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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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神戸市立博物館リニューアル基本計画(2016年3月)を読む

2017-08-25 00:13:48 | 見たもの(Webサイト・TV)
 先日、神戸開港150年記念特別展『開国への潮流』を見るために、神戸市立博物館に行った。どこかカフェで一休みしようと思いながら直行してしまったので、博物館の2階にある喫茶室「エトワール」に初めて入ってみた。ガラス細工の飾りケースがあったり、背の高い窓に赤いビロードふうのカーテンが下がっていたり、古き良き時代を感じさせる喫茶室である。上品なおばさんとおばあちゃんが店番をしていた。注文したヨーグルトアイスは、高級感のある金縁のお皿に乗って出てきた。



 そこへ常連らしいおじさんが入ってきて、おばあちゃんと話を始めた。おばあちゃんが「ここ、来年2月でなくなるんですよ」と聞き捨てならないことをいう。「博物館が改修するの。改修が終わると、1階に図書館と一緒になったカフェができるけど、ここはなくなってしまう」のだそうだ。

 あとで気になって調べたら、2018年2月5日~2019年11月1日まで、改修工事にともない休館予定であることが分かった。また「神戸市立博物館リニューアル基本計画について」というページも見つけた。PDF版の「基本計画」全文(2016年3月)も公開されている。

 読んでみた感想だが、「階段が主導線で不便」「女性トイレが不足」等、施設・設備の老朽化に関する指摘はもっともである。何しろ本館は昭和10(1935)年竣工の横浜正金銀行の建物の転用だし(美観的にはそこがよい)、新館も昭和57(1982)年開館当時のままだという。常設展示が開館以来、ほとんど変更されておらず、陳腐化しているというのも、はじめて気づいたけれど確かによくない。さらに収蔵庫の密閉性が不足しているなど、保存環境にも問題があるという。

 リニューアルによって、これらの問題が改善すれば、嬉しいことだ。しかし「基本計画」の目指す方向性は、必ずしも全面的に賛成できるものではない。15頁の「リニューアル後に目指す姿」では、「観光客に向けて」「国際的な文化交流の強化」、「市民に向けて」「ICT技術等の活用による観光資源との連携強化」とあり、結局「観光」かい、と毒づきたくなる。あと「参加型展示」は、教育現場で流行りの「アクティブ・ラーニング」と同じで、ちょっと手を抜くと、従来型展示より悲惨なことになると思う。

 リニューアル後も「全国規模の海外巡回展は引き続き積極的に開催」というのは、神戸市民のために重要だが、私が期待するのは、同館のコレクションや調査研究の成果を生かした「独自の特別展・企画展」である。昨年の『我が名は鶴亭』、今年の『遥かなるルネサンス』『開国への潮流』は、全く分野が違うのに、どれも素晴らしかった。こういう企画展ができるのは、優秀なスタッフが揃っているからだと思う。施設・設備も大事だが、ぜひ人にかけるお金もケチらないでほしい。
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中華ドラマ『大軍師司馬懿之軍師聯盟』、看完了

2017-07-27 22:49:08 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『大軍師司馬懿之軍師聯盟』全42集(2017年、東陽盟将威影視他)

 日本の中国古装劇ファンの間で早くから評判を呼び、公開が待ち望まれていたドラマ。本国では、6月22日から7月14日まで放映された。放映が始まるや否や、期待以上という評判が聞こえてきたので、ネットで視聴できるサイトを探し出して、本国の放映にあまり遅れることなく全話完走した。こんなことができるなんて、ほんとにいい時代になったものだ。

 主人公は三国時代(2-3世紀)の武将・司馬懿、字(あざな)は仲達。魏の曹操・曹丕に仕え、五丈原で諸葛孔明の蜀軍と戦ったことが有名であるが、本作では武将の面影はなく、風采のあがらない文官として描かれる。曹氏との権力闘争を制して魏国の全権を握り、没後、孫の司馬炎が晋(西晋)を建てたので宣帝と追号された。ドラマは、まだ部屋住みの書生にすぎない司馬懿と妻の張春華の間に最初の子供が生まれるところから始まる。難産に苦しむ張春華を救ったのは名医の華陀。その頃、曹操は頭痛に悩み、華陀を招いたが、官界からの引退を勧められて激怒し、華陀の交友関係を洗うように命じた結果、司馬懿の存在を知る。同じ頃、司馬家には郭照(阿照)という若い娘が、身寄りをなくして引き取られていた。阿照は、ひょんなことから曹家の二公子曹丕と知り合い、互いに惹かれ合って、ついに自らの意思で曹丕に嫁ぐ。

 こんな感じで、けっこう自由に史実や伝承を改変しながら、(史実よりも)緊密な人物関係を作り出して、視聴者を引き込んでいくところが巧い。その後も、ここは息抜きだろうと笑って見ていたエピソードが、じわじわ戦慄の大事件につながっていく展開の巧さに何度も唸った。そして何よりも登場人物が、善悪を超越して魅力的である。

 前半は、やはり曹操がいい。すさまじく酷薄であると同時に有能で先見性に富み、家族愛と人間味の持ち主でもある。ある意味、中国人の理想の「為政者」かもしれない。演者の于和偉があまりにもハマり役で、2010年の『三国』(スリーキングダム)で劉備を演じたというのが、見ていない私にはちょっと信じられなかった。前半では、父親との関係に悩む、おおらかでまっすぐな青年だった曹丕(李晨)が、権力の掌握とともに嫉妬や猜疑心にとらわれ、どんどん地獄に落ちていくのは後半の見どころ。日本の大河ドラマ『平清盛』で清盛を演じた松山ケンイチを思い出した。

 曹植(王仁君)は気弱で優しい青年だが、思慮が足りず、周囲の思惑に流されていく。曹植をかついで天下を取ろうとした楊修(翟天臨)の野心家ぶりも魅力的だった。このドラマ、剣を交える戦闘シーンは少ないが、文官たちが命をかけた頭脳戦・弁論戦を繰り広げ、息つく暇もない。前半は荀彧(王勁松)もよかったなあ~。『琅琊榜(ろうやぼう)』の言侯である。曹操との間に、信頼、尊敬、友誼を共有しながら、死を賜り、漢への忠節を守って死んでいく。

 曹家の骨肉の争いに比べて、司馬家はいつもわちゃわちゃと仲良しで和む。私は司馬懿の三弟・司馬孚(王東)が好きなのだが、若い頃に阿照に失恋してから、最後まで一家を構える描写がなかったので心配。幸せになってほしい。女性陣は、司馬懿の妻・張春華が劉涛(リウ・タオ)、『琅琊榜』の霓凰公主である。本作でも剣に覚えのある強い女性(強すぎるw)の役だが、愛する夫に容赦のない、粗野な田舎のおばちゃんキャラでもある。のちに司馬懿の側室となる柏靈筠(張鈞甯)との描き分けを強調するためなのだろう。

 卑賤の身から皇后となった郭照(阿照)を演じるのは唐芸昕、『隋唐演義』で覚えた女優さんで、美人ではないが愛嬌があって好きだ。ベビーフェイスなので、皇后となってからの威厳や複雑な心理を、今後どう表現できるかが気がかりではある。逆に、曹丕のもう一人の妻・甄宓を演じた張芷溪は、凛とした正統派の美人。これは誰からも愛されて当然と思ったのに、薄幸な生涯だった。

 主人公の司馬懿役は呉秀波(ウー・ショウポー)。智略に長け、行政の手腕もあるのだが、目立つことはしない。「戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷」(出典は詩経)が信条。権力者の前で、眠り猫のように背を丸め、深々と跪拝する場面が何度もあって印象的だった。でも、そうやって慇懃に振舞い、相手を立てながら、粘り強く自分の主張を通していく。泰平の世を望んでいるけれど、根本は司馬家の幸せのためというのが、最近の大河ドラマ『真田丸』や『おんな城主直虎』に描かれた国衆の姿を思わせなくもない。本作は、郭照が皇后に立てられ、曹叡(甄宓の子)が皇太子となり、司馬懿は罪を得て官職を離れ、田舎に帰るところで終わるが、『軍師聯盟』第二部「虎嘯龍吟」が着々と準備されているらしい。待ち遠しい!

 本作の魅力だが、脚本は言うに及ばず、美術が素晴らしい。武具、調度品、衣装も素敵。いろいろ美味しそうな食べものが出てくる。劇伴音楽がとてもいい。それから、ネット(主に楓林網/Maplestage.com)で視聴していたのだが、毎回「軽松一刻(ちょっと一休み)」と称して、本編の出演者によるCMが入るのが楽しかった。ネット配信ではCMがスキップされがちというけど、こういう楽しいCMなら何度でも見る。

※後編感想はこちら→『軍師聯盟之虎嘯龍吟

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中華ドラマ『射雕英雄伝』(2017年版)、看完了

2017-05-18 21:49:09 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『射雕英雄伝』全52集(2017年、浙江華策影視)

 今年1月から本国の東方衛視で放送が始まった『射雕英雄伝』(2017年版)、YouTubeに流れてくる動画を追いかけて視聴し、最終回まで完走した。うん、面白かった!

 私は2003年の李亜鵬版が大好きなのだが、さすがに記憶は不確かである。2008年の胡歌版は、昨年、GYAO!ストアで日本語字幕版を見たばかりなのでよく記憶しているが、いろいろ気に入らなかった。2017年版の総合評価は、2008年版をはるかに凌駕し、2003年版より優れた点も目についた。まず、武侠アクションをいかにカッコよく撮るかという技術は、ものすごく進歩していると思う。虚空を走ったり、重いものを持ち上げたりする特殊能力の表現だけでなく、髪をなびかせ、木の葉を巻き上げ、ストップモーションを挿入するなどの小技も。たぶん日本のマンガやアニメーションの影響も受けているのだろう。ロケに力を入れて、美しい自然風景をたくさん見せてくれたのも嬉しかった。

 主役の郭靖(楊旭文)は、現代風の髪型なのがちょっと気に入らなかったが、ほとんど取柄のない阿呆の子から、少しずつ成長していく様子に好感が持てた。終盤は漢人らしい髪型になるのだが、前半の少年っぽい造型のほうが好きだ。黄蓉(李一桐)は拗ねても怒っても、いつも靖哥哥への素直な愛情があふれていて憎めなかった。そして意外と芸達者だったなあ。途中で男装するシーンも可愛かった。

 2017年版は、主役がこの二人であることが明確で、分かりやすいドラマだったと思う。楊康(陳星旭)と穆念慈(孟子義)とか、楊康と完顔洪烈の父子関係、欧陽克(劉智揚)と欧陽鋒の秘められた父子関係など、脇の人物関係も面白いのだが、これらにかかわりすぎると物語が散漫になる(2008年版の感想)。まあ、そもそも楊康と欧陽克のキャラがかぶっていたのは残念で、どちらももう少し印象に残る魅力が欲しかった。穆念慈は美人なのだがメイクが濃くて、薄幸なヤンキーのお姉さんっぽいなあと思って見ていた。

 天下五絶の配役は大満足。東邪・黄薬師(苗僑偉)は、こわもてなのに時々性格のよさが顔を出す黄薬師で可愛かった。香港の俳優さんなのね。北丐・洪七公(趙立新)は、お茶目で父性愛と包容力が感じられてよかった。出番は少ないのに、王重陽(韓棟)がインパクトのある美形だったのも見どころ。あと老頑童・周伯通(寧文彤)は、原作からしてむちゃくちゃなキャラクターだけど、この役に説得力がないとドラマが成り立たない重要な役である。寧文彤さん、さすがベテランで悪くなかった。梅超風(米露)は2003年版の印象が強すぎて難しい役だが、頑張っていたと思う。メイクで妖しい雰囲気を出していたけど、写真を検索したら、ふつうの美人さんだった。

 序盤と終盤のモンゴル編をしっかり描いてくれたのも嬉しかった。配役もよかったが、テムジン(鄭斌輝)はシンガポールの俳優さん、ジュベ(傅天驕)は漢族の俳優さんで、主要な役にモンゴル族を使っていないのだな、今回は。バージョンによってモンゴル族の髪型や服装が微妙に違うのも興味深く、モンゴル式の住居がすごく巨大に描かれていて苦笑した。

 なお、はじめはYouTubeを使っていたのだが、途中から中国の動画配信サイト「愛奇藝」というのがあることを知って、こちらに切り替えた。このサイト、最新作から2000年頃の懐かしいドラマまで無料で見ることができ、当分楽しめそうである。いい時代になったものだ。でも、やっぱり『射雕英雄伝』と言えば、主題歌は2003年版を何度でも聞き返したくなるのも不思議。
コメント (2)
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視聴中:『射雕英雄伝』(2017年版)、『趙氏孤児案』他

2017-01-22 23:00:00 | 見たもの(Webサイト・TV)
 この週末は、あまり体調がよくなかったので、二日間とも家に引きこもって、テレビやビデオを見ていた。

■『射雕英雄伝』全52集(2017年、浙江華策影視)

 1月9日から東方衛視で放送が始まった『射雕英雄伝』(2017年版)、なんとYouTubeにすぐ流れてくることが分かってしまった。断片的な情報だと、週末に4話ずつまとめて放送されているらしく、現在、第8話までUPされている。もちろん中文字幕版だが、何度もリメイクを見ているドラマなので、全く視聴に問題はない。

 私は2003年の李亜鵬版が好きすぎて、2008年の胡歌版はどうも気に入らなかった。2017年版の主役、郭靖(楊旭文)と黄蓉(李一桐)は「新人」と聞いていて不安だったが、悪くないと思う。楊康(陳星旭)はリメイクごとに雰囲気が変わるので、正解がよく分からない。モンゴルの描写は戦闘シーンに迫力があって、とても満足。だが、やっぱり梅超風は2003年版を超えるのは難しいなあ、などが序盤の感想である。このまま、本国の放送をリアルタイムに追いかけていきたい。

■『趙氏孤児案』全45集(2013年、中国中央電視台)

 昨年暮れから、GYAO!ストアで「天命の子~趙氏孤児」と題して配信されている。舞台は中国春秋時代の晋の国。趙朔とその一族は政敵の屠岸賈によって皆殺しにされたが、生まれたばかりの幼児だった趙武は、趙朔の食客・公孫杵臼と、友人・程嬰の機転によってただひとり生き残り、成人後、趙氏の再興を果たす。「史記」や「左伝」が伝える有名な物語で、元曲や京劇でも親しまれてきた。ドラマは、医者の程嬰(呉秀波)を主人公に、屠岸賈(孫淳)との腹の読み合い、頭脳戦が前半の見どころ。屠岸賈の造形が、愛妻家であり、刻苦勉励する能吏でもあり、単なる悪人でないところが魅力的だ。

 年末の配信が16話までだったので、続きが見たくてやきもきしていたら、ようやく17~30話がリリースされ、視聴継続中である。『射雕』と比べると、当たり前だが、画面も脚本も重厚である。さすが中国中央電視台制作(日本ならNHK)というところか。

 日本のドラマも見ている。今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』は、第3話まで視聴中。のめり込むほどではないが、今のところ、女性大河にありがちなストレスはなく見ている。『精霊の守り人』第2シーズン(連続9回)も今週末から始まった。陰謀と魔術とアクション満載で、だいたい中華古装劇を見るような感覚で見ており、楽しい。あと、これらと全く異なるシリアスな現代劇をひとつだけ、NHKドラマ10『お母さん、娘をやめていいですか?』を見ている。なんだか結果的に、NHKのドラマばかり見ているようだ。
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2016大晦日・大河ドラマ『真田丸』に感謝

2016-12-31 12:43:52 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇NHK大河ドラマ『真田丸』全50回

 久しぶりに大河ドラマを完走し、12月30日の総集編もガッツリ見てしまった。まずは楽しい1年が送れたことに感謝したい。あまり期待はしていなかった。私は、これまで三谷幸喜脚本のドラマや映画を1本も見たことがなかった。世間で人気と聞くと、じゃあいいかな、と思ってしまうひねくれ者なのである。戦国時代にもあまり関心がないので、いつ脱落してもいいくらいの気持ちで見始めた。しかし、ついに脱落しなかった。

 1回1回に必ず見せ場があり、「今日は無駄」だと思った回がない。魅力的な人物が次々に登場し、ひとり退場するとその次、という具合で、1年間を通じてドラマのテンションが下がらなかった。序盤は真田昌幸を演じた草刈正雄に持っていかれたし、遠藤憲一の上杉景勝、村上新吾の直江兼続の上杉主従コンビは、最終回まで出演するのだが、『天地人』の中途半端なイメージしかなかった私には、登場当初、あ~こういう描き方があるのか!!と膝を打った。高嶋政伸の北条氏政は怪演の域。

 小日向文世の豊臣秀吉を含め、こうした先行世代が活躍(というより狼藉)をしている間、主人公の源次郎信繁(堺雅人)は、じっと彼らを見ている。慌てたり、驚いたり、事態を変えようと少し動いたりもするが、基本的には父・昌幸や秀吉の行動を見つめている(実際にそういうカットが多くて、いつも必死で何かを感じ、考えているふうな堺さんの表情が好きだった)。私は、そんなに多くの大河ドラマを見てきたわけではないが、だいたい主人公というのは、5~6月頃に「覚醒」して、ただものではない大人物に変貌するものだと思っていたので、全く覚醒する様子のない信繁は新鮮だった。信繁は、少年の頃の純粋さや、気遣いができて、少し頼りない次男坊らしさを残したまま、自然に大人の武将になっていく。総集編であらためて序盤を見直して、どこかで覚醒したわけでもないのに、変化の幅に感嘆した。

 幸村が大坂城に参ずる第41回「入城」の放映が10月16日。ここから最終回(12月18日)までの2ヶ月は、表現する語彙がないくらい素晴らしかった。戦国史に疎い私は、幸村以外の豊臣方の武将たちを、ほぼ初めて知ったのだが、当分このキャスティングの印象は上書きされないと思う。

 10年くらい前に池波正太郎の『真田太平記』を読んだときは、大阪の地理に全く不案内で、茶臼山ってどこ?という感じだった。今回はさすが大河ドラマで、『ブラタモリ』などの支援もあって、だいぶ分かるようになった。道明寺とか八尾のあたりが戦場だったことを初めて知った。「真田山」の地名が残る真田丸跡周辺も歩いてみる機会があって、とても面白かった。

 最終回の、幸村と家康の一騎打ち→幸村が馬上筒(短銃)を構える→駆けつける秀忠→幸村の自害、という結末は、史実を曲げない範囲のフィクションとして、よくできていたと思う。内野聖陽の徳川家康は魅力的だった。私は初めて家康という歴史上の人物に親近感を持った。大坂城の人々の最期は描かず(黒煙をあげる天守閣のカットまで)、幸村の死でドラマを終えるという判断は、いさぎよいドラマの作り方だと思った。ドラマ本編では、このあと、旅の途中の兄・信之の守り袋の中の六文銭がチャリンと鳴り、弟・幸村の死を暗示させる。そして、「参る」とだけ言って踏み出す信之で全編を終わりにしたのは、何かさわやかで気持ちのいい結末だった。幸村は風のように去った。しかし、領地と家名を守る真田家の戦いは続く、と言っているようで。総集編がこの部分をカットして、幸村の自害で「完」にしたのは、ちょっと納得がいっていない。

 公式サイトには、最終回放映後、時代考証の三人、黒田基樹さん、平山優さん、丸島和洋さんのインタビューが掲載されていて、興味深かった。黒田先生が「近年の戦国史研究の成果を出来る限り反映させたい」という思いで取り組み、「かなり反映させることができた」とおっしゃっているのが嬉しい。ちゃんとした歴史研究は、作家の創作に負けないくらい面白いのだよ。私は丸島和洋さんのツイッターをフォローしていて、いろいろ勉強になった。

 2016年は『真田丸』があってよかった。ドラマの関係者と、楽しい二次創作(丸絵)をSNSに流してくれた皆様、本当にありがとう。
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大人のためのファンタジー/映画・ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅

2016-12-22 22:27:56 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇デビッド・イェーツ監督、J.K.ローリング脚本『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(MOVIXつくば)

 ハリー・ポッターシリーズの作者J.K.ローリングによる新作ファンタジー。物語は、ハリーたちが活躍する70年前の1926年まで遡る。ニューヨークの港にあやしいトランクを提げた一人の男性が下り立つ。彼、ニュート・スキャマンダーは、ホグワーツの卒業生で、現在の職業は魔法動物学者。たまたますれ違った人間(マグル、米語ではノーマジ)とトランクを取り違え、さらに魔法生物が逃げ出してしまう。その頃、ニューヨークの街には、何か巨大で邪悪な謎の力が出没し、アメリカ合衆国魔法議会(マクーザ)は警戒を強めていた。議会の職員であるティナ・ゴールドスタインと妹のクイニー、ノーマジ(人間)のコワルスキーは、ニュートとともに騒動に巻き込まれていく。

 面白かった~。愛らしかったり、神々しかったり、ときには少し困りものの魔法動物の造形は、J.K.ローリングの世界ならでは。そして、それを生き生きと画面に出現させる技術も素晴らしい。邪悪な謎の力は、オブスキュラスと呼ばれる不定形な存在で、虐待され、抑圧された子供から生み出され、その子に取りつき、最後にはその子も殺してしまう(と言っていたような)。10歳以下の子供にしか取りつかないというのが、いわゆる「叙述トリック」で(以下ネタバレ)、実はクリーデンスという、たぶん少し精神的に弱い青年が宿主だったと最後に判明する。彼は前半で尊大な上院議員からののしられるのだが、字幕は「変人」でも「フリーク」という単語が聞こえて、ドキリとした。

 暴れまわるオブスキュラスに対し、ニュートが「怖がらないで!」みたいに優しい言葉をかけて近づく場面は、ナウシカを思い出した。まあ、怯えや恨みが邪悪な力を作り出すという考え方は、世界共通にありそうだけど…。というか、近代文明に共通の思想かもしれない。

 クリーデンスの養母(人間)は新セーレム救世軍という団体のリーダーで、魔女と魔法の根絶を目指している。これ、映画でも公式サイトでもあまり説明がないけど、もちろん17世紀末のセイラム(セーレム)魔女裁判を背景にしている。そしてアメリカ東海岸なら、1920年代でもこういう団体が存在して不思議ではないかなと思う。でも、さすがにアナクロなんだろうか。どうなんだろう。

 1920年代のニューヨークの風俗は魅力的に描かれていた。いま調べたら「狂騒の20年代」とか「狂乱の20年代」と言うのだな。ジャズ・ミュージックが花開き、フラッパーが女性を再定義し、アール・デコが頂点を迎える、とWikiにある。主人公のニュートと黒髪のキャリアウーマン、ティナの淡い恋もいいけれど、太っちょで人のいいコワルスキーと金髪で無駄に色っぽいクイニーの恋がステキだった。全ての魔法生物が捉えられ、オブスキュラスが排除されると、魔法議会は破壊されたニューヨークをもとに戻し、全ての人間の記憶を消すことを実行する。コワルスキーは仲間たちに別れを告げて、記憶を失う。

 数か月後、念願のベーカリーを開業したコワルスキーのもとにクイニーが現れる。この出会いはとても素敵だ。私たちは、意図的に消された記憶の底からでも、愛する人を「想い出す」ことができるのである。この映画、実は子供より大人を幸せにしてくれる作品かもしれない。

 しかし、気づいてしまったことを書いておこう。3年後の1929年には世界恐慌がやってくるのである。コワルスキーのパン屋は大丈夫かなあ。蛇足。コワルスキーというのはポーランド系の姓らしい。ゴールドスタインはドイツ系?と思ったら、ドイツ圏のユダヤ系に多いようである。
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NHKの冒険/『獄門島』と『シリーズ横溝正史短編集』

2016-12-01 22:10:20 | 見たもの(Webサイト・TV)
○NHK BSプレミアム 『獄門島』(2016年11月19日放送)、『シリーズ横溝正史短編集 金田一耕助登場!』(11月24日~26日放送)

 NHKが横溝正史づいている。と言ってもBS放送の話なので、自宅に視聴環境のない私には関係ないか、と思っていたら、11月19日はちょうど旅先のホテルで『獄門島』を見ることができた。終戦直後の瀬戸内海の孤島で、俳句に見立てられた奇妙な連続殺人が起き、復員したばかりの金田一耕助が謎解きに奔走する。…という説明が必要ないくらい、日本の推理小説の古典中の古典といえよう。犯人もトリックも分かっていても、映像化の出来栄えを確かめたくなる、今なお新鮮な魅力に満ちた作品である。

 金田一耕助を演じたのは、個性派俳優の長谷川博己。ちょっとイケメンすぎないか?と思ったが、それなりに「汚し」て「やつし」ていた。そして、このドラマの金田一耕助は「戦争でトラウマを抱え、心に空いた穴を埋めるため、取り憑かれたように事件を解明しようとする」人物と設定されており、精神的に不安定で、ときどき感情が爆発して、相手かまわず攻撃的になるあたりの演技が、さすが巧い。原作の設定をギリギリ逸脱せず、しかし解釈で魅力ある金田一耕助像を作り出した脚本(喜安浩平)と演出(吉田照幸)、そして長谷川博己の力量に唸った。

 見立て殺人はどれも映像的に美しくて満足できた。最初の殺人で了念和尚がつぶやく「きちがいじゃが仕方がない」を原作どおり言わせたことは、すぐにSNSで話題になった。私もそこは感心したのだが、なぜ「きちがいだから」でなく「きちがいじゃが」仕方ないなのか、と訝るシーンはあったかしら。それから、つぶやきを聞きとがめられた和尚が顔を覆うのを、金田一は図星を刺されて狼狽したと受け取るのだが、あとになって、金田一の見当違いを笑っていたのだと気づく、というのが原作の謎解きシーンにあったはずなのに、ドラマにはなかった。これは了念和尚の性格を表すエピソードでもあって好きだったのに。

 翌週末には三夜連続で『シリーズ横溝正史短編集 金田一耕助登場!』が放映された。私は第2回「殺人鬼」(演出:佐藤佐吉)を旅先で見て、第1回「黒蘭姫」(演出:宇野丈良)と第3回「百日紅の下にて」(演出:渋江修平)はNHKオンデマンドで視聴した。これはすごかった。ドラマは各回30分、原作の文章をそのまま朗読するかたちで進行する。紙芝居を見ているような感覚だ。映像も舞台のように実験的で象徴的だった。「百日紅の下にて」では、淫靡な男女関係が、二枚の布団のからみあいで表現されていて笑ってしまった。なぜか金田一耕助はクマ(?)のぬいぐるみを背負っているが、理由は聞かない。もう「こういう映像が撮りたかった」でいいんじゃないかと思う。雪舟の絵みたいに。

 金田一耕助役の池松壮亮は、ふわふわした空気を身にまとい、癒し系でかわいい。でもむちゃくちゃ汚い。ドラマに登場するのは、ミュージシャン、芸人、作家、モデルなどで、本職の俳優さんがほとんどいないのもこのドラマの「異世界」ぶりを際立たせている。その中で、普通に「異世界」の住人を演じている嶋田久作は相変わらずの怪優である。

 長谷川博己の『獄門島』は、いかにも次回作の期待をもたせた終わり方だったけど、私はどちらかというと池松壮亮の続編が希望だ。1年後くらいに3話くらい新作を作ってくれたらNHKに大感謝である。こういうドラマを見ると、テレビは決して「終わったコンテンツ」ではないと思う。
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中華ドラマ『琅琊榜(ろうやぼう)』を推す

2016-10-17 23:56:28 | 見たもの(Webサイト・TV)
○琅琊榜(ろうやぼう)全54集(2015年、山東影視伝媒集団)

 2015年、中国で放映されると大反響を呼び、中国版エミー賞「国劇盛典」で10冠を獲得するなど、噂は早い時期から聞いていた。日本ではCS「チャンネル銀河」が2016年4月に初放映し、2016年10月現在も深夜に再放送が進行中である。また「BSジャパン」でも平日の午前中に放映中なので、SNSにさまざまな感想が流れてくる。しかし、私はBSもCSも見られる環境ではないので、YouTubeで中文字幕版を探し当てて、視聴することにした。

 物語の舞台は中国の南北朝時代をモデルとした架空の国「梁」である、という情報は視聴前から聞いていた。中国の古装劇(時代劇)としては珍しい設定だと思ったが、私が詳しく知らないだけかもしれない。しかし、時々あるトンデモ古装劇に比べると、衣装もセットも登場人物の所作も、むしろリアルな「古色」が感じられて、物語世界にすぐに馴染んだ。

 梁国には、かつて大きな動乱があった。林燮(りんしょう)将軍の率いる精鋭七万人の赤焔軍が、突如、謀反の罪を疑われ、皇帝の軍に殲滅された。皇帝の長男・祁王は、首謀者と目されて自害を命じられ、祁王の母親・宸妃も自ら命を断った。それから12年。皇帝は老い、宮廷では皇太子と異母兄弟の誉王が後継者争いをしていた。誉王は「麒麟の才子を得た者、天下を得る」という予言に従い、「麒麟の才子」と呼ばれる梅長蘇(またの名を蘇哲、江湖の勢力・江左盟の宗主)を梁の都・金陵に招き入れる。

 梅長蘇の正体は、林燮の息子・林殊だった。彼は誉王を補佐すると見せかけて、信頼できる靖王を擁立し、赤焔軍と祁王府の人々の名誉回復のために知力をしぼる。しかし、彼の身体は毒に犯されており、残された時間は少なかった――。

 というような設定なのだが、皇子たちの皇位継承争い、官場の政治闘争、後宮の女性たちの暗闘、さらに滅びた異民族「滑族」の再興の願いとか、いろいろなステークホルダーが複雑に絡み、憎むべき敵であっても婚姻や血縁や師弟関係で結ばれていたり、善悪の描き方が陰影に富み、ずっと飽きさせない。ストーリーの流れも、緊迫した頭脳戦とダイナミックな肉弾戦(剣戟)が交互に配置されている。弁舌で戦うシーンは、かなり早口で、私の中国語能力だと字幕がぜんぶ読み切れなくて苦労した。実は今、もう一回見直しているのだが、あらためて気づくことがいろいろある。

 主人公の梅長蘇役は胡歌(フーゴー)。『射雕英雄伝』2008年版を見た直後だったのだが、こっちのほうが数倍、いや数十倍よいと思った。男前のヒロイン・霓凰郡主は劉濤(リュウタオ)。どこかで見たと思ったら、胡軍版『天龍八部』の阿朱を演じた女優さんではないか! え~変わらないなあ。飛流を演じた呉磊(ウーレイ)くん可愛い。まあ個人的に一番好きなのは、禁軍大統領の蒙摯(蒙大統領)ですね。中国語で「史上最萌大將軍」って言われているのを見つけて、笑ってしまった。陳龍(チェンロン)覚えておこう。私は、悪役の誉王がけっこう好きで、言侯、謝玉、黎綱、高太監など、やっぱり中華ドラマはおじさんがいい。もちろん女性も、若者も、と言い始めるときりがないのでこのくらいにしておく。

 日本語版のドラマサイトは「『半沢直樹』を超える激烈な復讐劇」とか「壮絶な宮廷復讐劇」を謳い文句にしているが、梅長蘇こと林殊が目指したものは「復讐」とはちょっと違う気がする。中国語字幕では「昭雪」という動詞を見た。反乱が事実無根であったことが皇帝によって天下に布告されること、祖先の位牌を奉じて堂々と家の祭祀を行えるようになることが、仇敵に対する復讐よりも、もっと重要なのである。この感覚は、私も少し分かる。きっと中国人(中華系)なら強く共感するのだろう。ドラマでは、悪人も自分の子供(特に男児)には強い愛着を示し、周囲もそのことに惻隠の情を抱く。あれは西欧的な親の愛情とは、ちょっと違うのではないのかな。中国の伝統文化における「家」の存続の重みを強く感じた。

※参考:架空歴史的《琅琊榜》都有哪些朝代的影子?(中文)

 ドラマの時代設定に関し、興味深かった解説は上記の文章。孔笙介監督によれば、服飾は「唐朝の前」、道具は「宋朝」、礼儀は「漢唐を主」にしたそうだ。劇中の梁国は、皇姓が蕭、帝都が南京(金陵)であることは南朝の梁国に似る。中央官制は明朝の三省六部制を参考にしており、皇帝直属の監察機構である懸鏡司は、明朝の錦衣衛に似ている、という指摘は、いちいち腑に落ちた。しかし、南京なのに、あんなに雪が多くて寒々してるのか~。

 私は、日本のドラマにない中国ドラマの「ゆるさ」(荒唐無稽さ)が好きだったのだが、この作品に限っては、そういう中国風味が全くない。世界中どこに持っていっても視聴者の心を捉える作品だと思う。中国ドラマのエポックメイキングな変化を感じる。

※チャンネル銀河:琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~(公式)
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破壊の爽快感/映画・シン・ゴジラ

2016-08-14 09:57:44 | 見たもの(Webサイト・TV)
○庵野秀明脚本・編集・総監督『シン・ゴジラ』(TOHOシネマズ流山おおたかの森)

 話題の『シン・ゴジラ』を見て来た。爽快感があって面白かった。それ以上に、これでさまざまなネタバレ批評を心置きなく読めると思ってホッとした。実はこの映画、私が初めて見た怪獣映画である。1970年代、テレビの特撮物は大好きだったのに、超人の出ない怪獣映画には興味がない子どもで、そのまま大人になってしまった。初代『ゴジラ』に関しては、さまざまな解釈や批評を読んできたが、実は原典を見ていないのである。

 『シン・ゴジラ』についても、セリフの量が異常に多くて会議の場面が多いとか、庶民の姿があまり描かれないとか、小池百合子似の防衛大臣と甘利明似の大臣が出るとか、ゴジラは野村萬斎のモーション・キャプチャーであるとか、その程度の情報は(求めなくても)入ってしまっていた。

 しかし、始まってすぐ画面に全身を表すゴジラ第二形態には意表を突かれた(第一形態は尻尾のみ映る)。瞳の小さい大きな目。笑っているように大きく開いた獰猛な口。吾妻ひでおのマンガっぽい。無様に這いずりながら多摩川を遡行する姿は、ゴジラとは全く別の怪獣だった。あとで立ちあがった第三形態、第四形態のゴジラの圧倒的な強さより、私は第二形態のほうが夢に見そうで怖かった。全然忘れていたけど、埼玉県鶴ヶ島市の脚折雨乞(8年前に見た)の龍蛇、一部で騒がれていたように、確かに第二形態に似ている。あと、水面に隠れたゴジラが、ボートや車や建造物の残骸を巻き込みながら川を遡行してくる姿は、どうしたって東日本大震災の津波の映像を思い出させた。

 この映画の見どころは、現在の日本にゴジラ(巨大不明生物)が現れたら、という想定で、閣僚・官僚・自衛隊の対応がリアルに描かれている点だと言われている。確かにセリフが容赦ない霞が関用語でできているので、字幕がほしいと思うときはあった。「自由」?と思って続きを聞くと「事由」だと分かるとか、気が抜けない。しかし官僚って、四六時中あんな調子でしゃべっているのか?と呆れたが、取材に基づくというから、そうなんだろうなあ。なお、私は、そんなことより、ゴジラの圧倒的な巨大さ、自衛隊の攻撃も米軍の攻撃も、ものともせずに撥ね返す強さが爽快だった。あまり(擬人化された、分かりやすい)怒りを露わにしないところに凄みがあってよかった。

 私は、ゴジラに血液凝固促進剤を飲ませる「ヤシオリ作戦」の意味が不覚にも分からなかった。あとでヤマタノオロチに飲ませて眠らせた「八塩折之酒」に由来すると知って、なるほど~と唸った。どちらかというと、福島第一原発事故のとき、消防車で水を注入したことを思い出していた。同時に、あれは結局、根本的な解決にならなかったなあ…という記憶があったので、ゴジラは、こんな人間の浅知恵を蹴散らして、もう一度起き上がるんじゃないかと思ったら、起き上がったところで、あっさり凍りついてしまったので、拍子抜けした。

 この映画、現政権のプロパガンダだとか、いや政権批判の立場だとか、いろいろ議論もあるそうだ。私はどっちでもいい。主要閣僚がゴジラの一撃で全員死亡してしまうのは、なかなかブラックだと思った。国会前(官邸前?)のデモらしきものが一瞬、遠景に映るが、これは意図がよく分からなかったところ。不眠不休の官僚たちの奮闘を際立たせるための対比なのかな? 一般庶民が自分たちの声を上げている唯一の場面とも言える。リアリティを追及しているようでいて、物事を決めるのは閣僚会議ばかりで、議会や議員が全く描写されないのは不思議。しかしこれが今の日本人の平均的認識なのかもしれない。

 あと天皇と皇室をどうするか、という描写もない。今の皇室一家を念頭に置きながら、あの混乱の中で避難はされたのだろうか、と案じてしまった。何しろ、ゴジラと自衛隊が最後の死闘をくりひろげるのが東京駅で、目の前が(映っていないけど)皇居だから気になったのだ(気になって調べたら、1954年のゴジラも皇居すれすれを通過していたことが分かった)。

 野村萬斎のゴジラであるが、とにかく姿勢がいい(笑)。全くきょろきょろせず、上半身を動かさずに摺り足で動いていく。下半身が袴を穿いたようにふくらんでいるし(自重を支えるためにそうなるのだろう)、背景に能舞台の松の絵(鏡板)が見えてくるような感じだった。あとは高橋一生さん演じる文部科学省の官僚(安田)がキュート。絶対、平時はダメ官僚なんだろうな、と想像できる。
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中華ドラマ『射雕英雄伝』(2008年版)、看完了

2016-08-01 20:00:26 | 見たもの(Webサイト・TV)

○『射雕英雄伝』全50集(2008年、上海唐人電影)

 GYAO!ストアの配信を見始めた当初は、どうしても2003年版(李亜鵬・周迅版)と比較すると好きになれなくてイライラした。これは最後まで視聴を続けられないのではないかと思って、途中で記事を書いたりしたのだが、無事、最終話まで見終わった。旧版との比較で、こんなの○○じゃない!と怒っていたキャラクターにも、だんだん愛着が湧いてきて、終盤はけっこうハマっていた。平日はなかなか落ち着いて視聴できないので、休日に3~4話、まとめて見てしまうこともあった。

 原作はよく覚えていない(日本語訳を読んだはず)のだが、明朗一辺倒のストーリーでなかったことは確か。多くの登場人物が、生まれる前の因縁とか一度の過ちにとらわれて、行動の自由を奪われている。にもかかわらず旧版では、李亜鵬・周迅が演じた郭靖・黄蓉の朗らかで天然な雰囲気が、モンゴル高原の高大な風景と相まって、爽快で闊達な気分を与えてくれた。それに比べると新版の郭靖・黄蓉は、ずっと悩みどおしの印象がある。「ともに生き、ともに死のう」と何度も繰り返し、確認する。最後に頼れるのはお互いしかいない、という孤独感。その最愛の相手とさえ、障害が多くて、なかなか一緒になれない。中国の社会状況(特に若者が感じている閉塞感)の表れかもしれないなあ、と少し深読みしていた。

 楊康は、とことん闇落ちするのが印象的だった。確か旧版では、ここまで引っ張らず、これほど印象的なキャラクターではなかったと思う。最後は改心して、短い間、妻の穆念慈と心穏やかな日々を送り、欧陽鋒が息子の復讐に現れると、自分の罪をつぐなうため、命を投げ出す。そして穆念慈も黄蓉も、最初は好きになった男性に翻弄され、嘆いたり嫉妬したりするだけの弱い女子なのだが、次第に凛々しく思慮深く、自立していくのが好ましい。この点は、ドラマを最後まで見てよかったと思う。あと欧陽克と完顔洪烈(金の趙王)も次第に描き方が変わっていく。どちらも、旧版の俳優さんのほうがカッコよくてよかったなあと思って見始めたが、だんだん新版の田舎臭さも好きになった。

 チンギス・ハーンは旧版のほうが最後まで英雄らしくていい。新版で、郭靖に「民を養う者こそ真の英雄」なんて説教されるのはちょっとなあ。コジン(華筝)公主は新版のほうが可愛くて、郭靖に振られてしまうのは、ちょっと可哀相だった。新版と旧版では、モンゴル人の風俗の描き方(髪型・服装)が微妙に違うのだけど、どちらが史実に近いのだろう? 新版もかなりいい加減な感じがして、よく分からなかった。

 洪七公役の梁家仁(レオン・カーヤン)は巧い俳優さんだということがよく分かったが、やっぱり旧版の孫海英のほうが好きだ。黄薬師も黄秋生(アンソニー・ウォン)より旧版の曹培昌のほうが好きなのは、古い中国人の顔とたたずまいが感じられるからだ。香港の俳優さんだと、どんなに魅力的に演じても、現代人がそこにいるとしか思えない。しかし、大陸の俳優さんも、これから変わっていくんだろうなあ(日本のエンタメ界と同様に)と思うと、少し淋しい。

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