○イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行:英国婦人の見た李朝末期』(講談社学術文庫) 講談社 1998.8
イザベラ・バード(1831-1904) は、『大英帝国という経験』(井野瀬久美恵)の表現を用いれば、帝国の生んだ「レディ・トラベラー」のひとりである。世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。『日本奥地紀行』と『朝鮮紀行』の存在は、学生の頃から知っていて、いつかは読んでみようと思っていた。結局、この歳になって初めて手に取ったわけだが、それでよかったのかもしれない。もし学生の頃に読んでいたら、下記のような記述に、私は何の意味も見出せなかっただろうと思う。
『朝鮮紀行』は、1894年から1897年にかけて、4度の朝鮮旅行に基づいて書かれたものだが、淡々とした自然・風俗描写のほかに、単なる紀行文学として読み過ごすことのできない部分を含んでいる。それは、著者が親しく接した朝鮮王室の人々(人はいいが優柔不断な国王、聡明な王妃)であり、清国、日本、ロシアの干渉に揺れる朝鮮の社会である。そして、クライマックスに1895年10月の乙未事変(閔妃=明成皇后暗殺事件)がある(著者は日本の長崎に滞在していた)。
著者は、日本政府に対して、率直に同情的な感想を述べている。「日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけられた」事件はない。というのも、以下が重要だと私は思うのだが、「事件関与を否定したところでそれは忘れられ」、王宮襲撃に関わった武装集団に「日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢60名の日本人が含まれていたことが、いつまでも人々の記憶に残るからである」。どんなに「歴史の捏造」を糾弾したとしても、この「人々の記憶」をクリアするのは、難しいのではないかと思う。
著者は概して親日的で、日本軍兵士の規律正しさをたびたび称え、日本政府が朝鮮国内で断行した改革事業の数々にも肯定的で、「わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる」と言い切っている。ちょっとこっちが驚いてしまうくらいだ。「経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまった」というのが、なるほど、近代日本の「アジア経験」に関する、妥当な評価なのかもしれない。
一方、本書には、朝鮮人の怠惰、政治的腐敗、礼儀知らずな好奇心、粗末で不潔な首都ソウルの様子などを描写した下りがあるのは事実である。読後にネットで検索していたら、本書から朝鮮を貶めた記述ばかりを引いている”嫌韓”サイトを見つけた。それは引用として間違いではないのだが、著者の意図を正確に写しているとは言い難い。本書の最後の段落には、「わたしが朝鮮に対して最初にいだいた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと変わってしまった」という、著者の切実な告白があることを、ここに付け加えておきたい。
イザベラ・バード(1831-1904) は、『大英帝国という経験』(井野瀬久美恵)の表現を用いれば、帝国の生んだ「レディ・トラベラー」のひとりである。世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。『日本奥地紀行』と『朝鮮紀行』の存在は、学生の頃から知っていて、いつかは読んでみようと思っていた。結局、この歳になって初めて手に取ったわけだが、それでよかったのかもしれない。もし学生の頃に読んでいたら、下記のような記述に、私は何の意味も見出せなかっただろうと思う。
『朝鮮紀行』は、1894年から1897年にかけて、4度の朝鮮旅行に基づいて書かれたものだが、淡々とした自然・風俗描写のほかに、単なる紀行文学として読み過ごすことのできない部分を含んでいる。それは、著者が親しく接した朝鮮王室の人々(人はいいが優柔不断な国王、聡明な王妃)であり、清国、日本、ロシアの干渉に揺れる朝鮮の社会である。そして、クライマックスに1895年10月の乙未事変(閔妃=明成皇后暗殺事件)がある(著者は日本の長崎に滞在していた)。
著者は、日本政府に対して、率直に同情的な感想を述べている。「日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけられた」事件はない。というのも、以下が重要だと私は思うのだが、「事件関与を否定したところでそれは忘れられ」、王宮襲撃に関わった武装集団に「日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢60名の日本人が含まれていたことが、いつまでも人々の記憶に残るからである」。どんなに「歴史の捏造」を糾弾したとしても、この「人々の記憶」をクリアするのは、難しいのではないかと思う。
著者は概して親日的で、日本軍兵士の規律正しさをたびたび称え、日本政府が朝鮮国内で断行した改革事業の数々にも肯定的で、「わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる」と言い切っている。ちょっとこっちが驚いてしまうくらいだ。「経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまった」というのが、なるほど、近代日本の「アジア経験」に関する、妥当な評価なのかもしれない。
一方、本書には、朝鮮人の怠惰、政治的腐敗、礼儀知らずな好奇心、粗末で不潔な首都ソウルの様子などを描写した下りがあるのは事実である。読後にネットで検索していたら、本書から朝鮮を貶めた記述ばかりを引いている”嫌韓”サイトを見つけた。それは引用として間違いではないのだが、著者の意図を正確に写しているとは言い難い。本書の最後の段落には、「わたしが朝鮮に対して最初にいだいた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと変わってしまった」という、著者の切実な告白があることを、ここに付け加えておきたい。