goo blog サービス終了のお知らせ 

先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

スペインに終止符を打たれた究極の石器文明…最先端技術との誤差「わずか0.0002日」マヤ文明の残した地球の公転観測が衝撃的レベルだった

2024-04-04 | 先住民族関連

日刊ゲンダイ2024.04.03

志村 史夫 ノースカロライナ州立大学終身教授(Tenured Professor)

あの時代になぜそんな技術が!?

ピラミッドやストーンヘンジに兵馬俑、三内丸山遺跡や五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか?

現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、続々と増刷しています!

それを記念して、両書の「読みどころ」を、再編集してお届けします。今回は、メキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズなど、現在マヤ地域と呼ばれる地方を中心に繁栄したマヤ文明を取り上げます。

完全なる石器文明――マヤ文明

メキシコ湾岸の低地南部で“メソアメリカ文明を生み出した母胎”であるオルメカ文明が栄えたのは紀元前1200~紀元前400年頃と考えられる。時期的には一部重なるが、紀元前1000年頃からスペインに侵略・破壊される16世紀まで、2500年以上の長きにわたってマヤ高地とマヤ低地で栄えたのがマヤ文明である。

後述するように、マヤ文明は16世紀以前の南北アメリカ大陸で最も発達した文字体系、算術、天文学、暦を築き上げた。

ところで現在、「マヤ文明」を考えるとき、ユカタン半島を中心とする「マヤ世界」を大きくマヤ低地南部、マヤ低地北部、マヤ高地の三地域に分けるのが一般的であるが、「マヤ民族」という単一民族が存在するわけではない。また、標準語としての「マヤ語」も存在せず、近隣地域間以外では会話はほとんど、あるいはまったく成り立たないといわれる。

「マヤ」とは外国人(スペイン人)につけられた名称であり、「マヤ地域」に居住する先住民が「マヤ人」である。ここで述べる「マヤ人」もこの意味である。マヤ文明がいかなるものであるかについては、青山和夫茨城大学教授の数々の白眉の書などに余すところなく述べられている。

メソアメリカ文明とアンデス文明。右は、マヤ文明の地域を拡大した図

究極の石器文明「マヤ文明」

マヤ文明には、他の「古代文明」と異なる大きな特徴がある。16世紀にスペイン人に破壊された後も、現在にいたるまでマヤ低地やマヤ高地などに居住する800万人以上のマヤ人は増加し続けており、30ほどのマヤ諸語を話している。さらには、“生きている文化”を保っているだけではなく、力強く新たな文化を創造し続けているといわれているのである。

マヤ文明の特徴を一言でいえば、「究極の石器文明」あるいは「最も洗練された“石器の都市文明”」(青山和夫茨城大学教授)である。

マヤ文明も世界の他の文明と同様、農耕を生活の基盤としていることは共通であるが、旧大陸の「四大文明」とは異なり、鉄器や運搬用の大型荷車をもたなかった。より正確にいえば、結果的にもつ必要がなかったのである。

文明と道具は表裏一体であり、次々に新しい道具を作り、使ってきた過程が文明史である。人類は、およそ260万年前の原始的なオルドワン石器(礫器)にはじまり、現在までさまざまな道具や機械、システムを発明し、「現代文明」を築き上げてきた。

人類の「道具史」を一覧して、私が非常に興味深く思うのは、260万年前の原始的なオルドワン石器が発展した形の握斧(ハンドアックス)が出現するのが、およそ100万年後であることである。つまり、人類は100万年もの長い間、“道具”をまったく進歩・改良させなかったことになる。

18世紀半ばの産業革命以後の、とりわけ20世紀に入ってからの人類の“道具”の急速な進歩を思えば、100万年もの間、“道具”の進歩・改良がまったく見られないというのはまことに不思議に思える。

しかし私は、その進歩のなさは、人類の智能の問題ではなく、社会や生活様式上の必要性の問題であったのだろうと推測する。生活形態に変化がなければ、あるいは欲望の拡張がなければ、“道具”の進歩・改良の必要性は生まれない。

ここで私が強調したいのは、マヤ文明が「文明」の「必須条件」とされてきた鉄器や運搬用の大型荷車をもたなかったのは、もてなかったのではなく、もつ必要がなかったということである。

メソアメリカの諸遺跡からは車輪つきの動物土偶が発掘されているので、マヤ人が車輪の原理や効用を知らなかったわけではない。おそらく小さな荷車は使っていたであろう。しかし、マヤには運搬に役立つような大型の家畜がいなかったために、荷車が発達しなかったと考えられる。

マヤ人は石器を主要な利器として用い、基本的に手作業の技術と人力エネルギーのみで不自由なく生活していた。さらには巨大なピラミッド神殿を建造し、都市文明を築き上げたのである。マヤ文明は、機械に頼らない「手作りの文明」(青山和夫著『マヤ文明 密林に栄えた石器文化』[岩波新書、2012])であった。

独自の文明史観をもち、数々の歴史小説を遺した司馬遼太郎は“鉄の力”についてこう述べている。

「木器や石器が道具の場合、人間の欲望は制限され、無欲でおだやかたらざるをえないのである。木の棒で地面に穴をあけてヤムイモの苗を植えたり、木製のヘラで土を掻いて稲の世話をしているぶんには、自分の小人数の家族が食べてゆけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓こうなどという気はおこらないし、要するに木器にはそういう願望を叶える力はない。鉄器の豊富さが、欲望と好奇心という、現象的にはいかにもたけだけしい心を育てるのではないか

(『街道をゆく 7』朝日文庫)

マヤ人は鉄器をもたない人々であった。鉄器をもつ必要もなく、石器だけで、手作業の技術と人力エネルギーのみで不自由なく生活した人々であった。マヤ文明の世界に、大きな統一国家が生まれなかったのは、彼らが鉄器をもたなかったためであるのは間違いないだろう。鉄器をもたなかった彼らは「自分の小人数の家族が食べてゆけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓こうなどという気」など起こさなかったのである。

16世紀に、このようなマヤ人のマヤ文明を破壊したのは“鉄の種族の人間”の権化のようなスペイン人であった。

さて、メソアメリカの諸都市には複数のピラミッドが林立し、その総数はエジプトのピラミッドの総数(未発見のものも含み、170基ほどと思われる)に比べて桁違いに多い。たとえばメソアメリカ最大の都市・テオティワカンには、600基ほどのピラミッドが立ち並んだ(青山和夫著の前掲書)。

さらに、数だけでなく、その社会的な機能や意味もエジプトのそれとはかなり異なる。

「人工の神聖な山」

メソアメリカでピラミッドが建造されはじめたのは「先古典期中期」で、紀元前1000年頃に建造されたと考えられる高さ24メートルのピラミッドがセイバル遺跡で発掘されている。

それ以降、無数といってよいほどのピラミッドが建造されたが、マヤ文明を代表する世界で最も有名なピラミッドといえば、古典期終末期のチチェン・イツァ遺跡の「エル・カスティーヨ」ピラミッドであろう。紀元900年頃に建造されたと考えられる。エル・カスティーヨが“有名”である理由は後編で紹介するが、このピラミッドの形はマヤのピラミッドの典型でもある。

全体の形はいわゆる“ピラミッド形”で、エジプトのピラミッドと似ているが、マヤのピラミッドの社会的な機能や意味はエジプトのそれとはまったく異なる。マヤのピラミッドは、先祖の神々を祀る神殿なのである。つまり、階段状の“ピラミッド”部分は神殿の「基壇」である。

エル・カスティーヨのピラミッド状基壇の底辺は60メートル、高さは24メートルで、その上に高さ6メートルの神殿が建てられている。マヤの“ピラミッド”が、一般に“神殿ピラミッド”とよばれるのはそのためだ。

メソアメリカ最大の神殿ピラミッドは、先古典期後期のマヤ低地最大の都市であるエル・ミラドールにある高さ72メートルのダンタ・ピラミッドである。

ちなみに、マヤ文明地域の“ピラミッド”なる名称は、欧米の考古学者がエジプトのピラミッドになぞらえてつけたものであり、本来は“ピラミッド”とは無関係である。あくまでも全体の形状が“ピラミッド形”をしているというにすぎない。

神殿ピラミッドは「山信仰」に結びつく宗教施設

実際、古典期のマヤ文字では「ウィッツ(山)」とよばれている。“神殿ピラミッド”は文字通り“山”信仰に結びつく宗教施設であり、王の先祖である神々が宿る人工の神聖な山を象徴しているのである。

石を高く積み上げた大きな建造物を造ろうとすれば、誰が建設しても、その安定性から同じような形状(ピラミッド形)になるのが自然である。ピラミッド形とダイヤモンドや半導体の結晶の形状は酷似していることを、『古代世界の超技術 改訂新版』でも紹介したが、それらの共通項は“安定な形状”なのである。それが結果的に“美しい形状”でもあった。

さて、マヤの建造物には「マヤ・アーチ」とよばれる独特の構造がある。

古代ローマ建築の特徴の基本にあるのがアーチ構造であるが、アーチは、中央部が上方向に凸な曲線形状をした梁である。石造建築や煉瓦造建築の場合には、小さな部材の積み重ね方に「持ち送り式」と「迫り持ち式」とよばれる工法がある。

マヤの神殿や石室墓、門などの石造建造物に見られるのは、次の写真に示すような、ローマの半円形アーチとは異なる逆V字形のアーチ(紀元9世紀頃建造)である。石が壁に持ち送り式に嵌(は)め込まれた、いわば疑似アーチで、マヤ地域で多用されていることから“マヤ・アーチ”とよばれている。

以前は古典期マヤ文明の建造物の特徴の一つとされていたが、近年の発掘調査によって、先古典期後期の建造物にも多く見られることがわかっている(青山和夫著の前掲書)。

増改築された神殿ピラミッド

前述のように、マヤには巨大な統一国家は生まれなかった。したがって、神殿ピラミッドなどの巨大建造物は、王や支配者の強制力によってのみ造られたとは考えにくい。

神殿ピラミッドが宗教施設であることから、その建造の意味と必要性を一般市民(ほとんどは農民であったろう)に納得させ、自発的に建造に従事させるような宗教観があったと考えられる。このような観念体系は王権を正当化し、巨大な神殿ピラミッドの建設と維持が王権を強化し、国民を統制する大きな手段にもなったであろう。

マヤ低地では石灰岩の岩盤が露出するほど石灰岩が豊富だったから、神殿ピラミッドや石碑などに使われた主要な材料は石灰岩である。地域によっては、その土地で産する凝灰岩、砂岩、流紋岩、大理石なども用いられた。1.5トンほどの重さの石塊が切り出されて積み上げられるのが一般的である。

マヤ低地の都市の多くは、石灰岩の岩盤の上に建設されている。一方、石灰岩のような石材に乏しいマヤ高地では、建設材として日干し煉瓦が多用され、マヤ高地最大の都市・カミナルフユでは日干し煉瓦で高さ20メートルに及ぶ神殿ピラミッドが建造されている。

石材や日干し煉瓦に加え、牡蛎(かき)の貝殻から生産された漆喰(しっくい)や、石灰岩から生成された生石灰も多用された。

高地産鉱物の赤鉄鉱、マンガン、辰砂(しんしゃ、水銀朱)などから作られた顔料は、建造物のほかに記念碑や壁画、絵文書、織物、土器、土偶などの彩色に使われた。世界でもまれな有機青色顔料の「マヤ・ブルー」は、藍(インディゴ)と粘土鉱物を混ぜて加熱して作られた(青山和夫著の前掲書)。古来、何でも「地産地消」が原則であり、またそれが理にかなっているのである。

マヤの神殿ピラミッドとエジプトのピラミッドには、形状の違いに加えて、大きな差異がある。マヤの神殿ピラミッドには長年にわたり、あたかも玉ねぎの皮を重ねるように、古い時代の神殿ピラミッドを包み込むようにして増改築されてきたものが多いのだ。たとえば、高さ24メートルのセイバル遺跡最大の神殿ピラミッドの基壇が、2000年にわたって30回以上も増改築されていることが発掘調査によって明らかにされている(青山和夫著『古代マヤ石器の都市文明 増補版』[京都大学学術出版会、2013])。

王権の拡大・強化のためにより大きな、より高い神殿ピラミッドを建造することは、後継王としては自然な感情であろう。そのとき、マヤではより大きくより高い神殿ピラミッドを新たに建造するのではなく、既存のものを拡張・増築する手段を選択したのである。このような増築は、建材や労働量を節約するのに大いに貢献した。

驚異的な精度を誇ったマヤの天文学

メソアメリカ・アンデス文明圏ではもとより、世界規模の古代文明圏の中で、天文学を最も発達させたのは古代マヤ人ではないかと思われる。もちろん、彼らの天文学は純粋な学問として発達したものではないし、知的好奇心を満たすためのものでもなかっただろう。実際、マヤには、天文学者がいたわけではない。

古典期のマヤ支配層を構成した“書記”とよばれる人々が、行政・宗教的業務の一環として天文観測や暦の作成を行ったのである。天体観測の知識は生活の糧を生み出す農業、宗教の基盤として重要だった。文明が栄えたエジプト、ギリシャ、ローマ、メソポタミア、インド、中国などの古代人と同様に、多神教だった古代マヤ人にとって、太陽、月、惑星、特に金星などの天体は日常的な生活に大きな影響を及ぼすものであった。

望遠鏡などの観測手段をもたない古代マヤの書記は、肉眼で太陽、月、金星などの天体を驚異的な精度で観測した。

たとえば、地球の公転周期として365.2420日を算出しているが、これは現在の最先端観測装置を駆使して得ている数値と比べても、わずか0.0002日の誤差しかない。月の公転周期については29.53020日と算出しているが、これもわずか0.00039日の誤差である。

古代マヤ人は惑星についての知識も豊富であったが、特に強い関心を寄せていたのは“一番星”の金星であった。古代ギリシャでは、“明けの明星”と“宵の明星”は別の星と考えられていたが、マヤ人はそれらが同じ金星であることを理解していた。さらに、古代マヤ人は日食と月食が起きる周期も正確に知っていた。

彼らの天文学の知識は、建造物にも活かされている。

https://gendai.media/articles/-/123016

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アイヌ民族に初の謝罪 過去... | トップ | 北上出身の長屋さん 米で最... »
最新の画像もっと見る

先住民族関連」カテゴリの最新記事