「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「いい音」って何?

2024年07月12日 | 音楽談義

我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」がおおよそ一体化している積りだが、いったい「いい音って何?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書では様々な作曲家や演奏家について取り上げている。たとえば

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手
2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走
3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”
4 ワーグナー  フォルクからの世界統合
5 マーラー  童謡・音響・カオス
6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速
7 カラヤン サウンドの覇権主義
8 カルロス クライバー  生動する無
9 グレン・グールド  線の変容

といった具合。


この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がダンゴになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」


これはオーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因がありそうだ・・。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて透明感や分解能に優れ、なおかつ奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけたあの「スピーカー」も、逆に捨てがたい味があったのかもしれないとちょっぴり反省(笑)~。

ずっと以前のブログで村上春樹さんの「バイロイト音楽祭」の試聴記を投稿したことがあるが、その会場ではオーケストラ・ピットが沈み込んでおり、その音が大きな壁に反響して「音が大きな一つの塊のようになって響く」とあったのを思い出した。

そういえばフルトヴェングラーが指揮したあの感動的な「第九」(バイロイト祝祭管弦楽団)がまさしくそういう音で、こういう「鬱蒼とした音の塊」からしか伝わってこない音楽があることも事実で
「いい音って何?」、改めて考えさせられる。

次いで、グールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄してスタジオ録音だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

 グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。


したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、40年以上にわたってグールドを聴いてきたので “いかにも” と思った。

「音楽は生演奏に限る・・、オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの「音楽好き」なんだろうか・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていたとされる理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオ・システムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる・・、さらには個人ごとの好みも加わってくるのでもう無限大といっていい。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、とはいえ、その一方では何となく虚しい気持ちになるのはいったいどうしたことか・・(笑)。 



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