ふろしき王子のブログ◎
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メール isamix@gmail.com
 



あなたの命は、本来、あなただけの
ものじゃない。あなたのご両親は
もちろんのこと、何世代にも渡って
連綿と受け継がれて来たバトンの先に、
あなたの大切な命があるんだよ。

人としての尊厳を失ってまで
我欲に走るようなことを続けていれば、
あなた自身のご先祖様の深い思いや名誉を
傷付けることになる。

ともかく、目の前の大切な人たちに
自分の思いや愛情をしっかりと
伝えて行くことだよ。その結果、
自ずと道が開けて行くのだからね。

伊藤万里(ライター/編集者)


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それをやっている意義を、たえず自分に
言葉でいい聞かせ、納得してるようなもの
なんざ、魂では渋々やっているものだ。
好きな理由に関心もなく、呼吸するように
暮らしと交じっている状態があらまほし。

詰めの甘いものほど、コンセプトという
社会的な意味を主張してごまかそうとする。
否、コンセプトを先に置いてしまったが故に
一義的な部品のよせ集めとなって、
宇宙に至らないのだ。

部分と部分がかけ算されて相乗効果を生み、
割り算されると粋になる。
要素を足し算すれば完成するといった錯誤は、
調和を生む匙加減が無いために
存在としての魅力が不足する。

部分と部分の境目の、橋渡しとなっている
つなぎ目や鍵穴こそが最重要。
一方は不足でも、もう一方は過剰で
あることで、えもいわれぬハーモニーが
醸されることもある。
たとえば、クリームは甘いが
チョコレートは甘すぎないことで、
上品なパフェとなるように。

コンセプトという粗雑な言葉にとらわれると、
共鳴せずに近くにあるだけという、
単なる同じ属性の集合となる。
異なる性質によってステージを上げる
隠し味が排除されるおそれがある。

本来、意味と云うものは後づけでしかるべし。
「思うママに没頭してたらできちゃった、
ひとことじゃ表せないけど素適なもの」を、
頭でっかちの人間に合わせる方便として
完成後に仕方なく添えておくもの、
それをコンセプトといいます。

そもそも、意味や感じ方は人それぞれなのに、
それを「提案」と称し押しつけるのは、
存在にエネルギーのない証明となる。
コンセプト主導というスタートは、
終わりのはじまりとなるため、
氣をつけなければならない。

どんなものでもあらゆる意味を含んでいて、
後から好きな意味を引き出すことができる。
それが、言葉のもつ機能。
同じ絵でも、タイトル一つで見え方は
いかようにも変わってしまう。
言葉に左右されず、産毛でかんじよう


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風呂敷を、つかいはじめた学生時代!

地元浅草のラーメン「与ろゐ屋」!

隣に座った方! 二度見! 山本寛斎さん!

食事中なので挨拶のみにしました!

会計時に目が合う! すてきな笑顔!

「そのカバン、いいね !」

風呂敷バッグを褒めてくださった!

天国にも、げんきを振りまいてきてください!

合掌!!

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・ミス慶應が必ずしも大学一番の美人なわけではなく
 「その称号を欲した人々」である



・制作においては、当初の計画はことごとく破綻するのが健全で、
 それは制作が、かならず自己変容や自己組み換えを伴うからで、
 変容を被らなければ制作ではないわけで、
 だから答えの見えない状態で、揺れていてくれ



・弱い刺激が与えられると、人は敏感になる。強い刺激が繰り返されると、
 それをエコノミカルに情報処理するために、観念的になる。
 だからテレビを消して、部屋を整えることが大切。
 そんな環境で育った子は、芸術に親しめる。



・いじめは、いじめた子が病気なのである。
 いじめられた子はまったく健康なので、病気を患っている子たちに
 学校や保護者らが、手をさしのべなければならない。
 つまり先生やご父兄は、教え子/わが子が病んでいないか、
 則ち、いじめに加担していないか、注視すべきなのである。



(芸術人類学者 中島智氏のツイッターより一部引用)

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・その人を好きな理由が言語化される際、無意識的な嘘となる。
 すなわち理由はでっちあげられる。


・インプットからじゃなくて、何でもよいのでアウトプットから始めなきゃ。
 そうすれば呼吸するように勝手にインプットもなされていくものです


・二十歳を馬鹿にする人は二十歳のとき馬鹿だった人です。


・威圧的な態度(怒鳴る、など)をする人は威圧的な態度に弱い人、
 ヤンキーの恰好をする人はヤンキーが怖い人、
 オープンカフェでわざわざ読書をする人は知性にコンプレックスがある人‥


・皆さん、おばさんはおばさん、老婆は老婆としかみえないらしい。
 彼女たちが産まれたときの父母の笑顔や、御赤飯を炊かれて戸惑っている思春期を、
 彼女たちのなかに見ない感覚が、どうも僕は苦手だ。


・それが比較可能な仕事であったなら、それは必ずしも自分がやらなくてもよいと考えるだろう。
 そうではないから、それぞれに 探求しているのだと僕(たち)は思うのだけど


・一般知を捏ねくり回したら、それなりに立派そうな成果がでますが、それは研究ではなく編集ですね。
 自分の目で見る、ということは、一般知からではなくプライベートから入っていくということです。


・制作や研究において最も重要なのは、自分のプライベートと切り離さないことである。
 (横山所感:仕事もまさに、プライベートなものです。自分の視点でしか真の貢献はできない)


・所作が大きければダイナミックとみる見方は、
 原色を塗りたくる画家を色彩感覚が高いと評することと同様にナンセンス。
 (横山:派手でなければ感じられないのは、かえって鈍い証である)


・理由は暴力を正当化してしまう。
 (横山:「子どもが刺されると危ない」と決めれば、蜂はたんたんと虐殺される。
     しかしその蜂とその状況が本当に危険かどうかを探る必要がある)


・「殺されたくなーい」は兵隊として役に立つが、
 「殺したくなーい」は非国民として人知れず自国にて獄中死かな。


・日本のぬいぐるみもまた能面顔(嬉しくも哀しくもみえる)が多い。
 対照的なのがミッキーマウス。この笑顔は電車等で目が合うたびに
 反射的にニッコリするアメリカ人の習性と同様、
 「私は敵ではありません」という記号的な表明であり、その背後には不信がある。


(本文は、芸術人類学者 中島智氏のツイッターなどより引用)


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この後、夜更けから大雨なるかな?台風は必要な側面もあるけれど、
被害の大きいのが 立て続いたらもううんざりであるし、
大切な命が奪われている以上、異常な台風が発生しないように
はっきりと対策をしていく必要がある。
天災の副作用は、人災から起きている。


以下、恩師中島智先生の言葉から一部引用。


・凡庸な写真家は観光スナップか絵葉書を彷彿させる
 象徴的なランドマークや装飾物を写したがります。


 横山所感(以下横):たとえば五月のカレンダーだから鯉のぼりの写真を載せるという感覚は、
  リアルな五月の官能を皮膚で感じとれていない悲しみがある。


・子が親を生み出す。

 横:すると、親鶏より卵が先にある。卵のないうちはアメーバのようにクローンで殖えるのだから、
   卵なくして親とは言われない。


・誰かが君のアイデンティティを問うてきたり、君の作品の
 社会的意義を問うてきたりしても、それはそれを問うている側が抱えている
 何がしかの不安から発せられる問いなのだから、
 君たちが自分の問題と勘違いして強迫的に求める必要なんかない。


 横:分かりやすいキャッチや肩書で決めつけて理解したつもりになったり安心する人が多いのが世の常かもしれない。
   風呂敷のきっかけは使い捨てのゴミを減らしたい思いだったが、ふろしきをインスパイアする前に、
   全く別の縁でいただいた本に風呂敷のことが載っていて、それを見てなければ頭によぎらなかっただろう。
   だから、風呂敷をつかうようになった理由は偶然であるか、見えない誰かの導きというのが本音。


・愛と理解はまったく異質な感情なんだ。
 むしろコンタクトできてるつもりで理解
 してしまう働きのほうが「心の病」なんだ。


 横:誰かの寂しさを癒そうと寄り添ってくる人自身が、本当は最もさびしい。
   しかも、その誰かを寂しかろうと決めつけているのも勝手な都合。
   空氣を読まず、そのくうきを無効化するほどあっけらかんとマイペースな人こそが、
   現状を一変させる。理解不能を識っているからこそ、脈略をきにせずに振舞える。


・「自然には敵わないですよね」と聞かれ
 「人間の自然もあるんです」と答えました。


 横:人の自然を思い、他の動植物との違いを痛感するほどに
   人は地球出身ではないのではと考えたりもするが、それは
   現代生活による病の部分もあるらん。


・ある人物を評価する時、その人の短所はその人の長所を汚したりはしない。

 横:だのに、たった一つの批判や指摘が、相手を全否定したようにとられるおそれがあるから、
   おんなじ中身でも、婉曲な表現を心がけている。以前、歯にニラかなんかが挟まっていた女子に対し、
  「ひかるきみの、歯のまぶしさに、ホーリーバジルが降りてきた」とつたえた。


・「早弾きは練習すればできる。センスが問われるのはスローなほうなのに」

 横:初見のインパクトよりも、飽きなさが問われるゆったリズム。

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続 芸術人類学者・中島智先生のことば(ツイッター等より一部引用)


・同じとこ探すより、違うとこ愉しむもんだ!

 横山所感(以下横):共感できる人に好感を抱く心理は、他人を通して自らを
  肯定したい悲願から来る。しかし、さような遠回りをせず、
  ストレートに自分自身を尊重・敬愛できれば、逆に、
  他人に対しては、自分とは違う部分をたのしめるようになる。
  違うところを持ち味として役割分担すれば、この世はきっと天国に。


・「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で賛否を決めるのは恥ずかしい。

 横:どんなに尊敬すべき人でも、間違うことはある。内容をきちんと
   見極め、ときに進言することは、かえって最大級の敬意となろう。


・〈制作目的〉に意識的であることを尊ぶローカルな文化風土に則って、
 ディスカッションやプレゼン技術ばかりに授業時間を費やしている欧米の美術大学


 横:自信のなさに比例して、理論武装し饒舌となる傾向さえもかんじる。


・ポルノ雑誌から学んでしまった人々が、裸体は猥褻だと勘違いしています。
 互いに異性を記号化し、子どもは愛し合って産まれることが分からず、
 エッチして産まれると考える思春期止まりなのでありましょう(笑)


 横:自然を不自然に(違和感)を思う病理。


・今度、アフリカの「正装」を「ヌード」扱いしたら、赦さんからな

 横:おっぱいは子どものためにある。それを見て激情へ至るは、
   いまだ乳房に未練のあるマザコンともいえよう。




・(「咲いた花なら散るのは覚悟」と、戦死に「カッコ良さ」を感じていた友に対して)
 「桜は散るために咲くんか?オメェを散らしてのさばる輩がおるんぞ、それが見えんなら阿呆じゃ」


 横:優秀な人財がパワハラなどで職場を追われるとき、彼/女は謙虚ゆえに
   抗わずに去ることが多いが、信じた仕事であれば、悲劇のヒーローに浸らず、
   世界の未来のために、出るところは出るべきだ。
   

・美しいという以上に、素的なひとは、毎日みかける。
 ブランドや流行への依存は、却って制服のように保守的で、
 むしろ気分でテキトーに着ている人々のほうが、着ていないくらい素的にみえる。


 横:テキトーこそ、皮膚に共鳴する「いまあるべき衣」を無意識にえらぶ。
   同化するから、衣装ではなく本人がみえる。


・〈差異〉は〈対立〉ではなく、助け合うためにあるんだよ。

 横:うまれもった性質を生かした役割分担により、せかいは見違えるだろう。


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武蔵野美術大学時代からの恩師・中島智先生の言葉(ツイッターなどより一部引用)


・ニンゲンとしての私は、しばしば判断を間違う。
 しかし、イキモノとしての私は、その判断を間違えることがほとんどない。


 横山所感(以下横):人間としての思考は脳に依り、それは数十年の経験値による。
  しかし、生き物としては、数億年の遺伝子の記憶による勘が冴える。


・「イイな」感覚に偏向していて「飽きない」感覚が欠落している

 横:SNSにはキャッチーなものばかり。何度も観たいものは多くない。


・見慣れないものを「下品」もしくは「非文化的」と見なしてしまう。

 横:ふんどしは下品か。ふんどしはニュートラルだ。下品にも上品にもなれる。


・自分の魅力を伝えるよりも、相手にどれくらい惚れているかを伝える

 横:自分の魅力をアピールして愛されるようという目論見はおこがましい。
   真に魅力ある人は、そこに在るだけで世界を変えてしまう。


・“実在から発せられない言葉、抽象的な概念を乱用すると、
  実在が君の身にふりかかってくるから気をつけなさい”


 横:はじめに言葉ありき、は虚しい。つかいたい、好きな言葉を使うチャンスを
   ここぞと伺っている作家もいる。しかし、実在を映すことばを、自ら
   即興で生み落とすことが創造だ。


・月光はヒトのこころを裸にする。街灯さえなければ夜は明るいのだ。

 横:明るいほど人の心身は閉じこもり、暗いと環境と溶けあって解放され、
   こころもからだも裸になれる。細胞にとっては、光さえも酸化を起こす抵抗である。


・「不安な状態のとき、 “いまマトモだ” と感じたよ」
 独りで観て、自分で考え、経験則に頼らないで “いま” を生きている証拠。


 横:たまたま上手く行った方法論にとらわれているうちはかえって自信がみなぎっている。
   それが、今を生きていない二番煎じと氣づいたときからスランプがはじまり、
   曇りがとれて、その瞳には宇宙がある。


・「悩んで大きくなる」というよりも「悩んでいる時がもっとも大きい」。

 横:悩んでいるときは広大無辺たる非結晶。何か一つに収束させて結晶化(かたち)を
   見出せるが、了見も限定されつつある。


・「君らは飽きっぽいから“根性”って言うんだよ、
  君らの飽きっぽさを味方にしたら多作で独創的な画家になれるのに」


 横:短所と思い込んでいるところが、永続可能な最大の長所、武器となる。


・饒舌とは往々にしてハリボテなのである。
 その人がその人の言葉で語り拓こうとするとき、それは〈語り損ね〉として表徴する。
 ゆったり耳を澄まさないと〈聴き損ねる〉。


 横:例えばある雨音を聴いて、安易に「しとしと」と表現するか、それとも
   自分の感じたリアルな雨音を表すことばをつむぎ出そうと、
   もごもごしちゃうかの差。

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芸術人類学者の中島智氏のツイッターより、一部引用


・音楽で踊るのではなく、音楽と踊るのだ。


・AIとは経験値だけで物をいうオヤジ


・アウトプットなくしてインプットはない


・「興味がバラバラで何やりたいのか判らない」と言う学生に、それを箇条書きしてもらうと
 「バラバラどころか全てが関連している」


・「障害者」などいない。「障害となる環境/社会システム」がある。


・裸身は「恥辱」ではなく「尊厳」である。いきものとしての尊厳にまさる尊厳などない。


・「わからなさ」は、付き合えば付き合うほど増していくもの。


・「理解したつもりになるのか、それとも愛するのか」


・発見とは、やってくるのではなく、見方にゆらぎを赦した結果。


・すべての教科で好成績なのは「頭がよい」のではなく、何にも興味がない。


・「頼る」って、他人への敬意を表すこと


・「描く」ことは、後付けされる「目的」以前の、謎である。


・簡単に言葉にしないで、そのもやもや体験を持続してほしい。

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息子は
赤蛙の卵の一部を水槽へうつし、
室内で観察している。

はじめは黒いまん丸だったのが、
一週間ほどで細長くなってきて、おたまじゃくしに
近づいてきている。

春休みに旅行などするとき、うちには
うさぎと亀がいる。

うさぎは餌の草をカゴの上に積み上げておき、
水も補充しておけばよい。
さびしくて死ぬことはなく、たいてい世話がおざなりになって
餌不足で死んでしまうのだ。

亀は冬から水槽にいるが、これからはあちい日に
お湯になるおそれがあるので、

大きい亀之介は、庭の金魚の池にもどす(きんぎょは引っ越し)。
小さい亀吉は、今カエルの卵を観察している大きめの水槽さ入れて、
暑くなりすぎない1階の窓辺におく。

亀吉はそれほど素早くもなく、おたまじゃくしと一緒でも
大丈夫かと。

去年の秋冬から、様々な展開がひろがっている。

健康を第一に、ひとつ一つを丁寧に歩めていくしかない。

本質はどれもシンプルで当たり前で、具体的で物理的なことばかりだ。
アタマが考えるのではなく、
その場所が教えてくれる。

3/30(金)、31(土)、4/1(日)は、西荻窪の
麻糸博覧会で、麻の風呂敷を披露しながら、むすび方の
ワークショップもいたします。

来月には、おたまじゃくしが一斉に泳ぎ出すでしょう。

いのちにとって大切なのは、その居場所がその生命にとって
ふさわしいかどうか。

合わないと、酸化して悪さをしたり毒ガスを発するようになる。

死体を微生物が分解して、水や土や空氣に還すように、
ものには寄り添う存在がある。

寄り添ひたる存在こそが居場所ともいえる。

おわりに、恩師からのことのはを引用します。

「なにものでもないことは、自由だ
 いつか消失する運命って、軽快だ
 だから、生き物でいることが大切
 人間として… なんて二の次三の次」

中島智(芸術人類学者)

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本日、谷中で風呂敷むすび歩きをしました。
その後、復習を兼ねて遅いお昼をいただいたお店で
出会った方のお顔を描かせていただきました。


名刺の裏に。彼女は大阪で、多肉植物と、トルコのモザイクランプの体験ができるお店を開くそうです。


ポストカードに。


谷中も、この7,8年で観光地化が進んでいる。
観光客をターゲットとして作られた店がふえた。
それは確かに洗練されていて、分かりやすい。
しかし、誰でも同じように説明できる店って
つまらなくないか?答えが用意されている。
そうではなく、潮干狩りのように、自ら発見したい。
浅草のようにならないことを願うが、
それでも、よい店は残るものだ。

以下、美大時代からの恩師・芸術人類学者の
中島智先生よりいただいた、座右の言葉。

今を生きていれば何か出てくるよね、
出そうとして出たものは絶対二番煎じです。
洗練はされてるけどクリエイティブじゃないな。
粗野でいいからリアルなものを日々生きていたら
誰にも出せんものが出てくる、
そういうものだよね。

その姿勢は一番大切だよね。


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 この季節は毎日、庭の百日紅とアオギリの落ち葉が
玄関前に舞い散っている。よほど急ぎでなければ
それを掃くのが朝の日課のひとつ。

集めた落ち葉はゴミに出さず、庭の片隅にどっさり積んである。

きっとこの中や下は、でえぶ暖けえにちげえねえ。
から、虫や小動物が冬眠してるかも。

このごろはあまり、道端を覆いつくすほどの落葉を見ないと
思ったら、最近は葉の落つる前に街路樹を剪定するようだ。
落ち葉対策も目的のうちだから、容赦なくぱっつんと伐られる。

付近の住人にとって掃除は楽だけど、
紅葉に道が色づく季節感を失う。

でも掃除を面倒と思わない人もいるから、所々に
ほうきとちり取りと、やや細かめのパイ助(竹かご)を
備えておけば、近所の人でも通りがかりの人でも、
自主的に掃き清めると思う。

それで、燃えるごみと一緒に回収されてもよいし、
落ち葉を使いたい人はつかう。

何もしない楽と、みんなで助け合う楽があるが、
前者は人のつながりを分断し、社会を弱体化させる。

恩師である芸術人類学者・中島智氏の言葉を引用すると、

障害とは、個体の問題ではなく、個体が生きていく時に立ちはだかる
社会的障害という問題である。
この意味で「障害者/健常者」という区分けはナンセンスとなる。
ただ手を差し延べるという相互扶助で、
社会的障害のほとんどは解消する。
(以上引用)

物理的なバリアフリーも非常に大切だが、
人同士の無関心という社会的障害・損失を減らすには、
共通の課題が適度にあると、つながり合える。

落ち葉を掃くのも、レレレのおじさんが如く、あいさつの
入り口になったりするよね。

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先日、母校ムサビのオープンキャンパスの
卒業生展示の片付け後、
後輩ともいえる在校生から
「にんじゃセンパイ!」と声をかけられた。

僕は確かに、通常忍者歩き(腰を捻らない。すり足に近い)と
忍者走りであり、象徴的なポーズを取ったりもするが、
共通項こそあれ忍者ではないことを自覚している。

その理由として「僕は人生で1度も逆上がりが成功していない…」
と半分冗談で言ってもいるが、本当のところは
僕の信頼する特殊能力者のあみちゃんにこう質問したときのこと。

「僕は子供時代はクラス1、足が遅かったけれど
 20才を過ぎて自然と歩き方、走り方が変わってからは
 疲れずにびゅんと走れるようになった。
 それは忍者走りとも呼ぶらしいが、
 僕のDNAには、忍者の記憶も刻まれているのでしょうか?」

するとあみちゃんは
「いいえ、忍者ではありませんでした。
 でも、走り方を教えていました。
 だからそのように走ることができます」

前世と言ふべきか、あるいは先祖の血なのか
小学校で50m10秒台だった僕が
走るのを教えていたとは。
うちの菩提寺は谷中にある西光寺という
真言宗のお寺(僕は般若心経も唱えられないが)。
境内には走りの神・韋駄天が祭られている。

偏平足かつ運動音痴を自覚しつづけた
(たぶんその負い目も、
異性のいない男子校に中学受験した
要素の1つ。何しろ体育「1」だった)
そんな僕にとって、アスカの飛ぶが如く
すいすいと走る感覚は無上で、
今も歓びは尽きない。

何かが苦手というのは、既存のシステム内で
適応していないだけで、その外に出れば
誰よりも得意だった、ということがあるのかもしれない。

僕の学生時代の恩師、中島智先生が
ツイッターをされているのを最近知り、
過去記事を遡っていたら響く言葉があった。
以下引用

シャーマンは(特に対人)インタラクションの達人である。
彼女たち、オガミサマの殆どが盲目だが、
障害を欠如ではなく過剰と捉え、
霊力に転化するという<理>をもっている。 

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