何もかもが乗り物であり、そこには見えない思いが乗っかっているのだな。
カエルの体にはカエルの思いが、
水筒には水筒にこめられた、作った人、使う人
そして機能そのものが思いと一致している。
そうでなければ形はほろびる。思いなしに形はなりたたない。
にわとりが先かタマゴが先か、なんて問答のあるけど、
に・わ・と・り、たる思い(無線信号のように、目に見えない情報)がまずは在って、
卵なり親鶏というのは見える化(物質化・三次元化)の中の
循環する道すじの一段階にすぎない。
進化や発生は突然変異であるから、鶏の誕生の前に、
鶏を想像した誰かがいたわけだ。
それは、鶏のようになりたかったある種の爬虫類かもしれない。
朝、いと佳き声で長鳴きしてみたい、とか
前足は土を掻かなくてよいから、あの樹の上へ舞い上がりたい、
そんな思いがつよく残って、産んだタマゴには情報が結ばれる。
素粒子を構成するニュートリノに重さがあったように、
目に見えない思いもまた、遺伝情報を更新させてしまう。
そして、今までとは違うヒナが生まれて、
それは鶏の子でなのであった。
親のつよい思いが子を変異させた。
だから、鶏になる前の別種があって、
環境や好奇心由来のめくるめく思いが卵や胎児に作用して、
次世代をニュータイプにする。
でもこれはただ淘汰による進化論ではない。
親のつよい思いが、時間を縮めて、はるかな変化の距離を
たやすくジャンプする。
そしてそれは、必ずしも血脈で親から子のみに継がれる情報ではなく、
その思いは微細ゆえに限りなく無重力に近いから、
距離を超えてどこへでも行く。
それは、携帯の電波と同じで、周波数の一致する位置へ飛ぶから、
求めてるメッセージを醸している存在と共振し結びあう。
そして思いは、希望するかたちへと、設計図を書き換える。
幼な児が自然と言葉を覚えるのは、ただ聞き流した結果ではない。
大好きな大切な親や家族の声を聞きながら、
一緒にそのように声を以て関わりたい!と、つよく願うからだ。
その思いが触媒となり、言語回路をびゅんびゅんびゅんびゅん結んで、
短期間でことばを身に修めてのけるのだ。
それほど、思いの果たす働きは大きい。
ただ祈ってるだけで何も変わりはしないならば、
それは薄らかに思い浮かべてるだけで、
芯からつよく思っていないことになる。
しかし、つよく脳髄に叩き込めるのがつよい思いとは限らない。
真の願いはこそ、意識しなくても、すでに体とひとつになっているから、
呪文がごとく思い返さなくても、細胞の深奥までしみ渡って、
存在じたいが意識を放ちつづけている。
それを覆い隠すような、恐怖心や攻撃心という濁った脂は、
不義理な洗脳にすぎないため、つとめて洗い流す必要があろう。
ヘドロの下にはちゃんと真砂が待っている。
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