ふろしき王子のブログ☆
日本全国出前講座開催中
http://furoshikiouji.asia
メール isamix@gmail.com
 



こんにちは!

墨をすって風呂敷に描いていて、その数100枚のために 心地よきへとへとにございます。

さて、今日はお願いがあります。

10/13(日)に、国分寺のすてきな絵本屋「おばあさんの知恵袋」にて
13時半から15時まで、ふろしき結び方講座~100年先の子どもたちのために~
というワークショップを開催します。

この日は、講座風景のテレビ撮影が入ります。
急に決まったことなので、今回は参加費をいただかず、
もちろんいつもと変わらない充実の内容で行ないます。

参加ご希望の方は、メール isamix@gmail.com までお願いします。

会場は、国分寺駅 南口 を出て左へ。
徒歩3分くらいで、国分寺マンションという
1階に古着屋のあるビルから地下に階段を降りると、
「おばあさんの知恵袋」という絵本屋さんがあります。

国分寺市南町2-18-3 国分寺マンション地下1階
電話:042-324-2708
お店のページ

こちらへ、10/13(日)の13時半までにお越しください。
練習用のふろしきは貸し出ししますので手ぶらで大丈夫ですが、
使いたいマイ風呂敷のある方はご持参ください。

基本、応用、非常時の使い方に、
これからの季節にも役立つ、暖かい結び方
(風よけ帽子、マスク、羽織り、腹巻き、ひざかけなど)
併せて、盛り沢山の内容で行ないます。

忙しいとは存じますが、今後の日々の暮らしの頼もしいパートナーになり得る
ふろしき技の数々、興味ある方はぜひこの機会を生かしてください。

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ワケギが伸びてきた朝。
土表に、精米で出たヌカを撒いた。
糠は土に混ぜないほうがよいが、自然に近い(雑草や生き物が共生している)庭ならば、
表面に置いておけば、蟻やナメクジが食べて、雨でしみ込んだ糞に微生物が酵素をかけ、
植物の栄養へとつながる。



稲の中に、何かおってんねん。



カナヘビ(やや乾燥地を好む、細長いトカゲ。愛しい蛇の意。かなちょろとも呼ばれる)。



助け合って生きる家族のようなもので、特に恐れない。子トカゲは手に乗る。



タテハ蝶みたいなのもやって来ました。
他、庭にはシジミ蝶、セセリ蝶、紋黄蝶が来る。



路地の夏ミカンの鉢に、アゲハの幼虫。
ちゃんと育てばサナギで冬を越します。

ほんっとに小さい庭だけど、路地などテリトリを広げつつ楽しんでおります。
野菜の皮の分解に貢献してくれる、だんご虫はカルシウム分を必要とするので、
石ころ、貝殻、卵の殻などが散在していると喜ぶと思う。

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雨上がりの夜は、虫目当てなのか、裏庭のぬしのヒキガエルが
どっかから這い出てくる。



アパートの住人も通るので、暗闇で踏まれないか心配もあるけど、
生きている間、自由奔放でいられるならば、いつ死が来ても悔いはないはず。
長生きすれば幸福とは限らない。
柵に囲まれた、表の庭に移そうと考えるときもあるけど、
元々、ある雨の日にどこからかやってきたので、このままでよいか。



この写真の右端の切り株みたいのは、紫式部という薄紫の丸い花を咲かせる低木で、
大家さんが伐る前はうっそうと繁り、ヒキガエルの居場所だった。
丸見えになって蛙も移動したので、シラカシの鉢植え(根元を覆うのはセダム)を置いといたら、
今朝、復帰しておりました。



冬はどこかに潜って冬眠するだろう。

おまけ。夏じゅう、部屋への日射しを緩和したヨシズの囲い。
今は丸めて吊るしてあります。
手前の青い網は、ゴミ袋にかぶせるもの。何でもひしめく、長屋生活。



季節に移ろう、身のまわりの動植物に目くらめく暮らし。
たまに遠くの大自然を訪れるのもよいが、
日々、繊細な変化を観察できるのもよろこびです。



(やばい、タイルの目地を掃除しなきゃ)

息子の髪は僕が調えております。
・頭頂部をゴムひもで結んでちょんまげにする
・ちょんまげ以外を、すき鋏で刈る
・ちょんまげを戻す
・ハサミで調える

あっしゃぁそれを、パイナッポーメソッドと呼ぶ(ちょんまげがそう見える)。
それでやると、河童のようになりません。

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ほんっとうに 昨夜の散歩前にほおばった
塩むすびの 美味しかったこと。

おすそ分けの、ひと粒のマロングラッセからいただいた至福。

明日やるべきことが待っている希望。

先は見えねど、明るいに決まってら未来の展望。

すてきな家族に支えられ

目立たないけど、口下手だけれど
魅力いっぱいの友達に逢える場所のご縁を抱き、

日々それぞれの道で励んでいる友達たちと
たまに逢うことができて、

ときに夜ふかしも自由にできて、

稼いだお金は、自分のメンテナンスや
バージョンアップに費やせて

家を建てたり にわとりを飼ったり、
木を植える等の夢が待っている。

夜は眠くなり、朝に目覚める。
やがてお腹がすいて、何か作ってみんなで食べる。

こうしてブログを書きながら
ぐんぐんと眠氣に浸食されて、眠りにおちること。

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うちの家系は粉もん好きの、北方騎馬(遊牧)民族の血筋なのだろうか。
関東武士団に「横山」党がある。武士もまた、騎馬民族なり。

遊牧民自体は小麦を栽培しないが、万里の長城でも越えて奪う?とか
馬や酪農製品との交易で手に入れる穀物は、ずっと南方のイネではなく
チャイナ北部で主たる、小麦にあらむ。

実家には鉄板付きのテーブルがあり、祖父は「お好み焼きの専門家」と言われていた。
こないだ、父と食事したときも、お好み焼き屋だった。

下町だからというのもあるけれど、農耕民と遊牧民では
前者が定住して生産、後者が仕入れて移動し販売するという
役割もあるので、商売をしている うっとこは、
やはり遊牧のDNAが濃いと思っている。

僕自身も小麦を栽培しながら、外へ出張ることが多い。
粉ものの料理や製菓は、適当でも失敗しない。
そして、水を使う拭き掃除よりも、ホウキで掃くことが多いので
水が少ない乾燥地の遺伝子ゆえに大事に使うという文化が染みているものか。
カエルや水場が好きなのも、希少に感じるからか。

B型(3人兄弟と両親ともにB型)も遊牧民といわれる。
馬に乗って羊を連れて、行ってみなきゃあ草が茂っているか
分からないから、あまり慎重に準備や予測をせず、のんきなところがある。

馬には乗ってみよ、という。

逆に農耕民からは「どこの馬の骨とも知れず」となる。


何でも分かる、友達のあみちゃんも、僕がどこに住もうかのうと尋ねたところ
「基本的にうちにいないので、交通の便がよければどこでも」と教えてくれました。

チベットの方の、青海(チンハイ)の民謡やモンゴルのメロディが懐かしかったり、
柔然や赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が氣になるとか、
そういう、ルーツ的なロマンは、もしかすると幻想かもしれないが、

文化は誤解から生まれるともいう。その氣に乗って、そうしていればそうなっちゃって
次世代に引き継がれる。

いきいきしてきて、わくわくして、面白くってロマンのあることは信じて、
実生活に有効に生かしたらいいですね。

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・新米はまだだけど、涼しくなって、少し冷めた塩むすびを
 とっても美味しくほおばった。その後、下駄を履いて息子と夜道を散歩。

・手作りのマロングラッセをいただく。胸あたりで全身へ溶け合い、
 後味のこらず健やかで品のよい当たり。

・大粒のブドウを皮ごと食べる。えぐみが少ない。
 放射能を安定化させて(放射線が出ない)栽培している。

・吉川美南という駅名は、人の名のよう。

・秋と来るならキノコに栗だけど、
 震災以降は慎重を要する食材に分類されている。
 願はくは、高い基準値には満たないと云うのみならず
 きちんと放射能の測定値を公表して、
 産地だけではない科学的な選択の可能なことを。

・毎年毎年、庭に実れる瑞穂は健やかながらも
 さしたる量にあらねば、それらは翌年の種にし、
 残りを真冬の小鳥たちに撒いている。
 行く行くは広き田へふくらまし、自家米のおむすびを結びて
 家族でほおばり、旅の弁当に詰め込みたいもの。

・時の流れの速きこと。
 時間に比例するもの、味噌の発酵、樹や子どもの成長は、
 蒔いた種の花ひらく。
 一人歩きする、自分の分身を創出したい。
 味噌は手の平の乳酸菌が、樹は植えし時の
 たな心の想いが育っていき、
 子どもは先祖からの魂が、進化を含みつつ
 脈々と受け継がれていく。

・水は運び屋。汚れやストレスを流しさるが、
 嬉しい、楽しい思いや希みも水に乗せて流し、
世界中に届けられる。
 思いも物質で、超微弱な電気で運ばれる。
 それを改変せずに届けるには、
 母なる地球からのたくさんの鉱物(ミネラル)が
1億分の1cm単位の細かさで解け込んでいること。

水は舟。
舟が汚れていないことは当然の前提として、
 肝心要は、その舟の運搬伝達性能です。

言葉も同じ。
汚いことばを使わないだけでなく、
何を伝えることができるかという
機能にこそ、目を注ぎたい。

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・地域的必然性のないものが、シェアを広く占めるのに違和感を覚え、
 みなが共通の話題にしがちな流行りものに背を向ける、へそ曲がりの拙ですが
 テレビが無く、話題のドラマも見たことがなく、人気のアイスや話題のお店、
 行列には並ばず。
 リスクなき二番煎じ、本音なき定型の挨拶を交わし合うだけで、裏では無関心、
 あるいは食い物にしようと、天使の微笑みを発する偽善に生きるよりも、
 蔭で子どもたちの行く末を案じ、土台を固めんとしながら、
 印象的には食えぬ問題児と思われるような偽悪のほうがいい。

・広い自然公園に行っても、何でだかバッタや蝶など虫が少ない。
 生き物探しを期待していた息子が「いきものどこ~?」と探しつづけるが、
 東京ドーム数個分の敷地であれ、これでは我が家の6畳足らずの庭の方が
 密度ははるかに濃い。一歩踏み出せば、オンブバッタが跳ね、カナヘビが横ぎる。

 各国では規制が広がれど、日本では放置で、ホームセンターでも普通に
 園芸用として売られ、農業でも広く使われている神経系に作用する農薬
 ネオニコチノイドの類が原因として否めない。半径500mに影響が及ぶ。
 その自然公園の周りは、それほど畑は見られないが、割合高級住宅街で
 庭つき一軒家が多いので、ガーデニングで使われている可能性がある。

 現代農業で、農薬を使う情況は、不自然な農法の中でのバランスとして
 不本意ながら理解できるとしても、単なるお庭の、趣味的な園芸において
 わざわざご丁寧に、殺虫剤や除草剤をあまねく利用する情動が、
 野蛮人の僕には理解できない。
 
・あらゆる分野、360度から、命や人権に対する冒涜が行なわれている日本。
 これは何か。
 お人好し、裏を返せば他人から嫌われることを極度に恐怖する
 村八分のトラウマを潜在する日本人に対して、
 もっと、自分が素直に感じたことを信じて、孤高をおそれずに
 行動、選択しなければ、ただ全員仲良くそろって、子ども生き物
 巻き込んで滅ぶだけだよ、さ、これでもなお周りを氣にして
 うすら笑って我慢しつづけるつもりかえ?という奥心からの試練であるものか。

 日本は市民革命を達することなく、権力に抗わないまま
 民主主義と謳っているけれど、実際は国が大衆を蹂躙している。
 かといって、石や火や槍を持って、不満を爆発させるという手段を
 採用しないところが、日本人の品格といえるが
 結論は、一人一人が真剣に学んで賢くなり、自己責任における
 日々の行動や選択の質や方向を決めて、権力者の都合よいように
 騙されないことも肝要。

・生まれ持った感性を邪魔して、そぎ落とし、曇らせる教育が多い。
 幼稚園からはじまって、現在の教育ならば通わないほうが
 ずっと賢くいられるのではと思う点が多い。
 放っておけば素晴らしいものを発揮し生み出すものを、
 わざわざ「こうしましょう」という見本を掲げて、
 その通りにしないと叱責し、問題児と見なされる。

・現在は、通って当然という空気、同調圧力といったら大げさか、
 幼稚園にしても、ビジネスに過ぎない。
 元々は無かったものであり、無ければ無いで
 親もライフスタイルを合わせるし、近所の子ども同士、
 縦や横のつながりで、遊びから社会性を育める。
 通う(べきとされている)幼稚園、を選ぶために
 いくつか見学や説明を聞きに行くが、
 「いらんわ」というカリキュラムが多い。
 やらされている感、目が死んでしまうような。

 子どもは自由にさせ、その代わりに、自ら行なった後始末、
 落とし前をつけさせればよいと考える。
 汚してもいいけど、自分で拭いてねって。

 我が家でも、ある意味何にもしつけていないが、
 何も助けないので、自分で好きに行い、自分で片付けている。
 家が小さいため、僕自身、何かするたびにいったん掃除をするので、
 それを真似ているのかもしれない。観念はテレパシーで背中から伝わるもの。

 自然な育児、を標榜する学校でも、そういう特別感のあるところは
 教育費も高額だから、見合う内容を親に披露するために、
 かえってシンプルからはずれて、色々と凝った内容になりやすい。
 仕組み、骨組み、真髄が体験で身につけばよいところを、
 表面的な装飾に時間をかけて、そこにもっともな理屈を後付けする。

 流れ者のおじさんとか、近所の怪しいお姉さんに
 勝手に遊んでもらうほうが、佳き成長にいざなってもらえそう。

・ワケギが日々するすると伸び、水前寺菜も根づいた。
 来月はスイセンの球根を植えて、真冬の庭の準備。

・相変わらず、風呂敷づくりと、いくつかの制作、協力、取材について
 かたむけている毎日。その中で、心を癒すのは、やっぱりだい好きな庭にある。
 大氣の汚染もすすみ、もはやそのままでの大自然の保持が困難な時にきている。
 人間が自然を壊すのではなく、人が大自然を生み出す、くらいの氣概が必要。

・嫌なものを攻撃しているヒマはない。自分が佳きと信ずるものを、
 毎日、愚直にタンタンと繰りつづけるのみにある。

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水の神さま、とか 土の神さま、太陽の神さま、という表現が
まどろっこしい。

神、がつくと 象徴、代表する神的な個体がいるような錯覚を抱かせるが、

実際は、どなたか水の神さまとか、弁天(サラスバティ)とか、いるわけではなく

あらゆる水そのものに神が内在している。

だから、水さまでよい。土さま、お日さま、草さま、花さま、樹さま、石さま、人さま。

神社にしても、水にちなんだ神さまが祭られている、というと
そういう神さまがいるんだ、と誤解して、その存在に思いが集まりやすいが、
わざわざ水をダシにしたヒーローやヒロインを崇拝する必要はなく、

自然と、愛おしさがこみ上げてくるような水環境、水場を創ったり、保っていればいい。

でないと、水の神さまのことは日々お慕い申し上げるが、実際のご近所の川は汚れたままという
本末転倒が起こる。

トイレの神さま(うすしま明王)も、昔に誰かが作ったアイドルで、本当はいない。
様々な名の付いた神や菩薩、如来など神道仏教問わず、信仰を拡大させるためのキャラクターになる。
もちろん、そういう偶像を思うことで日々の生活にはりが出て、生き生きと役立てば
悪いとはいわないけど、シンプルに、おトイレさまでよい。

トイレには美しい女神がいるから、そのお方を悲しませないために、
また、歓ばせて、ちょっとご褒美を期待して、いつもキレイにしておかなきゃ
という回りくどさじゃなく、トイレ自体がおトイレさまだから、ご利益云々関わらず
大切に扱って当然という感覚が、大自然万物が神というアニミズム。
縄文人はそんな心で、侵略されるまでの1万年以上の間、平和に自然と共生した。

その人がたを迫害した新たしき勢力が、征服と信仰のモニュメントとして建立したのが、
神社なりお寺で、元々日本に住んでいた縄文人の文化には存在しない。

神主やお坊さんは、近隣の人々のよき相談役や協力者として機能するが、
大元は同じで、朝廷や領主、大名が税の取り立てなどで支配する一方、
同じグループ会社で、被支配者のガス抜きをするのが、信仰側の役割。

厳しい圧政に苦しむ大衆に、「大丈夫、いつもにこにこ微笑んだり、呪文を唱えていれば
今は苦しくても、必ず極楽浄土に進めるから」という信仰のすすめは、
支配者にとって、奴隷を手なづけるのに都合がよい。
それで、ひたすらお経地獄、のりと地獄になりますが、その呪文を唱えるほどに、
信仰対象へ思いが注がれて、ますます支配勢力が栄える。
意識を向けやすくするために、次々に、色んな神仏キャラクターが作られた。
○○のみこと、△▽ぼさつ、のように。

大自然の森羅万象に神の名を与えたという解釈では、多神教、八百万の神として
自然と共生する知恵のように思えるかもしれないが、
樹を前に樹を見ず、樹の神さまを仰ぐ、というように意識が真の対象からはずされ、
その神様キャラクターを作った信仰勢力へ思いが運ばれる仕組みになる。

もちろん現代では、日常の暮らしの中で、お寺も神社も、ほどよい距離感とアクセント、
むしろ精神的安らぎを与える場ととらえる人が大多数でしょう。
ただ、昔からあるし、前提として善の、疑問を持たざること当然とくくってしまうと、
誰かが悪を働く上での隠れみのに利用したときに氣づけない。

この記事は、寺や神社を否定するのではなく、そのはじまりから
近世に至る、宗教とまつりごとの機能、利用をかえりみることです。
実際、各宗教には軍の組織も付いていたし、ヨーロッパが南方に植民地を
広げるときも、キリスト教とセットです。
しんどい目に遭わすのが目に見えているから、その憎悪や反乱を抑えるためにも、
救済の教えに意識をそらす。地獄や天国という圧倒的な希望や不安を元に、
現実から目をそらさせて、嫌なことを我慢させるのが宗教の役割でもあった。

そういう過去も理解しつつ、なお人々の心に深く浸透している信仰心を
未来に向けてよりよく生かすために、神社やお寺を神聖なスポットとして崇める意識から
身の回りの環境全部が尊いことを知る。
金殿玉楼を仰ぐのではなく、一人一人が足元を美しく調えれば
どこもかしこもパワースポットとしてのポテンシャルを発揮するでしょう。

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庭に自生して可憐に花を咲かせる、名も知らぬ植物、いわゆる雑草なのですが、
剪定か台風で水田に落ちた葉から、根っ子が出ていた。
その生命力を改めて痛感。

いちまいの葉が、一本の樹のようだ。


さて、本日早朝、歯が痛くで目覚めた。

昨晩珍しくごちそうで、鶏肉を食べましたが
ネギや胡椒の薬味がなくて、まあいいやとそのまま食らったことや
ぶどうジュースを飲んだ甘い口で寝たのがきっかけか分かりませんが、

数年に1度、正月などご馳走を食べ過ぎると痛みます。
消化不良などで血液が酸化すると痛むのかと
これをバロメーターにして、再び質素な食事や規則正しい生活に戻すと
痛みがなくなります。

ハイタのお蔭で早起きできたと本を読むことにしましたが、
やはり痛いほうが氣になるので、治そうと思い立つ。
酸うっぱくてしょっぱい、自家製の梅干の梅酢を飲み、
庭に出て、こぼれ種から自然に生えている、こちらはとても苦辛いルッコラを噛み噛み。
あとは、残り湯を追い焚きして半身浴しながら本を読んでから
布団に入って二度寝し、目覚めたら痛みは消えていた。

歯が痛くなるのも、歯だけが悪くなるということはなく、全身の健康の問題。
よほどならば歯医者に行くだろうけど、自分なりに原因が感じられたので
氣の済むようにしました。

何かあったら医者に行けばよいと、自分の体のことなのに医療や薬頼みにして
不自然や怠惰を正さなければ、本来の思考や感情も望めない。
健康な体に健全な心が宿る、という言い方ではない。
人それぞれ、自分に合ったバランスの取り方を体で感じられるはずだから、
その、体からの声を尊重、信頼しようということ。
体との対話、というか。

僕が庭をいじるときも、石を積もうというときに
「ここに積まれたい人~」って庭を見回すと、
何でだか「はぁい」と答えているように感じる石があって、
彼/女たちをお積み申し上げる。

人も動植物も鉱物も水も、細かく見れば、原子(陽子、中性子、電子)、その元の素粒子、
それを作るクォーク、ニュートリノなどでできていて、それらの磁力、関係性の中で
確固たる境界なくつながっているため、石も自分も他者ではない故に、
石の意思は僕自身の内部から引き出すこともできる(誰だって)。

石との対話は妙竹林に思われても、
自分の体との対話がままなっていない人間は現代に多いと思われる。
表面の症状だけ見て、医学的情報の中から、思考で判断する。
もしかすると体は「似てるけど、その知見じゃないんだなぁ」って思ってるかも。

極端にいうと、世の中に医者が存在しなければ、何かあっても助けてもらえないから
普段からきちんと律しておかなきゃ、となって
夜ふかしばかりしてられない、パソコンばかり眺めていられない、
営業目的のコマーシャルは鵜呑みにせず、自分で勉強して判断しなければ、
外食ばかりじゃ不安、この家の水道管は錆びていないか、と
自分の体や家族は自分で守ろうと、生きる上での自立心が芽生えて、
社会全体に健康な人が増えるだろう。

しかし、そんな不安からだけでなく、体自体が潜在力、アンテナを最大限
発揮できる情況となるため、他の様々な行為の質や冴え、きれが上がって、
自己責任ゆえの自由と危険も含めたリアルな生きる歓びにあふれることでしょう。
もちろん、怪我などの緊急的な処置は必要だが、
それに関しても、一人一人がある程度基本的な知識や技術を身につけていれば、
すぐに救急車が来られない現場で、助け合うことができる。

これは風呂敷についてもいえることで、
ふろしきって、結局、何にでも化ける大本の四角い生地であり、
斜めにたたむと帯状、つまりロープになるから、機能が半端じゃなく多い。
それで、災害時などにいちまいの風呂敷があると、自分や周りの人に
有用に役立つことがたくさんあるのだが、
僕一人が風呂敷でてんて子舞っても限りがあるので、
なるべく多くの方が、ただカバンに1枚風呂敷をたたんで入れておけば、
その場で考えて工夫するだけでも、様々に役立つ。
家には、便利グッズを詰め込んだ非常用持ち出しバッグがあるかもしれないが、
毎日持ち歩くのも難儀だろうから、いちまいの風呂敷、運動は有意義と感じる。

そして、年に1度くらいは、予定は未定な旅に出かけよう。
アンテナがとぎすまされる。いつもとは違った視点を得る。
旅に限らないが、女性は、襲われるかもという覚悟も忘れずに。
事件とは、まさかこんなことが、というケースが多い。
マイナス思考というのではなく、最悪をシミュレーションしておけば、
なかなか遭遇しないものだ。
お皿も、他のことを考えているときに落とすもの。
割れた状況を思って、お皿に意識が向かっていれば落とさない。
だけれども、襲われた後の精神状況も想定しておく。
心を追い詰めるのは、案外その時代の社会、道徳的通念だったりするので、
からだ自体に、何が問題か、どうしてほしいか、をあらかじめ尋ねておくとよい。

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体感的に、昨日の台風後から秋です。
暖かいお風呂が心地よく感じられ、
半袖半ズボンじゃ肌さむい。

庭には、いよいよ、らしく垂れて黄色くなってきた稲穂。
青しそも花実をつけ、ミニトマトも終盤か。
この夏、カナヘビの子が沢山生まれたのか、
踏み出せばちょろちょろ走っています。

どこかに雨がえるが潜んでいる様子で、昨日の大雨の中
クワックワックワと歓声のように聞こえました。

裏庭は、大家さんがごっそりと草を刈ってしまいましたが
ぬしとなっているヒキガエルは、植木鉢のすき間などに難なく隠れていた。

このぬしが、アオダイショウに交代するのが次の目標ですが
今のアパートでは難しいかな。その次はフクロウ。
北側に樫の苗木を植えて、15年以上経てばあり得るかも。
生態系上位の生き物を目指せば、おのずとその下にいる多種の生物も居るということ。




これは、先日植えたワケギです。表庭の、ツツジの木の脇に
シソやトマトが密生していて日蔭だった所なので、草は生えていませんが
耕しておらず、やや盛り土の畝になっていて、状態はよさそう。
緑の血のミミズがいる土はよく、赤い血のミミズは腐敗した土にいます。

今日は満月の2日前で、土が湿りやすく、種のまき時、植えどきです。
水前寺菜という菜っ葉をもらったのを水に挿して、根っ子が出てきたので
これから植えます。
たぶんワケギの隣ですが、一応、他の場所にも植えます。
色んなとこに蒔き、植えておくと、その植物に合ったところで
よく生長します。自然界でも、風や小鳥のフンによって
各所にばら蒔かれている。人間に都合よい場所が適所とは限りません。

新月に稲を刈ったら(新月は水分量や糖質の関係で保存がきく。味じたいは満月のほうが濃いという)
その後の満月の2日前、小麦を蒔きます。

鉢植えの本サカキとトクサは浅草時代に植木市で買ったものだが、
他はみな、近所の川や空き地、友達からのおすそ分けか自然発芽。
野菜の種や皮、子どもが拾ったどんぐりを庭に放っていて、
また、庭の虫を食べにくる小鳥のフンによって種が運ばれる。

シラカシ、コナラ、くるみ、夏みかん、アボカド、デーツ(なつめやし)、
さわら、くちなし、びわ、トクサ、雪の下、フキ、ヨシ、蓮。

春のはじめに、さるすべりを挿し木する予定。

これで、将来の庭木(樹と多年草)が揃ってきました。
北:シラカシ、本さかき、さわら、雪の下
南:コナラ、アボカド、デーツ、蓮
西:夏みかん、くるみ、びわ(産毛が飛ぶので家のそばは不向きという)
東:さるすべり、くちなし、フキ、トクサ
庭の周りにヨシの堀

鉢から解放させて地植えしたい。
そして、近所の人に分けるための鉢植えを育てていきたいです。
僕にとって園芸のコミットは、植物に心惹かれると同時に、
生き物の棲みかになればという思いが強い。

その後、水前寺菜も植えました。
来月はちんげん菜の種と水仙の球根。



先日、ガイガーカウンタで放射線の量を測りました。
土の上は流れずに溜まるため、アスファルトよりも数倍、または
桁違いに強いホットスポットになりやすいですが、
我が家の場合、外の道路の真ん中の地上1mよりも
庭の土に直接置いたときの値の方が低かった。
表土を削り取ったり、混ぜ合わせたりはしていません。

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地震には津波、川には洪水がつきものだから、
本来、家を建てるのは川や海から離れた高台が向いている。
縄文時代の集落も、海産物採集に都合よい海辺や川辺であっても、
水際ではなくやや離れた台地の上に集まっている。

過去に川の洪水が及んだ土地は、泥水で運ばれた粘土質が
含まれているので水はけがよくない。
そのような低地や湿地は田んぼにして、お米と小動物
(タニシ、どじょう、フナ、稲子、カエル、鴨など)の
自然養殖場として、食糧を育む場にする。

大都市集中から、地域ごとの自治スタイルに変われば、
現在の人口でも充分にまかなえる。

東京で働くのが進歩的と考える若者は多いが、
地方からの生産物を、広告やパッケージング(表面的繕い)、タライ回しによって
仕入れ値の数十倍で売るためのくねくねマーケットに過ぎない。
今はインターネットや宅配も普及しているから、生産者が
正直な商品説明して、直売すれば流通は成り立つ。

むしろ、元々東京こそ、物を生み出すポテンシャルが大きいのに
ただ物を運んできて売るだけの市場になってしまっているのがもったいない。
低地は水分が集まるから、生産能力が高いのだ。海の子宮ともいえる東京湾もある。

水源は雨で、雨水を蓄えるのは森であるが、
住居周辺にも樹を植えておきたい。
食糧としてのどんぐり。アクが少ないのは、シイや樫など陰樹が多いので家の北側に。防風兼。
家の西側には、果樹(夏みかん、柿、栗、梅)。
南は畑。ひさしを深くすれば、高い夏の日射しは防げる。
東は水路がほしい。水はけの調節と、排水利用。ヨシ、ガマ、まこも、アヤメ、蓮で浄水。

家のある丘から坂を下ると田んぼや川、海があるという立地がよい。
主な食べ物は米、卵、どんぐり。
こういう暮らしは個人や家庭単位で可能だが、そこを近所や町単位ですれば
余剰を生み、交易可能な生産力に高まる。
土地の性質を生かした無理のないやり方を見出す。

これは、昔に戻ろうというのではなく
100年先の子どもたちの心身の歓びと健康を目指した未来志向。

移動、運搬はどうするか。

歩き、自転車、リヤカー、牛、馬、自動車、トラック、鉄道、船、飛行機、UFO?

牛は馬よりも坂道、山道につよく、祖母の嫁入り道具も牛車で運ばれた。
さすがに現代に牛は考えづらいが、ヨーグルトやチーズなど乳製品を好む人もいるから、
食べたい人は家で飼ってもよいね。先ほど述べたように、地方分散して、
午前中は田畑、午後は各々のなりわいに傾けるライフスタイルであれば、牛も可能でしょう。

農家でヤギを飼っていたのは、母乳成分に近いから。牛乳はリンが多くてカルシウム欠乏を生む。
馬による移動は、趣味的なものでよい。

メインは車やトラックのままでよいが、燃料やエンジンの仕組みを進化させれば
環境汚染源でなくなる。水素が希望だが、電気分解で発生させた不安定な水素は
大爆発の危険があるので、安全な水素の研究開発が今後の主題。

僕がもっと増えてほしいのは、船による移動、運搬です。
町に小川、水路、運河が巡らされれば、水はけがよくなり
緊急時の第二の道となり、水に意識が向いて、排水意識も変わる。
垂直護岸でかためず、堤防を高くするよりも川幅を広くする。
直線ではなく、自然な曲線を描かせる。
川辺には住宅を建てず、代わりに、屋台や市場など人々の集う場にする。

東京は元々湿地だから、たくさんの水路で安定させた。
御一新(明治維新)、関東大震災のがれき埋め立て、戦後復興と東京オリンピックの折々に
外堀や運河、水路、小川は次々埋められていったが、それで湿地に戻らなかったのは
地面をアスファルトで固めて、雨水が地面にしみ込まず下水に流すようになったから。

現在は地下水も汚染されているが、いずれにしても水源としての井戸があると
非常時にこころ強いから、雨のしみこむ東京にして、同時に水路も造って、
観光や流通に生かす。

さきの地震で浦安が液状化したように、今度また地震があれば、
東京の、特に臨海の低地は、オリンピックどころではなくなるかもしれない。
また、温暖化で氷が解けても海面が上がらないというが
(氷は体積が大きい。コップに浮かぶ氷がとけても水はあふれない)
氣温が上がると水は膨張するから、水自体が増えなくても海面は上がり、
低地のほとんどは浸水する時代が、遠からず来るかもしれない。

そのための治水のインフラを整えるよりも、水びたしになっても
被害が少なくなるように、住居は建てず、田んぼやイベント広場に
しておいたり、海が広がったら干潟として、海産物を育む、
海水の浄化機能もそなえた、釣り場、漁場になったらよい。
同時に放射能問題も解決しながら。放射性物質は海水のミネラルと
結びついて沈殿するので、河口あたりに溜まりやすい。

すでにたくさんの人々が住んでいて現実的でないと思われるかもしれないが、
本当にリアルに先を見つめて、何が起こるか分からないという視点で
命を守るためにも、今から徐々に、海に近いところから
住宅を撤去し、その補償金に税金を使う。
オリンピックの予算があれば、東京湾周辺の、元々干潟だった
かなりの範囲の自然公園化ができるのではないか。

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イベントに向けて風呂敷を縫うのと、使い方のイラストを描く(本やその他の案件)の
2本が、最近の行動の柱ですが、合間の息抜きに、パソコンを開くことが多い。

パソコンは道具として能動的に使うはよいが、テレビのようにただ受身でぼんやりと眺めてばかりでは
おそらくパーになるだろうから、

明日あたり図書館で本を借りて、気分転換や寝る前は読書にしよう。

僕が読みがちな本は、
・動植物の生態(彼/女から、実生活のヒントをいただく)

・民俗学(地域ごとに独自の文化や生態があり、ロマンを感じる)

・昔の写真や暮らしについて(自分の生まれる前の日本や世界はどないやったか)

・一部の時代小説・池波正太郎、山本周五郎(江戸の残り香を知る作者の描写に惹かれる)

・暮らしの趣きを感じるエッセイ(妄想ではなく、からだ感覚の感じられるものがよい)

・家づくり(家を建てたいと思っているので、基本的な知識や、矛盾、問題点を知りたい)

・他、小説一般と漫画も好き

本自体が好きなので、おすすめあれば教えてください。

逆に、あまり読まないジャンルは、
・料理やお菓子のレシピ(自分が行き当たりばったりの創作だから?
 あと、最近は何でも安直にレシピ化され、根底の思想ともいえる深みが感じられない)

・ダイエットや健康法(一過性の流行りもの。勉強になるものもある)

・成功哲学(昔は読んでいたが、夢を叶えたという著者の
 誰一人として、身近な川や海をきれいにしたいという夢を持っていない。
 その程度のもの)

・自己啓発(まず、人は目標を持つ必要はなく、そのままでよい。
 それでも動かずにはいられず、頑張らなくても勝手にやってしまうことを大切に)

・スピリチャル・精神世界(これも昔はたくさん読んでいたが、
 心で心をコントロールするよりも、実相で心を調えたいと思う)

・流行りの本(へそまがりで、たかをくくっているから)


内容的にA4用紙1枚でこと足りて、書籍にするまでもなく、俳句一句、短歌一首で
充分なのに、どこでも得られるレディメイドの説明書きをとって付けたような、
可も不可もなき寄せ集めの、著者の個性が感じられない本が最近は多い。

共感を得るだけの内容では、二番煎じになる。
その本を読まなくても、既にそう思っていて、それを知っている人だから。
共感で引き込みながらも、新鮮な裏切りを噛ませて、読む前の価値観を揺さぶるくらいの
毒なりパンチ、新たな視点の贈与が、本にはあってほしい。

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本来病気ではなく、社会や環境の不自然さに対する自然な反応でしょうが、
現在うつ病患者は100万人、また、女性の割合が多い。

僕は脳天気のマイペースだけど、それでも、庭の動植物に癒されて
何とか保っているのかもしれない。
都会や地方を問わず、できるかぎり人為の少ない大自然に触れることは
繊細な感覚を癒して元氣を取り戻すのに貢献できるかと。

・エアコンではなく、自然のそよ風を浴びる。
 (暑いときは無理なくエアコンを)

・CDやラジオではなく、本物の小川のせせらぎを聴く。
 (爆音の楽曲よりは、波やせせらぎ、さえずりのCDを聴くのもよい)

・テレビの画面ではなく、海辺で波の揺らぎを見たり、音を聞く。
 (CMばかりのテレビよりは、好きな映画を借りてきて観るほうがよい)

・ペットや動物園ではなく、野生のいきものと出逢う。
 (もちろん、犬や猫で癒される影響も大きいが、家から出られなくならないように、
  外の生き物の存在も忘れたくない)

・楽器の音ではなく、小鳥のさえずりや虫の歌を聴く。
 (楽器の生演奏もよいが、スピーカー爆音ライブではなく、生音がよい)

・花屋の花ではなく、季節の雑草を見つめる。
 (買ってきた花束は枯れてしまうので、移ろいながらも生きていく雑草は
  また違うエネルギーをもらえる。鉢に土を入れて放置でも、何か出る)

・観光地や商業施設ではなく、原生林を歩く。
 (整備されすぎた公園よりは、草ぼうぼうの川原)

・本を読まず、まず自分の体、裸を見つめる。
 (体こそ、大自然。風景を見るように自分の体を再観察
 パソコンばかり眺めるよりは、本を読むほうがずっとよい)

・薬ではなく、旬の野草や生き物のめぐみをいただく。
 (薬は極端だから作用する、そして、反作用=副作用のない薬はない
  毒草があるように、漢方だから安全ではない。
  ただし、ハーブやきのこ、魚は放射能を測定してから)

・サプリメントや食品ではなく、そのままの素材を、なるべく加工せずにいただく。
 (加工するほど酸化がすすみ、素材の細胞も壊れる。乾物や発酵食品は少し異なるが、
  高熱や高圧、極端なPHの変化を与えたものは避け、火を通していないもの)

・米や野菜ではなく、栽培や養殖されていないものを、少量でも摂り入れる。
 (みな、米や野菜を食べても病気になっている。元となる肥料が既に不自然。
  野生動物は病気が少ない。大自然の実りを、少しでも頂戴する)

・車や電車、自転車は用いず、脚で歩く。
 (車は本当に必要な人が乗る。大気汚染や乗者への電磁波。自転車は股間を圧迫
  なるべく歩く。坂道や階段、下駄がおすすめ)

・服を着ずに、裸で過ごす時間を作る。
 (寝るときは裸がよい。地震などですぐ動けるように、傍らに浴衣)

・室内にこもらず、屋外、樹の下、洞穴などに出向く。
 (自然素材の家ならよいが、焼けて有害ガスが出るような家は異物反応。
  外に出て、色んな人と出逢おう)

色々書きましたが、これら全部にシフトするのは困難として、
どれか一つでも採り入れて、無理なく不自然を減らしていけば、
生涯、一時的な感情なのか病気なのか薬の副作用なのか分からない
不安定状態を続ける、という巡りから、一歩抜け出すきっかけになると思う。

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うっとこの最寄駅「豊田」は、日野と八王子の間の割合しずかな町。
今度、駅前に大きめのイオンな商業施設が出来ると
また雰囲気は変わりそうですが、
(本音:でっかい商業施設は好きじゃない。かといって、ただ大手メーカーから仕入れて
 定価で売るだけの個人商店を選ぶ氣にもなれない。個人商店は、その専門性を高めて
 商品とともに、その使い方のこつとか裏話など、深いバックボーンから
 そのお客にとって有用な付加価値を与えてほしいと思う)

現在は、買い物に行く街といえば、隣の八王子です。
電車に乗るなら立川でもよいのかもしれませんが
ガッチャマン(がちゃまん)伝説を持ち
歴史ある大都市八王子のほうが、僕の肌には合うようで
風とおしもよい。
(ただし、全体的な風は、八王子は過去の街として廃れてきている。
 みなが集まるお店は、どこにでもある駅ビルやドンキホーテなどであって、
 八王子のこころ、を感じさせるお店や雰囲気が主導になっていない。
 こんなときは、原点に還ろう。蚕を育て、織物の街にしてみては?
 海外からも観光客が押しかけるかも)

今日の午後、息子を自転車の前に乗せて、
ぎらぎら西陽を受けながら八王子へ向かいました。
息子は麦わら帽子をかぶっている。
(いちいち補足をいれて申し訳ありません。個人的に、帽子は不要と考えている。
 紫外線は皮脂が防ぐ。帽子は頭を蒸らして、かえって熱中症を呼ぶ。
 汗に濡れた髪の毛が乾くときにとられる気化熱が、体を涼しくさせるので
 帽子でふさがずに風に当たったほうがよい、という仮説。
 でも、子どもも実験台にする勇気もなくて、自然素材の麦わら帽子程度なら、と)

日野バイパスを西進していくと、途中から甲州街道に合流。
駅前の桑の木通り(マルベリーストリート?)を超えて
横山町も過ぎ、お目当ての乾物屋で、米こうじと棒寒天を買う。
(今回の記事は、あえて逐一、本音部分を書いてみている。
 このように、本心で思っていることを表現することを、
 表無し・おもてなし、といい、表面の取り繕いではなく、うら=心を表すこと。
 読みづらくて申し訳ありません。
 米こうじも、本当はそこで作っている、麹屋で買いたい。
 知らなかったものを教えてくれた人とか、自宅まで行商に来てくれた人からは
 買いたいけれど、既に知っているものを、自ら出向いて、実際作っている所ではなく
 仕入れただけの販売店で買う、という形態は、今は必然性、必要性を感じられないのは
 僕のへそまがりの性でもあるが、途中にいくつもの卸が入ってきて、
 流すだけで価格を倍々にしていくという流通は、シンプルな江戸っ子にはいずいものだ。)

帰りみち、製粉工場で北海道小麦の粉を5kg買って、
最後の買いものは、業務用スーパーでパスタ。
(書きづらいが、単に国産小麦と書かれたものは、放射性物質を含む可能性があるので手が出ない。
 自分なりに安定化はしているが、元がなる竹安全と思われるものを選びたい。
 隠すのがいけない。全て測定して、基準値以下であっても測定結果と測定した機械を
 記して、数値を見て客が判断すればよい。命、特に子どもを持っている親や家族は
 心配に思うのが当然。ただ、んなこと言ってちゃ何も食べれなくて、生きてけないよ
 と言う方もいるでしょう。だけど、そういう風にゼロかいちかの二元論は極論であり、
 水風呂は冷たいし、熱湯風呂はやけどしちゃう、というのと同じ。
 人によって、臨機応変に工夫したり、バランスをとって、自分なりに学び、
 あとは直勘に任せてでも、自分で決めたことならば後悔はない、という生き方はできる)

米こうじは甘酒づくりに使う。棒寒天はジュースをゼリーにする。
小麦粉は、ソーダブレッド(重曹入りホットケーキ)、
手ごねの天然酵母パン、お好み焼き、手打ちうどんになる。
(たしかに、炭水化物や糖質は、糖エネルギーをすぐに使わないと
 膵臓のインシュリンでストックするという労力が内臓を疲労させて
 将来の糖尿病につながる要因として、寝る前の摂取を控えるべきとは思うが、
 ご飯の前に、おかずに使われている砂糖の多さも知りたい)

自転車で往復1時間ほど。坂道がつづき、息子と粉が乗っていると
よい運動になる。僕は、歩き(節約時は3万歩/日)と自転車と
風呂敷背負いと掃除によって、ジムに行かずとも太ることはないが、
もうちょっとふっくらしたいので、もっとお金が入ってくるようにして
おかずを増やそう。34才からはイメチェンだ!スーツなんて着てみたり。
(今回は、何でも茶茶を入れる試み。着る機会はないが、小心者の僕は、
 案外スーツが好きだ。ということで、スーツは、少なくとも自分にとっては、
 社会に対してまともな大人として表現することで、守るための鎧に見える。
 だから逆に、本当は不真面目な者ほど、スーツを着て信用を得ようとするという
 読みはできるが、動物には通用せず、目の透明度と声質、匂いから
 性格や感情を読みとる。清潔な身だしなみは大切だが、
 大げさに例えれば、本当に悪い人間は、良い人の振りをする。
 皮膚感覚で判断しよう)

いずれにしても、こうして、息子と一緒に西へ向かって、
夕陽を浴びながら自転車をこぎこぎした思い出は大切にしたい。
3才の息子は忘れるかもしれないけど、二人で歌をうたい、
雨やどりをし、歩道に出たセミの幼虫を移動したり、
ペットショップで抱っこしてやどかりを覗きこんだ。
(小学生時代、将来の夢はペットショップだった。
 だけど、生きものの種類によっては、容器で飼われることは
 壮絶なストレスになる。長らくペットして続いてきた血筋では
 かえって飼われて安心しているようにも見えるから
 その見極めも難しいけれど、飼わなくても、
 近所には愛すべき生きものたちが色々と野性のまま人と共生していて、
 愛でる目的でペットを飼育する必要がない、というほうが楽しそう。
 動物園は、、、かたちによるけれど、基本的には反対。
 遠くの地の動物を眺める前に、身近な小動物の名前と顔を
 覚えるのが先と)

からだを使った経験は、こころに残る。

環境がこころを変え、こころ(思い)が体を変え、体(行動)が環境を変える。
佳き輪を奏でるために、あなたのコミットメントは何でしょうか。
(心から変えるのは難しい。むしろ、心は生まれつきのもので
 変えることはできない。ただ、余計な、覆っている泥を流すことはできる。
 それは、泥の原因を知ろうとする心の向きや周囲の協力があって。
 体から正常にするほうが、まだ楽だ。よく眠るとか、入浴、食事の質など
 はっきり見えるかたちで作用される。そして、体が健康になったから
 即、こころも健康になるとは限らない。喉元を過ぎて、むしろ傲慢になるかもしれない。
 でも、心のうれしさよりも体のよろこびを軸にすれば、妄想世界ではなく
 実際の生活、社会、自然環境の快さにシフトする。こうして、空想世界から抜けて、
 からだで実感できる佳き世界を造ろうと体が動き、環境が本来の清浄を取り戻したとき、
 はじめて、こころが、何も思想も瞑想も要らずに、素直に清らになるのだろうか)


と、今回はあえて、いつものように記事を書いた後、
そのうら(表なし)にある心がとやかく言っていることを付け足してみました。
それでもきっと、うらのうらまでは書いていない。
ともかく、表の、目に見える世界というのは全体のほんの一部であるから、
その、取り繕った、編集された、洗練された、きれいな明るい部分だけで
印象判断し、ときに騙されて食いものにされないためにも、
自分なりの異なる視点をいくつも持ってみたり、逆に頭で考えずに
細胞レベルの抵抗感の有無も参考にするとか。
基本的に、焦らせるような物言いや、又聞きは信用しない。

ごちゃごちゃと書いてしまいました。
たまにぁ、こんな夜もあってんねん。

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お目当ての植物や野菜の種を蒔いたり植えたりして育てているうちに、
きっと確かに、周りから草が生えてきます。

その場所によって生えてくる草も変わり、例えば日当たりがよいとねこじゃらし、
日蔭氣味ではツユクサとか。
そして、せっかく育てているのに、雑草に生えられたら養分も奪われて
本命が衰えてしまう!って、たいてい引っこ抜くでしょう。

しかし、それによって、かえってメインの植物や野菜が弱ることもあります。

・引っこ抜いた部分の土が剥き出しとなり、乾き、風で舞い飛んで土が減る。
・自然に生えてくる草は水やりを必要とせず、むしろ露を呼び、土を隠して保湿に貢献する。
・小虫やそれを食べる天敵の住みかとなり、一種の虫が極端に増えることがなくなる。

・一年草はほとんど肥料を食わない。冬に枯れて、土に残った根っ子も分解されると、
 そこが空気や水の通り道となって、水はけや通気性のよい土をつくる。
・草による保湿と、枯れ草の層が微生物の棲みかとなる。
 そこに、虫の糞や死骸の窒素が加わると、微生物が酵素を出して分解し、
 育てている植物の栄養におすそわけされる。
・枯れ草の層と小虫の死骸は、酸性雨もある程度中和し、養分抽出役の微生物を守る。

・雨で根元の土が流される。
・草の根や枯れ草の層がないと水はけが悪くなり、腐敗菌が湧いて植物の病気を生む。

こういうわけで、根から引き抜いて退治されちゃう厄介者のいわゆる雑草は、
抜いちゃあならない大切な役割を担っています。

かといって放置すると、育てている植物や野菜は見えなくなるほど覆われて、
暗闇の中で衰退してしまう。
侵掠(しんりゃく)すること火のごとき多年草(ヨモギ、バジル、ミント、フキなど)は
土の中で根の縄張り争いを生む可能性があるため、根ごと抜くのは仕方ありませんが、
一般的に雑草とされるのは一年草が多く、養分を奪い合うようなことはありません。
お日さまをさえぎる部分だけ、髪のようにハサミでちょんちょん調えたらよいのです。
あとは、かえって共生することによる利点の方が大きく、本命も佳く育つでしょう。

ハサミで刈りづらいところは鎌でもよいですが、雑草は本命の重要なサポーターですから、
日をさえぎらない程度にして、刈りすぎないことが大事。
すると、夏場なんてあっという間に伸びるので、3日とか、週に1度くらいはハサミ片手
(キッチンバサミが便利)に自然観察すると、多くの感動的発見を得るでしょう。

畑を耕すのが主流であるから、本来自然界には無い、剥き出しの乾いた土に
違和感を覚える人の少ない昨今ですが、それは、他から肥料や農薬、
除草剤を添加することで成り立っている畑。
大自然の生態系を生かすならば、草むしりは基本的に引っこ抜かずに上を刈るのみで、
土を掘り返したり、乾かさないようにしたいもの。

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