「右隣のOさん宅のご長男(19歳)がひどく咳き込んでられますよ。ご用心された方がいいと思います」と、お隣のAさん宅から家内に連絡があったのは一昨日(金曜日)の早朝のことだった。
Oさん宅は我が家の一軒隣りに当たり家族構成はご両親とご子息二人の計四人暮らし。
人一倍神経質な家内のこと「今日は家じゅう閉めきってエアコンを入れっぱなしにしてね。たとえウォーキングの時でもOさん宅の玄関前を通ったらダメよ」と、きつく言い残して会社に向かった。
「おいおい、飛沫感染は2m以上離れていたら大丈夫なんだぞ」と言っても、聞く耳を持たない(笑)。
猛烈に蔓延するコロナがいよいよ、身近に迫ってきましたね~。
閑話休題
さて、現在クルマを使うのは図書館(3か所)や買い物、運動ジムなどに行くときなどで、毎日の走行距離はだいたい30kmぐらいだが、その道中には必ず音楽を聴いている。いわゆる「ながら運転」。
で、昔のクルマはCD(6枚収納)を聴いていたのだが、今は「USB」オンリーで軽くCD10枚分ぐらい収納できるので大いに重宝している。
聴いている曲目はほとんどがポピュラーとか歌謡曲などで、懐かしい往年のヒット曲が中心。
中には、ついうっとりして聴き惚れる曲もあったりで、帰宅するとそういう曲が入った元のCDを改めてオーディオルームで聴いてみたりするのだが、いいのはいいんだけど残念なことに「打ち上げ花火」的というかずっと後に尾を引くほどのことはない。
その点モーツァルトなどを聴くと、うっとりとそして切なさも交じって時間を忘れて聴き耽ることになる。魂に訴えかけてくる力というか、揺さぶられ方がまったく違う。
「ながら運転」の時には鑑賞に耐えた音楽が、いざ正式に舞台の上に据えて聴くとなると急に影が薄くなる。
「職業に貴賤は無い」のと同じで「音楽に貴賤は無い」はずなのに、いったいどこがどう違うのか・・。
指揮者ブルーノ・ワルターはかって(およそ80年前)「音楽と道徳」というテーマの下で講演し次のような言葉を遺している。
「音楽が人間の倫理に訴える”ちから”、つまり、音楽を聴くことで少しでも正しく生きようという気持ちにさせる効果を信じるべきだ。
「音楽とは何であるか」という問いに答えることは不可能だが、音楽は常に「不協和音」から「協和音」へと流れている。
つまり目指すところは融和、満足、安らかなハーモニーへと志向しており、聴く者が音楽によって味わう幸福感情の主たる原因はここにある。
音楽の根本法則はこれらの「融和」にあり、これこそ人間に高度な倫理的音信(おとずれ)をもたらすものである。」
以上のとおりだが、高度な「倫理的音信」とはうまいことを言いますね。
モーツァルトとポピュラー音楽の違い、言い換えると「芸術と娯楽の違い」は詰まるところ「人間の倫理感に訴える力」の多少にあるんでしょうかね。
とはいえ、そもそも「倫理」っていったい何?
「広辞苑」によると、「人倫のみち。実際道徳の規範となる原理」とあって、これまたよくわからん(笑)。
だいたい倫理観といっても、自分の場合はクラシックを聴いて「正しく生きよう」なんて思ったことはない。まったく要らん世話だね(笑)。
ただただ名曲を聴いて「生きる喜び=生きててよかった!」を実感するだけである。
さらには「倫理なんて堅苦しいことを言うな! 聴いててスカッとすればそれでいいんだ」という方も沢山いらっしゃるだろうし・・。
「芸術と娯楽の違い」について快刀乱麻の答えが欲しいところだが、読者の皆様はどう思われますか?
解答を丸投げしてしまい、まことに申し訳ありません(笑)。
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