プレジデント8/10(木) 15:17配信
南太平洋のイースター島には高さ21メートル以上、重さ約90トンというモアイが立ち並んでいる。いったい誰が巨大な石像を作ったのか。そして石像を作った人たちはどこへ消えたのか。イギリス人ジャーナリストのトム・フィリップスさんの著書『メガトン級「大失敗」の世界史』(訳:禰冝田亜希、河出文庫)より紹介する――。
■なぜ太平洋の絶海に巨大な石像があるのか
ヨーロッパ人が1722年に初めてイースター島に上陸したとき(オランダの冒険隊は未発見の大陸を探していた。そんなものはなかったのに愚かである)、そこで目にしたものにびっくり仰天した。高さは21メートル以上、重さは約90トンもあるかという巨大な石像が、絶海の小さな孤島のあちこちに立っていたからだ。
現代の技術力もなければ、木が1本もないポリネシアのこの島に、いったいぜんたい、どうしてこんなものがあるのか? ごたぶんにもれず、オランダの船乗りたちの好奇心はそう長くはもたなかった。つまり、さっそくヨーロッパ人におなじみのことをし始めた。はっきり言うと、誤解続きのやりとりのあげく大勢の地元民を撃ち殺した。
続く数十年で、さらに多くのヨーロッパ人がこの島にやってきた。そして、もっぱら彼らが「発見した」ばかりの地でやりがちな定番のふるまいをした。たとえば死にいたる病気をもたらすとか、地元民をさらって奴隷にするとか、上から目線でいばりちらすとかだ。
■ポリネシアは世界屈指の文明を誇っていた
続く何世紀かにわたって、白人たちは謎の石像がなぜ「未開人」しかいない島にあるのかといぶかって、奇想天外な説を山ほど思いついた。はるか遠くの大陸からはるばる海を越えてきたとか、きっと宇宙人のしわざに違いないとか。まさか非白人がつくったとは思いもつかないしろものを、いったいどうやって非白人がつくったのか。
この難問に対する答えとして、宇宙人説がきわめて理にかなっていたことは言うまでもない。実際に宇宙人説は大人気だった。しかし答えは明白だろう。ポリネシア人たちがそこに置いたのだ。
ポリネシアが世界でも屈指の文明を誇っていたとき、ポリネシア人たちは、この島、現地の呼び名ではラパ・ヌイに初めてやってきた。バイキングの小集団をのぞいて、ヨーロッパ人たちがまだ自分たちの裏庭から出てもいなかったころ、何千キロも海を渡って探検し、島々に住み着いたのである。
■なぜラパ・ヌイの人たちは消えたのか
大昔のラパ・ヌイには高度な文化があった。集団間で助け合い、集約農業をしていたし、社会はタテ割りで、人々は通勤していた。「この人たちは進歩している」というときに、私たちが思い浮かべる何もかもがそこにあった。
石像はポリネシア語でモアイと呼ばれ、ほかのポリネシア社会とも共通する最高峰の芸術形態だった。モアイはラパ・ヌイの社会で大事なもので、信仰と政治のどっちの理由もあった。
祖先の顔の肖像をつくって崇めると同時に、これを建てた人物がどんなに偉大であるかを思い知らせる役目もしていた。
そして、一つの謎が別の謎に移り変わる。どうやって石像がそこにやってきたのかではなく、どうして木が1本もなくなってしまったのか?
どんなふうにラパ・ヌイの人たちが石像を運んだとしても、そうするには太い丸太を大量に必要としたはずである。そして、石像をそこに建てたほどすごかった文明が、どうしてこんなに冴えない社会になり果てたのか?
ほそぼそとした畑仕事で食いつなぎ、持っているカヌーはみすぼらしい。そのうえ、最初にやってきたオランダの船乗りたちを出迎えたときは、簡単にやられてしまった。
■自然に木が生えない土地
その答えはというと、ラパ・ヌイの人たちはついていなかったし、しくじりもしたということだ。
ついていなかった。というのは、島の地理も経済も森林伐採の影響をまともに受けやすかったからだ。ジャレド・ダイアモンド(「農業は私たちの最大の過ち」という理論の提唱者)は、著書『文明崩壊──滅亡と存在の命運を分けるもの』(草思社)でラパ・ヌイ島の人たちをまともに取り上げて、こんなことを言っている。
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たいていのポリネシアの島々と比べて、イースター島は乾いていて、土地が平らで、気候が寒い。しかも、ほかの島々から遠く離れた小さな孤島である。こうしたことから、切り倒した木々が自然に生え変わる見込みは少ない。
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■資源をめぐる争い
そして、しくじった。というのは、立派な家としっかりとしたカヌーの維持、そして、石像を運ぶインフラの整備を怠ったからである。
片っぱしから森林を伐採しつくし、木を切り倒したら、もう代わりが生えてこないと気づきもしなかった。そして突然、1本たりともなくなった。これぞまさしく共有地の悲劇である。
どんなに木を切り倒しても、誰にもこの問題に責任はなかったが、それはもう手遅れだというときがくるまでの話である。そうなってしまったら、皆の責任だ。
共有地の悲劇はラパ・ヌイの社会をうちのめした。木がないことにはカヌーがつくれなくて、遠洋の漁はできなくなった。根っこがなくなり、守られていない土は風雨にやられ、痩せこけた。
このせいで何度も地すべりが起こって、村々はつぶれてしまった。寒い冬には暖をとるため、残り少ない草木を焚き火にしないといけなかった。そして、事態はもっとまずくなった。乏しくなるいっぽうの資源をめぐって、集団間での争いが激化した。結局のところ、このことが惨事を招いたようである。
■最後に作られたモアイが意味すること
妙なようだが、絶体絶命の状況での人々のふるまいを考えてみれば、何の不思議もない。そんなときこそ、いっそう地位を高め、やる気を振りしぼりたくなるのが人間だ。そして、ひどいヘマなど犯さなかったと自らに言い聞かせ、ひどいヘマなど犯してないよなと同意してもらいたくてたまらなくなる。
あろうことか、彼らは資源の奪い合いをやめなかった。それどころか、いっそう激しく争った。つまりラパ・ヌイの人々は、これまでよりはるかに大きい石の頭をつくることに没頭したのだ。どうしてかというと……人間は直面している問題をどう解決したらいいかわからなくて苦にしているとき、往々にしてそうするものだからである。
島で彫られた最後の石像は、石切り場でつくられてさえいない。いくつもの石像が道のかたわらにばたばたと倒れていた。目的地に運べないうちに、計画が全部台なしになってしまったのだ。
■「知ったこっちゃない」
ポリネシア人は、私たちよりまぬけだったわけではない。野蛮でもなかったし、ましてや状況に気づいていなかったわけでもなかった。
もしあなたが、いつ何どき環境災害に見舞われても不思議ではない社会が、みすみす問題をやりすごし、そもそもの問題の元となることをし続けるのはどうかしていると思われるなら……あ、ちょっとあなた、少しまわりを見まわしていただきたい。そして、エアコンの設定温度を少しだけゆるめ、リサイクルに励もうではないか。
ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊──滅亡と存在の命運を分けるもの』でこう問いかけた。
「最後のヤシの木を切り倒したイースター島民は、その木を切りながら何と言ったのだろう?」
これはなかなか手ごわい質問で、答えを導き出すのは難しい。どうせポリネシア版の「あとは野となれ山となれ」だったのだろう。だがおそらく、もっと手ごわい問いはこうかもしれない。最後から2番目、3番目、4番目の木を切り倒したイースター島民はいったい何を思っていたのだろう?
人類の歴史にならえば、かなりのいい線で、こんなことを思っていただろうと察しがつく。「知ったこっちゃない」だ。
Tom Phillips, HUMANS: A Brief History of How We F*cked It All Up
Copyright © 2018 by Tom Phillip
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トム・フィリップス
ジャーナリスト、作家
ロンドンを拠点とするジャーナリスト兼ユーモア作家。ケンブリッジ大学で考古学、人類学、歴史学などを学んだ後、テレビや議会でコメディーを披露。バズフィードUKの編集ディレクターを経てフルファクト編集者。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9cbdbcc307f67422e0983ba34b1d4289a0ee9caa
南太平洋のイースター島には高さ21メートル以上、重さ約90トンというモアイが立ち並んでいる。いったい誰が巨大な石像を作ったのか。そして石像を作った人たちはどこへ消えたのか。イギリス人ジャーナリストのトム・フィリップスさんの著書『メガトン級「大失敗」の世界史』(訳:禰冝田亜希、河出文庫)より紹介する――。
■なぜ太平洋の絶海に巨大な石像があるのか
ヨーロッパ人が1722年に初めてイースター島に上陸したとき(オランダの冒険隊は未発見の大陸を探していた。そんなものはなかったのに愚かである)、そこで目にしたものにびっくり仰天した。高さは21メートル以上、重さは約90トンもあるかという巨大な石像が、絶海の小さな孤島のあちこちに立っていたからだ。
現代の技術力もなければ、木が1本もないポリネシアのこの島に、いったいぜんたい、どうしてこんなものがあるのか? ごたぶんにもれず、オランダの船乗りたちの好奇心はそう長くはもたなかった。つまり、さっそくヨーロッパ人におなじみのことをし始めた。はっきり言うと、誤解続きのやりとりのあげく大勢の地元民を撃ち殺した。
続く数十年で、さらに多くのヨーロッパ人がこの島にやってきた。そして、もっぱら彼らが「発見した」ばかりの地でやりがちな定番のふるまいをした。たとえば死にいたる病気をもたらすとか、地元民をさらって奴隷にするとか、上から目線でいばりちらすとかだ。
■ポリネシアは世界屈指の文明を誇っていた
続く何世紀かにわたって、白人たちは謎の石像がなぜ「未開人」しかいない島にあるのかといぶかって、奇想天外な説を山ほど思いついた。はるか遠くの大陸からはるばる海を越えてきたとか、きっと宇宙人のしわざに違いないとか。まさか非白人がつくったとは思いもつかないしろものを、いったいどうやって非白人がつくったのか。
この難問に対する答えとして、宇宙人説がきわめて理にかなっていたことは言うまでもない。実際に宇宙人説は大人気だった。しかし答えは明白だろう。ポリネシア人たちがそこに置いたのだ。
ポリネシアが世界でも屈指の文明を誇っていたとき、ポリネシア人たちは、この島、現地の呼び名ではラパ・ヌイに初めてやってきた。バイキングの小集団をのぞいて、ヨーロッパ人たちがまだ自分たちの裏庭から出てもいなかったころ、何千キロも海を渡って探検し、島々に住み着いたのである。
■なぜラパ・ヌイの人たちは消えたのか
大昔のラパ・ヌイには高度な文化があった。集団間で助け合い、集約農業をしていたし、社会はタテ割りで、人々は通勤していた。「この人たちは進歩している」というときに、私たちが思い浮かべる何もかもがそこにあった。
石像はポリネシア語でモアイと呼ばれ、ほかのポリネシア社会とも共通する最高峰の芸術形態だった。モアイはラパ・ヌイの社会で大事なもので、信仰と政治のどっちの理由もあった。
祖先の顔の肖像をつくって崇めると同時に、これを建てた人物がどんなに偉大であるかを思い知らせる役目もしていた。
そして、一つの謎が別の謎に移り変わる。どうやって石像がそこにやってきたのかではなく、どうして木が1本もなくなってしまったのか?
どんなふうにラパ・ヌイの人たちが石像を運んだとしても、そうするには太い丸太を大量に必要としたはずである。そして、石像をそこに建てたほどすごかった文明が、どうしてこんなに冴えない社会になり果てたのか?
ほそぼそとした畑仕事で食いつなぎ、持っているカヌーはみすぼらしい。そのうえ、最初にやってきたオランダの船乗りたちを出迎えたときは、簡単にやられてしまった。
■自然に木が生えない土地
その答えはというと、ラパ・ヌイの人たちはついていなかったし、しくじりもしたということだ。
ついていなかった。というのは、島の地理も経済も森林伐採の影響をまともに受けやすかったからだ。ジャレド・ダイアモンド(「農業は私たちの最大の過ち」という理論の提唱者)は、著書『文明崩壊──滅亡と存在の命運を分けるもの』(草思社)でラパ・ヌイ島の人たちをまともに取り上げて、こんなことを言っている。
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たいていのポリネシアの島々と比べて、イースター島は乾いていて、土地が平らで、気候が寒い。しかも、ほかの島々から遠く離れた小さな孤島である。こうしたことから、切り倒した木々が自然に生え変わる見込みは少ない。
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■資源をめぐる争い
そして、しくじった。というのは、立派な家としっかりとしたカヌーの維持、そして、石像を運ぶインフラの整備を怠ったからである。
片っぱしから森林を伐採しつくし、木を切り倒したら、もう代わりが生えてこないと気づきもしなかった。そして突然、1本たりともなくなった。これぞまさしく共有地の悲劇である。
どんなに木を切り倒しても、誰にもこの問題に責任はなかったが、それはもう手遅れだというときがくるまでの話である。そうなってしまったら、皆の責任だ。
共有地の悲劇はラパ・ヌイの社会をうちのめした。木がないことにはカヌーがつくれなくて、遠洋の漁はできなくなった。根っこがなくなり、守られていない土は風雨にやられ、痩せこけた。
このせいで何度も地すべりが起こって、村々はつぶれてしまった。寒い冬には暖をとるため、残り少ない草木を焚き火にしないといけなかった。そして、事態はもっとまずくなった。乏しくなるいっぽうの資源をめぐって、集団間での争いが激化した。結局のところ、このことが惨事を招いたようである。
■最後に作られたモアイが意味すること
妙なようだが、絶体絶命の状況での人々のふるまいを考えてみれば、何の不思議もない。そんなときこそ、いっそう地位を高め、やる気を振りしぼりたくなるのが人間だ。そして、ひどいヘマなど犯さなかったと自らに言い聞かせ、ひどいヘマなど犯してないよなと同意してもらいたくてたまらなくなる。
あろうことか、彼らは資源の奪い合いをやめなかった。それどころか、いっそう激しく争った。つまりラパ・ヌイの人々は、これまでよりはるかに大きい石の頭をつくることに没頭したのだ。どうしてかというと……人間は直面している問題をどう解決したらいいかわからなくて苦にしているとき、往々にしてそうするものだからである。
島で彫られた最後の石像は、石切り場でつくられてさえいない。いくつもの石像が道のかたわらにばたばたと倒れていた。目的地に運べないうちに、計画が全部台なしになってしまったのだ。
■「知ったこっちゃない」
ポリネシア人は、私たちよりまぬけだったわけではない。野蛮でもなかったし、ましてや状況に気づいていなかったわけでもなかった。
もしあなたが、いつ何どき環境災害に見舞われても不思議ではない社会が、みすみす問題をやりすごし、そもそもの問題の元となることをし続けるのはどうかしていると思われるなら……あ、ちょっとあなた、少しまわりを見まわしていただきたい。そして、エアコンの設定温度を少しだけゆるめ、リサイクルに励もうではないか。
ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊──滅亡と存在の命運を分けるもの』でこう問いかけた。
「最後のヤシの木を切り倒したイースター島民は、その木を切りながら何と言ったのだろう?」
これはなかなか手ごわい質問で、答えを導き出すのは難しい。どうせポリネシア版の「あとは野となれ山となれ」だったのだろう。だがおそらく、もっと手ごわい問いはこうかもしれない。最後から2番目、3番目、4番目の木を切り倒したイースター島民はいったい何を思っていたのだろう?
人類の歴史にならえば、かなりのいい線で、こんなことを思っていただろうと察しがつく。「知ったこっちゃない」だ。
Tom Phillips, HUMANS: A Brief History of How We F*cked It All Up
Copyright © 2018 by Tom Phillip
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トム・フィリップス
ジャーナリスト、作家
ロンドンを拠点とするジャーナリスト兼ユーモア作家。ケンブリッジ大学で考古学、人類学、歴史学などを学んだ後、テレビや議会でコメディーを披露。バズフィードUKの編集ディレクターを経てフルファクト編集者。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9cbdbcc307f67422e0983ba34b1d4289a0ee9caa