ナショナルジオグラフィック2024.03.21
米ニューヨークの成り立ちをめぐる伝説、先住民との取引の真相は?
17世紀のニューアムステルダム(後のニューヨーク)での暮らしを描いたイラスト。(ILLUSTRATION BY STOCK MONTAGE, CONTRIBUTOR, GETTY IMAGES)
現在、米ニューヨーク市の中心街があるマンハッタン島は、一握りのビーズと24ドル相当の現金と引き換えにオランダ人が先住民から買い取ったと言い伝えられている。歴史上最も有名な大バーゲンの一つとして知られる出来事だが、本当のところはどうなのだろうか。マンハッタンがヨーロッパ人の手に渡った本当のいきさつと、取引そのものが今もまだ謎に包まれている理由を見てみよう。
マンハッタンの先住者
1500年代初頭にヨーロッパからの入植者がハドソン川流域にやってきたとき、そこにはすでに何世代も前から「レナペ族」というアメリカ先住民が住んでいた。彼らは、ハドソン川沿いにある緑豊かな島を「マナハッタ」(現地の言語であるアルゴンキン語で「丘の多い島」という意味)と呼び、ほかの先住民族と交易をしながら、島の豊富な自然資源と動物から季節ごとの恵みを受けて暮らしていた。
ヨーロッパ人はその動物たち、特にビーバーに目を付けた。マナハッタに限らず、初期のヨーロッパ人入植者が北米に多大な関心を寄せていた理由は、動物の毛皮だった。おしゃれな毛皮の帽子や高級品を作るためのビーバーを、自分たちの大陸ではすでにほとんど狩り尽くしてしまったのだ。
さっそくレナペ族と毛皮貿易を始めたオランダの商人たちは、大西洋貿易を独占していたオランダ西インド会社のために、現在のデラウェア州からロードアイランド州までの土地を植民地化していった。同社は、1621年にニューネーデルラント植民地を建設し、ハドソン川全域にオランダの支配を拡大させた。1624年には、マナハッタ島にニューアムステルダムという町が生まれ、オランダ人が住み着いていた。後に、マナハッタは「マンハッタン」と改名された。
1621年にオランダ西インド会社がオランダ政府から与えられた特許状には、現地の「君主および先住民」と契約を結び、貿易を行い、「実りが多く人の住まない土地への入植」を進めることと記されている。ここでいう人の住まない土地を、先住民は先祖代々受け継いできたが、オランダ西インド会社はこれらを植民地化しただけでなく、可能な限り多くの土地を先住民族から買い取った。
はっきりしない詳細
1626年、オランダ人はそのようにしてマンハッタン島を手に入れたようだ。オランダ西インド会社に宛てた手紙で、入植者のピーター・シャーゲンはマンハッタン島を「インディアンから60ギルダーで購入した」と説明している。
ほかにも、オランダ人がレナペ族から島を購入したという記録があるが、実際の譲渡証書やそのほか買収に関連する通信文書は見つかっていない。また、支払われた金額と取引の性質そのものも、400年近く議論の的となっていた。
1840年代に、歴史家のエドマンド・ベイリー・オキャラハンが、オランダ統治時代のニューヨークに関する文書を掘り起こし、初の学術的な州の歴史を著した。彼は後に、州の記録管理官に就任している。
そのオキャラハンが発見した文書のなかには、1626年にシャーゲンが書いた手紙も含まれていた。オキャラハンはこれを証拠に、先住民が島の代金として「わずか60ギルダー、すなわち24ドルしか受け取らなかった」と書いた。(参考記事:「映画にも、オセージ族連続怪死事件とは、米先住民60人超が犠牲に」)
これを読んだ人々は24ドルという額に反応した。またオキャラハンは、この地域一帯で商取引の通貨としてビーズが使われていたことにも言及しており、そこから冒頭の言い伝えが生まれた。しかし、実際に現金か商品、または両方が支払われたのかはいまだにはっきりしていない。
現代の歴史家は、当時の60ギルダーは今の24ドルよりもはるかに価値があり、約1000ドル(約15万円)に相当するだろうと指摘している。また、金銭の授受があったとしても、高価な毛皮やビーズなどの交易品を伴っていた可能性が高いという。
その解釈を裏付ける同様の取引がある。1670年に先住民マンシー族がオランダ人にスタテン島を譲渡した際、激しい交渉があったことを示す最終譲渡証書が残っている。結局オランダ人は、10万個以上の貝殻ビーズのほか、大量の衣服、道具、武器、銃弾を支払い、相互の友情のあかしとして毎年、譲渡証書を承認するという約束を交わした。
しかし、マンハッタン島の場合にはそのような譲渡証書が残っていない。そして、金銭か商品、または両方が支払われたかどうかにかかわらず、レナペ族はこの取引を「重大な出来事」とみなしていたようだと、歴史家のポール・オットー氏は指摘する。(参考記事:「ターコイズを使うインディアンジュエリーはなぜ生まれたのか」)
マンハッタンは本当に売られたのか
その「重大な出来事」が必ずしも売却を意味するとは限らない。オットー氏は、レナペ族やその他の先住民族がヨーロッパ式の財産所有を理解せず、土地に関する個人的な所有権を全く認識していなかった可能性が高いと指摘する。むしろ、自分たちの土地をオランダ人と共有するか、または貸し出すことに同意したつもりだった可能性があるという。
平和的な民族として評判だったレナペ族だが、決して「臆病ではなく弱かったわけでもない」と、歴史家のジーン・ソダーランド氏は書いている。そして、その振る舞いには常に、民族の独立への固い意志と、自らの貿易権を守ろうという願いが表れていた。
一方オランダ人は、土地を購入したものと信じ、母国からの入植者やアフリカからの奴隷、様々な国の商人、宗教弾圧によって故郷を逃れてきた人々とともに町の建設を始めた。ビーバー貿易も盛んになり、ニューネーデルラント全域でビーバーの毛皮が通貨として受け入れられるようになった。
1664年、ニューアムステルダムには1500人が住み、18の言語が話されていたと言われている。町の周囲には、奴隷労働による城壁が築かれた。その名残が、後にニューヨークの有名な「ウォール街」になった。
もう一つの歴史的取引
しかし、城壁では町を守れなかった。1664年8月、ニューアムステルダムは英国軍の攻撃を受けた。その1カ月後、ニューネーデルラント総督のピーター・ストイフェサントはこの多文化の植民地を明け渡し、植民地は「ニューヨーク」と改名された。
オランダと英国は、他の場所でも第二次英蘭戦争を繰り広げていた。1667年、オランダが南米のスリナムにある英国植民地に侵攻。同年、両国は条約を結び、ニューネーデルラントおよびニューヨークを、現在はスリナム共和国となっている南米の植民地や、ナツメグの産地であるインドネシアの小さなラン島などと正式に交換した。
一方、マンハッタンを先祖代々の土地とみなしていた人々は追い出され、戦争や条約、強制退去により、1860年代にはほとんどのレナペ族が現在のオクラホマ州に追いやられていた。現在、3つのレナペ族が米国連邦政府によって先住民として認められている。そのほかのレナペ族は、いまだに承認を受けるために闘い続けている。