goo blog サービス終了のお知らせ 

先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

第3回 収容所から脱出し、1600キロを徒歩で逃げたアボリジニ3少女

2014-03-15 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック日本版‎ -2014年3月12日
 1931年、3人の幼いアボリジニの少女が強制的に家族から引き離され、苛酷な環境の先住民収容所に送られた。オーストラリア政府が、数千人の子供たちを親元から隔離する政策を行っていたからだ。
 しかし、8~14歳の3人はすぐに脱走し、全長1600キロに及ぶウサギよけフェンスに沿って、灼熱の西部砂漠地帯を歩き通し、故郷にたどりついた。
ウサギ隔離政策と先住民隔離政策
 ウサギはオーストラリアに元々いた動物ではない。1859年、英国人入植者オースティンが24匹のウサギを野に放った。「少しばかりウサギを放したからといって、害もないだろう。ちょっとした狩りもできるし、故郷の雰囲気も味わえるし」。だが、ほどなくウサギは大陸全体に疫病のごとくはびこった。
 1901~07年、オーストラリア政府は世界でも類を見ない、大がかりな外来動物の封じ込め策を実施した。オーストラリアの西部全域を、全長3200キロものフェンスで封鎖してウサギの侵入を阻むのだ。地域全体を隔離するというこの大胆な作戦は、失敗に終わった。ウサギはとっくにフェンスを越えていたのだ。
 このフェンスは、当時の政府が行っていた、もう一つの隔離政策を象徴してもいた。
 オーストラリアの先住民アボリジニに対する、白人入植者たちの態度は、人によってさまざまだった。劣った民族と考える者もいれば、アボリジニを白人社会に同化させ、受け継がれてきた伝統文化を「除去」すればよいと考える者もいた。またアボリジニに対して寛容と理解を示す人々もいた。いうまでもなく、混血の子供もたくさんいた。それは当時のオーストラリアで最大の対立を生んだ問題だった。
 1920年から30年のあいだに、アボリジニとの混血の子供たち10万人以上が家族から引き離された。
 子供たちが家族から引き離されたのは、農場労働者や使用人として教育することが目的だった。政府が建設した強制収容所の環境は劣悪。窓に鉄格子のはまった監獄のような寮で、薄い毛布は夜の寒さを防ぐことができず、食べ物は必要最低限しか与えられなかった。
 こうした「先住民収容所」はたいてい、子供たちの故郷から何百キロも離れていた。脱走して捕まった子供は頭を丸坊主にされ、鞭で叩かれ、しばらくのあいだ独房に入れられた。
3人の少女
 14歳のモリー・クレイグ、11歳の異母妹デイジー・ケイディビル、2人のいとこで8歳のグレイシー・フィールズは、1931年8月、パースの北にあるムーアリバー収容所に到着した。そこからおよそ1600キロ離れたジガロングに住む家族から引き離され、連れてこられたのだ。
 3人はすぐに決心した。故郷に帰ろう。
 計画は単純。ウサギよけフェンスに沿って歩いていくのである。
 3人にはそれぞれ質素なワンピース2枚と白い綿のブルマー2枚しかなく、靴はなかった。食べ物は小さなパン1つだけ。それでも収容所にきた翌日、3人は寮に身を潜め、監視の隙を突いて、原野のやぶまで逃げ出した。
 3人にとってそこは、恐ろしい収容所に比べればはるかにましな場所だった。フェンスにたどりつくまでに数日かかる。故郷ジガロングまでは、さらに数週間、砂塵の舞う低木地帯を歩くことになる。
 だが少女たちには、そんな土地でも、食べ物を見つけて生き抜くことができるという自信があった。3人にとって最大の恐怖は、必ず派遣される捜索隊に捕まることだった。それまでの脱走者はすべて、アボリジニ追跡人によって捕らえられていた。追っ手を出し抜くためには、巧妙に身を隠し、すばやく移動しなければならない。モリーは1日に32キロ進むという目標を立てた。
「あのフェンス、あのウサギよけフェンス沿いに、私たちは収容所から故郷まで歩き通しました。それはそれは長い道のりでした。ずっと低木のやぶに身を隠していたのです」
1600キロの逃避行
 最初は順調だった。ウサギの飼育場に隠れたときには、ウサギを2匹捕まえて、焼いて食べた。雨のおかげで飲み水には困らなかったし、足跡も消えた。途中で出会った2人のアボリジニが食べ物とマッチをくれた。
 農家があれば助けを求めた。3人が脱走したことは広く報じられていたが、白人農家の誰一人として彼女たちを当局に突き出したりはしなかった。食べ物や暖かい服をくれる人もいた。
 しかし、9月の3週目になると、原野での生活による疲れが出てきた。最年少のグレイシーは疲労のあまり、他の2人に背負ってもらうことが増えた。棘だらけの下草のせいで両脚に切り傷ができ、感染症を起こしていた。途中で出会ったアボリジニの女性から、グレイシーの母親が近くのウィルナにきているという話を聞くと、グレイシーは1人で列車に乗り込み、ウィルナを目指した。
 モリーとデイジーの2人は、ジガロング目指して歩き続けた。オーストラリアの夏が近づくにつれて雨が降らなくなった。日に日に暑さが増していったが、1日も早く故郷へ帰るため、移動距離を増やすことにした。
 10月初旬、砂埃にまみれた2人の少女は、ついにジガロングに足を踏み入れた。地球上で最も苛酷な土地を1600キロ以上も歩いてきたのである。
物語は終わらない
 故郷に帰ってきたとはいえ、少女たちはなお、当局に追われる身だった。2人の家族はどちらも、再び政府に娘を奪われることを警戒して、すぐに居場所を変えた。だが当局は少女たちが語るにちがいない物語の影響力に気がついたのだろう、数週間後に追跡を中止した。
 少女たちの脱走は忍耐力と不屈の人間精神の勝利を示すものではあったが、その旅はめでたしめでたしで終わったわけではなかった。少女たちが暮らす土地では相変わらず差別が存在した。
 列車に乗って会いにいった、グレイシーの母親はウィルナにいなかった。グレイシーは収容所に送り返され、使用人として生涯を送り、1983年に亡くなった。
 モリーも使用人となり、結婚して2人の娘をもうけた。しかし1940年、虫垂炎でパースに運ばれた後、政府からの直接命令でムーアリバーの収容所に送還された。驚いたことに、このときも収容所から脱走し、徒歩でジガロングまで帰ったのである。不幸にも、一緒にいた2人の娘のうち1人しか連れて帰ることができなかった。3歳の娘ドリスは収容所に残り、そこで成長した。ドリスはのちに母親の最初の旅に関する本『裸足の1500マイル』を書き、2002年に映画化された。
 デイジーは3人の中で最も幸福な生涯を送った。その後ずっとジガロングで暮らし、そこで家政婦として働き、結婚して4人の娘に恵まれた。
 このエピソードは、書籍『本当にあった 奇跡のサバイバル60』に掲載された実話です。こちらで、あと59本の驚愕のエピソードもどうぞ。
http://nationalgeographic.jp/nng/article/20140310/387267/
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山田 篤美さん  | トップ | ロシア、クリミア編入準備を... »
最新の画像もっと見る

先住民族関連」カテゴリの最新記事