我が家のオーディオにとってネットオークションは必須のツールだが、その一方ではかってのオーディオ機器の栄枯盛衰ぶりを窺い知るのにも大いに役立っている。
たとえばつい先日のオークションでのことだった。
まずはクラシック音楽愛好家なら誰もが一度は憧れるタンノイの「オートグラフ」が出品されていた。音楽&オーディオの先達として有名な「五味康介」さんが愛好されたことでもよく知られている大型スピーカーである。
オークションのタイトルは「Autograph HPD385A +エンクロージャー 進工舎製国産箱」だった。
ご覧のとおり凝ったツクリの堂々たるスピーカーだが、落札価格となると信じられないほどの安いお値段で「39万2千円」(12月21日)だった。定価は確実に百万円を超える代物である。
若い頃の「タンノイⅢLZ」の時代だったらまず確実に入札していただろう。
そして日をおかず出品されていたのが同じオートグラフでも「ミニ」の方だった。
見るからに「小振り」で定価「32万4千円」のところ、この落札価格は「25万1千円」(12月23日)だった。
大型とミニの音質の差は、そりゃあ個人ごとの「好き好き」があるとはいえ「月とスッポン」ほどの開きがあるだろうに、お値段の差はたったの「14万円」だからまことに恐れおののいてしまった(笑)。
大型スピーカーは人気がない!
このことからいったい何が推し量られるのか、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ではないが(笑)、勝手に類推させてもらおう。
1 マンション・オーディオの蔓延
今や都会は高層マンションだらけといっても過言ではないほどだが、そうすると大型スピーカーを置こうにもスペースがない、そして隣近所に遠慮して大きな音を出すわけにもいかずせっかくの大型機能が生かせない。
と、いったところだろうか。
人的交流を含めて豊かな文化と便利さが享受できる都会生活、その一方スペースに恵まれた1戸建てに住む機会があるものの文化程度が貧弱な地方の生活のどちらがいいか、それぞれ個人毎の価値判断に任されるところだろう。
もちろん自分の場合は「音楽&オーディオ」至上主義者なので後者を選んだが、やっぱりときどき一抹の淋しい思いにかられるのは否定できないなあ(笑)。
2 オーディオの衰退
先日、オーディオ仲間と話していたところオーディオ専門誌「無線と実験」の「(オーディオ機器を)売ります買います」欄で「遺品整理のため」という言葉がやたらに多くなったとのことだった。
中には「タダで進呈します。」とあったりもして、今は亡き亭主のオーディオ道楽の後始末に遺族がほとほと困っている様子が散見されると言っていた。
思わず「我が家もいずれ同じようなことが・・・」と、絶句したことだった(笑)。
1970年代のオーディオ全盛期を体験した年齢層は今や高齢者軍団と化しており、本格的なオーディオ愛好家は高齢者に集中しているといっても過言ではないが、これからも続々と途切れることなく鬼籍に入っていくのだからオーディオ人口が減るばかりである。
何しろ若い人たちはオーディオに価値を見出さないのが大半なので補給が追い付いていかない。
本格的なオーディオシステムで音楽を聴くと人生観が一変するほどの衝撃を受けると思うのだが、そういう機会もまずない。オーディオショップで聴く音はいくら豪華なシステムでも所詮は借り物の音で家庭でよくチューニングされた音には到底及ぶべくもない。
こういう負の連鎖を断ち切る方法はないものかと、僭越ながらいらぬ心配をしている今日この頃だ(笑)。
3 クラシック音楽の衰退
その昔「ブルーノ・ワルター」という指揮者がいたが、当時次のような警告を発していた。現代でも通用すると思うので紹介してみよう。
「いまや芸術に対して社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほとんど存在しない。
本来芸術作品が持っている人の心を動かし魂を高揚させる働きに代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。
これらは「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。
こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。」
以上のとおりだが、残念なことにクラシック音楽の地盤沈下は留まることを知らない。1950年代前後が黄金時代だとすると、取り巻く環境が激変している。
別にクラシックを聴かなくても生きていけるし、聡明にも、お金持ちにもなれるわけでもないが、人生を豊かに彩ってくれることだけはたしかである。
その流れで、最後に「村上春樹」さんの言葉を紹介して終わりにしよう。
「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?
それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。
もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。
価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。
それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。
それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」
「微妙な差をかぎ分けるのは何も音楽だけとは限りませんよ。オーディオだってそうですよ。」と、言ったらあまりにも「我田引水」になるのだろうか(笑)。
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