このブログを毎回読んでいただいている方はお気づきのことかと思うが、この10日間ほど毎日のごとくブログを更新している。これまでは2~3日に1回の割合だったのでかなりのハイペース。
もちろん意図あってのことである。
まず、このところちょっとマンネリ気味の感があったので何かしら変化を付けたかったことが一番。あえて老骨にムチを入れてみたわけ。
その次に、毎日の更新ではたして現在よりもどれだけアクセス数が伸びるかという興味があったこと。
その結果、1週間単位で集計したアクセス数の結果は次のとおり。
4月21日~27日 11314(閲覧数) 4366(訪問者数)
4月14日~20日 11217( 〃 ) 4206( 〃 )
な~んだ、たった160件(訪問者数)ほどの伸びに留まっていてあまり変わり映えしないじゃない!これには正直言ってガッカリ。
けっして無理しちゃいけない。マイペースが肝心であることを改めて悟った。
振り返ってみると、ブログを始めたのが2006年の10月だから、早いもので7年半になる。現在までの記事の数は965件でもうすぐ1000件に届く。
7年半といっても長いか短いか、諸説あるところだろうが「石の上にも3年」という言葉があるので、まあ軌道に乗ったと言えそう。
もちろん内容のほうは勝手なご託を“ぐだぐだ”と並べているだけなので眉をひそめる向きもあるかと思うが、こういうものはとにかく”遮二無二”続けることに意義があると思っている。
「継続は力なり」
とはいえ、何といっても時間に恵まれているという大きなアドバンテージを有しているのだから、あまり大きなことは言えない。今さらながら、こういう遊民を許容してくれている社会の懐の深さに感謝である。
それはともかくコツコツと7年以上も続いた理由はいったい何だろうかと、つい自問自答してみる今日この頃。
まず思い当たるのがインプットとアウトプットのバランス。
人間は「溜め込む」のも大切だが、それを「吐き出す」という行為も大切な気がする。しかし一介の市井の徒が「吐き出す」といってもその手段はごく限られるわけで、その点ブログは簡単だし社会との貴重な”かけはし"になっているので本当にありがたい。
見ず知らずの他県の方と交流ができることを非常に感謝している。
次に、二つ目の理由として考えられるのは、うまい下手は別にして「書くことがそれほど苦にならない」こと。昔からずっとそう。しかし、「しゃべる」のはあまり得意な方ではない。
一般的に仕事の世界では「書くこと」よりも、どちらかといえば「しゃべりがうまい」方が有能と見なされるのはたしかである。もちろん、両方とも得意という人が居てもちっとも不思議ではない。
だが、しかしである。
以前、仕事がらみで作家の城山三郎さん〔故人)の講演を聴いたことがある。
昭和の動乱期に宰相となった広田弘毅の生涯を描いた傑作「落日燃ゆ」や「官僚たちの夏」を愛読していたこともあって、大いに期待して聴かせてもらったが、小さな声でボソボソといった感じでメリハリに乏しくお世辞にも”お上手”とは言えなかった。内容のほうも今となってはトンと記憶がない。
なるほど、人間には「書く才能」と「しゃべる才能」とがあるが、あれほどの大作家でさえも「天は二物を与えない」ものだと悟り、それ以来、妙に達観したことを憶えている。
最後に、ブログを続ける三つ目の理由が「自己顕示欲」。ちょっとストレートな言葉だが、誰もが人生のあらゆる局面で無視できない存在だろう。
これが過ぎるとちょっと鼻につくがまあ、「自分という人間をもっとよく理解して欲しい」という願望がなせる業と思えば可愛いもの。
結局、自分も含めてブログをやってる人はすべて大なり小なり何らかの自己顕示欲がつきまとっているといっても過言ではあるまい。
ただし、その表現の方法は千差万別。
現在、音楽関係のランキングに三つほど参加させてもらっている。「他の人のブログ」にはほとんど興味がないものの、タイトルに興味を惹かれて時たま拝読させてもらっているが、いろんな自己顕示のスタイルがあって興味深い。
基本的に匿名だし、かつ「生い立ち」情報も皆無なのでまったく見ず知らずの手探り状態の方ばかりだが、記事情報を手がかりにいろいろと推測させてもらい「ハハア、この人はこういう個性の持ち主なんだなあ」と勝手に生身の人間像を想像していて、これはまるで「ミステリー」に通じる世界(笑)。
中には、ブログのタイトルとか紹介文の中に直接「個人名」を堂々と出す方が居る。こういう方はおそらく小さい頃から「自己顕示」に臆することなく伸び伸びと育ってこられた方だろう。
一方では、自己韜晦の文学として有名な「徒然草」を書いた兼好法師みたいな人もいる。自分を巧妙に韜晦しながらも自己顕示を試みるタイプである。いわゆるヒネクレ者という感じかな。
「韜晦」(とうかい)とは、あまり使わない言葉だが広辞苑によると「自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと」とある。
そもそも自己韜晦するぐらいなら、「徒然草」を書かなければいいのにという矛盾があるのだが、その辺はさすがに兼好法師はしぶとい。
明らかにこの随筆が後世に遺ることを意識しつつ、十重二重に自己を隠しながらも独自の人生観を展開していく。
「等身大よりももっと自分を小さく見せようとする」そういう「奥ゆかしさ」のほうが印象の度合いが深くなることを熟知しているのが実に小憎らしくて知能犯的。
実は、こういうタイプがひそかな”あこがれ”なので、自分もブログを通じてそういうイメージを演出したいのだが、それどころか、むしろ等身大以上の自分を見せようと厚かましく展開しているのが実状である。
とても兼好さんには敵わない(笑)。