西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

大阪都構想はおかしい

2011-11-11 | 地域居住学
今、大阪市長選挙で、前大阪府知事の橋下(はしもと)さんが言う「大阪都構想」の是非が問題となっている。平松前市長との公開討論で、橋下さんは、大阪市の区役所では、バクっとした大枠の行政組織になっているが、東京都新宿区では「緻密な」行政組織になっている、と言う。

だから大阪市も東京都のように「都」にならないと・・・、と橋下さんは主張する。

これっておかしい、と思う。

第一に、今の法律では大阪「市」は、大阪「都」になりえない。それに、なんで大阪は東京の真似をしないといけないのか。

第二に、東京の新宿区のような分業化された組織に対して、大阪市のまあ大雑把なザクッとした組織では、より総合的な「町づくり」が可能である。

まあ町づくり以外の教育でも、必ずしも「革新的」ではない内田 樹さん(『町場の教育論』の著者、神戸女学院大学名誉教授)も、[政治が教育に介入することを肯定し、弱肉強食も肯定する]橋下流の教育に強く反対している。

金持ちが貧乏人を助け、頭がいい人があまり良くない人に助言する共存共生の世の中を教えるのが「教育」ではないのだろうか。

天平文様を売り出す藤野千代さん

2011-11-08 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今朝、テレビを見ていたら、よく知っている顔が出てきた。奈良女子大学・特任教授と紹介された藤野千代さんだ。「社会連携センター」に所属しているようだ。

藤野さんとは10年ほど前からの知り合いだ。毎週金曜日に「発刊」されている奈良女子大学の「メール・マガジン」も創刊号から編集し、私も創刊号からの読者の一人だ。

元々は理学部の出身で、会社の研究所にいたのだが、多分、久米学長の時代に「引き抜かれて」大学全体のために働きだし、私も全学に関与していた時代だったので知り合ったのだ。当初から行動的で中々のアイデア・ウーマンだと思っていたが、今日のテレビでは、奈良の色々な商品の包装紙などに「天平文様」をいろいろアレンジ・デザインして提供しているという。

そういえば、酒造業と奈良女で共同開発した日本酒「八重桜」の箱のデザインにも彼女が関わっていたと思う。最近、ならコープのPR紙を見たら、今度、奈良女子大学(食物栄養学科の学生たちが主役か)と共同開発した「ならコープオリジナル特選おせち」の重箱も藤野さんのデザインになるもののようだ。(一箱?頼もうかな!)

私達がやっている「けいはんな市民雑学大学」で、記念館を使った奈良女との共同企画の音楽講座や奈良女子大関係の先生が市民教授の時などには「メルマガ」で宣伝してもらっている。今後とも持てるアイデア活かし、「千代に」活躍して下さいね。

ワロン地方訪問(3)ディナンの「城砦」、乾パン、サックス

2011-11-07 | 訪問場所・調査地
ワロン地方の最後にディナン(Dinant)に行った。写真は、ロープウエーで上がった城砦(シタデル)から下を見た風景で手前に教会、ムーズ川が真ん中に見えている。

両岸がディナンの町だ。この城砦(シタデル)で長期間たてこもって戦うために、保存食として固焼きクッキー、昔の日本の乾パンが生まれ、現在、名物お土産となっている。「クック・ド・ディナン」と言う。

この町で、もう一つ有名なのは、金管楽器のサキソフォン(サックスの音―直訳)いわゆるサックスの生みの親アドルフ・サックスが生まれたということだ。上記写真は一寸見にくいが、事実、橋の両側の歩道にづらりとサックスをかたどったものが並んでいる。4年に一度、サックスの国際コンクールが開催されるようだ。

そこで、私達は、土産として少し大きめの「サックスが描かれたクック・ド・ディナン」を1枚買った。湿気に気をつければ、1年はもつと思っている。見たい人はどうぞ・・・。

ワロン地方訪問(2)デュルブイの「猪亭」

2011-11-06 | 訪問場所・調査地
モダーヴ城に行ったあと、昼食を食べにデュルブイ(DURBUY)の「猪亭」(いのしし亭、サングリエ・デ・ザルデンヌ)へ行った。入口に「猪に乗った少年の像」が置いてある。

ここはホテルに付随したレストランで、かって日本の皇太子夫妻も食事したということで、この地方に来る日本人は大抵利用する「有名レストラン」らしい。(写真は、ホテル兼レストランの「猪亭」)

何を食べたか、はっきり覚えていないが、最初出てきた「ムース」が美味しいことは美味しいが、やや塩辛かった。ビールでは地ビールで「ダークビール」を飲んでみた。

この町は、人口約500人、昔から「世界一小さな町」と呼ばれているらしい。端から端まで歩いても10分くらいか。参加者が、確か地のジャム屋さんがあるはず、とのことで食後の散歩でそちらに行ってみた。町中、石畳である。車道も歩道も。行ったジャム屋さんは、狭い店で私のリュックが引っ掛かってジャム瓶ひとつ落して割ってしまった。店主は「いいよ」と言ったが€2弁償しておいた。

このアルデンヌ山地には立派な石造りの農家も見られる。それは「シャトー・フェム(農家のお城)」と呼ばれているようだ。

バスの窓から見ると、乳牛、肉牛の放牧が広く行われているようだ。その日、最後のディナンに向かった。

日光東照宮の色彩や彫刻について

2011-11-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
テレビの「歴史秘話ヒストリア」で徳川家光が「改築」した日光東照宮についてやっていて興味深いものだった。

実は、明治以降にブルーノ・タウトが日本に来て、あちこち回って色々批評したのだが、その中で、「日光東照宮のきらびやかさ」よりも「桂離宮の清楚さ」を高く評価したために建築関係者でも、桂離宮を持ち上げる論調が強い。

もちろん、他の外人、例えばアーネスト・サトウ氏などは日光東照宮を激賞している。

私は、日光東照宮、桂離宮ともに素晴らしいと思う。まあ桂離宮は、伊勢神宮などの「無垢さ」とも通底しており、日本建築の一つの伝統を表しているとも言える。

しかし、一方、日本に珍しい「絢爛豪華」な日光東照宮が現れたのも事実であって、その原因、意味を深く考察すべき、と思う。

まあ西洋建築、特に石造建築では、外面にも内面にも物語性のある彫刻を多数配している。特に教会建築では、聖書の教えを文字(ラテン語)を十分解しない庶民のために分かりやすく示す彫刻群が「氾濫」しているとも言える。

同じように日光東照宮の彫刻も、家光が大名や庶民へ発したメッセージ(教え)なのであろう。きちんと理解していきたい。

同時に日光東照宮のそういう建築が、日本では「孤立」している意味も考えていきたい。

ワロン地方訪問(1)モダーヴ城へ

2011-11-05 | 訪問場所・調査地
10月25日朝起きると雨だ、今日はワロン地方のアルデンヌの森地域に行く予定。これはオプションで36人中20人の参加だ。

ベルギーのワロン地方とは、ブリュッセルより大体南の地方全体をいい、北のフランダース地方に対している。フランス語圏である

朝食を食べ、支度してバスに乗って出発したら、解説員の正○地さんが、「大体ベルギーは天気が悪い、こんな日が多い」と言う。しかし、ブリュッセルを脱し高速道路に乗ったら雨が止んできた。 

ワロン地方、アルデンヌの森地域は、北の都市域に対して南の田舎、正に「南北問題」の南である。田畑や牧草地がバスの窓から見えていて気分がいい。

最初に行くのは古城のモダーヴ城である。断崖絶壁の端に建っていて背後は深い絶壁、川が下を流れている。だから、背後から攻められることはない構えである。

行くと小学校の生徒達が、まあ「郷土史研究」でやってきていた。一緒だと拙いので先を急いでみた。

まあ、昔フランスで見たフォンテンブローのナポレオンの滞在した城やルイ14世のベルサイユの城(宮殿)でもそうだが、四角の平面、城主がぐるりと回ると各部屋にいる住人ー后とか・・・ーのプライヴァシーは皆無となるが、実際はどうだったのか・・・。

この城は、現在何故かブリュッセルの水道局の管理になっている。余談だが、置かれている感想ノートをみたら、東京都水道局の人が来ている。まさか日本の城を東京都(水道局)が管理するつもりでは?・・・(冗談!)

最後に売店でパンフレットを買った。出ると、皆、カップル同士、友達同士、また一人でも誰かに頼んで記念撮影していた。僕らは淡白で殆ど写していない。ここでも写さなかった。

で、バスで急いで有名レストランで昼食を食べるべくデュルブイDurbuyに向った。

フランダース地方訪問(3)ゲント(バーフ教会の「聖なる子羊」)

2011-11-04 | 訪問場所・調査地
最後の日の午前、ブリュッセルからバスでゲントに行った。ゲントはアントワープやブリュージュより近い、人口25万人位で、ブリュッセル、アントワープに次ぐ都市人口のようだ。(実は、ゲントという都市名は都市計画の祖の一人ぱパトリック・ゲデスの『進化する都市』ー小生達が翻訳、鹿島出版会刊行ーに出てきていたことから知った)

解説員の正○地さんは、自分はブリュッセルの次にこのゲントが好き、と言っていた。確かにこじんまりし、歴史と文化を感じさせる町である。

先ず我々が行ったのは聖バーフ教会にある「聖なる子羊」の絵(ファン・アイク兄弟作と言う)である。この絵は、キリスト教の教えをきっちり描きこんでいるものであり、とりわけ初めての「油絵」であることでも知られている。

解説員の解説は、微にいり細をうがったものだった。描かれた植物も数百に及ぶということだ。

他に市庁舎も見たが、16世紀の建造だがゴシック様式とルネッサンス様式の合体のようだ。私は「東大寺三月堂のようですね」と言っておいた。

数時間の早足見学だったが、次回は、ゆっくり泊まって見てみたい。



フランダース地方訪問(2)ブルージュ(運河の歴史都市)

2011-11-03 | 訪問場所・調査地
アントワープの次にブルージュに行った。現在、人口12万人の運河に○く囲まれた可愛い歴史都市である。

昼食を皆で、このブルージュで食べた。もちろん、「地」のビールも飲んでみた。

食べたのは、フランドル風シチューのワーテルゾイである。4人掛けだったので、1組の夫婦と一緒だった。聞くと、「旦那」は58歳、定年2年前、今年は夏休みを取らなかったので、「秋休み」で「奥さん」と来たらしい。「ワーテルゾイ」はゲントが発祥のようだが、鶏肉が入り(魚系統もあるようだ)、ジャガイモ、人参も入っていたが、やはり味はやや「塩辛かった」。ビールは、味が変わっていて良かった。

食後、歩いて町を見て回った。今回の旅行には、解説員S.さんがついていた。在ベルギー22年のベテラン、よく調べていると思った。36人に「聞き取りイヤホン」を配って、自分は送信用マイクで喋っていた。参加者36人もいると、列も乱れ長くなるので、これは便利と思った。但し、4日間ほど使うと電池がちょっと心もとなく最後の頃は近くに行って「生」で聞いていた。

カリヨンの音色が響く「マルクト(市場)広場」、鐘楼というのはギルド「市民」などが資金を供出して作ったもので、教会の塔の鐘と趣旨が違うようだ。それらの「高さ」などを競っていたようだが、さすが北海に面する「商工業」都市である。

聖母教会はレンガの塔があって、122㍍、アントワープの聖母大聖堂より1㍍低いようだ。

途中で、運河クルーズをした。約30分、ぐるりと回った。日本語の解説テープが回っていた。この運河は、別の日に行ったゲントにつながっているようだ。運河から周りの建物や通り過ぎる橋などを見ていると、時代が中世に戻る感じがした。殆どが石造りなので、外観は、ほとんど変わっていない印象だ。よく見ると、現代風に改装しているのもあるのだが・・・。

上がって最後に愛の湖公園、ベギン会修道院庭園を見た。1時間半かけてブリュッセルにバスで戻った。高速道路は、無料のようだった。何処にも「関所」はなかった。

フランダース地方訪問(1)アントワープ(ルーベンス絵画)

2011-11-02 | 訪問場所・調査地
ベルギーのフランダース地方(英語名、フランス語でフランドル、オランダ語でフランデレン)のアントワープ、ブリュージュそしてゲントに行ってきた。

フランダース地方は、ブリュッセルより北側、オランダに国境を接する、オランダ語が公用語の地方である。アントワープは、ブリュッセルより、ほぼ北に45kmバスで約1時間である。2日目の午前中に行った。まず、市庁舎やギルドハウスの建ち並ぶ「クロート(グローテ)・マルクト」(ブリュッセルではフランス語のプラスー広場ーがアントワープではオランダ語のマルクトー実は市場ーとなる)に行き、都市名にも関係ある「ブラボーの噴水」も見た。

そこから「グルン広場」に行き、中央に立つルーベンス像を見上げた。背後に後に行く「聖母大聖堂(世界遺産、フランス語では「ノートルダム大聖堂」)」の123㍍の塔がそびえて見えている。ルーベンスは、フランドル絵画の代表、アントワープ生まれ、1577年―1640年、1600年から8年ほどイタリア「留学」、新しい画法を持ち帰った。

ところで、「フランダース」と聞くと、日本では小学生の時に読んだ『フランダースの犬』という童話が有名(但しベルギーでは全く無名)、少年ネロ(ネルロとも)と犬パトラッシェの「胸の詰まる」物語である。ネロはアントワープ郊外の村に住んでいるが、画家ルーベンスに憧れ、大きくなったら画家になりたい、と思っている。村でおじいさんの手伝い、おじいさんが病に倒れてから自分とパトラッシェとで村から町へ牛乳を運ぶ仕事をしていた。アントワープでは、ルーベンスの絵を「教会」(聖母大聖堂)で見ようとするが、カーテンで閉じられていて、お金を出さないと見られない。貧乏で、お金がなくずっと見られなかった。

その後、おじいさんが亡くなり、女の子(友達)アロアの家が火事になり、ネロが疑われたり(放火)、家賃が払えず家を追い出される。途中、パトラッシェがアロアのお父さんの財布を見つけ、ネロが届ける。頼みの絵画展に応募していたが落選、失意のネロは、雪の中アントワープの教会にルーベンスの絵を見に行く。クリスマス前でカーテンが開いていて憧れの絵(キリスト降架)を見ることができる。クリスマスの朝、人々はネロとパトラッシェがルーベンスの絵の前で抱き合って冷たくなっているのを見つける・・・。(何だか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」に最後が似ている。)

このネロが憧れたルーベンスの絵を我々も見に行った。教会は、宗教空間ではあるが、彫刻や絵画の展示空間でもあることが、ここにルーベンスの絵が4枚、飾られていることでもわかる。ルーベンスの絵以外でも見事な説教台、ステンドグラスなども見ものであった。

さてルーベンスの絵であるが、祭壇正面には「聖母被昇天」(聖母マリアの昇天画)、向かって左には「キリスト昇架」そして向って右には、ネロとパトラッシェの見た「キリスト降架」(1612年、上写真ー検索写真ーキリストが十字架から降ろされる図)である。解説によると、これらの絵はルーベンスのイタリア留学の成果として、画面の斜め線方向を強調して巧みに人物を配している、という。

アントワープに来た最大の成果は、ルーベンスの本物の傑作を、美術館ではなく本来あるべき場所において見られた、ということだな、と帰りのバスでかみしめていた。


バリアありーの石畳

2011-11-01 | 訪問場所・調査地
今回の3泊4日のベルギー旅行でブリュッセル、アントワープ、ブリュージュ、ゲントなどの町に行ったが、皆、石畳の道だった。

古い石畳でガタガタしているし、ハイヒールなどは「隙間」に挟まって無理であろう。
自動車も「ガタガタ」走っている。車いすでは「危ない」感じ、歩道も狭くて通りにくい。

だが、これら石畳が出来たころを考えてみると、土、泥の道では、靴に泥が付くし、車(馬車など)の轍(わだち)が食い込むし、やはり当時としては石畳の道が「一歩前進」だったのだろう。

しかし、現代では、まあ言ってみれば「バリアフリー」ではなく、「バリアありー」である。こうなってくると、ある意味で、伝統的石畳よりも現代的なアスファルト舗装の方が「バリアフリー」に近いとも言えよう。