「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「名曲斬り込み隊」を読んで

2024年03月16日 | 音楽談義

週一度の図書館通いでたまたま目に触れて借りてきたのが「宮本文昭の名曲斬り込み隊」。

                           

「宮本文昭」さんといえば著名なオーボエ奏者だが、世に名曲の解説本は多いものの、実際に演奏する立場からの視点による解説本は意外と少ないのが実状。

また、オーボエという楽器は管楽器全体を引っ張っていく存在だから、そういう視点からのアプローチも面白そうなので読み始めたところ、つい引き込まれて一気読みしてしまった。


本書で取り上げてある名曲は以下の8曲。

 モーツァルト「ディヴェルティメントK.136」  「協奏交響曲K.364」、  
チャイコフスキー「交響曲第5番」、  ベートーヴェン「交響曲第3番英雄」、 5 ブラームス「交響曲第1番」、  リムスキー・コルサコフ「シェラザード」、  マーラー「交響曲第9番」、  ブルックナー「交響曲第8番」

いずれも比較的ポピュラーな曲ばかりだがいくつかピックアップしてみた。

のK・136はオペラなどの大曲を除くとモーツァルトの中で一番好きだと言ってもいいくらいの曲。トン・コープマン指揮の演奏がダントツにいいが、本書でもコープマンのCDが紹介してあった。

                    

この曲では特に第二楽章が好みだが「悲しいというのではないんだけど晴れやかでもない、そこはかとない哀しみが漂う、これまた名曲です。」(本書35頁)と、あるがたしかにそう思う。

「モーツァルトの哀しみとは何ですか?」と問われて、それを言葉で表現しようなんてとても無理な相談だが「それはK・136の第二楽章を聴けば分かりますよ」というのが、まっとうな解答というものだろう。

言い換えると、この曲を聴いてもし感銘を受けなかったら、その人はモーツァルトと縁がないとあきらめてもらうしかない(笑)。

ケッヘル番号が136と非常に若いが、わずか16歳のときの作品だというからやはりミューズの神が与えた天賦の才には、ただひたすら頭(こうべ)を垂れるほかない。


は正式には「ヴァイオリン、ヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲」(K・364)というが、これまた大好きな曲で、宮本さんとはとても波長が合う。いろんな演奏者を聴いてみたが、最後は五嶋みどり(ヴィオリン)さんと今井信子(ヴィオラ)さんのコンビに落ち着く。
                      
                 

取り分け第二楽章については「深い憂愁につつまれた楽章だ。23歳のアマデウス先生が希望に胸を膨らませて向かったパリで失意を味わい、”もののあわれ”を知ってしまったのだろうか。モーツァルトが全作品の中でもめったに見せたことのない、ほとんどロマン派と見まごうばかりの彼のプライベートでセンチメンタルな一面が垣間見れる。」(本書210頁)

ヴァイオリンとヴィオラの優雅な絡み合いの何とも言えない美しさに不覚にも目頭が熱くなってしまう。この辺の微妙な表現力となると「AXIOM80」の独壇場で魅力全開である。

五嶋さんも今井さんも楽器は「グァルネリ」だというが、日頃よく耳にするストラディヴァリよりも美しく聴こえるので、(AXIOM80とは)相性がいいのかな~。


次に3、4、5、6、7は割愛して最後ののブルックナー「交響曲8番」についてだが、これは周知のとおり1時間半にも及ぶ長大な曲で、著者(宮本氏)が高校時代に毎日繰り返し聴いて感銘を受けた曲とのこと。

プロの演奏家になった現在では分析的な聴き方になってしまい、高校時代のように「あ~、いい曲だなぁ」と音楽に心を委ねきることが出来ないと嘆いておられる。


これはほんの一例に過ぎないが、総じてこれまで自分が見聞したところによると純粋に音楽を心から楽しもうと思ったら「音楽を商売」にしないのがいちばんのような気がしてならない(笑)。

ブルックナーについては、天下の「五味康祐」さんが次のように述べている。

「ブルックナーの交響曲はたしかにいい音楽である。しかし、どうにも長すぎる。酒でいえば、まことに芳醇(ほうじゅん)であるが、量の多さが水増しされた感じに似ている。これはブルックナーの家系が14世紀まで遡ることのできる農民の出であることに関係がありそうだ。都市の喧騒やいらだちとは無縁な農夫の鈍重さ、ともいうべき気質になじんだためだろう」(「いい音、いい音楽」)

さて、ブルックナーの8番はチェリビダッケの指揮したCDを持っているが、これは超絶的な名演とされる「リスボン・ライブ」盤(2枚組:1994年4月)である。
                      


おいそれとは簡単に手に入らない稀少品だったが、近年「復刻」されて堂々と販売されているので、一気に値打ちが下がってしまったが(笑)、いかにもブルックナーらしい堂々とした重厚感にあふれる曲目である。

本書は演奏家、指揮者の視点からの分析もさることながら、著者の音楽への愛情がひしひしと伝わってくるところが実にいい。クラシックの愛好家でまだ読んでいない方は機会があれば是非ご一読をお薦めしたい。

 


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「上り坂」「下り坂」そして「まさか」の坂

2024年03月15日 | オークション情報

歴代総理の中でかなり個性的だった「小泉純一郎」氏・・、あの「田中真紀子」さんから「変人」ともいわれてましたね。自分に言わせると、両方とも「変人」だけどね~(笑)

小泉さんは大のクラシック好き、とりわけオペラ・ファンとして知られていたが、ある時テレビで「人生には上り坂と下り坂、そして まさか という坂がある」と笑いながら言っていたのを憶えている。

つまり、人生には「まさか」という予想外のことが起こることを揶揄したものだが、このほどその「まさか」を ささやか ながら2件経験したので述べてみよう。

所詮は、小さな戦場の「オーディオ」がらみですけどね~(笑)。

まずは、古典管から行こう。

つい先日のオークションで狙いをつけた真空管があった。大きさや重さが際立つものはどんな掘り出し物でも敬遠するが、真空管となると実に買いやすい・・、家人が気付かないうちに収まりやすいからね~(笑)。



タイトルは「LS8ナス管(STC3A/109Bの互換球)」とあった。見た目からして新品同様でスタート価格は1万円・・。

このところ愛用中の我が家の「LS7」シングルアンプに合いそうなので、2万円ぐらいならチャレンジしてみようかな~。



現在、出力管として挿っているのは「3A/109B」(STC)だが、別途保管している「LS7」(GEC)と合わせて2ペアしかないので、予備としてあと1ペア欲しいところ。

3ペアあれば大船に乗った気分で音楽に浸れる(笑)。

ちなみに、「3A/109B」、「LS7」ともに「2万円前後」(ペア)で購入した記憶がある。

ところが・・、この「LS8」がまったく予想外の価格(3月12日)で落札されたことに心の底から驚くこととなった。

もったいぶらずに明らかにすると何と「10万円」!! 

「まさか」の高額に仰天しましたぞ・・、「ナス管」人気なのかなあ・・。

もちろん、指をくわえて見逃しました・・、しがない年金暮らしだし、楽しめる時間もあまり残ってないし~(笑)。

でも熱心な真空管ファンの存在に思わず胸が熱くなりました、貴重な同士ですからね~。

次いで、二つ目の「まさか」に行こう。

まったく売る気は無いんだけど、オークションでの相場が気になるのが我が家の大型スピーカー「ウェストミンスター」・・、重量が100kgを超える代物である。

内部を勝手に改造しているので、もはや「二束三文」だろうが、やはり(相場が)気になる・・、ほら、売る気はないんだけど何となく自宅の土地の価格の相場が知りたい心境と似てますね~(笑)。

で、このウェストミンスターがオークションに出品されていたのでさっそく追跡した。



これまでの相場は程度の差にもよるがおよそ「100万円」前後である。

ちなみに、メル友の「K」さん(横浜)によると、「仮にどんなに安くても置き場がありません、もし購入したとしてもカミさんから叩き出されます」とのことで、かなり購入層が限られることはたしかである。

まず「マンション住まい」は無理でしょう・・。

で、その落札価格(2月21日)だが、何と「531,952円」という超安値だったのには驚いた。

およそ相場の1/2・・、「まさか」の低額に仰天しましたぞ!!

どういう風の吹き回しだったのだろうか・・。

いくらオークションが「生き馬の目を抜く世界」といっても、日頃からこまめにチェックしていると時々こういう「真空状態」が生じるんですかね~。

ただし、このスピーカーから満足のいく低音を出すためには思い切った改造が必要です。

落札者に告ぐ・・、あなたにそういう勇気がありますか?

どうか「宝の持ち腐れ」になりませんように~(笑)。



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ミステリーの快作

2024年03月14日 | 読書コーナー

気象庁の季節区分によると、「12月~2月」が冬、「3月~5月」が春、「6月~8月」が夏、そして「9月~11月」が秋・・。

つまり、季節の変わり目は12月、3月、6月、そして9月ということになり、オーディオでいえばクロスオーバーということで二つのユニットの音(季節)が混在する節目に当たる~、言い換えると どっちつかずですっきりしない ともいえる(笑)。

で、何が言いたいかというと、現在はれっきとした春だけどいまだに寒くてやたらに太陽が恋しくなる。

つい日光浴をしながら読書三昧~(笑)。

で、たまたま読む機会があったのが「蒼天の鳥」。



令和5年(昨年)の「江戸川乱歩」受賞作だし、装丁も洒落てるし、いやが上にも期待が高まってワクワクしながら読み始めたものの、だんだんと「何じゃこれは・・」、さっぱり面白くないのだ。

読者を引きずり込むような息もつかせぬ展開、そして軽快なリズム感や熱気がさらさら感じられない。

オーディオでいえばまるで「蒸留水」のような味気ない音・・(笑)。

その一方では、「ふ~ん江戸川乱歩賞も落ちたもんだねえ・・」、と何だか悲しくなった。

新人ミステリー作家の登竜門として、過去に幾多の優れた作家を輩出しているし、賞金1千万円も大きな魅力。

たとえば、今や押しも押されもしないほどのベストセラー作家「東野圭吾」さんもずっと昔に「放課後」で受賞されている。

そうそう、東野さんといえば、現在カナダに亡命している香港の民主活動家「周庭」女史を想い出す・・、この人は日本語がペラペラだそう。

彼女が香港警察の獄中にあるとき「東野さんの本を20冊あまり読みました」とのことで、さもありなん・・、とにかくハズレが少なくて、どれもが面白い~。

話は戻って「江戸川乱歩賞」受賞作って、こんなにレベルが下がったのかといささか心配になって近年の受賞作をググってみたところ、図書館の在庫とマッチしたのが「わたしが消える」。

令和2年の受賞作だからまだ ほやほや といっていい。



そして、期待と不安が交々(こもごも)で読み始めるとこれがメチャ面白い!

認知症になりかけの元刑事が、死別した妻との間に出来た一人娘(介護施設で研修中)の依頼をうけて、ある「痴呆老人」の身元を探ると、これがとんでもない過去の持ち主だった。

正体を探っていくにつれ、関係者が次々に殺されていくのだからよほどヤバイ人物のようだ・・。

ハイ、息もつかせず1日で読み切りました(笑)。

同時に「乱歩賞」健在ということでひと安心~。

ネットから「読者レヴュー」を二件ほど拝借。

☆ 「江戸川乱歩賞受賞作という帯を見ると読みたくなる性質で、初読みの作家さんと出会う。訳ありで刑事を辞めてマンション管理人をしている主人公の藤巻は軽度の認知症状が出始めていることを病院で知らされるところから始まる。

離婚した妻と暮らしていた介護を学ぶ大学生の娘から、研修先の施設に置き去りにされた老人の身元を調べてほしいと依頼される。謎の老人について探るうちに事件に巻き込まれていく。認知症進行への不安、距離のあった娘との関係修復、深まるミステリー、一気読みでした。やはり、江戸川乱歩賞に間違いなし。」

☆ 「あまりミステリーは読まないものの、本の検索中に引っ掛かりがあり手に取った一冊。 さすが「江戸川乱歩賞」受賞索引だけあってエンターテインメント性があり楽しく読めました。 何しろ読みながら次の行動の展開を予想しているとその通りになる!期待通りで「ミステリーはこうでなくちゃ」の面白さでした。 唯一裏切られたのは最終章、これで読後感の良さが増したように思います。 佐野広実さん索引は初めてでしたが、また読んでみたい。」

以上のとおりだが、作者の「佐野広実」さんは上から目線の物言いになるが「才能あり」ですね。次作もぜひ読んでみたいです~。


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音楽って何だろう? 音っていったい何だろう?

2024年03月13日 | 音楽談義

音楽ってなんだろう? 音っていったいなんだろう?

こういう根源的な問いに対して明確な回答は望めないとしても少なくとも手がかりらしきものを与えてくれるのが「武満徹・音楽創造への旅」である。



とはいえ、内容を一括りにして表現するのはブログ主の手に余るので、(武満氏の)音に対する考え方が一番如実に表れていると思う「海童道祖と“すき焼き”の音」(467頁)の箇所から引用してみよう。

海童道祖(わたづみどうそ:1911~1992)は単なる尺八演奏家に留まらず宗教家にして哲学者だが、武満氏と小さな座敷で同席して名曲「虚空」を聴かせるシーンの叙述である。

「目の前にはスキヤキの鍋があってグツグツ煮えており、外はダンプカーなどがバンバンと走ってうるさいことこの上ない。そういう環境のもとで、尺八の演奏を聴くうちに、僕はいい気持になってきて、音楽を聴いているのか、スキヤキの音を聴いているのかダンプカーの音を聴いているのか分からないような状態になってきた。

それらの雑音が一種の響きとして伝わってくると同時に尺八の音色が前よりもくっきりと自分の耳に入って来る。演奏が終わって海童氏が“武満君、いま君はきっとスキヤキの鍋の音を聴いただろう”と言われたので“たしかにそうでした”と答えると、“君が聴いたそのスキヤキの音がわたしの音楽です”と言われる。

ぼくは仏教とか禅とかは苦手で禅問答的な言い方はあまり好きじゃないのですが、そのときは実感として納得しました。」

つまり、音楽の音の世界と自然音(ノイズ)の音の世界が一体となっている、そこに武満氏は日本の音楽の特質を見出す。

海童同祖は重ねて次のように言う。

「法竹(修行用の尺八)とする竹にどんな節があろうが、なにがあろうがいっこうに差支えない。物干しざおでも構わない。ほんとうの味わいというのは、こういうごく当たり前のものに味があるのです。ちょうど、竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音、それは鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音であって、それが自然の音です。」

さらに続く。

「宇宙間には人間の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類、山川草木たちの音階があります。宇宙はありとあらゆるものを包含した一大響音体なのです。どんなノイズも、クルマの音も、私たちが喋っている声も我々には同じ価値を持っている。それぞれに美しさがあります。いわゆる調律された音だけではない音たち、それから音のもっと内部の音、そういうものに関心があります。つまり音楽の最初に帰ろうとしてい」るわけです。

以上のことを念頭におきながら昨日2枚のCDを聴いてみた。
         

いきなりこういう音楽を聴くと、これまでの西洋の音楽、つまり「旋律とリズムとハーモニー」にすっかり麻痺してしまった耳にとって違和感を覚えるのは当たり前だが、これから繰り返し繰り返し聴くことによって、はたして耳にどう馴染んでくるのか楽しみなことではある。

最後に耳よりの話を一つ。

映画音楽についてだが、時代劇の「濡れ場」のシーンによく尺八の音がバックに流れる事があるのにお気づきだろうか。

エロティックな映像が尺八の虚無的な響きと一体となり、やがて哲学的な雰囲気となって、いかにも芸術へと昇華されていくような気にさせるので、まことに日本映画らしい趣だと感じ入っていたところ、こういうシーンでの尺八の起用はどうやら武満氏の発案のようなのである。

時代劇「暗殺」に起用され、武満氏から即興演奏を任された横山勝也氏(尺八)は次のように語る。(468頁)

「体当たりで演奏しましたよ。たとえば丹波哲郎扮する清河八郎が囲っているお蓮という女性がいるんですね。それを岩下志麻さんが演じているんです。清河八郎が初めて人を斬ったときものすごく興奮して、お蓮の家に駆け込んできて、すぐ蒲団を敷かせ、帯をとかせて<オレはいま人を斬ってきた>といって蓮を激しく抱くというシーンがあるんです。

ちょっと長いそのシーンを尺八だけでやるんです。あんな激しい場面に合う既成の曲なんてまったくありません。とにかく音は出しましたが、無我夢中でどんな音を出したかまったく覚えていません。」

~でも武満さんはあのシーンの音楽を凄く気に入っていたようですよ。ああいうのは何度かやってるんですか。

いいえ、ほとんど一発でした。はじめに一回観て、次にもう一回流して、それを見ながらリアルタイムで音を乗せちゃうんです。ほとんどNGなしで一発で決まりました。」

というわけだが、シリアスな時代劇やドラマでも「尺八」の音が聞こえるとつい「濡れ場」を連想するクセがついてしまったようで・・、これはイカン、イカン(笑)。



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アナログ or デジタル

2024年03月12日 | オーディオ談義

音響の世界にデジタル系(CD)が登場したのが1980年代初頭だから早いものでもう40年になる。

当時はアナログ(レコード)の方がいいとか、いろいろ詮議がなされていたが、今となってはデジタルも「ハイレゾ化」などの進展を見せてすっかり馴染んできているように思える。

「不毛の論議は止めてそれぞれ楽しめばいいんじゃない・・」という風潮に逆らうわけではないが、ブログ主にはいまだに気になっていることの一つがそれ。

というのも、それまで圧倒的にレコード派だったのが、CDの登場とともにレコードを含めてプレイヤーなどを処分したものの、それがはたして正しかったのかどうか・・。

先日(2月29日)、福岡からお見えになったNさんはDACが「マークレヴィンソン」、そしてレコード・プレイヤーがトーレンスの「リファレンス」の高級機器をお使いの方なので、そっと訊いてみた。



「現在、主にどちらをお使いですか?」

「はい、DACは常時スイッチを入れて温めていないとすぐにいい音を出してくれません。それで主にレコードを聴いています」

「なるほど・・、我が家のDACも常時スイッチを入れっぱなしですが、最新機器は消費電力が僅か5ワットですから助かってますよ。」

はからずも、デジタル機器の脆弱性が露呈されたわけだが、肝心の音質の比較については議論が進まなかった。

ここで、いきなり時代が遡って13年前(1月)の記事を加除修正しながら復刻してみよう。

「これまで鳴り物入りで展開されてきたテレビの「地上デジタル」方式への切り換えがいよいよ今年の7月24日〔日)へと迫ってきた。

あと半年ということで刻々とタイムリミットが近づいているが、その切り換え状況の現在の進捗率は全国でおよそ90%という。

我が家の場合は現在5台のテレビのうち4台が地デジ対策完了済みなのでどうにか平均レベル。

つい最近、食堂の小さなテレビ(13インチ)に地デジチューナーを接続したが、なかなかきれいな画像。

これまでのアナログ画像にもそれほど不満を抱かなかったが、こうして比べてみるとデジタル画像の優秀さはつとに明らか。

100人中、100人ともがアナログ画像よりもデジタル画像のほうが「ずっといい」と、きっと言うに違いない。

ところが、これが「音質」となると少々話が違ってくる。

いまだに「CDの音」(デジタル)よりも「レコードの音」(アナログ)のほうが「いい」という方が沢山いるのは一体どうしたことだろうか?

実際に身の回りの友人、知人のうちいまだにレコードを熱心にやってる人が数多くいるのでその辺の状況は身につまされるほどよく分かる。

デジタル「画像」の優劣に比べて「音質」ではどうしてこうもはっきり差がつきにくいのかホントに不思議。

そもそも「画像」と「音質」とでデジタル技術の完成度は違うのだろうかなんて素朴な疑問が湧いてくる。

まず「画像」の場合はたとえば被写体に人間を例にとると、顔色の自然さとか髪の毛の1本1本がどれだけ鮮明に写るかなど優劣の判断基準が比較的しっかり把握できるのが大きなメリット。

ところが「音質」となると「良し悪し」の明確な基準がしっかりしておらず、各人の好みも手伝ってその差が分かりにくいところにも一因がありそう。

そもそも「目」と「耳」の機能に違いがあるのも一考すべき余地があり、もしかして耳の方が目よりもシビヤなのかもしれない・・。

オーディオ仲間で物識り博士のMさんにズバリ訊いてみた。

「仮定の話ですが完璧に調整されたアナログの音と同じく完璧に調整されたデジタルの音では果たしてどちらが音がいいんでしょう?」

「理屈ではデジタルのほうがいいに決まっているが、CD発足のときにフォーマットとかが専門家不在のままあまり煮詰めないでスタートしたため、いまだに不完全さを引き摺っているなあ。現実的には今のところ完璧に調整されたレコードの音の方が一枚上なんじゃない。」

「ただし、完璧に調整されたといってもアナログでホントにいい音を出そうと思ったら中途半端なお金では無理。もし同じお金をかけるのならCDのほうが断然有利だろうね~。」

結局、アナログにしてもデジタルにしてもいい加減のところで妥協せざるを得ず、現時点で論争に終止符を打つことは無理のように思える。

とにかくこの分野については「百家争鳴」でいろんな議論があろうが、自分のような過去のオーディオの全盛時代を知る人間にとって、今日の惨憺たるオーディオ人口の現状は実に淋しいものがある。

「電気回路を利用した機器で芸術を鑑賞する」という、無機的な機械と芸術のコラボレーションが出来る役割を担ったオーディオは、ずっと「キング・オブ・ホビー」〔趣味の王様)と呼ばれてきたが今では悲しいことに「死語」になりつつあるようで近年ではとんとそういう言葉を聞かない。

こと、ここに至った原因のひとつに「レコード」から「CD」に移り変わって音に味わいが少なくなったことも挙げられるように思う。(註 我が家ではその辺を古典系スピーカーと古典管アンプでカバーしているつもり~)

たとえばレコードが再生できる周波数レンジは最高域にかけては際限が無いがCDが再生できる周波数レンジは最低域の20ヘルツから最高域の2万ヘルツと枠にはめられている。

先日読んだ音響関係の本に「人間の耳は2万ヘルツ以上の音を聴き取るのは難しいが、その替わりに皮膚がその役割を果たしており2万ヘルツ以上の情報を感じ取って脳に伝えている」と書いてあった。

これからするとオーディオ装置と向き合うときは出来るだけ肌を露出して聴くのがいいようで、その点夏場なんかは最適のはずだが・・。

とにかく「音の世界」はまだまだ分からないことが多い。

「音」がいまだに科学的によく解明されていないものだから、オーディオに至っては「いい音」を得るためにそれこそいろんな迷信めいたものが存在するのも故無しとしない。

ときどき「イワシの頭(かしら)も信心から・・」というケースを見かけることがあるのだが、本人が楽しくさえしていればそれが一番なのかもねえと思う(笑)。



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こんな音のどこがいいんだろう

2024年03月11日 | 独り言

「ウヮ~ッ、汗臭い!」

午後のウォーキングから自宅に帰って家人とすれ違ったとき、つい外方(そっぽ)を向かれてしまう時季がそろそろやってくる。

「たかが汗の匂いなんかで、ガタガタ言うな!」と一喝してやりたいところだが、どこで陰湿な「復讐劇」が待っているか分からないので我慢、我慢・・(笑)。

さて、この「匂い」というもの、たとえば閉め切った部屋の中で「嫌な匂い」を消臭剤や空気清浄機で半分まで減らしたとしても、私たちは「あぁ、半分の匂いになった」とは感じない。

「ほとんど変わってない」あるいは「やっぱり匂う」と感じてしまう。実は「半分になった」と感じるためには、「匂い」の90%を除去しなければならない。

「音」だってそう。

私たちはかすかな「虫の音」と「コンサートの大音量」を同じように聞く〔感じる)ことができる。もし人間が音量の絶対値を感じとることができるとすれば、「虫の音」は小さい音量なので感じ方も小さく、コンサートの大音量であれば感じ方も大きいことになるが、実際にはそうではない。

音の大小にかかわらず感じ方〔感覚)は同じで、小さい音も大きい音も同じように感じることが出来る。

たとえば10のエネルギーを持つ音があるとき、何倍にすれば人間は音の大きさ(感覚)が倍になったと感じるだろうか。

普通に考えると「倍だから、エネルギー量は20では?」と考えるが、人間の耳はそれほど鋭くはない。「2倍になった」と感じさせるには、実際には10倍の音の大きさにしなければならない。「10」の音が「100」になって、ようやく「2倍」と感じることができる。

こうした「匂い」や「音」などの五感、つまり「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚」の感じ方には独自の法則があって、それは「足し算」ではなくて「掛け算」の世界で感じることが分かっている。

これが1860年に発表された
「ウェーバー=フェヒナーの法則」である。

「感覚の強さR
は刺激の強さSの対数に比例する」

これが「精神物理学」といわれる学問の発端となった画期的な法則である。

※ 筆者註
「対数」とは、たとえば「2の3乗=8」のとき8の常用対数は3と表される。そう、誰もが学生時代に習ったあのややこしい(?)「log」の概念である。

「精神物理学」は心理学者ウェーバーが「感覚の世界を定量化できないか?」と考えたことから始まった。人の感覚というものはとても主観的なものだが、なにもかも「これは主観だ」と言っていては学問にならない。

こうしてウェーバーが目に見えない「人の気持ち」や「感覚」を定量化するために行った様々な研究をもとに物理学者フェヒナーが1860年に数式化に成功したものがこの法則だ。

つまり何が言いたいのかといえば私たち人間の感覚は、けっしていい加減なものではなく定量化できるということである。

以上、「面白くて眠れなくなる数学」からの引用でした。もちろん自説ではないのでどうか信用してくださいね(笑)。

               

というわけで「オーディオ」が「聴覚」の分野に所属するのはいうまでもないが、残念なことに上記の法則ですべてが説明できるわけでもない。

それは単なる入り口に過ぎず、問題は音を聴いて「心地よく感じる感覚」がどこに由来するのかということに尽きる。

そこで
「オーディオ=物質物理学+精神物理学+感性」の登場になるが、この感性というものが個人ごとに千差万別なので定量化できないところにオーディオの究極の魔訶不思議が秘められている。

たとえば、自分では「いい音」と思っても、他人にとっては「それほどでもない」という「すれ違い」がしょっちゅう起こり、言葉や法則だけでは納得のいく説明ができないために世界中の至る所で悲喜劇が繰り返されることになる。

一例としてオーディオ仲間の離合集散などが典型的な事例として挙げられるが、親密な交流が不幸にも次第に疎遠になる一番の遠因は、お互いの「こんな音のどこがいいんだろう」という意識が契機になっているように思えるが、はたして読者の皆様のご意見はいかがでしょうか(笑)。



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「一芸に秀でる」 VS 「平均点主義」

2024年03月10日 | オーディオ談義

なるべく「井の中の蛙」にならないように、日頃からいろんなオーディオマニアの方々のブログを拝読させてもらっている。

オーディオはある意味では感性の世界だから、人それぞれの独自のアプローチがあるので大いに参考になる・・、まあ、反面教師のときもありますけどね(笑)。

で、その一環として「ジャズとテニスの雑記帳」は2日に1度の更新なので日頃から読ませてもらっている。ブログ主は仮に「I」さんとしておこう。

「I」さんはたいへんなジャズ通で「エリック・ドルフィー」の大ファンと聞いただけでその年季が推し測られるし、オーディオシステムもジャズ用とクラシック用に分類されていて、我が家と似たようなスタイルなので随分参考になる。

で、つい2~3日前の記事の中に我が家の「AXIOM80」に関する記事があったので、思わずドキッとした(笑)。

(以下、無断引用ごめんなさい・・)

「前略~、ただ、ただですねえ・・・気になるんですね

人気ブログ「音楽&オーディオの小部屋」さんが鳴らしていらっしゃる、

AXIOM80初期型と希少古典管の組み合わせが醸し出すバイオリンの濡れるような唇、じゃない、美音・・・聴いたことはありませんが・・・

現システムのバイオリンの音に不満があるわけではありません。

が、ブログに書かれたあの美音、多分、他にない艶やかなバイオリンの音色が気になります。」

たいへんありがたいことだし、光栄なことには違いないが、思わずちょっと身構えてしまいました。

というのも、そんなに憧れていただくほどの値打ちがあるのかな~(笑)。

たとえて言えば、いつも一緒に生活し空気のような存在となっているカミさんが、他人から「凄い美人ですね」といわれるようなもの、かな・・(笑)。(ちなみに現実はまったく違いますからね!)

ど~れ、改めて素顔を確認してみようかと、昨日(9日)重たい腰を上げた。

実は、この1週間ほど、熱愛しているのはこのスピーカーだった。「TRIAXIOM](グッドマン)+サブウーファー(口径20cm:100ヘルツ以下)



「50年以上に亘るオーディオ人生だったけど、ようやく辿り着いた音といっても過言ではないな~」と、ちょうど自画自賛の真っ最中だった(笑)。

後ろ髪を引かれる思いで、「AXIOM80」と交換。サブウーファーはそのまま使うことにして、少し後方に控えさせることにした。



で、両者の違いとなると、強いて上げれば「透明度」になるのかなあ・・。水深に例えると「AXIOM80」は底の砂石までくっきり見える感じだが、逆に言えば音楽ソースの粗さも洗いざらい白日の下にする印象を受ける。それにやや病的な神経質さも伺える。

その点、「TRIAXIOM」は屈託がなく、たとえ粗さがあったとしても上手くオブラートに包んで表現してくれる・・。

さあ、どちらがいい・・?

簡単に結論を出せそうにないが、両者を比較する上でつい「一芸に秀でる」 VS 「平均点主義」という対比が浮かんでしまった。

わかりやすい例を挙げてみよう。

受験生時代の話だが、たいがいクラスに1~2名はいたと思うが、数学のテストでいつもほぼ満点を取る子、ところが英語や国語となるとからっきしダメでいつも平均点以下・・、当然「総合点」や「順位」となるとはかばかしくない~。

したがって、世間的に有名とされている大学にもほとんど門前払いとなる。まあ、どこの大学を出ようと出まいと人間の価値にはまったく関係ないが、人生のスタートラインで損をするのは確実である。

しかし、現代になってみるとこういう「一芸に秀でた子」って魅力的なんですよねえ・・。

なぜなら、平均的主義の閉塞的な世の中から「ビル・ゲイツ」や「イーロン・マスク」などは出てきそうにないから~(笑)。

で、さすがに文部省を中心に「平均的主義を脱し、評価軸を変える」動きが出ていますね(2022年3月)。

で、話は戻って「一芸に秀でたAXIOM80」へ~(笑)。

この神経質なスピーカーはときどき刑務所の塀の上を歩いているような気にさせられる。

塀の内側と外側に落ちるのでは大違いだが、そういう紙一重の危険性が伴うのを覚悟しないと「あのむせび泣くような愁いを秘めたヴァイオリンの響きを得られない」・・、そういう緊張感がたまらない魅力かもしれませんね(笑)。



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「罪深い遊び」とは

2024年03月09日 | 音楽談義

「罪深い遊び」というタイトルに思わずドキッとされた方もいるかもしれないが、残念なことに音楽がらみの話です。もうそんな元気は残っておりません(笑)。

さっそく本論に入りましょう。


音楽にしろオーディオにしろ「聴き比べ」は実に楽しい。

音楽の場合、出所は同じ楽譜なのに演奏によってこんなに印象が変わるのかという驚きは新鮮そのもので、次から次に違う演奏を楽しみたくなる。

オーディオだって使う真空管(初段管、出力管、整流管)によって、音がクルクル変わる「球転がし」ひいては「アンプ転がし」果てには「スピーカー転がし」などの「音遊び」はまさに究極の愉しみとして絶対に欠かせない存在! 少なくとも我が家ではそうです。

ところが、その「聴き比べ」を「罪深い遊び」だと断罪している本を見かけた。興味を引かれたので以下、解説してみよう。

「許 光俊」氏の音楽評論は歯切れがいいのでいつも愛読している。まさに一刀両断、音楽評論家によくありがちな“業界”におもねった雰囲気がみじんも感じられないのでとても清々しい。

初見の方がいるかもしれないので「許 光俊」氏の情報についてざっとお知らせしておくとしよう(ネット)。

「許 光俊(きょ みつとし:1965~ )は、東京都生まれのクラシック音楽評論家、文芸評論家。ドイツ文学、音楽史専攻。近代の文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。慶応義塾大学法学部教授。」

氏の著書「クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学」がその本。

              

本書の冒頭(プロローグ)にこうある。

「聴き比べは、罪深い遊びである。さまざまな演奏家が研鑽と努力の末に成し遂げた仕事(そうであることを祈りたいが)を、これは駄目、あれは良いと断罪する。

それはクラシックの愛好家に可能なもっとも意地悪で、もっとも贅沢な遊びである。どうして多くの人々は知らない曲を知る代わりに同じ曲を何度となく聴き直して喜ぶのか。


ベートーヴェンの“第九”を100回聴く代わりに、せめて未知の作品を20曲聴いたら、新たなお気に入りが見つかるかもしれないのに。~中略~。

聴き比べは、陶酔ではなく覚醒へ向かおうとする。信じることではなく、疑うことを本分とする。満足を得ようとして不満を得る。」

さらに「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である。」とあり、そういう醒めた視点から4つの曲目について延々と「聴き比べ」が展開される。

自分は非常に
信じ込みやすいタチなので(笑)「成る程、成る程・・」と素直に頷きながら、つい“お終い”まで読み耽ってしまった。

とにかく、その「聴き比べ」というのが中途半端ではないのである。

1 ヴィヴァルディ「四季」(春)~演奏家のエゴの痕跡~

「精神が欠落した音楽の空白を埋めるかのように、様々な演奏者の録音が山積し(演奏の)実験場と化している。」と、著者は相変わらず手厳しい。

「虎の威を借りる狐」ではないが(笑)、自分もヴィヴァルディの印象として「聴き流しが適当な音楽」のような気がしてならない。もちろん、いいとか悪いとかの話ではなく、こういう音楽が好きな人がいても少しも構わないので念のため。

「イ・ムジチ合奏団+フェリックス・アーヨ」を皮切りに、何と24もの演奏の「聴き比べ」が紹介される。とても半端な数字ではない。それぞれの演奏に対して的確なポイントをついた辛口の指摘がなされていて、著者の音楽への造詣の深さと分析力には脱帽する。

こういった調子で、2 スメタナ「わが祖国」(モルダウ)~内容を再現したがらない指揮者たちの反抗~については、極めて民族的な(チェコ)音楽にもかかわらず、「アメリカのオーケストラ」の心なき演奏への嘆きなどを交えながら、23もの演奏の聴き比べ。

圧巻の3 ベルリオーズ「幻想交響曲」~自我の中で展開する私小説~に至っては、37もの演奏の「聴き比べ」。

作曲家自身のベルリオーズが残した楽章(5楽章)ごとの解説があまりにも“微に入り細にわたっている”ため、演奏家にとってはそれが“がんじがらめ”となっていっさいの想像力が許されず、両者の間に創造的な緊張関係が起きることはないとあり、「今さらながら、かくも多くの下らない演奏が氾濫している事実に呆れるしかない。」(216頁)。

というわけで、「言葉では表現できないことを生々しく伝えることが出来る芸術=音楽」の役割について改めて一考させられた。

本書の読後感だが、「聴き比べ」とはたとえばA、B、Cと違う演奏がある場合にA、B、Cの差異を問題にするのではなく、「Aと作品」、「Bと作品」といった具合に常に演奏と作品の関係を追及しながら、基準となるものをしっかり据えて対比しつつ、あえて演奏同士の間には上下関係をつけようとしていない。」
ことに感心した。

本来、「聴き比べ」とはそうあるべきものなのかもしれない。

翻ってこれをオーディオに当てはめてみるとどうだろう。

いろんな真空管を差し換えて音質テストをするにしても、音楽における作品のような確たる羅針盤があるわけでもないのでハタと困ってしまう。

強いて言えば「原音に対してどれだけ忠実に再生しているか」ということになるのだろうが、この「原音」だって所詮は主観の産物だから始末に負えない。

もしかすると、このことがオーディオ界において「主観に基づいた意見」が「評判」となり、大手をふるって独り歩きする所以なのかもしれない。


音質を左右する要因はいろいろあって、「サウンドが漂うために必要な音響空間の広さ」、「音源」、「アンプ」、「スピーカー」などの組み合わせ次第で真空管だって生き返ったり死んだりするから、「これはイイ」とか「あれはダメ」とか、早計な判断はムチャということが自ずと分かる。

これからは「聴き比べ」を「罪深い遊び」にしないように心がけなければいけないなあ(笑)。

 

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三日坊主

2024年03月08日 | 独り言

「三日坊主」という言葉がある・・、「飽きやすく何をしても長続きしないこと」(広辞苑)。

その由来は、一人前の僧侶(坊主)になることを志す修行僧が、三日ほどたって脱落してしまう様子から、『三日坊主』といわれるようになったとされています。

僧侶の修業は時に過酷であり、中途半端な気持ちでは続けられません。たとえ意気込んで出家したとしても、しばらく経過したら再び俗人に戻りたいとする人も出てくることを指した言葉です。

また、『坊主』という言葉は、単独で僧侶を意味する以外に、親しみの意味を込めて他の言葉に付けられることもあります。いたずら坊主ややんちゃ坊主が代表的な言葉です。

かく言う自分にも当てはまりそうだが、とりわけひどいのが健康対策でこれまで長続きした試しがない・・、しかし実はそれでいいのかもしれない。

というのも、社会的にも生物学的にも「役立たず」となった人間がむやみやたらに延命にこだわるのは傍(はた)からみてけっして見よいものではないし、いやむしろ周囲の害になるときさえある。

ただし「分かっちゃいるけど・・」で、当事者となると話は別、おそらく「総論賛成・各論反対」が日本中至るところで展開されている光景だろう。

そういえば昔こういう川柳があった。

長生きは したくないねと ジム通い(笑)

そういうわけで、数年前に図書館で「長生きに関連する本」を読んでその健康対策を記録に残していたものの、はたしてその結果が今どうなっているか・・、わざわざ己の恥を露呈するようなものだが「3日坊主」の事例を挙げてみよう。


まず左側から。

✰ 「新しい免疫力の教科書」

そもそも「免疫とは何?」だが、本書によると「免疫とは外部から侵入してくるウィルスや菌といった異物から体を守る機能のこと」で、人間の身体にはまず3段階の防御システムが機能している。

「最初は皮膚でブロックし、次に粘膜でブロックし、最後に免疫細胞でブロックして、すべて突破されたときに発病する。」と、非常にわかりやすい。

免疫機能をアップするためにはいろんなアプローチがあるが、そのうちの一つに「体内時計を整える3つのルール」というのがあった。

1 睡眠時間は7時間  2 朝食は必ず食べる 3 夕食は就寝の3時間前までに

外野席から「そのくらいはとっくの昔に分かってるよ」とヤジが飛んできそうだ(笑)。

で、現在の状況だが1と2はそこそこ実行中だが3の夕食時間については就寝の2時間前ぐらいになっている・・、そのくらいは「まあいっか~」(笑)。

✰ 「開かれたパンドラの箱~老化・寿命研究の最前線~」

たしかに「最前線の研究」を謳うだけあって、極めて専門的な内容だった。そこで、ややこしいことは抜きにしてポイントだけ挙げておこう。

酵素にはいろんな種類があるがそのうちの一つに「NMN」(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)というのがあり、最近「抗老化物質」として世界中から大きな注目を集めている。

効果がある理由を紹介するとなるとメチャ長くなるので省略するが、「NMN」が含まれている野菜を列挙しておこう。(126頁)

「枝豆、ブロッコリ、キュウリ、キャベツ、アボガド、トマト、マッシュルーム」だが、この中でも「枝豆」は群を抜いている。

ただし、現在は時季外れなのでスーパーで「冷凍もの」を購入している。



運動ジムから帰ってきて、ビールのつまみにかじっているがほんとうに効果があるといいんだけどなあ…(笑)。

というわけだったが肝心の現在の状況について・・、

「コロナ騒動」のせいですっかり「運動ジム」から足が遠のいてしまった。枝豆もせいぜい3か月ぐらい続いたがさしたる効果も見られないことから現在では中断中。

結局「3か月坊主」だったなあ・・(笑)。

そして、最後がこれ。

✰ 「日本長寿食事典」

分厚くて膨大な内容だった。日本で長寿食といえばきりがないし捉えどころがないともいえるので、ただ一つだけピックアップしておこう。

それは「1日に水を2リットルくらい飲む」というもの。

水は新陳代謝を助けて、老廃物や有毒物を体外に排泄する働きもしている。体重の半分以上は水だ。その水を常に入れ換えて新しくしておくことが健康を保つコツである。

水には溶かす働きがあり、体内に有害な物質があればそれをいち早く溶かして体の外に排出してくれる。できるだけ自然に近い水を飲んでサラサラ血液を目指すことが不老長寿の王道である(131頁)。

というわけで、いつも「ミネラルウォーター」を常備して飲んでいる。



というわけだったが、現在でも水はよく飲んでいる方だと思うが「ミネラルウォーター」は面倒くさくなって、自宅の炊事場の「還元水素水」をせっせと飲んでいる。



その横にある「黒ニンニク」(自家製)は、現在の切り札(ふだ)となっており昨年(2023)の6月くらいから始めて10か月ほど経つ。

毎食後にこまめに2~3個ほど口の中に放り込んでいるが、何となくヤル気が出てくる感じがするので、これだけは長続きさせたい積り~。

何よりも「音楽&オーディオ」への意欲が益々湧いてくるのだからこたえられない(笑)。



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自己の内面と静かに向き合える音

2024年03月07日 | オーディオ談義

あれから1週間も経つのにまだ何となく「しこり」が残っている試聴会(2月29日)・・。

3名の方々ともにクラシック音楽好き、とりわけオペラ「魔笛」が好みとなるともう筋金入りの方々ばかり・・、こうして一堂に会するのはまあ一生に一度あるかないかぐらいの「千載一遇」の機会といえるだろう。

それだけに、振り返ってみて「ああすれば良かった、こうすれば・・」という思いが残る~。

具体的に2点ほどあげてみよう。

1 スピーカー「TRIAXIOM」(グッドマン)の出番が無かった 

当日は6系統のスピーカーのうち3系統を聴いていただいたのだが、なぜはじめから「TRIAXIOM 」を外したんだろう・・。

同じグッドマンの「AXIOM80」を聴いてもらえば、それで事足りると踏んだわけだが、明らかに浅慮だったなあ。

「TRIAXIOM」は「AXIOM80」にはない良さがあったのに、それに気付かなかったなんて・・。そのことを如実に証明するのがこれ。



口径20cmのウーファーが入った箱を「サブウーファー」(100ヘルツ以下)にして、その上に載せたのが「TRIAXIOM」。

3日ほど前から聴いているのだが、ちょっと気障(きざ)な言い方になるが「自己の内面と静かに向き合える音」といえばいいのだろうか・・、いぶし銀のような鈍い光が独特の光沢を放って心の中にそっと忍び入ってくる


徒に「周波数レンジ」を狙っておらず、「ハーモニー」を重視したサウンド・・、これぞまさしくクラシック好きにはもってこいの「ブリティッシュ・サウンド」ではなかろうか。

しかも「AXIOM80」でさえも表出できない「品の良さ、奥ゆかしさ」がある・・。(もちろん主観ですよ~)

今さら気付いても遅すぎるんだけどねえ~(笑)。

しかも3通りの鳴らし方が出来る。

A 「TRIAXIOM」単独

B 「TRIAXIOM」+「サブウーファー」(口径20cm)

C 「TRIAXIOM」+「サブウーファー」(ウェストミンスター)

Aはボーカル、Bは小編成、Cはオーケストラなど大編成の音楽ソースで面目躍如といったところかな。

お客様たちにこのシステムとじっくり向かい合ってもらったら、もっと満足してもらえたに違いない・・、ああ~過ぎ去った時間を取り戻したい(笑)。 

2 DAC「エルガー プラス」(dCS)の出番が無かった



我が家では、いつの間にか「4台」になってしまったDAC(デジタル信号をアナログ信号に代える機器)。

言わずもがなだが・・、DACは信号経路上、音の入り口にあたって微小信号を処理する役割を担っており、少しでも不自然な音があるとそれさえも次第に増幅されていく・・、つまり傷が大きくなるのでゆめゆめおろそかにできない機器である。

個人的な意見だが、オーディオに金を突っ込むべき順番は1位が「スピーカー」2位は「DAC」(レコード愛好家を除く)ではないかな~。

で、画像の機器は「エルガー プラス」(英国dCS)で、デジタル機器としてはもう20年以上も前の旧石器時代の遺物みたいなものだが、量感たっぷりの重厚なハーモニーを耳にすると「腐っても鯛」という言葉が自然に浮かんでくる・・(笑)。

当日は最新機器の「D2R」(SMSL)が活躍したわけだが、クラシックファン向きの音からすると、「エルガー プラス」の方が良かったんじゃないか・・、というわけ。

以上のような顛末で二つの悔恨が残っているが、その一方ではこういう見方もできる。

オーディオ機器なんて音楽の崇高さを前にすると「大同小異」つまり「似たり寄ったり」かもしれない・・、極端に言えば「ラジカセ」の音でさえも音楽に感動できる!

いったい何時(いつ)になったら悟りを開いて成仏できることやら・・、まあ生存中は無理だろうね~(笑)。



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雑学人間の独り言

2024年03月06日 | 読書コーナー

万事に亘って「広く浅く」の「雑学系人間」だと自認しているので、雑学系の本は大好きで図書館で見かけたら片っ端から借りてくる。

                

本書は私たちの身の回りにある森羅万象の「ふしぎ」の中から313個を選んだユニークな本だった。

以下、興味を引いたものをいくつか抜粋してみた。「そんなことはとっくの昔に知ってるよ。」という方がおられるだろうが、どうか悪しからず~。

☆ なぜ「ご馳走」という言葉に「走」という字が入っているのか?

普段は粗食の禅宗のお寺でもお客が来ると精進料理ではあるけれど何品かでもてなした。しかし常備してある食材には限りがある。

そのため、食材集めに「まかない」が方々を「走り回って」(=馳走)集めた。そこから客をもてなす特別な料理のことを「馳走」と呼び、それが今の「ご馳走」につながった。

禅宗には今も台所に「韋駄天」(いだてん)を祭っているところがある。これは走り回る神様である。


☆ 女性や子供の「甲高い声」をなぜ「黄色い声」というのか?

黄色い声というのは仏教のお経から来た言葉である。お経といえば眠くなるような単調な響きだが、中国から伝わってきたばかりの飛鳥時代にはもっと音楽的な高低強弱の響きがあった。

そして、どの箇所を高くし、どの箇所を低くするかはお経の文字の横に色で印が付けられていた。その色のうち「一番高い音」が黄色だった。そこから「甲高い声」を「黄色い声」というようになった。

今のように高低をつけず一本調子でお経をあげるようになったのは平安時代以降である。

☆ ひどく嫌うことをなぜ「毛嫌いする」というのか?

「毛嫌いする」というのはただ嫌いというのではなく、徹底して相手を受け入れないという意味合いが強い。しかも女性が特定の男性を嫌う場合に使われる。

それもそのはず、これは競馬の世界で血統馬の雌に種牡馬をかけ合わせるとき、オスがメスにどうしても受け入れてもらえない場合に「毛嫌いされた」と言っていたものだからである。だから、毛嫌いの毛とは栗毛、葦毛、黒毛などの馬の毛のことだ。

☆ 裁判官はなぜ黒い衣装をまとっているのか?

近頃は女性裁判官もちらほら見かけるようになったが、男女を問わず全員黒い衣装を身にまとっている。この衣装は法服と呼ばれ最高裁判所規則の中で制服ということになっている。

制服だから全員が着用しているわけだが、その色が黒なのは「どんな色にも染まらない」「どんな意見にも左右されない」という意味が込められているのだそうである。

☆ なぜ「匙を投げる」が諦めることになるのか?

匙(さじ)を投げることがなぜ諦めることになるのかと不思議に思わないだろうか。

この匙は昔、医者が薬を調合するときに使った「薬さじ」のことである。つまり、「どんないい薬を調合しても治る見込みがない病気」と医者が見立ててついに匙を投げたのである。

この医学用語が一般でも諦めるという意味で使われるようになった。

☆ なぜ「女心と秋の空」といわれるのか?

女心は秋の天気のように目まぐるしく変わるというのが「女心と秋の空」だが、秋は運動会や遠足が行われ晴天続きでそんなに目まぐるしく天気が変わるという印象はない。

むしろ春のほうが霞がかかったり満開の桜に雪や雨が降ったりと変わりやすい。しかし、この言い回しはやはり秋でなくてはならないのである。なぜなら「秋」と「飽き」をかけ、女心は飽きっぽく変わりやすいと言いたいからだ。

☆ 歌舞伎界のことをなぜ「梨園」というのか?

中国・唐の時代といえば「楊貴妃」とのロマンスで知られる玄宗皇帝がよく知られている。この皇帝は音楽に興ずるだけでなく宮廷音楽を演奏する人々の子弟を庭園に集め、音楽を教え、舞を習わせ、芸能活動に力を入れたことでも有名である。

その庭園に梨が植えられていたことからこの子弟たちは「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。

この故事から芸能のことを日本でも梨園というようになったが、江戸時代になると歌舞伎が盛んになり「梨園」といえば歌舞伎界を指すようになったとのこと。

以上のとおり、身近な生活の中で何気なしに言ったり使ったりしていることに意外と深い意味が込められているようですよ。

最後に「甲高い声と黄色い声」について触れておこう。過去のブログで次のようなことを述べていたことをご記憶だろうか。

「聴覚芸術」と「視覚芸術」との間でいったいどういう芸術論が戦わされたのか、まったく想像の域を出ないが、たとえば「音楽」につきものの音響と「絵画」につきものの色彩の共通点を「波長」という視点から探ってみよう。

音響の場合、低音域は波長(波の高点と低点との距離)が長く、一方、高音域は波長が短いのは周知のとおりだが、色彩だって「可視光線」のもとで波長の概念を当てはめてみると、長い順に<赤~オレンジ~緑~青~紫>の順番になる。ちなみに赤外線は波長が長すぎて、そして紫外線は波長が短すぎて目には見えない。

そういうわけで、「音響」を「色合い」で表現すれば低音域は赤色のイメージとなり、中音域は緑色、高音域は紫色のイメージとなる。

「低音域~赤色・オレンジ色~暖かい」 VS 「中高音域~青色や紫色~クール」という印象を受けるし、オーディオも低音域が豊かだと暖かい気分になり、高音域が優った音はクールな気分になるのもそれだ。中音域だと緑色に該当するので何となく安心感がある。

ただし、これはここだけの極めてユニークな ”珍説” なのでけっして真に受けないようにね~(笑)。」



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「怪我の功名」そして「ナタリー・デセイ」

2024年03月05日 | 独り言

つい先日のブログ「後悔先に立たず」(3月3日付)で紹介したこの画像。



ボックスの中ほどに「お盆」のようなものが敷いてあり、それに触発されて、我が家のボックスに
も似たような処置を施したが、このブログを読んだ関西在住の読者の方からご親切にもすぐに次のメールが届いた。

「オークションの写真を見て「お盆」と勘違いされたようですが、これは前面バッフルと後面バッフルを連結しています。

TANNOYの全盛期はパネルに四角い穴が開いていましたが、後期はオークションの写真のように4隅ががっちりした造りの四角いワクになりました。確認画像を挿入します。



添付写真のようにスピーカーユニットからのケーブルが垂れさがってネットワークに行っています。これでしっかりしたお盆でなくて、木枠であることが確認できたと思います。

まあオーディオのことですので、薄板で仕切って成功とのことですが、オリジナルはお盆でないことをお知らせします。」

あれ~っ、どうやら「誤解」から出発していたようで「穴があったら入りたい」・・(笑)。

ところが・・、原理原則は間違ってなかったようでユニットの後ろ側に出る逆相の音をそのままストレートにスピーカーの前面の下から出すよりも、何らかの障害を設けて「タメ」を作ってやった方がスピードや量感が増すような気がする~。

ほら、あの「AXIOM80」を入れたボックスに使う「ARU」を連想しますよね。

というわけで、贔屓目も手伝ってそのままで聴くことにしました。

こういうことを何と言ったかな・・、あっ、そうそう「怪我の功名」だったよね・・(笑)。

次いで、南スコットランド在住の「ウマさん」からメールが届きました。

「音楽愛好家のご来訪」(3月1日)の中で触れた「ナタリー・デセイ」(魔笛の中の「夜の女王」)について。

「いやあ、嬉しいですねえ。
ナタリー・デセイ…大好きです。
 
彼女のソプラノはかなり聴いてました。が…
ミシェル・ルグランのピアノで、シャンソンを唄ってるアルバムが発売された時、飛びつきました。これがね、めっぽう聴かせるんです。
 
やはり、オペラ経験が豊富なんでしょうか、ルグラン作の聞き慣れた有名曲でも、ストーリー性を感じさせる唄いっぷりなんです。
ルグラン爺さんも、よほど嬉しかったと見え、なんとナタリーとのデュエットまで披露しています。
 
やっぱり、やっぱり…美人、大好きやー!

  

「ナタリー・デセイ」の全盛時代について「チケットを手に入れるのが極めて難しい歌手」という話を聞いたことがあります。

こんな美人から抱きつかれたら・・、もう卒倒しそう~(笑)。


 
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音楽が脳にもたらす効果

2024年03月04日 | 音楽談義

人間はどうやら己(おのれ)にとって都合の良い情報だけ切り取る傾向にあるらしい。もちろん自分もその例に漏れない(笑)。その格好の一例を挙げてみよう。

            


東北大学の教授が書いた「生涯健康脳」は、「生涯にわたって脳を健康に保つ」ためのノウハウを分かりやすく説いた本だった。

この種の書籍は巷に氾濫しているので、ワン オブ ゼムのつもりで読んでみたが、さして目新しいことはなかったものの、それでも気になる事柄があったので列挙しておこう。

もちろん、自分にとって都合のいい情報ですぞ(笑)。

☆ 脳の最高の栄養素は知的好奇心


脳の健康維持のために欠かせないのが毎日の30分以上の有酸素運動とともに、知的好奇心が挙げられている。

たとえば探究心、冒険心、追求心などワクワク、ドキドキが脳の中の神経伝達物質であるドーパミンを活性化させて脳全体をとても元気にする。

したがって知的好奇心を大いに刺激する趣味を持つことは脳にとって素晴らしい効果をもたらす。


☆ 音楽は脳の報酬系を刺激する


「音楽を聴くととても良い気持ちになります。ここでもまた脳の中では凄いことが起きているのです。脳はご褒美をもらったような状態になっているのです。音楽を聴くと脳の<報酬系>と呼ばれる領域が活発になることがカナダの大学の研究で分かっています。


報酬系というのは詳しくお話しすると、欲求が満たされたときに心地よいという感覚を与える神経伝達物質を放出する神経系のことです。

会社で給料が上がるなどの良いニュースを聞くととても良い気持ちになってヤル気が出たりしますが、欲求が満たされると予測することでも脳は活性化するのです。


報酬系の領域が活性化されると、灰白質の体積が増えるという報告もあります。よく褒めて伸ばすという事例がありますが、まさにそれに当たります。

つまり、音楽を聴くと欲求が満たされたり、褒められたりしたときと同じような心地よい気持ちに自然となるのです。

また音楽を聴くと一部の領域だけでなく多くの領域の働きが活発になることが分かっています。音楽を聴くだけでも脳にとっても良いのです。

したがって、脳にとって音楽は<百利あって一害なし>なのです。」


とまあ、そういうわけで日頃から音楽を聴くこと、そして、しょっちゅうオーディオ機器を弄ってハラハラドキドキすることは、(現在)いちばん恐怖の対象となっている「認知症」予防のためにとってもいいことが分かった。

したがって、息の続く限り「音楽&オーディオ」を熱心に続けていこうと固く心に誓った次第(笑)。

折りしも先日の「サイエンスZERO」(NHK Eテレ23:30~)では「音楽が脳にもたらすうれしい効果」を放映していた。

アメリカの上院議員(女性)が演説中に拳銃で脳を狙撃され幸い命はとりとめたものの失語症になってしまったが、音楽療法で発声方法を試みたところ劇的に回復した実例が紹介されていた。

「音楽式の発声療法」によって「右脳」(音楽などを司る脳)と「左脳」(論理的な脳)との連携がうまくいったからだそうだ。

またハードロック好き、クラシック好き、ジャズ好きの3人の治験者を例に5曲を聴かせてそのうち部分的に脳が好反応を示した小節をもとに「AI」で好きな音楽を創造して聴かせたところ「好きな音楽」が必ずしも「脳が心地よいと感じる音楽」と一致しないことが判明した。

この興味深い事実から音楽愛好家は「好きな音楽」に限らずあらゆるジャンルに亘って幅広く聴くことが脳のためにいいことが導き出される。

自分はいつもクラシックを中心にジャズ、ポピュラー、演歌、唱歌などジャンルを問わない聴き方をしているが非常に理に適っていたことになる。

つい先日(2月29日)の試聴会ではオペラ「魔笛」というやや高尚な(?)音楽に交じって「美空ひばり」が登場していたことに違和感を抱かれた方がいるかもしれないが、ジャンルを問わない聴き方の好例として受け止めていただけると幸いです・・。


とまあ、縷々(るる)自分の都合のいい情報だけを切り取って投稿したことは争えないので、あまり信用していただけないかもしれませんけどねえ(笑)。



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後悔先に立たず

2024年03月03日 | オーディオ談義

「必要悪」という言葉がある。

「広辞苑」によると「悪ではあるが、社会の現状からいって、やむを得ず必要とされるような事柄」とある。けっして明るい前向きなイメージをもたらす言葉ではなく、どちらかと言えば「後ろめたい存在」であることが分かる。

実は「オーディオ」にも「必要悪」がいろいろありまして・・(笑)。

極端な話、生演奏と比べるとオーディオ機器はすべて必要悪みたいなものだが、それではまったく話が進まないのでシンプル・イズ・ベストの観点からいくと、さしずめ「スピーカー・ネットワーク」(以下、「ネットワーク」)あたりはその必要悪の代表選手ではなかろうか。

「ネットワークって何?」と訊かれても一言で説明するのは難しいが、簡単に言うと周波数帯域(人間の可聴帯域は20~2万ヘルツ)を低音域、中音域、高音域などの所定の帯域に分割し、その音声信号を各SPユニットに送り届ける役目を持った道具とでもいうのかな。

興味のある方は別途ググってもらうことにして、とにかくこれを“付ける”と確実に音が劣化するのはたしかで、それ以外にもそういう機能を果すチャンネル・デバイダーという代物もあるがこれも所詮は音を悪くする部品の塊りなので使わないに越したことはない。

フルレンジ型のスピーカーをひたすら愛する人たちがいるが、使う理由の一つとして「音を悪くするネットワークを使わないで済むから」という答えが必ず返ってくる。実は自分もその一人~(笑)。

ちなみに、タンノイの同軸型ユニットだって2ウェイなので当然の如くネットワークが使ってある。

手元のウェストミンスターの仕様は「クロスオーバー1000ヘルツ、12db/oct」となっており、以前、裏蓋をこじ開けてじっくり観察したことがあるが、見るからに音を悪くしそうなコイルやコンデンサーが使ってあった。

もちろん、いい悪いは別の話でメーカー側の「音づくり」の一環なのでこればかりは部外者があれこれ口を挟む余地はない・・、まあ無難な物言いにしておきましょうね(笑)


フルレンジ型スピーカーの再生帯域に物足りない人が、2ウェイ、3ウェイ型のSPシステムに移行していくわけだが、そのメリットは十分あるもののネットワークを使うマイナス部分をどれだけ意識しているのだろうかと、ときどき思うことがある。

オーディオは常にプラス部分とマイナス部分の差し引き勘定で考えるクセをつけた方がいいように思えて仕方がない。なぜなら無駄遣いの歯止めになるから・・、これまで散々辛酸を舐めてきた当の本人が言うのだから間違いない(笑)。

前置きが長くなったが実践例を述べてみよう。

県外からお見えになったお客様たちの交歓を終えてほっと一息・・、いつもの「音楽&オーディオ」三昧の日常が戻ってきた。

で、その翌日(1日)のこと、オークションに出品されていたスピーカーの画像を観ていたところ思わずハッとさせられたのがこれ。



ボックスの中ほどに「お盆」みたいな板を取り付けているのが目を引いた! 半分素人の人間の想像の域を出ないがユニットの後ろ側に出る逆相の音(背圧)をある程度妨害してタメをつくり、量感とスピード感を向上させるためだろうか・・。

長年の習性で理論よりもカンと実践を優先する癖がついているので、我が家のスピーカーにも応用が利かないかな~と、即「行動」に移った(笑)。

実は対象となるボックスが一つだけあるんですよねえ。



あり合わせの板を使って、きちんと寸法を測って取り付けてみた。もちろん適当な隙間(背圧の逃げ道)を開けておくことが肝要。

完成後の姿がこれ。口径25cmのウーファー専用のユニットが入っている。175ドライバーを載せて2000ヘルツ以上を受け持たせた。



ワクワクしながら鳴らしてみたところ、期待したほどではなかったがたしかに量感が増えている気がする・・。まあ、1円も経費が掛かってないんだから上出来だろう。

ところが「好事魔多し」というのか・・、量感が増えた分「175ドライバー」(2000ヘルツ以上を担当)との帯域のダブりが目立ってきた。

仕方がない・・、背に腹は代えられないので止む無くコイル(ムンドルフ)を使って700ヘルツでハイカットした姿がこれ。



ところがこれが見事に功を奏したんですよねえ・・、お気に入りのスッキリ爽やかなサウンドに豹変したのでまったく言うことなし~。

しかもサブウーファーの必要を感じさせないほどの低音域の充実ぶりに喜びもひとしお・・。

もちろんコイルが及ぼすマイナス面もあるんだろうが、プラス面の方がはるかに上回っている! 

シマッタ・・、2月29日の試聴会に間に合うと良かったんだけどなあ、いつも「後悔先に立たず」なんだから~(笑)。



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音楽愛好家のご来訪(2024・2・29)

2024年03月02日 | 音楽談義

前回からの続きです。

オーディオ愛好家にとって「音楽&オーディオ」はクルマの両輪みたいなものだと思っている。

で、どちらに比重をかけているか、つまり「音楽の方」か「オーディオの方」かとなると・・、まあ、趣味の世界なので肝心のご本人が満足さえしていればそれでいいわけだが、なかなか興味深いものがある。

で、今回のお客様たち3名の方々は明らかに「音楽=クラシック」に重きを置いている方々だったので、音質について殊のほかウルサイ方々でなかった・・、我が家にとってせめてもの「救い」だったかな(笑)。

3系統のスピーカーの順番となると、

「ウェストミンスターを交えた3ウェイ」 → 「AXIOM80」 → 「口径20cmのユニット+JBL175ドライバー」となった。

当然、主賓たるお客様たちの雰囲気をそれとなく打診しながらスピーカーを切り替えていったが、いちばん人気があったのは「AXIOM80」で、これがいちばん長時間の試聴となった、やっぱり・・(笑)。



必然的に弦楽器とボーカルが主体の音楽ソースとなった。

モーツァルトでは「ディヴェルトメント K136」(コープマン指揮)、「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲 K364」(五島みどり&今井信子)

皆さま音楽好きなので「さわりの部分」だけとはいかず、全曲を通してじっくりと耳を傾けられるので「持ち時間」が音を立てて目減りしていく感じ・・(笑)。

そして、旧知のNさんから「オペラ魔笛の夜の女王のアリアをぜひ聴かせてください」「ハイ・・、分かりました」

本日のハイライトとなりました!

          

たまたま手元にあったのがクリスティ指揮の「魔笛」だった。これも名盤として知られている逸品。肝心の夜の女王は美形と美声で有名な「ナタリー・デセイ」で、デセイの夜の女王はこの一枚限りだ。

魔笛には5名の主役が配置されている。

「王子役」「王女役」「高僧役」「夜の女王」そして「道化役」

これら5名の主役に一流の顔ぶれをそろえることはスケジュール的にまず無理・・、どれかの配役に憾みを残すので巷間「魔笛に決定盤無し」と称される所以である。

で、この中でいちばん歌唱の難度が高いとされているのが「夜の女王」・・、ソプラノの中でいちばん音域の高い「コロラトゥーラ」の出番となる。最高音域の「ハイF」が出せるかどうか・・。

夜の女王の出番は「第一幕」と「第二幕」でそれぞれ一回、5分ほどの出番だが、この出来次第で魔笛全体のスケール感が決まるので極めて重要な役どころ・・。

2時間半のオペラなので2枚のCD に収められているが、「夜の女王」の出番はそれぞれ「第6トラック」だと憶えていたので頭出しが早かった・・、な~に自慢するわけじゃないけどね~(笑)。

全員で「デセイ」のコロラトゥーラを楽しみました。あの「グルヴェローバ」(ハイティンク盤)よりは少し落ちるが、まあトップクラスでしょうよ。

それからは「魔笛談義」に移って、「よくもまあ、モーツァルトはあんなひどい台本にこんなに美しい音楽を作曲したもんですねえ」、「モーツァルトは(オペラでは)台本よりも音楽が主体性を持つべきだと主張していましたからねえ」、などと百家争鳴~。

ほかにも「美空ひばり」の「昭和の名曲を唄う」から「夫婦春秋」「舟歌」「釜山港へ帰れ」などで大盛り上がり~。



あっという間に3時間が経過して4時半ごろに帰路につかれた。

帰り際に大先輩のNさんから「スピーカーはすべて上手く鳴ってましたよ、あとは好みの差ぐらいです」と、耳元で囁いていただいた。

「ハイ、どうもありがとうございます」

あっ、そうそう、お一人の方から「いつもこんな音量で聴かれるんですか?」「ちょっと大きすぎましたかね・・」

つい「いいとこを見せよう」とボリュームを上げ過ぎていたようだ、まだ俗気が抜けないようで、やっぱり未熟な人間のままですねえ・・(笑)。



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