goo blog サービス終了のお知らせ 

先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

「ガチ中華」を代表する味坊・梁さんが愛されキャラとなった秘密

2023-02-24 | 先住民族関連
フォーブス2/23(木) 10:00配信

 1月下旬、秋葉原の「香福味坊」で梁宝璋さんの「外食アワード2022」受賞を祝う食事会があった
日本の外食シーンに貢献した人物を表彰する「外食アワード2022」 を受賞した「味坊集団」の梁宝璋さんは、日本の「ガチ中華」を代表する人物である。
都内に中国各地の地方料理の店を10店舗経営する梁さん、その仕事に向き合う姿勢や飽くなき挑戦の原動力は何なのだろうか。
梁さんは1980年代から90年代に来日した新華僑のひとりで、筆者が言う「ガチ中華」の第一世代でもある。彼の個人ヒストリーを紐解きながら、「ガチ中華」が日本に現れた歴史的背景について考えてみたい。
■梁さんの母親は残留孤児だった
筆者が梁さんと知り合ったのは2年半前のことだ。いまでは古くからの友人のような関係になっているが、急速に親しくなれたのは、彼と年齢が同じだったこともある。また、筆者が「地球の歩き方」の取材を通して中国東北地方の現地事情に精通しており、梁さんの出身地である黒龍江省のチチハルも以前から何度か訪ねていたからだとも思う。
チチハルは黒龍江省西部に位置する同省第2の都市で、清国時代には役人が駐在する同省の中心地だった。黒龍江省といえば、現在の省都のハルビンが有名だが、ここはロシアが東清鉄道を敷くために20世紀初頭に建設された新しい都市なのである。
チチハルはいまでは中国国内には数少なくなった耕作地化されていない草原が残るフルンボイル平原の広がる内モンゴル自治区東北部と接している。漢族とこの土地の先住民族であるモンゴル族や満州族のほか、ダフール族やエヴェンキ族といった大興安嶺という黒龍江(アムール川)を隔ててシベリアに連なる深い森にかつて暮らしていた少数民族も住む。市街地の北部に扎龍自然保護区という湿原があって、夏はタンチョウヅルなどの飛来地になっている。
幼少期の梁さんは絵を描くのが好きなおとなしい子供だったそうだ。幼なじみに同じチチハル出身の現代美術のアーティストとして知られる王舒野さんがいる。王さんは北京中央工芸美術学院(現・清華大学美術学院)を卒業後、1990年に来日。現在は鎌倉に在住し、哲学的な作風の抽象絵画を制作している。
2人は小中学生時代、同じ学校に通っていた。当時それほど深いつきあいはなく、来日してから交流が始まったそうだ。実は、梁さん自身もチチハルの美術専門学校を卒業しており、商業美術を学んでいる。2人が話の合うのは、同郷だからという理由だけでもなさそうだ。梁さんの経営する御徒町の北京風居酒屋「老酒舗」にも王さんはたまに現れるという。
梁さんが来日したのは1995年12月。その頃、留学以外の目的で来日した人たちには、日本となんらかの縁があったが、彼の場合、母親が残留孤児だった。残留孤児とは、第2次世界大戦の敗戦前後の混乱で親と離ればなれになり、中国に取り残された日本人の子どもだ。
1972年の国交正常化をきっかけに多くの残留孤児が帰国した。ちなみに東京・蒲田にある羽根付きギョーザで有名な中華料理店「你好(ニイハオ)」の八木功さんも残留孤児の1人だ。
残留孤児である梁さんの母親が帰国したのは1994年と少し遅かったのは、自分の育ての親を看取るまでは中国で一緒に暮らしたいと考えていたからだという。来日する前、梁さんは「日本に行けばいい生活ができるだろう」と考えていたそうで、妻子とともに母親を追って日本へ。彼自身は32歳で、娘さんは6歳のときだった。
来日当初は働きづめの日々
梁さんが「日本に行けばいい生活が」と考えたのは無理もないことで、1963年生まれの彼は、幼少期に文化大革命の時代(1966年~76年)を過ごしている。中国東北地方の同世代の人たちが当時を振り返って共通して語るのは「子供の頃はトウモロコシのお粥か餅くらいしか食べられなかった」という話である。
しかも、1980年代の改革開放以降、東北地方の経済は地盤沈下を始める。もともと日本が建国した満洲国時代の近代工業インフラが整備され、それまで社会主義の優等生とみなされていた東北地方で、今日とは真逆の国有企業の改革が始まったからだ。
中国の著名な映像作家、王兵の「鉄西区」(2003年)というドキュメンタリー作品は、満鉄によって1930年代に開発された遼寧省瀋陽(当時は奉天)の重工業地帯である鉄西区が衰退し、地区内の90%近い工場が操業を停止、町に失業者があふれた1990年代後半の中国の社会主義の最末期の裏寂しい光景を記録している。
この頃から多くの東北人は故郷を離れることになったのである。実は、これが日本の「ガチ中華」のオーナーやスタッフに中国東北地方出身者が多い理由でもある。
来日当初の梁さんは、一家で足立区の公団住宅に住み、昼間は夫婦で車両部品工場や清掃の仕事をし、夜勤でパン工場に通うなど、働きづめだったそうだ。当時まだ日本語はうまく話せなかったこともあり、家族を養っていけるのか不安だったという。このままではいけないと思い、こういうときに中国の人は飲食の仕事を始めることが多いという。それならなんとか食べていけるはず……と考えて。
1997年、梁さんは足立区でラーメン屋「味坊」を開業している。店名を名付けてくれたのは、前述のアーティストの王舒野さんだった。梁さんはその店名が大いに気に入ったという。
夫人と交替で24時間近い営業を続けた。当時から中国東北料理を少しずつ出していたが、あまり注文されることはなかった。むしろ日本人の口に合わせた豚バラ先軟骨でダシをとった醤油ラーメンが人気で、売り上げも伸びたという。
こうした努力が実って、2000年1月9日、都心のJR神田駅ガード下に「神田味坊」をオープンさせた。「いまでも忘れないのは、初日が大雪だったこと」と梁さんは感慨深げに話す。
■羊肉料理と自然派ワインの出会い
梁さんの話を聞いていくうちに、神田味坊から始まって今年で23年目になる味坊集団の歩みには、大きく3つのフェイズがあったことがわかってくる。
第1期は2010年くらいまでの頃で、中国駐在帰りの人や中国好きの常連に愛された時期である。バブル経済崩壊後の日本で、かつての高度成長期の日本人のように懸命に働く中国の人たちに温かいまなざしを向けた人たちに支えられたと言っていいだろう。
この時期、ひとりのユニークな日本人も店を訪れている。四川フェスや羊フェスタといった「ガチ中華」関係の食イベントを数々企画し、今年1月上野公園で開催した「ウエノデ.パンダ春節祭2023」では15万人を超える集客を達成させた菊池一弘さんだ。
彼は北京留学の経験から日本で羊食を促進させたいという志を掲げ、羊齧協会(ひつじかじりきょうかい)なる団体を立ち上げて、2012年頃から正式な活動を始めている。いわば「ガチ中華」の広報活動の先駆けともいえる人物で、羊料理をメインとした食事会を主催するなど、神田味坊を盛り上げてきた。
味坊の料理を食べると、ワインが飲みたくなる
味坊集団はその後、次なる第2期のステージに移っていく。
それは2011年の東日本大震災直後に店に現れた自然派ワインの第一人者の故勝山晋作さんとの出会いから始まった。
当時、常連となった勝山さんは神田味坊の店先で梁さんと一緒に羊肉串を炭火で焼きながら過ごすのが常だったという。「味坊の料理を食べると、ワインが飲みたくなる」とよく話していたそうだ。しかし梁さんは最初、その意味がわからなかったという。なぜなら、彼はそれまでワインとは縁がなく、東北人らしく羊肉を食べるなら白酒を飲むものだと思っていたからだ。
勝山さんの下で働いていたワインショップ「グレープガンボ」の山崎尚之さんは「味坊は勝山さんに見つけられた店。ワインを置くようになって、美味しいラム肉がワインと一緒に味わえる店だとグルメの間で評判となり、若い人や女性も来店するようになった」と話す。
面白いのは、味坊集団の店では客は自分の好きなワインを冷蔵庫から取り出して飲むシステムであることだ。なぜなら「ぼくもそうだし、店の中国人スタッフもワインのことはわからないから」と梁さんは話す。
こういう鷹揚なところが、彼の魅力である。これまで何度か中国の南方出身の友人を連れて店を訪ねたが、彼らの目にも梁さんは朴訥でおおらかな典型的な東北人に映るようだ。
それは日本人に愛される中国人キャラクターというイメージにもつながると思う。だが、彼が愛されキャラとなったもうひとつの理由は、本人も言うように「日本人っぽいところがある」ことかもしれない。それは繊細さや研究熱心なところだ。
そういう資質がいかんなく発揮されるのは、梁さんが羊肉をメインに新しい料理を次々開発していくこともそうだが、店の看板やメニューを自ら手づくりするところである。商業美術を学んだキャリアから、自分でつくりたくなるのだという。その出来栄えは一見素朴だが、現地の風情や温もりがあふれていて、梁さんらしさが伝わってくる。
また自ら食材を確保するため、梁さんは農園経営も始める。その理由についても「コストはかかるし、少々見た目は悪くても、自分がつくった無農薬の野菜を店で使いたい」と話す。
新しいコンセプトの業態の店を続々とオープンする彼だが、食材を大切にするところは、母親の影響だという。幼少時、どんなに貧しくても、彼の母は手の込んだ美味しい料理をつくってくれたという。そんなわけで、彼は化学調味料を多用した昨今の若手オーナーたちが提供する新興「ガチ中華」には少々否定的である。
「やりたいことがたくさんある」
筆者が梁さんに特別の親しみの感情を持つに至ったのは、彼が残留孤児2世だったからでもある。実は、筆者の祖父母も戦前は満洲にいて、敗戦後、母は祖母に手を引かれて朝鮮半島経由でなんとか引き揚げてきた。いわば筆者は「引き揚げ者2世」である。
筆者と梁さんの母親は、敗戦時に運命が分かれたが、こうして2世である2人が東京で邂逅している。そう思うと、特別な感慨を胸に抱いてしまうのである。
彼にこの話をしたこともあるが、あまりピンとこないようだった。だが、彼は友人に筆者を紹介するとき、こんな風に言う。「ぼくより中国や自分の故郷である東北地方を訪ね、よく知っている」と。それはきっと彼にとっても、嬉しいことなのだと思う。
2016年に「味坊鉄鍋荘」をオープンしてからの6年間が、味坊集団の第3期といえるだろう。
「なぜそんなに頑張るの?」と彼に訊ねたことがある。すると、「やりたいことがたくさんあるから」という。「(自分はせっかくチャンスに恵まれたのだから)やらなければならないと思っている」とも。
梁さんの数あるやりたいことのうち、2つだけ挙げると、次のようなものだという。まず、一般家庭で簡単な羊料理がつくれるレシピを日本人に伝えたいこと。
そして、中国東北地方の餃子がそうであるように、日本各地の餃子の具材に、その土地ごとの旬の食材を採り入れたメニューを開発すること。「(豚肉とキャベツだけではつまらない)餃子の具はもっと自由でいいはずだ!」と、梁さんは最近会うたびにそう話している。
中村 正人
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ffa5ffb7c9eba6719320537d52d6d5a9fad2c53
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« こつぜんと消えた5つの古代都... | トップ | 女流詩人と山との濃密な交流... »
最新の画像もっと見る

先住民族関連」カテゴリの最新記事