ふろしき王子のブログ☆
どこでも出前講座開催中
http://furoshikiouji.asia
メール isamix@gmail.com
 





ちょっと疲れが溜まったので、河原のやぶに分け入って葛のつるを採り、
その後Tシャツ1枚になり、靴下を脱いでズボンをたくし上げて、川の中を歩いた。
大自然の中のいきものに還ると、内なる強さがこみ上げてくる。
ヒトは、つめたい水と生の食べものと樹木のぬくもりに添うて、ずうっと生きてきたのだ。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




不意にトキーンと足元にボールペンが降下してくるのは、
ズボンのぽけっとに穴があいているから。
そこで、当て布して繕って修復。
ささいなメンテナンスの積み重ねが、
真の安心と、物との絆を生む。
氣の持ちようばかりではなく、
実際的な安定こそが、揺るぎない安心を生んで、
背中を押してくれる◎

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




あなたが社会に適応するために着ている鉄のよろい。

敵から守るよりも自分自身の自然体を畏れて封印しているのだろう。

頭は騙せても、身体はだませないから病氣になる。

よろいを融かしてくれるのはやはり大自然。

お陽さまと樹蔭とさざ波からの風にくすぐられて

つい笑いだしたとき、よろいは剥がれ落ちる。

よろいを脱いだ自然体のあなたは、ことばにならない美しさ。

そのままでいられる社会でありますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




脱コンセプト。
普遍性のある物には、
あらゆる言葉が適合する。
普遍性のある言葉には、
あらゆる物が適合する。

きみはすべてを抱いていて、
どんなところにも存在し、
すきな魔法をさずかる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、近所の川で下駄が片いっぽ流されてしまった。

子どもたちと泳いでいたとき、
ライフジャケットは着ながらも末娘が不安で泣きはじめたので
助けようと下駄履きのまま水をすすんだら、
やや緩んでいた左の鼻緒から、足が抜けてしまった。

すぐに泳いで追えば間に合っただろうが、娘の保護を優先するうちに
下駄はどんぶらことぐんぐん下っていった。

妻に娘を預けてから、浅めの浅川のなかを走るが、
左は裸足のため、底の石が痛くて思うように速度を出せない。

ならば泳ぐほうが速いかと、腹が底に触れそうな深さを、
右手に下駄をはめて潜りすすむが、手のひらでそこをタッチしながらで
遅い。

これはもう、痛くてもツボ押しで体によかろうと
腹をくくって、たまに下駄を左右へバトンして
片足ずつ休めながら、周りをきょろきょろしつつ
100メートルほど先に着いた。

結局見つからなかったので、下駄はどこかに引っかからずに
下流へすすんでしまったようだ。

観念して元の河原にもどるのに、流れに逆らいながら
裸足で石を踏み行くのはつらいため、いったん土手へ上がり
熱い舗装のうえを走って戻った。しかも水着のまま。
ああいくつになろうが、夏休みの思い出はふえていく。

下駄はいずれ多摩川に合流し、
今やとっくに東京湾に浮いているか、
あるいは取水堰などで止まっているのか。
使い古された下駄の片側だけを、誰かが拾って履くというのは
考えづらい。

大雨の増水で流されてきた小さないきものたちの
舟やビートバン代わりに役立っていたら嬉しいけれど。

あの下駄がどんな大冒険を送っているか、
せめて空想してたのしみたい。

いっそ、もう片方も川に流して、どこか南の島で
ふたつが再会して、異国人がつかうという奇蹟にかけようか。

そしてこれを区切りに、机に向かって風呂敷の新しい本を
進めていくとしよう。

裏庭で、
エンマコオロギが鈴をころがしている。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




自然派の人は、水中出産をえらんだり、あこがれることがあるが、

ヒトが水中出産することは、自然なのだろうか。

産まれおちた後は肺呼吸をする陸上生物であるため、
もし水の中で出産し、うまく上陸できなければ死を意味する。
人はそんな前提にはできていない。

さらに問題は、赤ちゃんは、生まれ出るときに、母親の
産道の微生物が皮膚に付着して、それが生涯において
免疫を担う常在菌の元となる。
それが水に流されることは非常にもったいないことだ。

帝王切開で生まれた場合もそれが望めないため、
なるべく母親とともに入浴することで、必要な菌をもらうとよい。
塩素はなくなっているほうがよく、よけいな入浴剤もいれない。
女性は男性の10倍も、肌に乳酸菌を持っているという。

産道を通って生まれたときに、すぐに産湯に入れるのも
産道からの菌を落とすという意味では、のぞましくない。
とくに、日本の水道は塩素が多いので、赤ちゃんの皮膚は
無防備となり、その毛穴から、院内の病原菌が侵入するおそれもある。

生まれ出たら、そのままへその緒もつながったまま、
お母さんのお腹の上にしばらく寝かせていると
黄疸も起こりにくいという。
へその緒からはまだわずかに酸素が送られるので、
徐々に肺呼吸に慣れるまでの保険になるし、
切るのはしぼんでからでよい。
いきなりぷっつんと断絶するのは、無意識のトラウマになるかもしれない。

ともかく、イメージだけで何となくよさそう、と判断するのではなく、
それは自然であるか?をさまざまな視点でとらえることが、
生命のバトンをつなげる私たちの責任である。

僕は医者でもないし、思うままに書いているだけなので、
このようなネット上の情報はすべて「便所のらくがき」ととらえ、
自分で判断して決めていかなければならないし、
それができないときは、白黒つけずに保留する必要がある。

〔追記〕
プールには藻がわかないように、または殺菌のため、こまめに
塩素が投入されている。水道水に入れる「次亜塩素酸ナトリウム」ではなく
ゆっくりと溶け出るように「次亜塩素酸カルシウム」(カルキ)が使われることが多い。
しかし、病原菌や藻がふえるのは、水中に餌となる有機物があるからなので、
小石や砂の層に水を循環しつづけ、棲みついた微生物が有機物を分解する
「緩速ろ過装置」を設置すればよい菌もそうでない菌も殺すという発想ではなく、
余計な菌は増殖しなくなる。
生物浄化法とも呼ばれるこのろ過装置は、メンテナンスのコストも低く、
これからの未来型のやり方として広がっていくことを願っている。
実際は、戦前の日本の浄水場はこの方法をとっていた。
昔の水道水は、おいしくて安全だったわけだが、
鉛管による重金属の害は存在していた。
ただ過去を懐かしむばかりでなく、より佳く前進していきたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




きょうも朝の6時台から既に、よしずと窓とカーテンを通してもなお
おひさまがたんまりと暑うございます。

お蔭さまで不調から再生しました。
何が原因というよりは、この夏の
知らず知らずの疲れ、シャワーのみの入浴など
細かな集積と考えられます。

7/17(火)ジュースに氷を入れて飲んだら頭がいたくなる。
18(水)微熱のまま畑作業
19(木)微熱のまま浅草で用事
20(金)熱が上がる。いちにち寝たり半身浴しながら、
    頭痛とだるさに苦しむ
21(土)熱が下がってくる。夜は盆踊りの片づけを手伝うが、
    その前に「おジャ魔女音頭…」をおどる
そいでもって再び晴れたる今朝
20(日)平熱にもどり、頭痛もきえました!

無事に横浜のイベントの風呂敷講座へ向かえます。
暑いはあついですが、熱で体内の余分な熱源が燃やされたお蔭で
より健康的に行動できるはず。

自然の経過にまかせて病氣から回復すると、不調になる前の
状態に戻るのではなく、既に内包していた原因物質の質や量が
変化しているため、より佳き状態になる。

思うに、いま現在の環境や生活にあわせた適応プロセスとしても
風邪などが存在するのだろう。

僕は基本的に、生命に関わるとか、あまりに長引きすぎて
その間の著しい体力の消耗が他に感染症を呼ぶリスクがある、
という場合でなければ、すぐに薬で症状を抑えるという
対応はとらないため、
病氣は寝て苦しみながら、しぜんに回復するのを待つ姿勢です。

仕事などで、表面的であっても薬で症状を抑える必要のある人も
いるでしょうが、僕の場合は、ちょうど休みの日に症状が出る、というか
氣を張っていればなんとか体が待ってくれて、休日に
「はいどうぞ」となって、いっきに熱を出せるタイミングと
なってくれているかもしれない。

苦しみながら寝ているのはつらいこともありますが、
毎度そうしていれば、一病息災の小出しとなって
何か月も床に臥すことはないし(もしそうなったら他の原因があるはず)、
そのような状況だからこそ得られる氣づき、発想、視点、哲学の探究が
あって、大変だけど、ひとつのギフトであり、宝ものの時間といえます。
このくるしい時間をどう生かせるか。

もちろんいつでも「病氣に感謝」と思える境地とは程遠いので
「ちくしょう~頭がいてええ」と心で叫ぶし、嫌なことや者が浮かんできては
「あいつに天罰あれ」と希んだりもするだろうが、とにかく出し切って、
嫌な思いとうれしいおもいが同時にかき回されることで、新しい
考え方、優しさ、ニュートラルな姿勢を得ることへつながっていくと願う。
あと、好きな漫画が数冊あるだけでもかなり情況はちがってきますね。

ところで、療養中(?)に耳にしたすてきなことのはをシェア

 こころとは、
 太陽のことである

 意識とは、
 月のことである

 地球とは、
 あなたのきもちのことである

(縄文エネルギー研究所所長・中山康直さんの講演より抜粋)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今日は家と周辺におりました。

駅前でお米や卵、ティッシュを買い、2階で麻のふろしきとふんどしを縫い、
合間に食事をし、池波正太郎さんの小説(初期の現代小説)を読んだりしていた。
また、帰宅した子どもたちと、先日つくるのを手つだった溜め池を見に行った。

このブログの初期のころにしばしば出てくるが、僕は人や物の「重心」を見極めて
ひとつの判断材料としている。
重心は土台であり、土台は低いほど安定している。
重心が低い位置で安定していてこそ、その上はことごとく自由となる。
つばさをはばたくことができ、飛翔できる。

スーパーでお米を買うときも、どれがよりよいか、表面的には分かりづらいので、
種類ごとに重心を見て、低いものをえらぶようにしている。
重心判断は、頭や心の思考とは別の感覚でありながら、何度みてもそうなるという
揺るがなさがあるので、もう10年近く、確信をもって役だてている。

物事には、さまざまな判断材料があるが、その視点は多いほどよいだろう。
にこにこしている人の心中が、真に穏やかであるかどうかは分からない。
顔でわらって心で泣いて、ということもある。
内実は精神的に不安定であれば、重心は上がる傾向にあるから、それを見抜ければ、
ただ微笑んでいるから優しい、という安易な判断に流れなくなる。

もともと、重心に興味をもったのは、幕末や近代の古写真をみたときに、
細見で筋肉も盛り上がってないような、なで肩の人物が
剣や武術の達人であるという事実だった。

共通するのは、上半分を手で隠してみたときに、下半身が安定し充実している。
まさに、重心が低い。
よく「臍下丹田」といって、へその下に重心があるのが理想とされる向きもあるが、
それは昭和30年代くらいまでの、暮らしと足腰がむすびついていたころの
ほとんどの日本人の重心の位置でもあり、

剣士や達人となると、より低い、ももやひざ、さらにはすねや足首の低さの
人物さえあった。


(このアカガエルの重心は、かかと)

一方、現代の日本人は、情けないことに、90%の人間が、
肩よりも上に重心がある。

生まれたときは、自然そのもので、イキモノとして輝いているのだが、
その後の暮らしや社会、教育によって徐々に高くなっていく。

自分の高校時代の写真を見ると、重心は肩にあった。
何しろ高校時代は毎日皆勤賞のようにゲームセンターに通っていて、
仮想の世界で指先だけうごかしていたし、
自宅でも机に向かって絵を描いてばかり。
足腰とかけ離れた生活を送っていた。

かんたんにいえば、
重心の高さが
・頭…頭でかんがえる(頭でっかち)
・胸…こころで思う(感情的)
・腰…魂でかんじる(直観)
・脚…細胞にまかせる(遺伝子のプログラム)

重心は、頭や意識で「下がれさがれ…」と念じたところで、ますます
頭でっかちになって上がってしまう。

思考せずとも、使っている部位には筋肉やスジが動き、血が流れ、
しぜんと意識も届き、血肉が充実して密度をまして、重心が下がってくる。

そうなるように、徹底して足腰をつかうことにした。

といっても、ジムへ通うとか、筋トレや登山をするわけでもない。

大切なのは、くらしに足腰をとり入れることだ。
大きな一発よりも、毎日のこまかな継続のほうが、揺るぎなく身についてくる。

よく歩く。それも、下駄や裸足や歯が一本の下駄。
腰に帯を締める。斜めに折りたたんだ風呂敷で。
ズボンのゴムを抜き、ひもに入れ替える。
同じくゴムの入ったパンツをやめて、ふんどしにする。

掃除機はつかわず、ハイハイしながら手や小ぼうきをつかって清掃にはげむ。
エレベーターやエスカレーターではなく階段を選ぶ。
いつも風呂敷をせおい、荷物を腕力ではなく背中で受け止めて
からだと一つにする。

そのうち、歩き方まで変化して、腕をふらず、ウエストを捻らない
にんじゃ(ナンバ)歩きしかできなくなった。
それで走ると、手を停めたまま、あるいは脚の動きと無関係に
自由に動かしながら、上下のぶれは無く走ることができる。

試しにカメラで動画を撮りながら走ると、まるで魚が水中をすすむように
滑らかに撮れている。

重心を下げられたことが、20代の最大の収穫といえるかもしれない。

重心は、浅い物理学で説明できるものではない。
なぜなら、体内には血流やリンパの流れがあるし、
その体液のミネラルを通して、微弱な電気信号もながれている。
そして、どこまでが体かという問題もある。

元素、さらには素粒子レベルで見れば、物質は隙間だらけであり、
粒つぶでとらえれば、体もまわりの空気も地面も境界線はあいまいとなる。

水も、たくさんの隙間があるからこそ、塩を入れても溶けるうちは
あふれ返らない。

そういう視点でみれば、重心は足裏から頭頂までのどこかに収まる範疇ではなく、
足より下とか、頭より上ということもあり得る。

自我がなく、まわりの環境と一体化していれば、重心は足よりも下がる(かもしれない)。
たとえば飛んでいる鳥は、その下の風とひとつになっているからこそ飛べるのであって、
「ジブンノカラダ」と意識した瞬間に落下する可能性がある。


(このカタツムリの重心は、なんと体より2cmほど下にある。まさに環境と一体化)


(このヒキガエルの重心は、体より3cm下。生き物はさすがだなあ。居場所と生命が一致している)

また、自分ではないものを演じていて、振りをして偽っている人間は
イメージの世界に生きていて、重心が頭より上に行くという仮説も成り立つ。

重心は、弱点ともいえる。
弱点は、弱いところではなく、最も大切なところだ。
生まれつき右手に力が入らない人がいるとして、その右手を攻撃されても、
それほど問題とならないだろう。
頼りにしている左手をやられるほうが困る。

重心は、その人の要となる重要な起点であるから、そこを討たれると全体にひびく。
頭より上に重心がある人は、自分ではない誰かを演じているわけだから、
その誰かがバッシングに遭っても、本当の自分は傷つきにくい。

足より下に重心がある人は自我がなくて、
環境や自然界とひとつであり、固定された自分があるわけではないから、
誰に何をいわれても、客観的に、相手も含めた世界全体をながめることができる。

長文になってきたので、つづきはまたいつか。

コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )





新しい、縁側風出入口


今年もプールの季節へ


河原で摘んだうさぎ用の草や拾ったゴミなどを、角材にぶらさげてはこぶ

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






下駄な足い氣いつけなせ。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )






灯油を手もちで汲んでくるのは重いが、
大事に使いたくなる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






近所の浅川の川原に、水たまりが取りのこされていて、小魚が沢山。
息子が川に逃がそうと網で捕えていたが、こんなに狭くても
魚はすばやくぱっと散るため、なかなか難しい。

昨日の元日はお節とお雑煮とお餅でしたが、
今日は餅はやや重いのでおやつにして、お昼はおむすび。
夜はラーメン。パスタを1時間水に浸してから、重曹入りの湯で茹でる。





きょうのスープは、油でにんにくを炒めて、豆乳と水を加えて沸かし、
塩と鰹節と長ねぎとおろし生姜を入れたもの。
沖縄そばのような風味となり、家族にも好評でした。

1/1,2ともに近所をぶらぶら、あとは
今月のイベント用のふろしきを家の2階で縫っていました。
昨日は生地の裁断と、6枚縫製
今日は24枚縫製

明日1/3は残り9枚を縫いたいですが、近くの丘に上る予定があり、
また、長男の8才の誕生日でもあります。

テレビが無いので、しぜん早寝となり、
娯楽は野山を歩くことくらい?なので
何とも健康的な年始です。

あ、そういえば今日、川原に佳き竹があったな。
用途を見出したら、のこぎりで刈ってこよう。
昨年の台風による氾濫で倒れた竹が黄色くなって、
素材としてよい感じでした。
真竹くらいの、物干しによさそうな太さ◎

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




近所の高幡不動のお寺は、初詣で激混みの行列ができていた。
本堂でのお参りはせず、脇から入って裏の高幡山を家族で登る。
すると頂上から、彼方には筑波山がみえた。
うっすら見える山の、右の方(左の低い山は、おそらく宝きょう山)。



絵の背景にちょんと山を描くとき、昔からなぜだか頂が2つある山を描いてしまう。
そんな姿の筑波山には、遺伝子に刻まれた何かがあるのだろうか。

そのように少なからず思い入れのある筑波山に、元日に家族と共に会えたことは
年のはじまりとして、よろこばしいこと。

境内は大勢の参詣客でにぎわっていた。
日ごろから新宿駅の乗り換えラッシュも経験しているために
人の数で圧倒されることはないけれど、
おそらく、たくさんの人の願いごとで思いが満ちすぎているのか、
謎の疲れ方をした。

お寺も神社も、願いを叶えてもらうところではないと思っているけど。
死ねば体がなくなるから、この世での行動は難しくなる。
この世の人生として成仏するには、生きている間の生き方が大切。

もしもお寺等の宗教が、空高く昇れないでいる霊を供養して
成仏させる役割であるとするならば、
生きている人がすがる場所ではない。

もちろん、そういう切実な動機でなく、毎年の慣例としての
行事、年初のけじめ、日ごろの感謝、見えないものへの畏敬の念、素朴な信仰心、
先祖への思いなど、人によって拝む心は異なる。
だからこそ、拝む対象も時もまた人それぞれとなり、
神社やお寺以外でも、人は頭を垂れる。

1万年前の縄文時代から、日本人のこころを支えてきたものは何か。
否、10万年前の旧石器時代も、脈々と人が暮らしていた。
縄文土器に、子どもの足型が押された粘土板のペンダントがあったという。
そこには土踏まずの跡が無いため、子どもが上から粘土を踏んだのではなく、
足を持って粘土に押し付けたと見られる。
それは、亡くなった愛おしい我が子の足型を、
親が首から提げていたと推測されている。
親の、子への愛情は、昔も今も変わらない。
命がけで大人が子どもを守ってきたからこそ、
今こうして、自分たちがいる。

僕は、帰宅したときに、もしかして家族が倒れているかもしれないという
イメージをすることがある。
人の死や病や怪我はどこにでも存在し、人生は何が起こるか分からない。
何があっても、冷静に受け止めて、最善の行動がとれるように、
いつでも心の準備をしている。
戦時中はそんな思いが日常だったのかもしれない。
祖母も疎開中の15,6才のときに遺書を用意していたという。

当たり前の日常がどれほど貴いものか。
それを支える元の元が、清麗な空氣、水、大地と、
そこにエネルギーを届ける宇宙(お日さまや素粒子)。

なかなか心は高みへ昇られないけれど、帰った我が家の部屋の
散らかったおもちゃ、脱ぎすてられた子ども服に、
深いの感謝を覚えながら整え、その居間に対して、
僕はしぜんと最敬礼を行なってしまう。

自分たちは、光の元や電氣や風などの見えないエネルギーによって
生かされているからこそ、そこに応えるには、
手足を動かして形をととのえ、見えるもので表していくことが
大切と思っています。
そういうわけで、生きてるかぎりずうっと、部屋の掃除はつづくし、
そんな、体で触れて感じて扱えることを醍醐味として生きていきたい。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




海さ行くと、着衣で浮いてます。下駄も履いたまま。
野人さんのブログに、水難事故を防ぐためのことが書かれているので、
よかったら読んでみてください。

『溺れる理由 溺れない理由』

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ