸もの中心だからよいが、法隆寺展と言ったって、飛鳥・奈良時代の国宝や重要文化財をデパートで展示するわけにはいかないから、大したものは来ないんだろうなあ…と思っていた。
期待しないで行ったわりにはよかった。鎌倉~室町時代の太子御影も各種あった。『聖徳太子八童子像』(鎌倉時代)は、みんな伏見人形みたいに色白でコロコロしていて可愛い。『水鏡の御影』はシルクハットみたいな帽子を被り、尺を持ち、赤い衣に緑の帯紐を結ぶ。摂政時代の姿。『聖皇曼荼羅』は、太子の近親や関係者がスゴロクみたいに描かれている。展示品は江戸ものだったが、鎌倉時代の作が現存する。いずれも「月刊 京都史跡散策会」第17号(2007/5/20)に画像が載っているのを発見した。
『聖皇曼荼羅』は、中心が太子ではなく、間人皇后なのが面白かった。その左が膳妃で右が太子、背後(上段)が用明天皇である。最下段には、黒馬を引く調子麻呂。私は、マンガの『日出処の天子』を雑誌連載時に愛読した世代なので、太子の周辺人物は、みんな懐かしく感じる。
彫刻も、鎌倉時代の太子二歳像(キリッとしすぎw)や平安時代の天王像、不動明王像など、予想を超えて見ごたえがあった。夢違観音と玉虫厨子は(予想どおり)複製展示。地味な展示品ではあるが、『綾幡残欠』は飛鳥・奈良時代のホンモノである。無地のようで、よ~く見ると文様が織り出されているんだけど、注目する人が少ないのは残念。
工芸はいろいろと面白くて、「善光寺如来(信濃の)が記した太子宛ての書簡を収める箱」というのがあった。錦で封印された内箱をさらに黒漆の箱に収め、最終的に(四重)千両箱くらいの(?)ゴージャスな金の蒔絵の外箱に収めている。書簡の内容が気になって調べてみたら、「法隆寺の中の九州年号:聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」(古賀達也氏/古田史学会報No.15 1996/08/15)を見つけた。
それから、膝をついた雄牛を写実的にかたどった「牛王像」という木製容器があった。牛の胆石(牛黄=ゴオウ)を入れる容器で、密教的な祈祷では礼拝対象にもなった。実際、滋養強壮薬、強心薬、小児用薬、かぜ薬や胃腸薬など様々な薬効があり、牛千頭に一頭の割合でしか発見できない大変な貴重品だったという。
このように、法隆寺(およそ)1400年の歴史は、その時々の人々の心情を反映し、多彩な信仰のかたちで織りなされている。中には、ちょっと笑ってしまうものもあるが、おおらかな気持ちで受け入れたいと思う。
近世・近現代の作品も同様である。円空の大日如来像は、飛鳥の微笑みをそのまま写したようで好きだ。西村公朝(1915-2003)作の維摩居士像、勝鬘夫人像もいいな。極彩色の今の姿もいいが、いつか彩色が薄れて剥落したときの姿も、きっと人々を魅了するに違いない。吉村忠夫(1898-1952)の『多至波奈大郎女御影(たちばなのおおいらつめのみえい)』も好きで、再会できてうれしかった。
大正10年(1921)の聖徳太子1300年忌の様子を描いた絵画もあり、壮麗で盛大な様子が窺えた。1400年忌が楽しみだな。あと10年。日本の社会が、なんとか平和と安定を保っていますように。
正月に黄檗山万福寺展をやっていた日本橋高島屋で、今度は法隆寺展だという。仏教(仏像)ブームで、着実な集客が当てこめると分かったのかな。忙しいが、ありがたいことだ。しかし、黄檗宗なら江戸もの中心だからよいが、法隆寺展と言ったって、飛鳥・奈良時代の国宝や重要文化財をデパートで展示するわけにはいかないから、大したものは来ないんだろうなあ…と思っていた。
期待しないで行ったわりにはよかった。鎌倉~室町時代の太子御影も各種あった。『聖徳太子八童子像』(鎌倉時代)は、みんな伏見人形みたいに色白でコロコロしていて可愛い。『水鏡の御影』はシルクハットみたいな帽子を被り、尺を持ち、赤い衣に緑の帯紐を結ぶ。摂政時代の姿。『聖皇曼荼羅』は、太子の近親や関係者がスゴロクみたいに描かれている。展示品は江戸ものだったが、鎌倉時代の作が現存する。いずれも「月刊 京都史跡散策会」第17号(2007/5/20)に画像が載っているのを発見した。
『聖皇曼荼羅』は、中心が太子ではなく、間人皇后なのが面白かった。その左が膳妃で右が太子、背後(上段)が用明天皇である。最下段には、黒馬を引く調子麻呂。私は、マンガの『日出処の天子』を雑誌連載時に愛読した世代なので、太子の周辺人物は、みんな懐かしく感じる。
彫刻も、鎌倉時代の太子二歳像(キリッとしすぎw)や平安時代の天王像、不動明王像など、予想を超えて見ごたえがあった。夢違観音と玉虫厨子は(予想どおり)複製展示。地味な展示品ではあるが、『綾幡残欠』は飛鳥・奈良時代のホンモノである。無地のようで、よ~く見ると文様が織り出されているんだけど、注目する人が少ないのは残念。
工芸はいろいろと面白くて、「善光寺如来(信濃の)が記した太子宛ての書簡を収める箱」というのがあった。錦で封印された内箱をさらに黒漆の箱に収め、最終的に(四重)千両箱くらいの(?)ゴージャスな金の蒔絵の外箱に収めている。書簡の内容が気になって調べてみたら、「法隆寺の中の九州年号:聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」(古賀達也氏/古田史学会報No.15 1996/08/15)を見つけた。
それから、膝をついた雄牛を写実的にかたどった「牛王像」という木製容器があった。牛の胆石(牛黄=ゴオウ)を入れる容器で、密教的な祈祷では礼拝対象にもなった。実際、滋養強壮薬、強心薬、小児用薬、かぜ薬や胃腸薬など様々な薬効があり、牛千頭に一頭の割合でしか発見できない大変な貴重品だったという。
このように、法隆寺(およそ)1400年の歴史は、その時々の人々の心情を反映し、多彩な信仰のかたちで織りなされている。中には、ちょっと笑ってしまうものもあるが、おおらかな気持ちで受け入れたいと思う。
近世・近現代の作品も同様である。円空の大日如来像は、飛鳥の微笑みをそのまま写したようで好きだ。西村公朝(1915-2003)作の維摩居士像、勝鬘夫人像もいいな。極彩色の今の姿もいいが、いつか彩色が薄れて剥落したときの姿も、きっと人々を魅了するに違いない。吉村忠夫(1898-1952)の『多至波奈大郎女御影(たちばなのおおいらつめのみえい)』も好きで、再会できてうれしかった。
大正10年(1921)の聖徳太子1300年忌の様子を描いた絵画もあり、壮麗で盛大な様子が窺えた。1400年忌が楽しみだな。あと10年。日本の社会が、なんとか平和と安定を保っていますように。