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蝦夷地を北海道と名付けた松浦武四郎~アイヌ搾取の暴虐に抵抗する

2023-02-10 | アイヌ民族関連
BUSHOO!JAPAN2023/02/09

北海道が成立してから、150年という歳月が流れました。
それを記念して2019年7月15日(北海道では6月7日)に放映されたのが、NHKドラマ『永遠のニシパ』。
この年に放映されたのは偶然ではない気がします。
というのも2019年は、アイヌ新法案が提出された年だからです。
アイヌは先住民族である――。
歴史的経緯を見てごく当たり前のこの真実、この年まで法で定められてはおりませんでした。
それどころか同法案を【日本人の対立を招く】として、差別的にバッシングする動きもあるほど。
もしも彼が生きていれば、こんな現代を見てどう思うか。
『まったく変わっていないではないか!』
松浦武四郎――。
まだ「蝦夷地」と呼ばれた土地を探検し、「北海道」の命名者となった江戸期の人物で、明治21年(1888年)2月10日が命日。
本稿ではその生涯を振り返ってみましょう。
文化年間に生まれた松浦武四郎
江戸時代というと、こんなイメージがあるかもしれません。
幕末だ、何だとドタバタし始めたのはペリーの来航以降のことで、それまでの日本人は太平に慣れきっていた。
と、これが実はそうでもありません。
19世紀はじめ、ヨーロッパはナポレオン戦争で荒れ果て、その余波は、地球を回って日本にも到達。知識人はナポレオンの伝記を読み漁る等して、動乱を感じておりました。
こうした話は、武士階級だけではありません。
豪農でも、国際情勢や愛国心に目覚める人物がおりました。
後に西郷隆盛の命令で江戸でテロ活動をした相楽総三もその一人でしょう。
あるいは、それまで平穏に生きていたにも関わらず、情熱をたぎらせ上洛した松尾多勢子のような女性もいたほどでした。
文化15年(1818年)――。
伊勢国の徳川家領地士・松浦桂介時春の三男として生まれたその赤ん坊・武四郎も、こうした時代の申し子でした。
地士とは、苗字帯刀を許された庄屋(村の長)のことです。
彼が生まれた時代は、ナポレオン戦争終結の3年後。歴史的に見ても、ターニングポイントの時期です。
ロシアと国境を接していた蝦夷地の松前藩は、不凍港を目指すロシア南下の脅威にさらされつつありました。
松前藩が所領を幕府に召し上げられ、海防のため奥羽諸藩が蝦夷地を支配した時期もあったのです。
それが一時停止したのは、ロシアがナポレオン戦争に巻き込まれたから。
松前藩にとって一息つけた時期が終わり始めた頃に、彼は生まれたのでした。
夢は諸国放浪! 海を越えたい!
父の松浦桂介は、秀才でした。
本居宣長のもとで国学を学び、茶道を嗜む風流な人でもあったのです。
その末っ子である松浦武四郎は、父の愛を受けたやんちゃな子として育ちます。
彼は幼時に剃髪し、寺で学問を学んだこともありました。
学問のみならず、慈愛の心を学んだことが、その性格に影響を与えたことでしょう。
津藩の儒学者・平松楽斎の塾で、13歳から三年間学んだことも。
しかし、この師匠からは破門されています。理由は不明。どうにも我慢がならないと耐えきれない性格のようです。
とても塾でジンワリと学んでいられるようなタイプではない。
13歳の彼にこんな話があります。
そのとき武四郎は「文政のお蔭参り」をジッと見つめていました。いわゆる【伊勢参り】をする旅人の姿に、強い憧れを抱いていたのです。
夢は、諸国放浪だ――。
として天保4年(1833年)に家出し、一ヶ月ほどで連れ戻されています。こんな性格では、師匠も怒ったことでしょう。
松浦の夢は大きいものでした。
江戸、京都、大阪、長崎……それどころか、唐や天竺まで行きたいと手紙に書いていたほど。
外国――日本の外まで見たい!
まだ鎖国の時代に、そう夢見る少年だったのです。
そんな我が子の夢を、親も受け入れざるを得ません。
嫡男ならばまだしも、兄がいる末っ子です。そういう気楽さも、彼には幸いしたのでしょう。
17歳から21歳にかけては、仙台から鹿児島まで。旅の費用は、篆刻や四書五経、漢詩の講義で稼いでおりました。
知的かつ器用で、かつ親の仕送りをあてにしていなかったわけですね。
18歳の時は、あの天保の改革でお馴染みの水野忠邦の奥向で半年ほど奉公したことも。
21歳になると、長崎で大病に罹ってしまいます。回復後、しばらく仏僧として、看病をしてくれた周囲にお礼として仕えていたこともあります。
とはいえ、目的はそれだけとも思えません。
「大塩平八郎の乱」の影響もあり、幕府の目が厳しい中、淡々と海を越えられないかと期待し、3年間待っていたとも考えられます。
勉強をしたい。
できれば出世もしたい。
それでも、やっぱり旅をしたい!
そんな好奇心旺盛な青年であったのです。
蝦夷地への旅
そんな彼に転機が訪れたのが、天保14年(1843年)のことでした。
この3年前にはアヘン戦争が勃発。捕鯨船の出没も増え、「外国船打払令」では対応できなくなりつつあった頃です。
そしてここが重要な点です。
アメリカやイギリスよりもっと前に、日本に迫っていた外国の脅威――。
それがロシアでした。
ペリーの黒船に注目が集まるためあまり知られておりませんが、文化年間(1804-1818年)辺りから、樺太や択捉にロシア戦艦が出没する事件が相次いでいます(「文化露寇」)。
漂流民も増えています。
蝦夷地にロシアが迫っているらしい――よし、これより蝦夷地を回ってみよう。
そして、そのことをいつかこの国のために役立てようではないか。
松浦はそう考えると実家に戻って、現地への上陸を決意。弘化2年(1845年)に津軽から、松前藩領・江差に渡ったのでした。
ここで、考えておきたいことがあります。
ゴローニンらが漂着し、幕府もロシアに対する危険を察知している。
それなのに、奥歯に物が挟まったような感覚がある。
それが幕末の北方事情です。
松浦武四郎が、その目と足、そして筆で暴くのです。
蝦夷地で出会った人々。
それはアイヌでした。
彼の渡航歴は以下のように3度あります。
1回目:1845年6月〜10月
2回目:1846年4月〜9月
3回目:1849年閏4月〜6月
松浦は蝦夷地を隅々まで歩き回り、アイヌの知恵、勇気、優しさ、助け合いの精神に感銘を受けました。
蝦夷地とは、まさしくアイヌモシリ(人間の静かなる大地)だったのです。
アイヌも、松浦を歓迎しました。
「酷いシャモ(和人のこと、地方によって呼び方は異なる)も多いもの。でも、そんなニシパ(旦那)の中で、あなたはよい人だ」
アイヌは親切にもてなし、料理をふるまい、興味深い話を聞かせてくれるのです。彼らの言葉を学びながら、松浦は『蝦夷日誌』はじめとする多くの著作に残しました。
生き生きとした筆致でアイヌの姿が記録されています。
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例えばアイヌの記録とは以下のようなものがありました。
マキリ(小刀)だけでヒグマと対峙し追い払い、子グマをコタンまで連れ帰った烈婦。
親のために狩りをして、食料を求め、届ける孝子。
関羽の髭を見て憧れて伸ばし、その髭で子供を遊ばせる酋長。
松浦の知的好奇心は、そんなアイヌの話を聞いて膨らんでいきます。
賢いアイヌもいる。
素晴らしいアイヌもいる。
勇敢なアイヌもいる。
髷を結っていない。
服が左前である。
耳環をしている。
そういう服装や風習の違いだけで、野蛮だと見下すなんて、なんと愚かでくだらないことだろう。
アイヌは素晴らしい。
松浦はそんな信念を抱き、様々な列伝を記録したのです。
『ゴールデンカムイ』のアシリパは、女性でありながら狩人です。アイヌ女性は狩りをしないと思われてきました。
一方、口承文芸では、存在していました。
松浦の記録にも、狩りをするアイヌ女性が出てきます。少なく、一般的ではない、されどいなかったわけではない。
漫画『ゴールデンカムイ』アシリパのリアリティは、松浦の記録からもわかるのです。
アイヌをなぜ苦しめるのか?
松浦は、アイヌの美徳を残すだけで終わりませんでした。
アイヌが、松前藩によって、和人によって、どれほど苦しめられ、傷つけられてきたことか。
幾度も旅をすることで、陰惨な扱いを目にし、怒りを覚えるようになっていきます。
夫に対して貞節を守ろうと、奮闘するアイヌ女性の逸話も多く含まれています。
なぜ、そうなるのか?
多くの和人が、アイヌ女性の美貌に目をつけました。
少女が16にもなれば、そろそろよい年頃だと狙い始めるのです。夫を労働に連れ出し、留守を守る妻を誘う。それでも断られたら脅し、殴りつけました。
そんな脅しに対して、マキリ(短刀)で撃退した女性。その健気さ、必死の抵抗。
和人からの性的暴行により、梅毒に感染した被害者もおります。
アイヌにとっては未知の症状であるため恐れられ、隔離され、一人身を腐らせながら死んでいきました。
妻が和人の妾にさせられ、抗議を聞き入れられず、木で首を吊り、死を選んだアイヌ男性もおりました。
そうかと思えば妻を和人に略奪されることを防ぐため、敢えて障害のある妻を選ぶアイヌ男性も……。
こうした搾取の結果、人口が激減し、滅亡に瀕していったコタン(集落)もあります。
ろくな食事も与えられず、ぎりぎりの給与を与えられ酷使され、どうせ頭が悪いからわからないだろうと、騙し続けられるアイヌの人々。
日本に奴隷制度はなかったと言えるのか?
アイヌ女性のこうした境遇は、アメリカの歴史をも思い出させるものです。
聡明で観察眼を持つ松浦は、これは和人の残酷さと無知だけの問題ではないと見抜きました。
背景にあるのは、松前藩というシステム。
「場所請負制」という藩が富を吸い上げる仕組みが、暴虐につながっていたのです。
実は、藩そのものが、アイヌからの搾取を前提として成立していました。
しかも、ロシアに対抗するため、その状況は時代が進んで改善どころか悪化するばかり。
アイヌを救うためには、何をすればよいのか?
松浦は考え抜きます。
黒船来航、変わりゆく幕末の中で
三度目の蝦夷地探検を終えたあと、松浦はその成果『蝦夷日誌』を水戸藩主・徳川斉昭に献上しました。
水戸藩といえば、幕末の尊王攘夷運動の先駆けとなった藩。
黒船来航以来、日本は国防問題への関心を高めていました。
プチャーチンも来日する中で、蝦夷地探検を進めてきた松浦は、注目を集め始めます。
幕府も無策ではありません。
「御雇」として松浦を蝦夷地探検させようとし、これに待ったをかけたのが、松前藩です。
「場所請負制」によるアイヌへの暴虐を暴かれたため、松浦に対して敵意を抱いておりました。
この松前藩の妨害も、意味をなさなくなってゆきます。
安政2年(1855年)、幕府は「日米和親条約」による開港に備え、函館を幕府直轄領にします。
そして松浦は、箱館奉行所支配組・向山源太夫の推挙もあって、登用されたのです。
前述したようなアイヌの苦境をまとめた松浦は、幕府が松前藩から彼らを救うのではないかと期待を寄せていました。
しかし、そうはならず病気を理由に、江戸に戻ってしまうのです。
松浦には、失望感がありました。
悪逆な松前藩とは異なり、幕府はアイヌに仁政を施すのではないか?という期待は裏切られたのです。
さらに【安政の大獄】が起きます。
頼三樹三郎はじめ、友人知人が処刑されたことで、彼は幕府にも失望しました。
このころから、松浦は出版に精力を注ぎます。
学術的な書物だけではなく、紀行文、漫画(イラスト入りの本)、双六といったカジュアルなもので、蝦夷地を知ってもらおうとしたのでした。
江戸と大阪でヒットし、懐も潤った松浦。
しかし、金儲けや名声だけが目当てだったとも思えません。
庶民にまで、アイヌの知識が広まりますように。そのためには、金が必要になる。
そんな彼の考え方が窺えます。
新たな世でも、アイヌは救われないのか?
松浦を捉える上で難しいところ。
それは「どの勢力に与していたのか」把握しにくい点です。
頼三樹三郎と懇意にしていたこともあり、水戸藩とつながりがあります。こうした経歴を大々的に解釈されることが、戦前は目立ったものです。
「尊王攘夷の志士」という紹介も、よくなされています。
それならば、幕府に登用されて喜ぶのだろうか。
箱館奉行所支配組・向山源太夫とも、彼は懇意にしていました。
さらに複雑なのは、明治政府からの招聘に応じて出仕し、しかもすぐに職を辞しているところです。
結局、松浦は何なのか?
どういう考え方なのか?
慶応4年(1868年)、幕府から明治政府へと変わる中、松浦はその知識と経験を大久保利通に見出されました。
北海道」と名付ける
箱館戦争が終結すると「蝦夷開拓御用掛」、開拓使の「開拓大主展(だいさかん)」、「開拓判官」と、松浦は新政府の役職を歴任しました。
蝦夷地という名称は、変えなくてはならない。
これこそが急務でした。
明治時代初期は、古代律令制の名称をふまえたものでした。そこで「五畿七道」から「道」を採用し、国郡とすべしというところまで決めたわけです。
地名制定は、松浦以上の適任者はいません。
・日高見道
・北加伊道
・海北道
・海島道
・東北道
・千島道
彼の提出した六案のうち「北加伊道」から「ほっかいどう」という読みを、「海北道」から表記を取り入れ、「北海道」が誕生したのです。
その他にも、松浦が提案した多くの地名が、取り入れられました。
彼が蝦夷地を探検し、アイヌの地名を記録したものがかくして残されたのです。
北海道のあちこちに、アイヌ由来の地名が残っていること。これは、アイヌの命名と、松浦武四郎の探検と記録ゆえなのです。
アイヌと和人――。
二つの民族あっての北海道なのです。
松浦の目指した北海道は
こうした活躍から、金百円と従五位の官位を得た松浦。
しかし開拓使では、藩閥争いが発生していました。
長州系の兵部省と佐賀系の北海道開拓使の対立は、深刻なものでした。
対立構造は、こうなります。
【開拓判官】
松浦武四郎
島義勇※「北海道開拓の父」とされ、札幌都市開発に関わった、佐賀藩出身
vs
【開拓長官】
東久世通禧※「七卿落ち」で長州に逃れた公卿の一人
これは、あまりに酷い人選であったと思わざるを得ません。
幕末明治初期にかけて、勝者となった長州藩の背後には、攘夷思想に凝り固まった公卿たちがおりました。
彼らは京都を出ることもなく、国際情勢を学ぶこともありません。
「獣のような穢らわしい夷人が、この神の国に上陸するとは! あきまへん」
「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」
そんな感情論と優越感だけで、無謀な攘夷の後押しをしていたのです。
こうした公卿は、岩倉具視のような稀有な例外を除けば、実務能力など皆無。
よりにもよって、そんな公卿を北海道開拓を任せるとは最悪です。松浦と理解し合えたはずもない。
戊辰戦争には、差別感情がつきまといました。
大和朝廷以来、東北には野蛮な蝦夷がいるのだから、それを倒すという感覚がそこにはあったのです。
自分たちこそ大和朝廷以来の洗練された日本人だと思う、その頂点に位置する公卿。
彼らにアイヌの権利を説いたところで、蝦夷と一蹴されてもおかしくはありません。
北海道開拓は、こうした政治的な権力争いの中、混沌の中で始まりました。
開拓のため、真っ先に送り込まれたのが戊辰戦争で敗北した東北諸藩の武士たちです。
彼らに、食料や寒冷地対策を教えたのは、開拓使ではなくアイヌです。
その親切心と知恵を知ればこそ、松浦の焦燥感は増すばかり。
アイヌを苦しめ抜いた松前藩は、幕末の混乱の最中、大打撃を受けながらも一応官軍側についたと言えます。
そのため、転封とならなかったのです。
「場所請負制」も、廃止となりません。松前藩は、打撃を受けた際にアイヌの搾取で立て直すことが、身についていました。
松浦の苦悩は、いかばかりであったか――。
早くも明治2年(1870年)には、官位を返上し、辞表を提出してしまうのです。
彼が明治維新に期待を寄せたのは、「安政の大獄」だけが原因ではありません。
松前藩を放置し、結果、アイヌを苦しめている幕藩体制。その打破を願ったからこそでした。
しかし、その松前藩は官軍側についた。そのために、新政府は処罰するどころか、残してしまう。アイヌを救うために、力と正義に期待する。
それを繰り返して、松浦はことごとく裏切られました。
幕府に期待しても、幕末の混乱のさなかにどうにもならない。新政府も、結局は駄目だった。アイヌをどうあがいても救えない。
松浦は疲れ果ててしまいました。
退官後、新政府から功績に対し「終身十五人扶持」を受けます。
松浦は北海道を後にします。
そして、二度とそこに戻ることは、ありませんでした。
「一畳敷」に座る探検家
退官後も、松浦は探検家として身についた生き方を捨てませんでした。
しかし、その旅路はまるで精神世界へ向かうようなもの。熊野、奈良の霊場、菅原道真関連の史跡巡りを繰り返したのです。
そんななか「好古家」(骨董マニア)としても知られるようになっていきます。
学究心の塊であった松浦は、
・勾玉
・青銅鏡
・石器
・古書物
等々、ありとあらゆる骨董品を集めたのです。
そのマニアぶりは「乞食松浦」というあだ名までつけられたほど。晩年の旅は、こうしたコレクション収集の一環でもありました。
そんな彼の究極の部屋が、東京神田の自宅に建てた「一畳敷」です。
友人から提供された寺社仏閣由来の古材で建てられた、まさに集大成とも言える場所。
大正期の随筆家・内田露庵をして「好事の絶頂」とされた、究極のコレクションルームでした。
古希を迎え、死を悟った松浦。
生涯を歩き尽くしてきた彼にとって、最期の旅の場所のようなものです。
肉体は歩けなくとも、魂はこの小さな場所で、飛び回っていたのでしょう。
明治21年(1888年)、松浦は享年71という生涯を終えました。
生前の松浦は「一畳敷」を破壊し、その木材で遺体を焼き、遺骨ともに大台ケ原山に埋めるように言い残していました。
しかし、それは実現していません。
彼の書斎「一畳敷」は何度かの移転を経て保存されています。
関東大震災、東京大空襲から逃れ、今も国際基督教大学敷地内に「高風居」として残されているのです。
松浦の生涯を振り返る理由とは
蝦夷地を歩き抜いた松浦は、北海道から身を置きました。
その背後には、失望感と苦しみもあったことでしょう。
松浦が職を辞した後、明治政府首脳部は「岩倉使節団」をアメリカに派遣します。
そこで彼らが目にしたのは、日本人によく似たネイティブ・アメリカンが迫害される姿でした。
はじめこそ憤っていたものの、こうした西洋諸国の姿から、明治日本は学んでしまったのです。
偽科学に基づく「合理的な人種差別」という概念を。文明国である欧米もそうなのだから、そういうものなのだと。
こうしてアイヌは、政府により人間動物園で展示されました。
アイヌの墓から骨が盗掘され、「学問のための資料」として研究されてしまいました。
その蹂躙はまだ決着がついていません。
屯田兵はじめ、多くの和人がアイヌの知恵で救われたにも関わらず、そうした歴史は消されてゆきます。
一方的に和人が恩義を施してやったと、歴史修正がなされてゆくのです。
このやり口も、欧米諸国から学んだものでした。
その一方で、アイヌは「日本人だから」という理由で、戦場に送り込まれていく。
功績をあげても一時的に褒められるだけで、その待遇には露骨な差別がある。
この北海道の歴史を、アイヌの苦難を、松浦武四郎が目にしていたら?
彼はどう思うのでしょう。
松浦の苦悩に似た苦い味を、アイヌとその差別解消に尽力する側はまだまだ噛み締めねばなりません。
太平洋戦争後――GHQの支配下のもと、アイヌは権利向上に期待を寄せます。
しかし、そうはなりませんでした。
珍しい踊りや儀式を見せる観光資源としてのみ、期待される。その一方で、差別をされたのです。
一体いつになれば、アイヌは正義ある扱いを受けられるのか?
もしも松浦武四郎が生きていたら、激怒する歴史が、まだ刻まれているのです。
そうした歴史を経て、2019年に彼の生涯がドラマになること。これは画期的な一歩ではあります。
金田一京助ではなく、なぜ松浦武四郎なのか。
明治以降のアイヌ研究者は、研究材料として彼らを扱い、許可なしに文物を収集することも珍しくありません。
金田一の収集や研究も適切であったか?
そこはアイヌの見解をふまえねばならないでしょう。
そこをふまえますと、適任者は松浦武四郎なのです。
彼は、和人とは思えぬほど親切なニシパであると、評価されていました。
これは彼だけの証言とは思えない部分があります。
著作や証言をみてゆくと、松浦は無私無欲、知的好奇心に突き動かされ、アイヌの保護と研究に生きていたことがわかります。金銭は、あくまで探求費用でしかありません。
家を残すことも二の次と考えていた節があります。
40を過ぎてから女性側のアプローチで、やっと結婚したほどでした。
彼は己の探究心と、その果てみ見出したアイヌのことを考え抜き、生きた人物でした。
そういう彼は世間から見れば異色で、理解しがたいものがあったのかもしれない。
攘夷志士であることを強調した戦前の伝記は、迷いながらキャラクター付けをしたあとすら感じるほどです。
松浦武四郎という人物は、江戸から明治においても、戦前ですら、理解しにくい先進性のある人物であったのではないでしょうか。
ヒューマニスト、人間とは何であるかをひたすら追い求めた。そんな人物だと感じます。
彼以上に、北海道の誕生にふさわしい人物はいないでしょう。
それは、彼が北海道の名付け親という名誉を担っているからだけではありません。
松浦は、あまりに先進的でした。
人は人らしくあるべきだ。
人種による差別ほど愚かしいものはない。
そう理解していたからこそ、アイヌのことを考えてきました。
人間は、人間だ。
そう人類が学び、到達できたのは、松浦が世を去ったずっとあとのことです。
松浦は、その先進性ゆえに苦労を重ねました。
しかし、だからこそ、現在でも錆びつくことのない、そんな人物なのです。
松浦武四郎と『ゴールデンカムイ』杉元佐一の比較
ここから先は、蛇足かつ彼自身の人生とは離れるものです。
松浦武四郎は、北海道の歴史を扱う漫画および『ゴールデンカムイ』主人公・杉元佐一との共通点もある人物ではないでしょうか。
作者の野田先生がそこをふまえているのかどうかは、わかりません。
ただ、そうであっては不思議でない要素があります。
・家の束縛を受けない立場ではぐれもの
→松浦は嫡男ではなく浪人の期間が長い。杉元は家そのものを失い、かつ除隊済み。
・激烈な怒りの持ち主
→両者ともに、特にアイヌに対する迫害には激怒を見せます。
・名誉欲が薄い
→官位返上した松浦。軍人としての功績や勲章に未練を見せない杉元。
・金銭欲も薄い
→実際にそんな記録の残る松浦。アイヌの金塊を必要以上には望まない杉元。
・頑健でサバイバルスキルに長けている
→幾度にも渡る探検をこなした松浦。満身創痍でも死なない杉元。生まれついて頑健なだけではなく、サバイバルスキルを身につけていきます。
・アイヌへの敬意
→著作の数々でそれを残した松浦。アシリパを「知恵を持つ戦士」として敬意を示す杉元。
・恋愛感情が薄い
→40過ぎるまで妻帯を考えたことすらなかった松浦。アシリパ側からの好意はうっすらと描かれていますが、実は杉元側からの描写は一切ありません。
・合理的で柔軟性がある
→松浦の生き方からは、「二君に仕えず」という理論が感じられません。尊王攘夷の志士という捉え方もありますが、そう単純なわけではない。幕府側の箱館奉行とも懇意であり、維新後も幕臣である勝海舟と親しく交流しています。
松前藩とは次第に対立を深めてゆきますが、はじめのうちは交流があったわけです。
そういう彼の言動を見ていると、あまりに態度を変えすぎているように思えなくもありません。
ただ、これも彼にすれば当然のこと。
目的達成のためならば、手を組む相手を変えることは何の不思議もありません。
これは、杉元にも同じことが言えます。
もしも裏切っていると察知すれば、仲間だろうと倒すと笑顔で言い切ります。その反面、あれほど死闘を繰り広げてきた第七師団と手を組むのです。
目的のためならば、仲間を選ばない。
そんな合理性が両者ともにあります。
・アイヌよ、そのまま生きてくれ!
→松浦は、儒教的な倫理に従って導けば同じ人間であると著書に書いてはいます。
ただ、本気でそう思っているとは考えにくい。そんな要素があります。
アイヌがありのままに生きることこそ最善の道だと信じている。そんな考え方が伝わってくるのです。
杉元も、アシリパに和人として生きろとは言いません。
ウイルクがアシリパを戦士にしたいと知った時は、あのまま生きていって欲しいと自分の願いをぶつけています。
両者ともに、あれほどの苦労をいとわないにも関わらず、その願望はシンプルなことなのです。
こうした要素はかなり重要です。
こういう要素があればこそ、アイヌを差別せずに、描くことができる。そんな配慮を感じます。
杉元とその一行は、作中でもアイヌに差別意識がないように描かれています。
・杉元および彼の一行は、アイヌ女性を性的に搾取しない
→谷垣の場合、彼もインカラマッとの恋愛関係は相互の許可と意志を確認した相思相愛である。
アイヌ女性の性的虐待をふまえると、これは重要な点。
アイヌ女性の授乳をいやらしい目で見ていた白石ィ! おいちょっとお前、杉元に殴られて来い。
・杉元および彼の一行は、アイヌを金銭的に搾取しない
→鯉登は、樺太アイヌであるエノノカが提示した犬橇の経費をそのまま支払っています。
それどころか、交渉のあとは握手までして、対等の契約であるように思えます。
かなりの高額。アイヌを搾取した和人が多い中で、これは重要です。
・杉元および彼の一行は、アイヌと同じ環境で行動している
→食卓や寝台を、人種によって分けることはありません。
実は、彼らは差別からほど遠い行動をとっているのです。
白石が差別発言をした際には、杉元がきっちりと制裁をしております。
松浦は、自分の著作が漫画(イラスト入りの本)や双六に利用され、庶民の間に広まってゆくことを歓迎していました。
漫画やアニメを通して、アイヌの知識が広まる『ゴールデンカムイ』は、現代版松浦武四郎の作品とも言えるのではないでしょうか。
「金塊争奪戦だ!」
それが表向きのアピールでありながらも、主役である杉元はそこまで金塊に執着していない。
むしろ彼は、アイヌであるアシリパがそのまま生きてゆくこと。
そこに、全力を注いでいるのです。
杉元佐一は、現代の目線から見ても差別意識がない、先進的なヒューマニストです。
その勇気のみならず、差別と無縁の言動が、大きな魅力と言えます。
そしてここで忘れてはならないのが、明治生まれの杉元佐一の以前に、文化生まれの松浦武四郎が実在したということです。
彼はまさしく、そういった意味で素晴らしい人物です。
松浦武四郎の思いを忘れるな
なぜ、杉元は松浦武四郎に近いのか。
そういう振る舞いを見せてこそ、2010年代という時代において、ふさわしいヒーローであるからではないでしょうか。
松浦武四郎にせよ、杉元佐一にせよ。
こういう極めて差別から程遠い和人がいたからと、そこで安心して救われてはなりません。
「白人救世主」という概念があります。
人種差別を行う人物が多い舞台の中で、差別される側に理解を示すマジョリティを描くこと。
『ドライビングMissデイジー』
『ジャンゴ』
『ヘルプ』
『グリーンブック』
といった名作とされる映画でも、このことは指摘されています。
この概念を、噛み締めねばなりません。
よい和人もいた。
だから何なのか。
松浦に安心している場合じゃない。彼を安易な救世主にして、安心してはなりません。
できることならば、松浦武四郎ではなく、アイヌ目線でアイヌ自身を描いたドラマが見たい。
スパイク・リー作品のような、痛みを感じるほど厳しいアイヌ差別と戦う映画が見たい。
こうした流れを踏まえ、そう言いたくなる。
ただ、残念なことに、日本はそこまでの段階に達していない。
だからといって諦めてはいけません。
『永遠のニシパ』には、エカシ役に宇梶剛士さんがキャスティングされました。アイヌに、アイヌが配役されること。これは画期的な一歩です。
まだここまで――と、そう思うのか。
ようやくここまで来られたか。ここから進むぞ――と、前向きに捉えるのか
松浦武四郎の生き方を通じて、和人が暗い歴史と問題を受け止めるのであれば、それは素晴らしいことです。
アイヌの問題は、アイヌだけのものではない。
和人の、いや人間のことなのだ。
そんな松浦武四郎の思いを、忘れてはならないでしょう。
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/02/09/123350
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