見もの・読みもの日記

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アメリカ/市民と武装

2004-07-12 22:50:45 | 読んだもの(書籍)
○小熊英二『市民と武装:アメリカ合衆国における戦争と銃規制』慶應義塾大学出版会 2004.7

 小熊さんの新刊。読みながら、ときどきアレ?と思う部分があって、最後に「あとがき」を読み、本書に収録された論文が1992年から93年に書かれたものであると知って納得。

 「アレ?」というのは、「アレ?どうして、その後のあの事件、あの議論、あの論文に触れてくれないの?」という類のものであって、著者の論旨に対する「アレ?」ではない。

 むしろ、2001年の9.11事件以後、はじめてアメリカについて考える契機を与えられ、藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波新書 2002.9)とか、古矢旬『アメリカニズム』(東大出いし版会 2002.5)などをあわただしく読んできた私にとっては、大ざっぱに言って、現在の「アメリカ=帝国論」と趣旨を同じくする本書が、1992~93年に書かれていたことにびっくりした。

 収録論文の1篇目「市民と武装」は、アメリカにおける銃規制問題の思想的背景を論じたもの。

 「自らの武装で身を守る、武装した市民」像が、いくつかの戦争経験(先住民との戦争、独立戦争、南北戦争)を経て、作られていく過程を概括する。さまざまな功罪、伝統主義者との軋轢、後戻り、内部対立、思わぬ副産物などを産む歴史があって興味深い。そうして、武装権を持つもの=一人前の市民/持たないもの(黒人、移民、女性など)=半人前の市民、いう強固な思想基盤が成立する。

 A.ハッカーは著書『二つの国民』で、「警官が来る!」と聞いて、白人は助けがきたと思うだろうが、黒人はそうは思わないだろう、と語っているという。これは、平和に慣れた日本人にはなかなか実感できないことだが、警察権力に全てを委ねておけば自衛のための武装は必要がないという感覚は「必ずしも万人のものではない」のだ。この点は忘れず、肝に銘じておこう。
 
 憲法9条の問題も、この「自然権としての武装権」という思想を、ちゃんと肝に銘じて考えたほうがいい。
 
 2編目「普遍という名のナショナリズム」は、まさに現在の「アメリカ=帝国」論と歩調を同じくするもの。その中で興味深いのは「補論」で紹介されている「ネオコンは保守ではない。もともとは、米国では『冷戦リベラル』と言われる左翼だ」という見解。

 アロンゾ・ハンビーという人の指摘だそうだが、20世紀のアメリカの戦争、第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を導いたのは全て民主党のリベラル系の大統領だという。明らかな事実であるのに、ちょっと虚を突かれたように思った。

 つまり、民主党=リベラル=国際主義(十字軍的な改革理念が強い→他国の内政問題にも積極介入)/共和党=コンサバ=伝統的孤立主義(内政重視)という図式が成り立つ。ただし、この図式は、1960年代以降の思想的な地殻変動の中で、崩れているのではないかとも著者は指摘している。

 もうひとつ、論文の成り立ちとして非常に面白いと思ったのは、著者が「Americans All!」と書かれた戦時公債キャンペーンのポスター図版を見て「何かがつかめた」と感じたというエピソード。このほかにも、本書には戦時ポスターや映画のカットがいくつか引用されている。こういう視覚的な素材を用いた研究は、これから大きく発展する可能性を秘めていると思う。楽しみ。

コメント
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