このところネットニュースで夢中になっているのが韓国への「輸出規制」問題。
思いもかけないカウンターパンチを喰らっての韓国政府の慌てぶりが楽しい(笑)。
基幹的な技術が欠けている自国の半導体産業をどう展開させるか、まさに正念場なのにいまだにつまらない意地や面子にこだわっている感じの文大統領。
「引くに引けない」のが実状だろうが、現在の韓国はかっての日本海軍を彷彿とさせますな。
「航空機の時代」が到来しているのに「戦艦大和」の乗組員の失業問題に拘って対応が遅れてしまい、敗戦の一因になった。(「失敗の本質」野中郁二郎他著)
国の存亡と失業問題の「優先順位」を明らかに誤ってしまったのが原因だが、現在の韓国の最優先事項は「半導体産業の存亡」ひいては「国の存亡」なのに・・。一番の被害者は国民だからお気の毒~。
閑話休題
前回からの続きです。
真空管アンプとスピーカーの相性テストから面白いことに気付いた。
今さらとはいえ、音にはどうも「オーディオ向きの音」と「音楽鑑賞向きの音」の2種類があるようなのだ。
たとえば「6098シングル」アンプが「オーディオ向きの音」とすると、PX25(ドーム管)シングル」アンプは「音楽鑑賞向きの音」といった具合。
ここで「オーディオ向きの音」と「音楽鑑賞向きの音」っていったい何のことだ、そもそも分ける必要があるのかという話になるのは必然ですよね(笑)。
以下、未熟ながら「私見」として少々分け入ってみよう。
オーディオの要諦は周知のとおり「原音再生にあり」ですよね。言い換えると「録音現場の音」をそっくりそのまま雰囲気さえも再生することがベストだが、それは物理学的にみてとうてい無理な話。
となると、二つのアプローチに分類できる。
一つは出来るだけ「原音再生に近づくことを目指す」方向へ、もう一つは「原音再生に拘ることなく聴感上、イメージを膨らましやすいような音を目指す」方向へ。
前者が「オーディオ向きの音」であり、後者が「音楽鑑賞向きの音」というわけ。
なかなか抽象的で理解しづらいだろうから実例を挙げてみよう。
たとえばモーツァルトのオペラに「ドン・ジョバンニ」がある。大好きな「魔笛」に匹敵するほどの傑作だと思うしドラマティックという意味では古今東西でもベストのオペラだが、これまでいろんな指揮者のものを聴いてきた。
評判のいいヨーゼフ・クリップスを始め、リッカルド・ムーティ、ダニエル・バレンボイムなどだが、残念なことにいまだに「フルトヴェングラー」以上の演奏にお目にかかったことがない。
主人公「ドン・ジョバンニ」のふてぶてしい悪漢振りと登場人物たちの心理のあやが音楽的に実にうまく表現されていて、深~い感銘を受けるわけだが、その一方では何しろ当時(1953年)のことなのでモノラル録音だし、それにライブなので非常に音質が悪い。
したがってこの演奏は音楽鑑賞向きとしては満点だがオーディオ向きとしては非常にお粗末といったことになるが、こんな名演奏を聴かされると音質の悪さなんかどうでもいいような気持にさせられるのが不思議。オーディオ愛好家にとっては大いなる矛盾である。
これがそっくりそのまま「音楽鑑賞向きの音」VS「オーディオ向きの音」に当てはまる。
フルトヴェングラーの演奏をオーディオ向きの高音域のレンジが伸びた音で聴くとどうなるか、結果は見えてますよね(笑)。
どうもレンジが広くなると音の密度が薄くなって音楽の濃厚さが減少する印象がしてくるのだ!
つまり、何が言いたいかというと「オーディオ向きの音が必ずしも音楽鑑賞にとっていいとは限らない!」
この「フルトヴェングラー全集(107枚)」を毎日少なくとも1枚は聴くようにしている。耳が安易な方向に行かないよう戒めている積り(笑)。
とはいえ、録音と再生技術が進歩した現代ではオーディオ向きの音を第一に優先する人がいてもちっとも不思議ではないし、むしろそれが圧倒的な多数派になるのだろう。
何しろ1950年代前後の往年のマエストロたちによるクラシックの黄金時代を知らない人たちが増えるばかりだから。
「音楽愛好家」と「オーディオ愛好家」の線引きが難しいのもこの辺に由来している気がする。
関連して、これまで周辺で「オーディオに飽きてしまって長続きしない」いわゆる挫折組のケースをちらほら見てきたが、残念なことにきまって「音楽を心から愛することができない人たち」だった。
結局、音楽あってのオーディオなんですよね。
以上、ちょっと偉そうに言ったかもですね、どうもスミマセン(笑)。
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