○J.K.ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』静山社 1999.12
世間では先週末、シリーズ3作目「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」の映画が封切られた。それに先駆けて、金曜の夜には1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」がテレビで放映されていた。
途中から見始め、結局、映画の7割ぐらいを見てしまった私は、とうとう年貢を納めてこの小説を読むことに決めた。本当は、ちゃんと小説を読むまで映画は見ないつもりだったのだ。
小説はよくできた作品だった。これから幾世代にもわたって読みつがれていくに違いない。読み始めたら、あっとういう間だった。最後はぼろぼろに泣かされてしまった。
しかし、映画シリーズも、罪作りなくらいよくできていると思う。私は小説を読みながら、ずっとブラウン管で見た俳優たちの顔を思い浮かべていた。ハリーは、ロンは、ハーマイオニーは、あの顔、あの声でなければいけない、と思われた。これは小説にとって、ちょっと不幸なことかもしれない。
私が長らくこの小説を読まずにいたのは、「魔法学校」という設定に違和感を感じていたためだ。
普通の子供たちが、あるとき異世界に入り込むというのは、ファンタジー児童文学の古典的類型の1つである。「ナルニア国ものがたり」しかり、「トムは真夜中の庭で」「ピーター・パン」しかり。
これら古典的ファンタジーに共通するのは「学校」との縁の薄さである。「ナルニア」の4人兄弟はいちおう学校には行っているが、どうやら著者は、近代主義の産物である「学校」を明らかに毛嫌いしていることが、作品のあちこちに見てとれる。だから、主人公たちが異世界に迷い込むのは、長い休暇や戦争による疎開で「学校」という日常を遠ざかったときである。冒険のパートナーは、異世界の住人でなければ、兄弟や従兄弟であることが多い。
そして、これら古典的ファンタジーの「学校嫌い」の気分は、読者である私にも何ほどか影響を与えていた。退屈な学校、教師、この世の友達を忘れるために私はファンタジーを読みふけった。
ところがハリー・ポッターは、臆面もなく「魔法学校」に入学する。厳格で人生経験豊かな教師たち。信頼と友情で結ばれたクラスメイト。これは一体ファンタジーなのか? そう思うと、私はなかなか本書を読む決心がつかなかったのだ。
だが、実はこの「学校」「教師」「クラスメイト」という仕掛けこそ、世界中の子供たちがこの小説を熱狂的に迎え入れている理由の1つなのではないだろうか。イギリスでもアメリカでも、日本でも中国でも南米でも、子供たちは、こんなふうに期待と不安に胸をふくらませて入学し、仲間と出会い、試験勉強やスポーツの練習に追われながら、同時にもっと別の「何か」をやりとげようと悪戦苦闘しているのだ、たぶん。
21世紀初頭の現在、子供たちにとって「学校」抜きのリアリティというものは、もはや存在しないのかも知れない。
世間では先週末、シリーズ3作目「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」の映画が封切られた。それに先駆けて、金曜の夜には1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」がテレビで放映されていた。
途中から見始め、結局、映画の7割ぐらいを見てしまった私は、とうとう年貢を納めてこの小説を読むことに決めた。本当は、ちゃんと小説を読むまで映画は見ないつもりだったのだ。
小説はよくできた作品だった。これから幾世代にもわたって読みつがれていくに違いない。読み始めたら、あっとういう間だった。最後はぼろぼろに泣かされてしまった。
しかし、映画シリーズも、罪作りなくらいよくできていると思う。私は小説を読みながら、ずっとブラウン管で見た俳優たちの顔を思い浮かべていた。ハリーは、ロンは、ハーマイオニーは、あの顔、あの声でなければいけない、と思われた。これは小説にとって、ちょっと不幸なことかもしれない。
私が長らくこの小説を読まずにいたのは、「魔法学校」という設定に違和感を感じていたためだ。
普通の子供たちが、あるとき異世界に入り込むというのは、ファンタジー児童文学の古典的類型の1つである。「ナルニア国ものがたり」しかり、「トムは真夜中の庭で」「ピーター・パン」しかり。
これら古典的ファンタジーに共通するのは「学校」との縁の薄さである。「ナルニア」の4人兄弟はいちおう学校には行っているが、どうやら著者は、近代主義の産物である「学校」を明らかに毛嫌いしていることが、作品のあちこちに見てとれる。だから、主人公たちが異世界に迷い込むのは、長い休暇や戦争による疎開で「学校」という日常を遠ざかったときである。冒険のパートナーは、異世界の住人でなければ、兄弟や従兄弟であることが多い。
そして、これら古典的ファンタジーの「学校嫌い」の気分は、読者である私にも何ほどか影響を与えていた。退屈な学校、教師、この世の友達を忘れるために私はファンタジーを読みふけった。
ところがハリー・ポッターは、臆面もなく「魔法学校」に入学する。厳格で人生経験豊かな教師たち。信頼と友情で結ばれたクラスメイト。これは一体ファンタジーなのか? そう思うと、私はなかなか本書を読む決心がつかなかったのだ。
だが、実はこの「学校」「教師」「クラスメイト」という仕掛けこそ、世界中の子供たちがこの小説を熱狂的に迎え入れている理由の1つなのではないだろうか。イギリスでもアメリカでも、日本でも中国でも南米でも、子供たちは、こんなふうに期待と不安に胸をふくらませて入学し、仲間と出会い、試験勉強やスポーツの練習に追われながら、同時にもっと別の「何か」をやりとげようと悪戦苦闘しているのだ、たぶん。
21世紀初頭の現在、子供たちにとって「学校」抜きのリアリティというものは、もはや存在しないのかも知れない。