先日のこと、テレビを観ていたら、一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽にもっと親しんでもらおうという目論みの番組があった。解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。
冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。
その意味は、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。
その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。
「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と言ったのはベートーヴェンだが、芸術はスポーツなどと違って「順番」を付けるのは意味が無いなので「音楽はあらゆる芸術の中で最高だ」なんて野暮な話は抜きにしましょうね(笑)。
さて、本題に戻って、この番組の中で葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。
これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?
この論議については格好の本がある。「モーツァルト 天才の秘密」
「ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。
そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。」
この興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みたのがこの本だった。
著者の中野 雄(なかの たけし)氏はケンウッド代表取締役を経て現在、音楽プロデューサー。
自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。
「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。
集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。
モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。
この育った環境に注目して「臨界期」という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。
これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。
顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。
もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。ここでモーツァルトの登場である。
幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、8歳のときに最初の交響曲を、11歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。
モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。
この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なくしなさい」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。
こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たした申し子のような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。
したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。
群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。
そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていたというのが本書の結論だった。
これに関連して小林秀雄氏の著作「モーツァルト」の一節をふと思い出した。
この中で引用されていたゲーテの言葉「天才とは努力し得る才だ」(エッカーマン「ゲーテとの対話」)に対する解説がそうなのだが、当時はいまひとつその意味がピンとこなかったが、ここに至ってようやく具体的な意味がつかめた気がする。
「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるのではなかろうか。
天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれない。
とまあ、かいつまむと以上の内容だが「天才」という言葉は「天賦の才」という意味であって、人工的に手を加えられた才能ではないと思うので、巷間「モーツァルト天才」説を聞くたびに何かしらの違和感を覚えてしまう。
ただし、「類稀なる学習能力こそ天才の証しだ」と、反論される方がいるかもしれない。
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