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ふろしき王子のブログ◎
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小麦わらストロー。細いのでちゅうちゅう吸う。イッキに飲みたければ数本くわえましょう。

鼠賊ならぬ蛙族である僕は、雨は全然嫌いじゃないが、
かといって傘やカッパにレインシューズで外を行くよりも
部屋の中から、滴打つ庭の田んぼなど眺めているがよし。

雨が降ると、田んぼの水が澄むのと、植物がぐんと育つ。

なぜ澄むのかはよく分からない。単に元の水が流れ出るからか。

また、よく育つのは、水分の供給だけでなく
既に雨水はイオン化された窒素分を含んでいるのではないか。

現代は、湧き水も雨も汚染されている。
井戸水やミネラルウォーターも窒素過多のものが多いし、
雨はPH5~4の酸性で、土壌微生物を溶かしてしまう。

ただ、雨水の持つエネルギーも生かしたいので、
そのためには、土壌が安定化システムに成っているように。

酸性雨は、炭の粉、卵や貝の殻、落ち葉や枯れ草の層で中和して
微生物を守る。
他の有害化学物質は、様々な微生物が共生していれば
ある程度は無害化できるだろう。
微生物がいつでも暮らしているためにはその餌となる
有機物が必要なので、落ち葉や枯れ草を持ち出さず、
野菜くずなんかもポイポイ放っておけばよい。

土に埋めずにそのまま置いておけば、
でっかいのは小動物や虫が食べ、
その糞や死骸を微生物が分解した養分を
根も吸収できるし、他生物が出した酵素を
自分用の酵素に再利用する。

しかし、あまりにも様々な汚染物質で飽和状態ともいえるほどなので、
新たに排出しないようにするのと、微生物の元氣な環境を増やす必要。
自動車の排ガスは、特別な添加剤や装置によって水しか出ないようにできる。

思うに、見た目にバランスよくする感性を、子どものうちから培うべし。

禅寺の小僧さんが、庭をどんなにきれいに掃いても
和尚からやり直しを命じられ、しまいにやけ糞になって
落ち葉を振りまいたのを、それでよしとされた話があるが、
むき出しのまっ更な土に、樹だけ生えているのは
本来存在しない不自然な状態なのに、
個宅の庭も幼稚園の庭も、公園もみなみな
下草はことごとく抜き、剪定した枝葉や落ち葉も持ち出して
燃やしてしまう。

そのままの自然と、人為の人工物利用の
目くるめく丁度よきバランス感覚があれば、
どんなに進歩的に観えても、それでも護りつづけたいふる里は残し
一方で、科学を上手に利用して、未来へ飛躍できる。

個人的な思いを書いてしまえば、
やるべきではなかったこと、またはもうちょっと工夫して
共存の道をはかってほしかった所の例として

・東京湾の埋め立て
・秋田県八郎潟の干拓
・江戸城外堀の埋め立て
・江戸川三角州の埋め立て(現ディズニーランド)
・全国的な山奥まで至る植林とその放置
・人工的なダム
・京都駅
・隅田川の堤防

山の森の針葉樹を半分は間伐して広葉樹と共生させ、
針葉樹をよい材に育てるとともに
保水力をあげて、自然のダムに育てる。

その頃合を見て、人工のダムを徐々に解体し
川の水量を安定させ、石から砂へ、海に砂が
供給されるようにし、海の護岸を解体して
砂花や干潟を再生させる。

川の堤防も、必要最低限のものにして
護岸を見直し、ヨシなど水生植物の群落に戻す。

海に隣接した湖は、水門を開き汽水に戻して
状態を観察する。

低地は、水はけをよくするのと非常時の移動運搬手段として
水路、舟の道を掘り、情緒あふれる水の都にする。

ディズニーランドは、浦安の町や東京湾の、人情や自然の
ポテンシャルを生かした形にコンセプトを変え、
「用意された遊び」から「自ら見つける遊び」へ。
海辺環境の浄化に貢献する企業となる。


「幻の?」小麦入りご飯。普通の麦ご飯は大麦入り。
コムギはほとばす(水に浸して柔らかくする)のが難儀なので粉にするものだが、
3日間ほとばしたのを米と炊いた。プチプチと噛めるが、
炊く前に、麺棒で押し潰したのを混ぜて炊くほうが、お米と触感が調和すると思う。

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ひきがえるの小さいの、だけど既に貫禄を漂わす後ろ姿。

我が家では、大豆を水に1日浸してほとばしたのを
ハンドミキサーで粉砕し、沸騰しない程度で煮てから
シノア(金網の逆三角錐のスープ漉し。実家で買う)でこして
豆乳をこさえている。

この豆乳を、生地に練りこんでクッキーを焼いたり
油と酢と塩とともに混ぜて豆乳マヨネーズ、
甘みを混ぜて凍らしてアイス、と色々に生かしてる。

愛用の浄水器のお水が調和を奏で、豆乳を煮るときの泡もきめ細かく、
できた豆乳を冷蔵庫に一週間ほど置いておくと、美味しいヨーグルトに
発酵する。

そのうち、いざ豆腐作りも試してみたいが、極力ニガリを少なめで
固まらせたい。


今日は神田で集まりがあったので、先日庭で採った小麦の穂と茎を
お土産に持参し、麦わらストローでお水を飲んでもらった。
細くて、吸う実感の濃い、何とも素朴ながらエレガントな
古式ゆかしきストローである。

家では、息子がこのストローに感銘を受けたものか、
お水を3杯ほど、吸って飲んでいた。

人工物は、どうしてもどこかしら不安定になるので、
できれば自然そのままの形を生かすと、細胞は歓ぶ。
自然物を溶かした材料から再構築するのではなく、
そのままの形態を活かすのが無駄なくエネルギーも高いでしょう。

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植物を育てるのは、自前の庭や土地があれば、地植えが一番だが

鉢植えの園芸も、どうして乙なものである。

このたび、クルミの鉢植えを庭の土の上に
1年以上置き放したお蔭で、鉢底の穴から根が大地へ掘り下がり、
ゴボウ並の太さで堅固たるのを、無常な借り家のために
仕方なくノコで挽き離した。

拡大した根っ子ネットワークが土台にあってこそ、
地上部の躍進・繁栄がある。
その根っ子をはずしたものだから、
クルミの枝葉は、まず一部が枯死し
他も、葉が黄色くなったりして、全体的に不安定となった。

要するに、今残っている根は植木鉢の中のみで、
その土台に対する地上部が大きすぎる。

これは、鉢植えの園芸全般にいえることで、
鉢のサイズと、植物の地上部のサイズの
バランスがよくないと、冴えなくなったり
病氣、または思わぬ事故で鉢が割れるか枝が折れる。

普通に育てていれば、鉢の許容を大幅に超えるほど
生長することはないが、肥料のやり過ぎなどで
バランスが崩れることはある。

大きくしたいなら植え替えて、鉢を替えないなら
鉢に準じた高さで刈り調えることで、
根っ子のバランスも保てるだろう。

人と同じ空間で共存するためには剪定も必要となるが、
基本は、外向きの枝を残し、内向きの枝を刈ればよい。
あとは、弱い部分は自然に枯れたり、虫が食って間引いてくれるので
殺虫剤や消毒は要らず、肥料もいらない。

肥料は、分解された有機物であるが、
まず枯れ草や落ち葉(炭素)、それを食べる虫や小動物の糞や死骸や雨(窒素)、
それを分解する微生物、という生態系の中で生み出される。
そこには、多種のイオン化ミネラルも含むため、腐敗発酵せず
植物も病氣になりにくい。
下手に市販の肥料をやると窒素過多で弱った植物に、虫が大量に寄るという
状態となり、虫を殺しても何も解決にならない。
人が食べるためにたくさんの実りを必要とする作物は、
ある程度計算して肥料や有機物を投入せざるを得ない現状があるとしても、
庭で、楽しみにする園芸で、健康や環境を不安定に毒する
殺虫剤や消毒を利用するというのは、自然の息吹や神秘に触れたいという
趣旨に反していると思う。

表面的に見て、アリが居るからアリ殺し、
ダンゴ虫にはダンゴ虫殺し、ナメクジにナメクジ殺しと、
各種小動物を殺戮するための薬が園芸コーナーに所狭く売られているが、
実際は、みなかけがえのない使命を持って調和に貢献している。

アリは、放っておけば腐敗発酵してしまう有機物を細かく分け、
巣の中の、涼しく通氣のよい貯蔵庫に保管し、好氣性微生物に
分解させたものを、みな揃って食べている(運びながらつまみ食いはしない)。
かけがえのない片付け屋だ。

ダンゴ虫は、落ち葉や酸化した植物を分解し、窒素の凝縮された糞とともに
死骸はカルシウムを含み、死して土壌を中和する。

ナメクジは、同じくピークを過ぎた植物の分解とともに、
植物の葉やつぼみなどの隙間のチリと微生物を舐め取って
清浄を保つ。


植物は、虫が付くから病氣になるのではなく
虫がいないから、栄養不足や、間引き不足で風通しが悪くなって病氣になり、
その弱った部分を食べて何とか蘇生させようと、また虫が来るわけです。

だから、健康な植物を育てたければ、虫のエサとなる落ち葉や草を排除せずに残し
(雑草は、一年草は日をさえぎる部分をハサミで切り根は残す。多年草は、近くのものは
根がぶつかり合うので抜く)、
虫の棲家となる隠れ場も用意する。

虫や小動物がいることで、肥料の供給(雨の窒素も固定されやすい)、弱った部分や多すぎる葉を食べる剪定、
変なウイルスもナメクジが舐め取り、積もった草葉は酸性雨を中和し根っ子を守る。

植物と動物は、完全に持ちつ持たれつの共生をしている。

しかし、かく言う私も、乾いた麦畑を水田に変えたことで
おそらく大量殺戮を行なった。
卵を守るハサミ虫の巣穴をぶち壊し、表土構造を破壊し、無数の微生物が溺死。
理想はこういう灌漑による二毛作でなく、乾いた土地に小麦、湿地に稲の棲み分け。
だけど、一つの生態系を壊してまでも農をいとなむならば、
その農によって、より豊かな生態系を再形成せむという落とし前がつけられるか、
人の道は大いにそこにもかかっていよう。

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無事に子ガエル、毎晩出現。

庭の半分を占めていた麦畑を刈ったので
乾燥しすぎぬよう、麦わらを敷いたり
新しく田んぼの水場をしつらえたりしましたが、

何も手をかけず、水やりせずとも
カエルの生きていける環境が望ましい。
そのためには、個宅の庭にとどまらず
町会ごとの公園が、子どもが遊ぶ元氣な「児童公園」と、
動植物に親しむ潤いの「自然公園」の2種あるとよい。

自然公園で生まれたカエルが、エサや縄張りを求めて
周囲の家の庭にやって来て住み着くが、
出逢いや産卵、火急の折にはふるさとの公園へ行き来できるように。
すると、庭と公園をつなぐ道も必要となるが、
道路沿いの潅木を、ツツジ一辺倒ではなく
様々な草木が混生しているとよい。

道沿いの低木は、冬も葉のある常緑かつ
排ガスにつよい樹種が選ばれているのだろうが、
つよいといっても苦しいには変わりないはず。
きちんと完全燃焼して、マフラーから水しか出ないような
車への進化を求めるし、そのように変えるための
添加剤は既に存在する。

排ガスがなければ、都会の歩道脇で延々と
野菜を育てるのも安心だ。
現在は放射能の問題もあるから、そこはきちんと
安定化させる必要がある。

ふるさと東京も、現実はそもそも大変に汚染されていた上に
放射性物質にさらされて、ノンキな事なかれ主義を貫いていては
未来の希望たる子どもたちが血を見ることになる。

かなめの若者は、不景氣や社会環境の歪みに毒され、
自分の生きる日々で精一杯なのかもしれないが、
それを言ったら、僕ほど、一般的視点では不安定な生活者もそういまい。
だけど、命を中心に、自分の健康だけでなく、生態系そのものの健康を
優先順位にとらえる選択は、どんな立場の者であれ、心の向け方次第だ。
その、ちょっとしたボタンのかけ直しが、真の歓びを創るご縁へいざなう。

明日も 庭で藍染めし、子どもの自転車を押し、田づくりします。

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新月の今朝、庭の小麦を収穫。



さあ、いよいよこれから、水水しい田んぼの庭に変わってきます。

エサ葉が無くなり、保護して室内で飼っていたアゲハの幼虫が
うろうろしはじめたので、サナギ場を探しているのだろうと
外にまた放しておいた。

すぐに行方不明になるが、
アパートの階段の裏側で、1匹発見。



寄生する、アオムシコマユバチの卵が産みつけられていなければ
無事に蝶に、はばたくでしょう。

ちなみに、アゲハを幼虫から蝶へと羽化させるべく飼う場合は、
水槽ではなく、細かな網で囲われた飼育箱がよい。

通氣のよいほうが、羽化後の羽も乾きやすいし
網目に蝶がつかまれるのでよいです。
また、蝶が蜜を吸うのではと
早まって砂糖水なぞ置いておくと、半乾きのベタベタに
羽が付いて取れてしまうので、
羽化したら、エサをやらずに外に放すのがよいと思います。

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明日、8(土)は、国分寺からひと駅の
一橋学園駅そばのハコギャラリーで、
絵が苦手な方も、天使のように自然体で
描けるようになる、お絵描き教室を開催します。
絵の柱となる、観察の視点とこつを身につけて
一枚の作品を完成させます。

11時から12時半。
参加費2000円(画材込み)
描きたいものの、実物か写真をご持参ください。
まだ参加受付中です。
お申し込みは、 isamix@gmail.com よこやま まで。
一橋学園駅 南口 改札前 クリーニング店の
右の路地奥のハコギャラリーが会場です。

僕は朝、小麦を収穫してから参ります。
いよいよ田んぼの季節。
さいわい、1cmほどのヒキガエルが生き抜いていて
毎晩姿を見せています。
乾いた麦畑が水田に変われば、
生態系もひと味変化して、しっとりギラギラの
夏へ至るでしょう。

(翌朝)
小麦の収穫は、新月の明日にします。
新月ころは水分が少ないため、刈った麦が
湿氣にくくてよりよいのです。
で、ちなみに田植えは満月の2日前(6/21)です。
水田なので水は湛えてありますが、
満月付近は土壌の水分が多く、播種に適しているといいます。

さて昨夜、鉢植えを路地に連ねた「カナヘビロード」を
ペンライトでフィールドワークしていた折、
パピョンっと何かが壁から舞い降りた。
光を向けると、白い忍者それはヤモリで、
スサササと逃げ去る。

カナヘビの道はみんなにもよい道となり、
個が全体のため、全体が個のため になっているのは嬉し。

夜は、日中は石の下なぞに隠れたる
ナメクジ、コウガイビル、ヤスデたちが闊歩されています。
昼間も夜も働きつづけるアリは、休まないのか。交代制でしょうか。

話変わって、僕は、早口なのはまだよいとしても
あまりしゃべるのが得意ではありませんでした。
空氣が鼻に抜けてしまうと、通らない声になるので
鼻をつまんでも、声が変わらない発声がよしとされています。
色々練習しつつも何だか、これ!という実感を得ていませんでしたが、

昨日、息子(3才。高くて非常によく通る声)のおたけび♪を体感して
それを真似てみたところ、とってもすいすいと、鼻に抜けずに話す
感覚をつかみました。この調子で日々話し、身に付けたいと思っています。

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にしても、支えきれるのかいな?というほどに

鉢植えのクルミの猛烈たる生長が止まらず、
この春までの5年くらいでやっと1メートルの丈だったのが、
2ヶ月ほどで2メートルを超している。

そんな折、山野草のミツデイワガサの鉢が庭に置いてあるのを
路地へ移動しようと持ち上げたら、底の穴から根が出て大地に広がろうとしていた。
借り家の庭で根付いても、いつ引っ越すか知れないので
そのまま引っ張ったらずるると抜けた。

クルミの急激な生長も、根が大地まで進出しているのではと
鉢を傾けたら、やっぱり!がっちりと根が鉢の下へ伸びている。
様々な角度に、ぐいぐい引っ張れど、底の根はゴボウのように太くて
一向だめ。

ここが持ち庭なら、鉢を割ってはがし、周りに土を盛って
小丘に生える木として、大樹への道をスタートさせたいが、
やむをえず、鉢と大地をつないでいる根を
ノコギリで挽き離した。

根っ子の一本一本が、地上部の枝一本一本に対応しているだろうと
考えているので、引き離された根に準ずる枝葉は枯れるんじゃないか、
と思っていたら
翌日から、やはり枯れ始めた。
何本もの枝の中で、数本の枝の葉だけ枯れて、他は変わらない。

今は鉢の中だけで勘弁してもらい、そのうち自分の庭に植えよう。

昨日は息子が、飼っているザリガニの1匹を庭に逃がしてしまい、
いまだ見つかっていない。
毎日水は撒いているが、どこへ行ったやら。
メダカと小エビでいっぱいの池がいくつかある。
そこに入られたら犠牲も出るだろうが、

逆に、あまりにメダカたちが増えているから、
それを食べてバランスをとるために
ザリガニがやってきたのかもしれない。

子どもが居ると、いっそう何が起こるか読めないけれど、
葉を食べ尽くして途方に暮れ、しぼみはじめたアゲハの幼虫を
彼が見つけて助けたりもしている。
生き物を愛するこころはきっとおんなじで、
色んな経験のできる自然環境を維持・蘇生することが責任でしょう。

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種からたまたま発芽した夏みかんの鉢植えには
毎年アゲハの幼虫がつくが、
サナギになる前にエサの葉っぱが足りなくなる。

丸坊主の小枝に、3匹の愛すべき
「緑の新幹線」が路頭に迷い、
乾いた塵芥に行き倒れてしまう。

そこで、隣の庭のユズの枝葉を頂戴し
ビンに挿したのへ載せたら、
やがてパリパリと鳴らして食みはじめ、
爽やかに柑橘系の香る糞をコロコロ落とす。
樹にとって、風を通す間引きになり、
糞は酵素と窒素を含む肥料になる。

部屋の隅に直接置いたので、明日鳥かごにでも入れよう。
サナギ用の枝も設置して。

アゲハは蜜柑の化身であり、樹が陽子とするなら
虫は電子で、一対にみえる。

(翌朝)
柚子の枝葉を挿したビンを小風呂敷でくるんで
結びながら、拾った小枝を一緒にくくり付け、
さらにひもで枝を固定。
採用されるか分からないが、
このしっかりとした枝はサナギ用。

そこに、鳥カゴをかぶせた。



すでに人為に満ちあふれたる街は生態系として不自然があるから、
放任ではなく最低限手脚を伸べて、
元々いた者たちへの敬意と人情を忘れたくない。

こうしてお隣のユズによって救われたように、
一人でパラダイスを造ろうとも、周囲が荒原では
いざというときの逃げ場がない。
近所や友達とも手を結び、道をつなげておくことが肝要です。


(苦手な方、しぃましぇん。)

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先月、息子とともに、ひょんとすくってきた
ひきがえるのオタマジャクシ。

もうとっくに小ガエルと成って、池を去りました。

乾燥しやすい、台地にある我が家の庭で、
毎日水は撒いているけれど、
カエルたちは無事だろうか  と思っていましたが、

昨夜、ペンライトで庭を観察していたら、
池のほとりの名も知らぬ葉の間に
それらしき存在が見え隠れしておった。

そして今夜もまたペンライトで探検していたら、

れれ!?☆ 元氣に ちょっぴり育った小ガエルが
折しも、パクリと小虫を食べるせつな。
しかも2匹が近くにあった。

拍子抜けするほど元氣そうだったので、
たくましく、はあるが、
小さくたって野強い、野性の当然のしたたかさを感じた。

もちろん、この子らが最後まででっかく生長できるかは分からない。
だけど、僕が思うに、生きている間が完全燃焼でしあわせならば、
いつ死んだって悔いはないだろうと。

理不尽で不本意な日々をずっと送りつづけるくらいならば、
心豊かく打って出て、そよ風にダイブ途中に、クマタカに裂き殺されたって
「いのち、この地球にあかるく全うす」と快感に死ねるだろう。

お母さんのお腹でタマゴから孵り、ちょっと育って
いざ独りずつ水中に解き放たれたる小エビが、
1秒後にメダカの口に吸い込まれても、
同じ生態系を奏でるフュージョン。

殺されても構わないから本音で生きる。魂の理想だ。

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ふろしきと、古来の身体技法を組み合わせた
にんじゃ体操を考案いたしました。

内容は、
1.基本の真結びと、ほどき方
2.腰を引き締める、風呂敷帯
3.ハイハイ
4.ケンムン(奄美の精霊)歩き
5.四つん這いで鬼ごっこ
6.かまきりの姿勢
7.カニ歩き
8.白さぎの構え
9.鶴の飛翔
10.指車
11.脚車
12.腕ふり
13.盆踊りウォーク
14.民謡ウォーク
15.過去・現在・未来の歩き方
16.ふろしき結び(日よけ帽、ウエストポーチ、手っ甲)
17.つぶて結び
18.風呂敷リュック
19.忍者のポーズ
20.忘れ物を確認する動作
21.刀の振り方
22.飛び道具の避け方(つぶて)
23.お盆運びウォーク
24.両手をひらいて走る

これだけ見ても、どんな体操なのか分からないと思いますが、

内側の筋肉を引きしめ、負担をかけずに
キレのある身体をつくる体操です。

にんじゃ体操は、出張で開講しております。
講習代金はお1人様3000円 2時間
一生使える、復習プリント付き。
興味ある方は、メール isamix@gmail.com よこやまいさお まで。

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いま必要と感じるものは、
中身・内容でも、器・看板でもなく、

それらとこれらをつなぐ、道であるかと。

温泉と娘さんをつなぐ、しゅてきなアプローチでござんす。

で、道は真っ直ぐよりは、クネってるのがよく
高低差の坂道もほしい、
そして、表の太みちの裏に細みち。
要するに川と一緒。

佳き道がしっかりとつながれば、水や風のように
情報やエネルギーをキチンと伝え、
中身も器もみなみな本来の姿に生きられる。



現在は90%、自動車のみちとなっている。

そこに、歩くみち、子どものみち、自転車のみち、馬のみち、生きものの道、
舟の道(川や水路、運河)、風のみち(樹のみち)のように色んなみちを増やせば、
器(場所やスペース)と中身(技術、情報、素材、商品)が過不足なくつながって、
生き生きとなるでしょう。

僕は、下駄のみちがほしい。
下駄で歩く人優先で、底が減りづらい舗装。
周りにはダンゴ屋など茶店もあり、時代劇のロケやスタジオに。
和服(着物、ハカマ、もんぺ、サムエやじんべえ)の客には
割引やサービス。観光地にもなる。
すると、道はそれ自身が器たるわけで、すてきな道があれば
自然と中身が集ってくるということ。



病氣も、遺伝子そのものが傷ついているのではなく
遺伝子と遺伝子をつなぐ道が切れていて、
情報が正しく伝わらないために免疫が機能していないと聞きます。

部屋を片付けるときも、まずは部屋の中をスムーズに移動するための道を、
物を端によけてでも作ることからです。
地方へ行くほど車社会で、道には人っ子ひとり歩いていない現代ですが、
町を興すなら、まずはすてきな道さえ作れば、素適なかたがた(中身)が集まりやすくなる。

僕は、歩いたり走ったりがだい好きなので、すてきなおうち以上に
ステキなおみちを切望してしまうのかも。
ちなみに、いつものニンジャ走りをした後の、脈拍数は60です。

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いつもこのブログをお読みいただき、ありがとうございます。
お顔も名前も、性別もおクニも、近況も思いも
ちっとも知り得ない人がたが多いと思いますが、
そんな見えないかたがたが読んでくださっていることへの
人情、愛情で、僕はとりとまらない文章を続けて参ります。

我が家は普段のご飯は、玄米を多少精米したのを鉄鍋で炊いていて、
甘酒(甘麹)を作るための玄米は、圧力鍋で炊いていました。

圧力鍋には賛否両論がある。

圧がかかると水がしみ込みやすくなるのと、
変化させるには状況の変化が必要、ということで
調理に便利という点があると考えていましたが、

圧力鍋の圧は、昔ながらの木ぶたを乗せる
羽釜の自然な圧よりもずっと高く、中の温度は100℃を超える。
もちろん、焼いたり揚げたりもそれ以上となるが。

高温によって細胞が膨張、破裂することで
味が出るのが、火を使った調理の仕組みのようだが、

食材に本来の細やかさがあれば、細胞を壊さずに
低温でも味が抽出されるという。
質のよいお茶ほど、水でも出るように。

素材のよいものほど、生に近いかたちで食べるほうが
味も吸収もよいはず。
加熱していないという意味では、乾物も漬け物も生です。
40度以下であれば酵素も残っているので、
自分の消化酵素の材料として、再利用できて胃腸の負担を減らす。

一般に売られている野菜にそれだけのポテンシャルを
望むこともままならないので、
生や低温調理で味をひき出したいならば、
手と目と思いをかけて自分で命ある素材を育てたほうがよい。

実際、玄米そのものや、圧鍋による料理は何となく
常食する氣にならず遠ざかっていたので、
これも細胞の声と受け入れ、今後も食について
柔軟に試していきたい。

食材に限らず、自分自身も、生命力ゆえの繊細さを保つことで、
大げさな表現をせずとも、自然に味わいがにじみ出てくるような人に。
文字で表せるようなデジタルな言葉にとらわれずに、
何となく醸し出される思いや行動に寄り添った、
一義的でない、分かりにくい人でありたい。

言葉で分かりやすく説明があっても、体で判断する。

ハイブリッド車のほうが環境によい、と聞いても、
その電池の有害物質(PCB)がよほど環境を汚染するともいう。
そういう、表に出てきづらい情報の有無以前に、
本当に、自分の体がそこに添いたいかどうか。

どんなものでも相性があるが、それをニュートラルに
感じるためにも、ストレスの溜まらない暮らし。
後でストレスを解消するのは2重の手間なれば、
はじめからストレスとならない術を日々工夫・切望するなら、
きっと人も世の中も、環境も本来のかたちへ進化するでしょう。

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にんじゃのコトばかりで申し訳ございません。

じっさい、忍者というアイコンについてはそれほど興味はありません。
対象は老若男女問わないので、忍者教室という少年向けなネーミングとは別に、
大人向けの名称を検討中でもあります。

頭で考えても、今までの経験から引っ張り出す程度で、
新しさの創造はあまり見込めません。
実際に体を動かし、実行をつづけていれば、
つきづきしき名前がふわりと舞い降りるものでしょう。

13種類のにんじゃ体操も、机上で頭をかかえたり、カフェでゆらゆらと考えたわけではなく
僕が日日、小ほうきで畳を掃いたり、残り湯を桶で汲んで植木にやったり、
藍染した布を絞ったり、民謡を踊る、大風呂敷を背負って旅に出る、
そんな、いつもの動作を再確認したものにすぎません。

ようやく、
1.ハイハイ 2.ケンムン(脚の長い奄美の精霊)
3.かまきり 4.追分 5.白鷺 6.鶴
7.指車 8.脚車 9.盆踊り 10.民踊
11.忘れ物 12.かたな 13.忍者

の13つに、今晩ようやくまとまりました(各名称は変わる可能性あり)。
当初は11でしたが、この体操を毎日朝(昼)晩つづけていくことで、
からだで感じながら改定を得ました。
想像ではなく実地の体験であるため、手堅くあります。

忍者っぽいフィットネスでも作ったら、ウケるかな?という
表面的な大人騙しをする氣は1オングストローム(ナノの10分の1)
たりとも無く、内容的にはまったく忍者という観念に
限定されるものではありません。
だけど、やはり多くの方に身に付けていただければ
非常に貢献になるという思いがあるので、看板として
分かりやすい「ニンジャ」をたまたま使ったのと、
以前から歩き/走り方が忍者歩き/走りなので
言葉として馴染みがありました。

ちなみに、何でも分かる(!)アカシックレコードリーディングの
玉愛あみ ちゃんに尋ねたところでは、
僕は前世で忍者ではないが、走ることを教えていた、との事。
(彼女は幼少より特殊能力を持つ人。ブックマークにもあります。
スピリチャル苦手な方はごめんなさい。だけど、視点が増えるほど
この世は希望にあふれてきます。過去、玉愛あみという仕事名を
命名させていただき、それ以来のお付き合いがあります)

忍者教室では、腰に巻く帯にしたり、頭巾や手甲、つぶてをこさえるのに
風呂敷も使いますが、体操で様々な動作をしたり、歩き方、走り方まで
実習するため、やや広さのある会場が必要です。
このたび、小学校の体育館で4年生に伝えることになりましたが、
普段から定期的に開催するためのスペースを、これから探す、というか
素直な思いのつよさがある限り、自然と導かれると感じます。

ふろしきに関しても、風呂敷に特別な思いを抱き、
これを広く世の中に展開させるっ!という野望や使命感は持ち合わせておらず、
学生時代から、個人的な道具として愛用していたのが
たまたま、口コミからのご縁でお呼びいただくようになりました。

ふろしきも、忍者歩きも、自分が世に問うテーマではなくて、
元々自分そのものの、ありふれた日常なのです。

たとえば、普段から使っている右手に対して、大好き!という感情を
普通は抱かないのと同じで、
風呂敷ももはや体の一部で特別感は無く、
忍者歩きも、自然とそうなっていたものなので、
需要の有無に関わらず、飽きたりやめたりという次元ではありません。

逆に、いつもと違うモードに切り換えなければできないことは、
本当に身についていないのではないかと。
そして、切り換えるやり方だと、終わった後にその反動で
日常や健康にグタッとくるでしょう。

撮影やワークショップのときだけ、忍者モードに切り換えて演じるというんじゃ嘘です。

普段からの、ニュートラルでマイペースなその人そのものが、まさに忍者、という
ものであれば、それが睡眠不足でも、酒を呑んで酔っていても、
あらゆる挙動は忍者そのものであるでしょう。

そんなあり方をあらまほしと思っています。
これからも、中身第一に、看板は自然に舞い降りるという
流れで、小川のようにさらさらとつづけて参ります。

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