○浅羽通明『アナーキズム:名著でたどる日本思想入門』(ちくま新書)2004.5
6月7日にUPした『ナショナリズム』の姉妹編である。一緒に購入したのだが、こちらはしばらく読まずに投げ出していた。
この数年、「ナショナリズム」については、いろいろと議論かまびすしい。書店に並ぶ関連書籍を追いかけるだけでも一苦労だ。一方、「アナーキズム」という言葉は、もはや忘れかけられた骨董品というイメージが私にはある。
ただ、本書を読んで、アナーキズムも捨てたものではない、と感じたのは、通常「アナーキスト」に分類されない人々の思想に、刷毛で刷いたようなアナーキズムの影が見い出せるという指摘だ。たとえば、「コスモポリタン」鶴見俊輔、「アナルコ・キャピタリスト」笠井潔など。
なかでも「敵の敵は味方--コンサバティスト」の章段は面白かった。アナーキズムと保守主義が、実は、徹底した思索、欺瞞を排したリアリズム、「あらゆる権力は悪である」という認識において、双生児のように通じあっているという指摘は、非常に納得がいく。確かに、保守派の論客の著作を、毛嫌いせずに読んでみると、不逞で猛々しい、ほとんど”青春のアナーキスト”のような個我に出会うことがあるのだ。
彼ら、アナーキストと保守主義者に共通するのは、多勢に屈しない強い自我である。「サンケイ文化人」勝田吉太郎と反スターリニズムの埴谷雄高、あるいは、吉本隆明と福田恆存なども、両者はその孤高において通じ合いつつ、互いに鏡像をなしていたのではないか、と著者は言う。
それは同時に、アナーキズムという思想の限界を感じさせる。大多数の人間は、そんなしんどい生き方を選びはしない。ほどほどの「自由」とほどほどの「抑圧」、その結果得られる、ほどほどの「豊かさ」--それで十分でないか。
特に、自我の主張を苦手とする日本人にとって、アナーキズムという思想が流行らないし、根付かないのは、やむを得ないことかも知れない。それにしても「日本は地震だけで間に合っています」というのは、なかなかの皮肉である。詳細は、地震と「世直し」思想を論じた「ミレニアニスト」の章段に譲る。
6月7日にUPした『ナショナリズム』の姉妹編である。一緒に購入したのだが、こちらはしばらく読まずに投げ出していた。
この数年、「ナショナリズム」については、いろいろと議論かまびすしい。書店に並ぶ関連書籍を追いかけるだけでも一苦労だ。一方、「アナーキズム」という言葉は、もはや忘れかけられた骨董品というイメージが私にはある。
ただ、本書を読んで、アナーキズムも捨てたものではない、と感じたのは、通常「アナーキスト」に分類されない人々の思想に、刷毛で刷いたようなアナーキズムの影が見い出せるという指摘だ。たとえば、「コスモポリタン」鶴見俊輔、「アナルコ・キャピタリスト」笠井潔など。
なかでも「敵の敵は味方--コンサバティスト」の章段は面白かった。アナーキズムと保守主義が、実は、徹底した思索、欺瞞を排したリアリズム、「あらゆる権力は悪である」という認識において、双生児のように通じあっているという指摘は、非常に納得がいく。確かに、保守派の論客の著作を、毛嫌いせずに読んでみると、不逞で猛々しい、ほとんど”青春のアナーキスト”のような個我に出会うことがあるのだ。
彼ら、アナーキストと保守主義者に共通するのは、多勢に屈しない強い自我である。「サンケイ文化人」勝田吉太郎と反スターリニズムの埴谷雄高、あるいは、吉本隆明と福田恆存なども、両者はその孤高において通じ合いつつ、互いに鏡像をなしていたのではないか、と著者は言う。
それは同時に、アナーキズムという思想の限界を感じさせる。大多数の人間は、そんなしんどい生き方を選びはしない。ほどほどの「自由」とほどほどの「抑圧」、その結果得られる、ほどほどの「豊かさ」--それで十分でないか。
特に、自我の主張を苦手とする日本人にとって、アナーキズムという思想が流行らないし、根付かないのは、やむを得ないことかも知れない。それにしても「日本は地震だけで間に合っています」というのは、なかなかの皮肉である。詳細は、地震と「世直し」思想を論じた「ミレニアニスト」の章段に譲る。