○上里隆史『海の王国・琉球:「海域アジア」屈指の交易国家の実像』(歴史新書y) 洋泉社 2012.1
昨年は、BS時代劇『テンペスト』にハマり、先月、とうとう人生初の沖縄訪問を果たし、いっそう沖縄の歴史と文化に興味が湧いてきたところだ。
著者の上里隆史氏は、『テンペスト』の時代考証担当として、ドラマ放映中も楽しい話題を提供し続けてくれた先生。ただし、本書が扱うのは、ドラマの舞台となった「近世琉球」ではなく、「古琉球」(12世紀頃~1609年の薩摩軍侵攻以前)である。
沖縄の歴史は、日本本土から見ると、ほとんど未開の地だったところに、突然、超スピードで文明が立ち上がっていくように見える。日本の千年(3世紀から14、5世紀くらい)を100~200年の早送りで見ているような具合。でも、これって、中国人が日本の歴史を眺めたときと、同じ感慨かもしれない。
奄美大島北部・喜界島を中心とする「キカイガシマ」領域が、6~7世紀頃から日本の古代国家と継続的な関係を持っていたのに対し、その外側の沖縄島は、完全な異界だった。しかし、12世紀頃、「北」=奄美地域からのインパクトによって、沖縄島ではグスク時代が始まり、14世紀後半には(地域連合政権の)三山時代へ至る。13~14世紀には、「南」=中国福建省から沖縄島に至る交流圏の存在も認められる。この冒頭は、分かりにくいのだが、適当に読み飛ばそう。
本論は、明の洪武帝(朱元璋)による入貢の要請(1372年)に応じ、活発な朝貢貿易が展開されるようになってから。この背景には、元末の中国内乱や倭寇の活発化によって、日中間を往来する民間商船のメイン航路が、従来の博多-慶元(寧波)の「大洋路」から南九州-福建の「南島路」へ変更されたことがあるという。そして、港湾都市・那覇の興盛。へえ~那覇って、もとは浮島だったのか。知らなかった。そして、サンゴ礁に囲まれた沖縄島沿岸では、大型船が利用できる港湾は、那覇と他二ヶ所くらいしかなかったというのも目からウロコだった。島国は、周囲と隔絶しているように見えて、実は海によって、どことでも容易につながるというけれど、実は「周囲とつながる」ためには、さまざまな条件が必要なのだ、と思った。
本書に活写される国際港湾都市・那覇の風景は、生き生きと具体的で、魅力的である。華人、日本人、朝鮮人、南蛮(東南アジア)人たちが集住し、異国の品々があふれ、異国の宗教がもたらされた。久米村(唐営)って華人の居留区だったのか。琉球は明への朝貢貿易や外交業務を、那覇に滞在する華人にほぼ依存していた(なんたるアウトソーシング)。さらに華人ネットワークの先導によって、東南アジアとの中継貿易も展開された。日本に対しては禅宗ネットワークが活用された。
驚くのは、対朝鮮に利用された「倭人」ネットワークである。ここでいう「倭人/倭寇」とは、日本人の意味でなく、どこの国にも属さず、国境をまたいで活躍する「外交エージェント」(時には海賊衆となる)だったらしい。
面白いのは、当時の東アジアの海域世界が、明朝を頂点とする冊封・朝貢体制だけで成り立っていたのではないことだ。日本が「中国対等、朝鮮・琉球下位」という「小中華」的世界観のもと、琉球(および朝鮮)を「来朝者」と看做していたことはよく知られているが、高麗・朝鮮王朝も、琉球を「入貢」する下位の国として扱っていたし、15~16世紀には西日本の各勢力は朝鮮に臣従の姿勢を示すことで貿易船の派遣を認められていた(初耳!)。また、琉球自身も、周辺離島のみならず、日本との境界にあたるトカラ列島や大隅列島、さらに南九州の諸地域まで、「琉球型華夷秩序」に取り込もうとしていた。なんと、16世紀前半には、島津氏さえも下国扱いしている。
それぞれ、苦笑するような身勝手さだが、政治的には相手の世界観を受け入れつつ、経済・交易の「実を取る」というのは、現代の硬直した外交関係より、ずっとソフィスケートされたやり口ではないかと思う。
沖縄を語るのに「日本的」か「中国的」かという問いは意味がなく、むしろ、原理的オリジナリティーを主張せず、さまざまな借り物を主体的にアレンジすることに長けているという点で、古琉球は「東南アジア」的なのでないか、という結論が最後に措かれている。私は、この点では、日本の文化・社会も、かなり「東南アジア」的と言い得るような気がした。でも、最終的に「我々」と「他者」の間の線引きに固執するところは、少し違うかな…。
蛇足だが、記述の典拠に、しばしば朝鮮歴代王朝の実録が引かれており、こんなに沖縄(琉球)の記事があるのかということに、びっくりした。次の沖縄訪問も楽しみだ。がっつり史跡めぐりがしてみたい。

著者の上里隆史氏は、『テンペスト』の時代考証担当として、ドラマ放映中も楽しい話題を提供し続けてくれた先生。ただし、本書が扱うのは、ドラマの舞台となった「近世琉球」ではなく、「古琉球」(12世紀頃~1609年の薩摩軍侵攻以前)である。
沖縄の歴史は、日本本土から見ると、ほとんど未開の地だったところに、突然、超スピードで文明が立ち上がっていくように見える。日本の千年(3世紀から14、5世紀くらい)を100~200年の早送りで見ているような具合。でも、これって、中国人が日本の歴史を眺めたときと、同じ感慨かもしれない。
奄美大島北部・喜界島を中心とする「キカイガシマ」領域が、6~7世紀頃から日本の古代国家と継続的な関係を持っていたのに対し、その外側の沖縄島は、完全な異界だった。しかし、12世紀頃、「北」=奄美地域からのインパクトによって、沖縄島ではグスク時代が始まり、14世紀後半には(地域連合政権の)三山時代へ至る。13~14世紀には、「南」=中国福建省から沖縄島に至る交流圏の存在も認められる。この冒頭は、分かりにくいのだが、適当に読み飛ばそう。
本論は、明の洪武帝(朱元璋)による入貢の要請(1372年)に応じ、活発な朝貢貿易が展開されるようになってから。この背景には、元末の中国内乱や倭寇の活発化によって、日中間を往来する民間商船のメイン航路が、従来の博多-慶元(寧波)の「大洋路」から南九州-福建の「南島路」へ変更されたことがあるという。そして、港湾都市・那覇の興盛。へえ~那覇って、もとは浮島だったのか。知らなかった。そして、サンゴ礁に囲まれた沖縄島沿岸では、大型船が利用できる港湾は、那覇と他二ヶ所くらいしかなかったというのも目からウロコだった。島国は、周囲と隔絶しているように見えて、実は海によって、どことでも容易につながるというけれど、実は「周囲とつながる」ためには、さまざまな条件が必要なのだ、と思った。
本書に活写される国際港湾都市・那覇の風景は、生き生きと具体的で、魅力的である。華人、日本人、朝鮮人、南蛮(東南アジア)人たちが集住し、異国の品々があふれ、異国の宗教がもたらされた。久米村(唐営)って華人の居留区だったのか。琉球は明への朝貢貿易や外交業務を、那覇に滞在する華人にほぼ依存していた(なんたるアウトソーシング)。さらに華人ネットワークの先導によって、東南アジアとの中継貿易も展開された。日本に対しては禅宗ネットワークが活用された。
驚くのは、対朝鮮に利用された「倭人」ネットワークである。ここでいう「倭人/倭寇」とは、日本人の意味でなく、どこの国にも属さず、国境をまたいで活躍する「外交エージェント」(時には海賊衆となる)だったらしい。
面白いのは、当時の東アジアの海域世界が、明朝を頂点とする冊封・朝貢体制だけで成り立っていたのではないことだ。日本が「中国対等、朝鮮・琉球下位」という「小中華」的世界観のもと、琉球(および朝鮮)を「来朝者」と看做していたことはよく知られているが、高麗・朝鮮王朝も、琉球を「入貢」する下位の国として扱っていたし、15~16世紀には西日本の各勢力は朝鮮に臣従の姿勢を示すことで貿易船の派遣を認められていた(初耳!)。また、琉球自身も、周辺離島のみならず、日本との境界にあたるトカラ列島や大隅列島、さらに南九州の諸地域まで、「琉球型華夷秩序」に取り込もうとしていた。なんと、16世紀前半には、島津氏さえも下国扱いしている。
それぞれ、苦笑するような身勝手さだが、政治的には相手の世界観を受け入れつつ、経済・交易の「実を取る」というのは、現代の硬直した外交関係より、ずっとソフィスケートされたやり口ではないかと思う。
沖縄を語るのに「日本的」か「中国的」かという問いは意味がなく、むしろ、原理的オリジナリティーを主張せず、さまざまな借り物を主体的にアレンジすることに長けているという点で、古琉球は「東南アジア」的なのでないか、という結論が最後に措かれている。私は、この点では、日本の文化・社会も、かなり「東南アジア」的と言い得るような気がした。でも、最終的に「我々」と「他者」の間の線引きに固執するところは、少し違うかな…。
蛇足だが、記述の典拠に、しばしば朝鮮歴代王朝の実録が引かれており、こんなに沖縄(琉球)の記事があるのかということに、びっくりした。次の沖縄訪問も楽しみだ。がっつり史跡めぐりがしてみたい。