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北海道新聞2023年12月24日 11:21
今年はアイヌ民族が初めて自らの物語をまとめた「アイヌ神謡集」の刊行100年と著者知里幸恵(1903~22年)の生誕120年の年だった。「神謡集」の意義を考える企画記事「シロカニペ 銀の滴」を4月から随時カルチャー面に掲載している。企画を担当し、アイヌ文学のすばらしさとともに「今を生きるアイヌ民族の声」に耳を傾ける大切さを考えさせられている。
著者の幸恵は登別で生まれた後、旭川で暮らした。「神謡集」に「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました」と始まる序を日本語で著し、13編のアイヌ民族の物語をローマ字表記のアイヌ語で記述し和訳を付けた。アイヌ語と日本語に通じる幸恵だから書けた名著。8月には千葉大の中川裕名誉教授の補訂で新版として「知里幸恵 アイヌ神謡集」(岩波文庫)が出版された。
企画では「神謡集」に関わりのある人たちの寄稿やインタビューを載せている。アイヌ民族で歌手の川上容子さんは中学生の時、幸恵について学ぶ学校の授業の前に、念入りに予習したエピソードを記した。激しい差別の下、川上さんは当時はまだアイヌ文化に誇りを持てず、予習は授業で「予期せずに『アイヌ』という言葉が教室に響いた時、呼吸が荒くなったり、耳が真っ赤にならないよう」心の準備をしておくためだった。幸恵の生涯を学習した直後、あろうことか川上さんは同級生から侮蔑的な言葉を投げつけられた。
「神謡集」が刊行された100年前もアイヌ民族は同じ痛みに苦しんだ。作家土橋芳美さんは序について「『あんたらが弱いから、滅びの現実がある』と言わんばかりの風潮のなかで、どこか卑屈にならざるを得ないアイヌが多かった当時、この序文は同族への『顔をあげよ。私たちに人間として恥ずべきことはない』という励ましであり、宣言でもある」と述べた。
幸恵は滞在していた東京で亡くなる約3カ月前、旭川のアイヌ民族の集落の少女が身売りされた後に病死したことを知って泣き崩れた。寄寓(きぐう)先の言語学者金田一京助は当時、この集落であまりに多くの人が命を失っていたことに同情した。ただしこの時、幸恵の日記によると、金田一は幸恵に「アイヌは見るもの、目の前のものがすべて呪はしい状態にあるのだよ」と語ったという。「滅びゆく」という運命論ではなく、アイヌ民族、女性、貧困という立場にある人たちの命や尊厳を傷つけるという、社会の差別的な問題としてどこまで認識していただろうか。それは金田一個人というより、当時の支配的な価値観の問題である。
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