(5/24) ・きょうは生地をすこし仕入れてから、 友人宅の屋上に プランターと土をはこび、 さつま芋をとマリーゴールドを植え、 オクラの種も蒔く予定です。 ・近隣の野山にて、たんまりと 桑の実を食べました。 子どもたちがシートを引っ張って ひろげた上で、枝を揺さぶると、 ぱららららん♪と、熟した実だけが 降ってきます。
・自宅のメダカが卵を抱え、 藻(サヤミドロ)に産みつけた。 誰かに食われる前に、はやめに 移動させておこう。
(5/25) ・実家の屋上へ蒔くための モロヘイヤの種を運んでいるが、 種には毒があるので、きもち きをつけておく。 さつま芋の苗も植えるが、 ホームセンターで買ったものは ほとんど根が出てない状態。 試しにそのまま植えるが、 根付かなければ、自宅で種芋から 育てている苗を後日植えなおす。
・今度父が例の注射をうつそうだ。 まだ治験(安全度が高いかどうかの 試験期間)が終わっておらず、 重篤化や死へと至った副反応も 多数報告されているため、 本当は時期尚早で打ってほしくないが、 説得は困難だろうから、 自分なりにスペシャルドリンクをつくって 副作用のリスクを減らせたらと 思っている。 ささやかに意志は述べているが、 結果がどうであれ、本人が決めたことなら 運命であり、因果でもあるから 自分は自然の流れのなかで、 自分が信じた、できることをやる。 元々病氣を抱えて弱っていた方が、 風邪の種類である流行りの感染症で 亡くなることは、生きものとしても 人としても、これまでずっとそうやって 世代交代してきた、自然死のかたちだが、 もしも、元氣にぴんぴんしていた人が、 接種後に急変し長期的に健康を失った場合、 それは薬害という。日本の現状で、 それら自然死と薬害死のリスクを 天秤にかけたとき、どちらを選択するかは 当人の人生哲学や生命観に依るところも あるけれど、両論併記とはいえない 一方的な情報ばかりが目立つ現在においては、 ニュートラルからの判断がしづらいだろう。
・夜遅めに帰ってきて、ライトを照らしながら 裏庭の池を見てみると、あまがえるがおった。 かえるとか、かわずとか、そんな名前が つく前から、彼/女は日本列島の、 木や水たまり周辺に暮らし、 雨の前に歓喜の声を響かせ、 浮き草まみれで、メスを呼ぶ歌を うたい、虫を食らい、へびに食われ、 何十万年も生きてきたのだろう。 人間は、知り得る情報と自分の経験だけで 頭でかんがえて、失敗するか、 過去の焼き直しを、成功したきぶんで いたりする。 いっぴきのあまがえるは、ただ 皮膚感覚をたよりに、より健やかな 環境へ移動しながら、次世代へ つなぐための最善の選択を 間違いなく全うし、死してなお 生態系全体の存続へ、図らずとも 貢献する。 人もまた、同じ生きものとしての 本能的な直観や感覚を備えていようが、 社会への依存度の比重が偏りすぎて、 身体の声よりも立場主義に毒され、 大自然の波に揺られてうたた寝する ことを忘れているようだ。
・言葉や設定は、大雑把な抽象。 実体は微細なさじ加減に他ならない。 指先をつかい、あいまいな中での 確信とゆらぎに日々息づいていれば、 情報の隙間や裏側をかんじ、 乱暴な誘導から脱して、 いつでもリラックスして 深呼吸ができる。
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