先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

田中裕子写真展「グアテマラ、先住民に知る」

2014-05-22 | 先住民族関連
AV Watch (2014/5/22 08:10)
(オリンパスギャラリー東京) Reported by 本誌:鈴木美香
中米、グアテマラ共和国。国民の約半数をマヤ系の先住民が構成し、ウィピルと呼ばれる色彩豊かな民族衣装に代表される伝統文化が色濃く残る。1996年まで 36年間に及んだ内戦の後遺症、治安問題、人権侵害など、いまだ複雑で深刻な問題を抱える。
グアテマラの特徴ともされる先住民。その8割は深刻な貧困状態に生きる。国内における先住民族と非先住民族間の生活様式や水準の格差は著しく二極化、グアテマラはまるで一つの国の中に二つの異なる国を抱える国家、ともいわれる。
先住民のほとんどは教育や保健医療などを受ける機会を得られず、日々の食糧や飲料水の確保もままならない家庭も多い。
家族に経済的負担をかけまいと、自分の病気の治療よりも死を選んだ5人の子の父親ロドリゴ。家計を助けるため幼くして家族と離れ働くなか、感電事故により両手と右足の指の切断を余儀なくされた少女クリストバリーナ。家財道具をもたない家で、むき出しの土の床で眠る家族。
本展では、2011年より 1年半暮らしたグアテマラで撮影した写真の中から、過酷な生活環境や社会的不平等にあえぎながらも、それでも生き、泣き、笑い、伝統文化を継承しつづけるグアテマラ先住民の姿を展示する。 (写真展情報より)
オリンパスギャラリー東京
・住所:東京都千代田区神田小川町1-3-1 NBF小川町ビル1F
・会期:2014年6月5日木曜日~2014年6月11日水曜日 ・時間:10時~18時(最終日15時まで)
・休館:日曜日・祝日 ・入場:無料
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/exhibition/20140522_645583.html

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私が探検家を名乗るわけ ショーン・エリス、ペニー・ジューノ 『狼の群れと暮らした男』を読む

2014-05-22 | 先住民族関連
幻冬舎plus 2014.05.22 角幡 唯介
 唐突で何だが、探検というのは非常に面倒くさい言葉である。扱うのが難しい、とても困った言葉だ。
 たしかに私は探検家を名乗ってはいる。しかし探検という言葉が好きなのかと訊かれると、それは少し複雑だ。決して嫌いなわけではないが、必ずしも好ましい言葉であると肯定的に捉えているわけではない。じゃあ探検家という肩書などやめればいいではないかと、きっとそう思われるかもしれないが、しかしそういうわけにはいかない、こちら側の事情もあるのである。
 探検のかわりに写真という言葉を考えてみよう。写真は「真」をと写す書くが、写真に写ったものが必ずしも「真」であるとは限らない。それは時折、「虚」を写すものでもある。虚を写すことがある以上、写真という言葉が好きではないと、そう考えている写真家がもしかしたらいるかもしれない。しかしだからといって、写真撮影を生業としている身としては、ほかの肩書を名乗ることは難しい。フォトグラファーとかカメラマンとか横文字に逃げる手もあるが、日本語で勝負しようと思ったら写真家以外に適切な言葉はない。「写像家」とか「カメラの向こう側に存在する現実像を光学的原理により切り取る者」とか名刺に書いても、相手にキョトンとされるだけだ。私が探検家を名乗っているのも、それと似たようなものかもしれない。
 昔はそうではなかった。私だって探検という言葉が好きだった。私と探検とのかかわりは大学生時分に学校の構内で探検部というクラブのビラを見つけて入部したときにさかのぼる。今ふりかえると探検部に入ったのは、私の中に探検という言葉そのものに対する憧憬があったからだと思う。探検という言葉の向こうに広がるジャングルや砂漠に私は憧れていた。つまりあのときの私は探検という言葉に単純に片思いをしていたのだ。だが、いざ憧れの探検と一緒になってみると、いろいろと相手の嫌な面が見えてくる。実際のジャングルや砂漠はじとじと雨が降るし、砂嵐が吹き荒れ、泥だらけで不快だ。危険な病原菌を媒介する害虫だってはびこっている。現実の厳しさというのは体験しないとわからない。こんなはずじゃなかったのにと思うこともあるし、死ぬんじゃないかと怯えたことだってあった。しかし、ひとたび一緒になってしまった以上、あらゆる艱難を受け入れて前進しなければならないのである。
 誤解されると困るが、私は探検行為が嫌いなわけではない。探検すること自体は大好きだから探検家をつづけているわけで、困っているのは探検という言葉なのだ。
 日本語の探検というのは本当に面倒くさい言葉だと思う。まず、この言葉にまとわりつく観念的なイデオロギーが胡散臭い。いうまでもなく探検は歴史的に近代の帝国主義と密接にかかわってきた。たとえ探検家が地理学の解明や科学の発展という純粋な動機で行動を起こしていたとしても、現実として彼の足跡のうしろには、経済的な実利を求めた白人たちによる現地先住民の搾取や侵略がつづいた。アジア、アフリカの植民地化はヴァスコ・ダ・ガマやマゼランの航海が先駆けとなってはじまったものだし、南米のインカやアステカといった高度の文明が滅びたのも、ピサロやコルテスといったスペインのコンキスタドールが無茶苦茶だったせいだ。どう言い繕っても歴史的に探検は侵略の尖兵であり、アフリカ黒人の奴隷貿易、インドの植民地化、アヘン戦争、アメリカ白人によるネイティブアメリカンの虐殺などなど、大航海時代以降の侵略者たちによる数えきれないほどの世界史の汚点と今に連なる悲劇は、すべて探検がきっかけであったといっても過言ではない。つまり探検という言葉の裏には、探検された側の血の雨が降っているのだ。そんな歴史がある以上、探検家ですと嬉々と表明することにためらいを覚えるのは当然であろう。
それにくわえ日本語の探検には、たとえば英語のexplorationやexpeditionという単語にはない、独特の恥ずかしいニュアンスがある。探検家と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、サファリハットをかぶり水筒を肩からぶら下げて、アフリカのサバンナやジャングルを練り歩くドリフターズのコントのような一団だと思う。なぜか日本人には、探検という言葉に付随する冒険的なロマンにまともに取り合おうとしない、そういう感性があるようで、どうしても探検をお笑いにして茶化してしまわないではいられないのである。
 このへんの文化的な深層についてはまだ詳しく考察できていないが、しかしこのことは確実にある。日本人にとって探検とは、いい大人がやるべきことではない、子供の遊びである。大人というのは探検などせず、背広を着て真面目に働き、会社から給与をもらい、家族を養い、老後のために貯蓄をし、現実的にものを考える人間のことだ。だからなんとなく探検や冒険で生きている人間には社会に対する肩身の狭さや、まっとうな社会人からバカにされているんじゃないかという被害妄想があって、別にそんなことは誰も気にしていないのに、自分たちは所詮、社会の吹き溜まりであり、理解してくれる人間などいないのだと勝手に疎外感をかんじ、世間との間に壁をつくって、俺の生きる場所はここしかないのだと次第に自分を追い詰め、どんどん無茶な冒険に走っていく。
 実は私は以前、名刺に「ノンフィクション作家・探検家」という肩書を刷っていた。でも最近これをやめた。私の読者なら自分のことをそういう存在だと知ってくれているだろうから別に気にならないが、見ず知らずの人に探検家を名乗るのは、やはり相当勇気のいることなのである。はっきり言ってしまうと、恥ずかしい。探検家入りの名刺を渡すと、どうしても心の中で笑われているような気がして、自己弁護するかのように説明してしまうのだ。自分の探検活動はコントではなく、結構真面目にやっており、本の評判もわりと高いのですと、そんな感じである。田舎の両親が莫大な借金を抱えてしまい……と弁明する風俗嬢みたいなもので、悪いことをしているわけでもないのに、なぜそんな言い訳めいたことをしなければならないのかとアホらしくなり、それでバカらしくなってやめた。名乗っていて恥ずかしい肩書というのは、これはもう存在自体に原罪を抱え込んでいるといわざるをえないではないか。
 だがそれよりも何よりも探検という言葉を胡散くさくさせているのは、現代における探検行為そのものの難しさであろう。この時代に探検というのは、まさにマンガみたいな話である。
 一般的に探検というのは地理的探検のことをいう。人類が知らない地図の空白部に足を踏み入れる。そういう芝居がかった、大時代的なのが正統的な探検である。しかしグーグルアースにGPSの時代に地図の空白部もないだろう。たしかに、地図はあるけど探検はされていないという地域なら、まだ少しは残っているかもしれない。だがその多くは落ち穂拾いの域を出ない、つまり探検するほどのこともなかったからされなかったとか、政治的に入域できなかったために残されたという地域ばかりで、少なくとも人類の歴史に刻まれるような物語性のある探検の対象は、基本的にエベレストが初登頂された時点で地球上から存在しなくなった。
 英国隊がエベレストを初登頂したのが一九五三年。私の出身母体である早稲田大学の探検部が発足したのが一九五九年。私のDNAのルーツである探検部が誕生した時点で、いまどき探検なんかできるのかという議論があったぐらいだから、探検家としての私の存在基盤が極めて脆弱なことは簡単に想像できるだろう。それ以降も部内では探検とは何か、どんな探検が可能なのかという議論がことあるごとに繰り返され、もはや本物の探検は宇宙にしかないという極端なことをいう人物が、それも定期的に出現するぐらいだった。東大の探検部など現代でも探検は可能なのか議論し尽くした挙句、不可能であるという結論に達し、ついには解散してしまったほどである。それぐらい今の時代に堂々と探検の看板を掲げることは胡散くさい。私は非常に危うい商売に手を突っ込んでいるのである。
 しかしそれでも私がやっているのは、やはり探検なのだと思う。今では別に地理的な空白部を目指しているわけではないが、しかし自分が志向していること、実践していることを吟味すると、やはりそれは探検としか表現のしようがない。
 本質論をいうと、探検というのは別に地理的な探検だけに限定されているわけではない。自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出てしまうこと、それこそが探検行為の本質である。その意味で地理的な探検は一番わかりやすい。地図というのは、その時代の知識の限界を示しており、地理的な探検は、まさにその外側を目指す行為だからだ。しかしその時代の知識の限界は、必ずしも地図のみによって表わされるわけではない。地図以外にも自分たちの知識で認識できる世界、時代を動かしている常識や枠組みの外側にある世界は存在する。つまり位相の異なる世界だ。
 位相というといささか観念的で、地図のように視覚的に明示されているわけではないので非常にわかりにくいが、私なりに説明を試みると、科学や宗教や文化といった自分たちの視座を形成している共通言語により認識できる地平や階層とでも定義することができるだろうか。したがって細かいことをいうと文化や宗教や民族などの各集団によっても位相は異なってくるし、広く全人類が基盤としている大位相というのも想定できる。簡単にいうと日本人が見ている世界とイスラム教徒が見ている世界はちがうだろうし、人間が目で知覚している世界とコウモリが超音波で知覚している世界はまったく異なるだろう。この人間の位相の外側に行く行為こそ、前人未到の探検であり、それは別に地図の世界に限定されるものではないはずだ。
 この地理的世界にとらわれない、別位相を探検した実例として近年、私がもっとも衝撃を受けたのが、今回紹介する『狼の群れと暮らした男』という本である。この本はタイトルを見てもわかる通り、野生のオオカミの群れと長期間暮らしたショーン・エリスという男の記録だ。内容は凄まじいの一言に尽きる。読者の多くはきっとこう思うだろう。一体これは本当の話なのだろうか? それぐらい信じられない話が本書の中には書かれている。
 ショーン・エリスは幼少期から犬やキツネなどの動物たちに並々ならない関心と愛着を示してきた英国人である。彼がオオカミの群れと共同生活することに異常なまでに情熱を見せはじめるのは、七年間の軍隊生活を経たのち、野生動物公園で飼育係の手伝いをすることになってからだ。オオカミの社会に受け入れてもらうため、彼がまず試したことは、無謀にも群れが暮らす柵の中に一晩中座りこんでみることだった。つまり相手に信頼してもらうために、いってみれば丸裸になって自分の身を彼らの自由に任せてしまったのだ。あまりにも怪しげなその行動に、オオカミたちも最初は彼と距離を保っていたが、次第に近づくようになり、臭いをたしかめるなどの確認動作をとるようになった。そして幾晩か様子を見た後、オオカミは突然予告もなしに彼に突進し、なんと膝の肉片を噛みちぎってしまった。そのときのことを、エリスはこう書いている。「すごく痛かった」。それでもひるまず檻の中で生活をつづけるうちに、彼はオオカミたちに本気で自分を傷つける意図がないことを理解する。たしかにものすごく痛いが、それは彼らなりの儀式であったのだ。そしてその試練が二週間つづいた後、ついにエリスは飼育オオカミの群れに受け入れられる。
 エリスの行動はその後、さらにエスカレートした。飼育オオカミで飽き足らなくなった彼は、野生のオオカミの群れと暮らすため、単身、アメリカのロッキー山脈に向かったのだ。野生オオカミが彼を群れに受け入れるまでのイニシエーションは、動物公園の飼育オオカミよりもさらに手荒かったが、すべてを向こう側に委ねることで彼は群れの信頼を勝ち取ることに成功する。群れの最下層のメンバーとして受け入れられたエリスは、一人で森の中で寝泊まりするより、オオカミと一緒の方が安全であると感じるようになった。つまり、そこには家族と同じ温もりがあったのだ。狩りには連れて行ってもらえなかったが、その代わりオオカミは必ず彼に、彼が獲れるウサギよりも大きくて良質なアカシカの肉を持ち帰ってくれた。群れが狩りから帰るたびに彼らは再会を喜び、お互い顔を舐めまわした。
 圧巻はオオカミの繁殖期と子育ての様子を群れの一員として体験したときの描写だ。繁殖期を迎えた二、三週間、エリスはオスたちに突撃されたり咬みつかれたりして、生傷の絶えない耐え難い苦痛をあじわった。その後、一匹のメスが出産のために巣穴に閉じこもり、しばらくして小さな黒い産毛の子供を二匹連れて帰ってきた。そのときのオオカミたちの興奮は信じられないほどで、赤ん坊の臭いをかぎ、つつき、くまなく調査したという。驚くべきことに母オオカミは巣穴の中ですでに必要な教育をほどこしており、エリスが人間であるにもかかわらず、赤ん坊は出会った瞬間に彼が群れの一員であることを認識できていたという。エサを要求してくるオオカミの赤ん坊の様子を見て、「私は奇跡を目撃したのだ」と書いている。
 彼がなぜそこまでオオカミの群れの一員になることにこだわったのか、その動機は読んでも正直よくわからない。しかしそのことはさほど重要なことではない。登山家だって、なぜ山に登るのかと問われても、よくわからない場合が多いし、あなたはなぜ生きているのですかと訊かれて、明確に答えられる人などそうはいないだろう。エリスの原動力も、たぶん似たようなものだ。ただ、「誰もここまでやった人はいない」といったような記述が所々で見受けられることから、誰も知らない未知の位相に飛び込みたかったことが、その行動の大きな要因であったようには思われる。何しろ彼は探検の本場である英国人なのだ。
 エリスの行動はまさに探検だった。彼が暮らしたオオカミの世界は、人類にとってまったくの未知の領域だった。行動や社会構造、認知能力やコミュニケーション手法、繁殖期や子育ての様子、人間との距離のとり方など、彼が報告した野生オオカミの生態の多くは新しいものだった。
 しかし彼の行動が探検だった本当の理由は、彼がもたらした知見や情報の目新しさにあるのではなく、彼が野生オオカミの視座を獲得できたところにある。群れの一員となることで彼は、人間の見る世界とはまったくちがう、オオカミの見る世界に足を踏み入れたのだ。同じ物理的空間に同時に存在している人間の位相とオオカミの位相。両者は平行して存在しているため、決して交わることはないが、しかしショーン・エリスは存在の軸足を完全にオオカミの位相に移すことで、オオカミの視座から見た世界を報告した史上初めての人間となったのである。この本に描かれたオオカミの生態を、従来の研究とはちがうので信頼性に欠けると退けることはお門ちがいである。人間の位相から眺めた従来の生態研究と、オオカミの位相で目撃した彼らの生の姿では、必然的にその記述のされ方に相違が生まれてくるだろうからだ。要するに、この本は言語を操るオオカミによって書かれたような本だといえる。
 本書は私にとって、とても刺激的な本となった。自分たちの世界の位相とはちがう位相に入りこむという探検の手法を、ここまで徹底的に実践した人物を私は知らなかったからだ。
私が昨年からはじめた太陽の昇らない極夜の旅も、できれば自分たちの知らない位相に入りこみたいと考えてはじめたものだ。私たちの住む昼と夜のある「日夜相」から、昼のない「極夜相」に徹底的に軸足を移すためには、GPSを使わないとか、長期間、人間と接触しないなどといった手法が非常に重要になってくる。それは地理的空白部や未踏峰といった目的地に到達すれば手段は問わないという、従来の地理的探検とは異なる、旅の新たな成功の条件である。どこかの地理的な一点に到達するのではなく、極夜の位相に深く入りこむことで、まだ知られていない地球の別の側面を発見しようという行為。それを単に旅と呼ぶか、冒険と呼ぶか、あるいは探検と呼ぶかは難しいが、しかし自分が一番面白味を感じている未知の部分に焦点をあてると、やはり探検が語義として一番ふさわしいように思う。
 ということで私はまだしばらくは、渋々ながら探検家を名乗らざるをえない。エクスプローラーと横文字に逃げたところでわけがわからないし、車の名前に間違えられそうである。子供じみたことをやっているようで恥ずかしいのだが、ほかに肩書がないのだから、これはもう諦めるよりほかない。
 結局のところ、私は探検家という言葉が今もまだ好きなのだろう。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞を受賞。
http://www.gentosha.jp/articles/-/2065?a_hl=1


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12,000年前の少女の骨、メキシコの水中洞窟で発見される

2014-05-22 | 先住民族関連
WIRED.jp 2014.5.21 WED
TEXT BY KATE PRENGAMAN
PHOTO BY ROBERTO CHAVES ARCE
TRANSLATION BY MINORI YAGURA/GALILEO
ARS TECHNICA (US)
メキシコにある水中洞窟の底で、12,000年以上前の少女の骨が発見された。DNA解析等から、アジアから渡ってきた古代人の子孫と推定されている。
メキシコのユカタン半島にある水没した洞窟の底で2007年に発見された古代の人骨が、このほど分析された。
この人骨は、米大陸でこれまでに発見されたなかでは最古の完全な状態の人骨だ。1万3,000年前までに絶滅したと見られるサーベルタイガー(剣歯虎)やオオナマケモノ(メガテリウム)の骨とともに発見されたものだ。
この人骨は10代少女のもので、「ナイア(Naia)」と名付けられた。最初にナイアを発見したのは、2007年に「オヨ・ネグロ(Hoyo Negro:スペイン語で”黒い穴”の意味)」洞窟を探検していたダイヴァー・チームだ。オヨ・ネグロ洞窟は、複雑な洞窟系の一部で、深く陥没しており、水深は約30m以上に達する(リンク先に複数の写真あり)。
最古のアメリカ先住民は、北東アジアから北米へと、陸橋伝いに移動。約2万年前に現在のアラスカにたどり着いたあと、大陸に徐々に拡散していったと考えられている。
これまでに発見された人骨のうち、1万年以上前のものは30体を下回り、1万2,000年以上前のものは5体にとどまる。
洞窟に沈んでいたナイアの発見が重要視されたのもそのためだ。ナイアは、1万2,000年以上前の骨としては、これまでに発見されたなかで間違いなく最も完全な状態なのだ。
地史から、この洞窟は、最終氷河期が終わった約1万年前に浸水し始めたと推定されている。洞窟が永久に水没する前に、じめじめした洞窟内にある人骨と動物の骨の上で、炭酸カルシウムからなる方解石の結晶が形成された。鍾乳石の先端から落ちる水滴によって石筍が形成されるのと似たような仕組みだ。方解石の結晶は、サーベルタイガーやオオナマケモノといった、洞窟内にあるほかの動物の骨の上にも見つかった。
研究チームは、方解石の分析から、発見された骨が少なくとも1万2,000年前のものと判断した。また、歯のエナメル質を分析したところ、古くても1万3,000年前のものであることがわかった。こうしたことから研究チームは、年齢15~16歳のナイアは、1万2,000~1万3,000年前にこの洞窟に転落したと結論付けた。折れた骨盤は、ナイアが洞窟に落ちたことを示唆しているが、頭蓋骨はほぼ無傷だった。
研究チームは、古代の標本のDNA断片を調べるために開発された技術を用いて、DNA配列を解析した。主要な特徴を見ると、アメリカ大陸でしか発見されていないアジア系の血統と合致することがわかった。現代においては、こうした特徴は、チリとアルゼンチンの先住民によく見られるという。研究チームは、2万年前に移住した古代の先住民(パレオ・インディアン)と現代の先住民の関係についても考察している。
テキサス大学等の国際的チームによる今回の研究論文は、「Science」に5月15日付けで発表された。
※この翻訳は抄訳です。
http://wired.jp/2014/05/21/submerged-skeleton-suggests-early-humans-only-found-the-americas-once/

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小樽市総合博物館で企画展「勝納川-小樽を育んだ川」-歴史や自然紹介

2014-05-22 | アイヌ民族関連
秋田経済新聞 2014年05月21日
 小樽市総合博物館本館(小樽市手宮1)で現在、企画展「勝納川(かつないがわ)-小樽を育んだ川」が開催されている。勝納川の歴史と自然に関する資料を幅広く展示している。
 同館所蔵の資料で、勝納川の歴史と自然を紹介する同展。動植物の剥製や標本、古い資料や写真、当時の遺物などのほか、現在の写真やジオラマなども展示するなど、視覚的にも楽しめるように工夫している。
 同展で紹介される勝納川は、同市の中心部を流れる河川。河川名の由来はアイヌ語のアッチナイ(豊かな沢)、カツチナイ(水源の沢)など諸説あるという。明治初期には、その河口に料亭や湯屋、劇場が立ち並ぶ市街地が形成され、1914(大正3)年には、約100年間使用された近代水道設備である奥沢水源地がその中流に建設された。
 開館時間は9時30分~17時。火曜休館(祝日の場合は翌日)。入館料は、大人=400円(夏季)、小人(中学生以下)無料ほか。7月13日まで。
http://otaru.keizai.biz/headline/330/

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イナウとアイヌ民族(下) 北原次郎太

2014-05-22 | アイヌ民族関連
朝日新聞-2014年05月20日
●北原次郎太 北海道大アイヌ・先住民研究センター准教授
■環日本海 文化の風取り込む
 典型的なイナウは、直径数センチ程度の樹木を素材とし、表面を薄く削り出してリボン状にした「キケ」を持っている。キケは大別して長短2種があり、形や削り方で更に細分できる。それらの組み合わせで様々なイナウを作り出すことができる。
 イナウの多様性は、カムイの多様性を表す。水や森林、狩猟神など、人の依存度が高い神には、良質な素材と高い技術を要するイナウを捧げる。また、イナウにも性別があり、北海道では、捧げる相手と異なる性別のイナウを捧げる方が良いとする。イナウの性別は、キケを撚(よ)るか散らすか、根と梢(こずえ)のどちらに向かって削るか、軸の上端を水平に切るか斜めに切るか(いずれも前者が男性、後者が女性)など形によって表す。鳥神のイナウにはフクロウの羽角(うかく)(耳のように見える羽)をかたどった短いキケをつけ、他の神もその姿にちなんだ印を刻むことがある。カムイによっては定まった樹種を好む。
 なお、鳥神の羽角は十勝・釧路から空知までの北海道東北部に分布が限られ、南西部には見られない。また、イナウシラ「イナウのまつげ」と呼ばれる短いキケはやはり東北部に分布するが、十勝地方では、北部から移住したという伝承を持つ音更町の人々だけが用いる。
   ◇  ◇  ◇
 このように、イナウにはその土地の人々が作り上げた信仰体系と歴史が映じている。形状では北海道南西部と東北部の間に境界があり、東北部は樺太アイヌやウイルタ民族・ニヴフ民族とも連続性を持っている。一方、工具・技術の面では宗谷海峡に境界があり、北海道は本州から東南アジア、樺太はシベリアや北米西海岸との共通性が高い。私自身の研究は曽祖父が暮らした樺太西海岸の文化をたどることから始まり、より広い地域に関心が向くようになった。視野を広く取ることで見えることもあると気付かされたからだ。
 樺太のイナウを調べていると、アイヌの南北に広がる神像の文化に行き着く。樺太アイヌの守護神はイナウとは呼ぶものの、根から掘り起こしたマツなどを逆さに立て、印や目鼻を刻んだものだ。よく似た像はニヴフ民族やアムール川流域のナナイ民族の文化にも見られ、やはり逆木で作り目鼻を刻む。逆木も人面も、北海道アイヌはタブー視するため、樺太アイヌの一部に、より北方の文化が取り込まれたと考えられてきた。ところが、民俗学の神野善治氏の著書で、秋田県や朝鮮半島で祭られてきた神像にも逆木を用いる例があることを知った。削り花(小正月に用いるイナウ状の祭具)の調査のために訪ねた群馬県立歴史博物館にも、逆木を使った道祖神があった。
   ◇  ◇  ◇
 ある一つの事実によって、既知の資料の見え方がガラリと変わることがある。東日本や朝鮮半島の資料により、逆木神像の文化はアイヌを含む環日本海地域に、かなり古い時期に広がった可能性を考えるようになった。そして、北海道アイヌの間に人面意匠を忌避する文化が生まれ、神像の働きをイナウに負わせたとすれば、イナウが贈り物でありながら伝達や守護など擬人的な働きをすることも理解できる。
 ムックリの名で知られる口琴という楽器など、環日本海地域に広まった文化は他にも例がある。アイヌと日本を囲む広大な地域に、北からも南からも幾度となく文化の風が吹いた。それによって運ばれたものは、二つの民族に受容されながら、在地の文化と結びついて新たに生まれ変わっていった。環日本海地域の研究者による連携は今後の課題だが、学的交流を通じて、それぞれの文化の究明と相互理解を進めていきたい。
http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20140520011190001.html


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