○薬師寺東京別院 春の宝物特別公開『還ってきた東塔塑像・蘇った西塔四天王』(2012年2月28日~3月6日)
東京・五反田の薬師寺別院で行われる宝物特別公開。以前は秋に行われていたが、どうやら春が定例になってきたようだ。私は早春の奈良が好きで、3月のカレンダーを見ると無性に奈良が恋しくなるので、ちょうどいい時期である。
受付で「いま、お話が始まったばかりです」と案内された。この宝物特別公開は、展示会場である本堂で、定時に行われる法話をお聞きするのがお約束。入っていくと、見覚えのあるお坊さんがお話をされていた。たぶん昨年もお話をお聞きした大谷執事(※ホームページあり)と思われる。
今年は、須弥壇の左に薬師寺の境内絵図が2点。正面には、別院本尊の薬師如来(これも近年修復されたもの)を挟んで、左右に2体ずつの四天王像。左が多聞天、広目天、右が増長天、持国天。もと西塔安置の四天王立像(平安時代)で、多聞天・持国天の二天王像として重要文化財指定を受けていたが、昨年、残欠部分を組み合わせ、一部を新補して、四天王像に「復原」されたものである。
広目天の前に、復原修理前の写真が展示されていたが、両腕の向きが全く違う。何かの資料に則って、後補部分をより古い形式に改めたのだろう。解説パンフには「従来の持国天像の両腕を別材で組み合わせた」とある。その持国天像は、頭部と右腕を補作したというが、頭部うまいなー。ほかの3体と比べて違和感がない。汚しも絶妙である。
須弥壇の右、厳重な展示ケースに収められているのが、3体の東塔塑像残欠。おそらく跪坐の姿勢の像で、頭部から尻までを一材で作り、正面下部に短い別材を嵌めて、大腿部の芯にする。腕も別材を用いたらしく、釘の残るものがある。いちばん端の像は、体幹に塑土がよく残っており、ほどよい肉づきの段腹を斜めに横切る条帛、へそ、裙を腰紐で結んでいる。塑土の断面は、荒土・中土・仕上土の三層構造がよく分かり、キラキラした(雲母混じり)白い仕上土には、かすかな色彩も見える。腰紐の赤は分かりやすいが、条帛の白緑色(解説パンフ)は微妙。
執事のお話によれば、こうした塑造残欠は、困窮した薬師寺が売却したことで、世に流れたのだそうだ。特に上記の像は「最もよく製作当初の姿を留めた遺品」であることから、早くに買い手がつき、画家の鳥海青児氏(1902-1972)などが所蔵していた。このたび篤志家によって買い戻され、薬師寺に寄進されて、初公開の運びとなった。
参考の2体は、いわば買い手がつかずに薬師寺に残ったもの。木偶状の心木のみだが、表面にむらむらに残った白粉は塑土の名残りなのかもしれない。1体は、イタズラなのか意味があるのか、頭部に両目と口が刻まれているのが面白い。隣りのケースには、西塔の周囲から出土した塑像の断片7件を展示。いずれも顔面片。埴輪を思わせるような赤土で、餡をつめたら人形焼になりそう。
ほか、塔の修復・勧進に関係する文書など。薬師寺といえば、昭和40年代に高田好胤師が始めた写経勧進が有名だが、昭和初期と思われる写経巻が、最近発見されたとのことで、展示されていた。細い串に巻いた千歳飴のような経巻が100巻くらい(?)木箱に収まっていた。
なお、この日の法話はやや短め。「今日は芸大の先生が見えているんで、話しにくいんです」とおっしゃって、笑いを誘っていた。お抹茶(水煙の飛天を打ち出したお干菓子つき)、美味しかったです。
東京・五反田の薬師寺別院で行われる宝物特別公開。以前は秋に行われていたが、どうやら春が定例になってきたようだ。私は早春の奈良が好きで、3月のカレンダーを見ると無性に奈良が恋しくなるので、ちょうどいい時期である。
受付で「いま、お話が始まったばかりです」と案内された。この宝物特別公開は、展示会場である本堂で、定時に行われる法話をお聞きするのがお約束。入っていくと、見覚えのあるお坊さんがお話をされていた。たぶん昨年もお話をお聞きした大谷執事(※ホームページあり)と思われる。
今年は、須弥壇の左に薬師寺の境内絵図が2点。正面には、別院本尊の薬師如来(これも近年修復されたもの)を挟んで、左右に2体ずつの四天王像。左が多聞天、広目天、右が増長天、持国天。もと西塔安置の四天王立像(平安時代)で、多聞天・持国天の二天王像として重要文化財指定を受けていたが、昨年、残欠部分を組み合わせ、一部を新補して、四天王像に「復原」されたものである。
広目天の前に、復原修理前の写真が展示されていたが、両腕の向きが全く違う。何かの資料に則って、後補部分をより古い形式に改めたのだろう。解説パンフには「従来の持国天像の両腕を別材で組み合わせた」とある。その持国天像は、頭部と右腕を補作したというが、頭部うまいなー。ほかの3体と比べて違和感がない。汚しも絶妙である。
須弥壇の右、厳重な展示ケースに収められているのが、3体の東塔塑像残欠。おそらく跪坐の姿勢の像で、頭部から尻までを一材で作り、正面下部に短い別材を嵌めて、大腿部の芯にする。腕も別材を用いたらしく、釘の残るものがある。いちばん端の像は、体幹に塑土がよく残っており、ほどよい肉づきの段腹を斜めに横切る条帛、へそ、裙を腰紐で結んでいる。塑土の断面は、荒土・中土・仕上土の三層構造がよく分かり、キラキラした(雲母混じり)白い仕上土には、かすかな色彩も見える。腰紐の赤は分かりやすいが、条帛の白緑色(解説パンフ)は微妙。
執事のお話によれば、こうした塑造残欠は、困窮した薬師寺が売却したことで、世に流れたのだそうだ。特に上記の像は「最もよく製作当初の姿を留めた遺品」であることから、早くに買い手がつき、画家の鳥海青児氏(1902-1972)などが所蔵していた。このたび篤志家によって買い戻され、薬師寺に寄進されて、初公開の運びとなった。
参考の2体は、いわば買い手がつかずに薬師寺に残ったもの。木偶状の心木のみだが、表面にむらむらに残った白粉は塑土の名残りなのかもしれない。1体は、イタズラなのか意味があるのか、頭部に両目と口が刻まれているのが面白い。隣りのケースには、西塔の周囲から出土した塑像の断片7件を展示。いずれも顔面片。埴輪を思わせるような赤土で、餡をつめたら人形焼になりそう。
ほか、塔の修復・勧進に関係する文書など。薬師寺といえば、昭和40年代に高田好胤師が始めた写経勧進が有名だが、昭和初期と思われる写経巻が、最近発見されたとのことで、展示されていた。細い串に巻いた千歳飴のような経巻が100巻くらい(?)木箱に収まっていた。
なお、この日の法話はやや短め。「今日は芸大の先生が見えているんで、話しにくいんです」とおっしゃって、笑いを誘っていた。お抹茶(水煙の飛天を打ち出したお干菓子つき)、美味しかったです。