西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

西山夘三先生ゆかりの地ウオッチング

2011-05-15 | 訪問場所・調査地
昨日、新建築家技術者集団(略称:新建)(関西、主に京都支部と奈良支部)企画で、京都で西山夘三先生ゆかりの地ウオッチングがあり、出かけた。晴れて良かった。

西山夘三先生は、1911年大阪生まれ、京大の建築学科で「建築計画」「地域生活空間計画学」講座の教授を勤められ、1994年没(享年83歳)、今年は「生誕百周年」の年である。

実は、西山先生は私の恩師でもあり、京大を63歳で定年退官される時(1984年3月)に助手を勤めていたのも私である。

西山先生は「計画学」の調査研究で大きな業績をあげられたが、いくつかの建築作品、構築物の設計にも取り組まれてきた。今回、「生誕百周年」にあたり、それらを京都市内で見て回ろうというものだった。折角だからと他の建築なども見た。

コースは、京大病院前(南側)にある京都教育文化センターに集まって、京都教育センターから始めて、以下、岡崎公園、白川堤町を経て知恩院境内の京都解放戦士の墓まで歩いた。

懇親会は、祇園のロシア料理店「キエフ」であった。参加者は、地元の京都支部が一番多く、次いで奈良支部(9名)、大阪支部、兵庫支部は各1名で全部で30名近くいた。懇親会には20名ほど参加した。以下、それぞれ興味深い話があったが、筋だけ書いておく。

・京都教育センターについては蓮仏 享さん(元京都建築事務所所長、80歳)が説明された。1960年ごろから話が起こり1964年竣工。(後で見る京都会館との「対比」は?、当時は「打ち放しコンクリート時代」で共に影響を受けている・・・)

・岡崎公園へ(今回は時間の関係で西山先生ご自身の設計の墓のある西昌寺に行くのは止めた)ここでは、京都支部の方から前川国男設計1960年の京都会館改築(改装)問題について説明があり、近代建築の「遺産」とも言えるこの建築は保存すべし、とのことだった。「ローム」という会社が50年間50億円で命名権を買い取り、オペラが上演出来るように改築(改装)計画を進めているようだ。デザインも問題だ、ペントハウス部分など。

・並河靖之七宝館前を通り白川堤町へ・・・地域住民の北村さんと京都支部のK.さんから説明があった。西山先生が、マンション建設に対して建築審査会で住民の立場に立って、高層に反対、結局、住民運動の圧力で中低層にさせた、とのことだ。

・知恩院境内にある京都解放戦士の碑に行く。京都支部のH.さんから説明あり、彼は改修設計に携わったようだ。私は初めて見た。東山通りから東に入って華頂大学(短大含む)の新しい京都景観条例後の建物を見ながら行く。


・18時前からの懇親会は、祇園のロシア料理店「キエフ」に行った。キエフ市は京都市と姉妹都市である。例のチェルノブイリ原発の近くの大都市だ。この店は、歌手の加藤登紀子さんの兄夫妻が経営している。その夫妻(70歳代)が店に出ていて挨拶に来た。「強い」ウオッカはやめにしてビールとワインで喉を潤した。結構歩いたので美味しくはらにしみた。

9月3日(土)には、西山記念文庫によるシンポジュウム、9月11日(日)には新建によるシンポジュウムがある。又、次第が決まればブログに又書きますね。


今夏の節電15%らしい

2011-05-13 | 時論、雑感
東京電力、東北電力が、今日、企業や家庭に対して、今夏15%の節電をお願いする、と発表した。これに対し各企業は真面目に応答している。セヴンイレヴンやイオンは所定の15%減を追求と言う。

NTTや倉庫業界は、電力の8割方は通信用や冷蔵冷凍用に使っているので、総体として15%減は難しいようだ。まあ業界での凸凹は融通し合ったら良いだろう。

家庭で夏季に一番電力を使うのは冷房だ。2℃下げて28℃位にし、出来ればクーラーを扇風機に変えればバッチリだ。やってみようかな。皆さんもどうぞ!

止泣放笑(しきゅうほうしょう)って?

2011-05-13 | 私の考え出した言葉
「しきゅうほうしょう」と読むのかな、なんて私が勝手に書いてみた「四字」なのに・・・。

深夜放送(NHKラジオ深夜便)を何気なく聞いていたら、ひょっこりひょうたん島の歌をやっていた。井上ひさし・山元護久作詞、宇野誠一郎作曲の有名な歌だ。

「…丸い地球の水平線に 何かがきっと待っている 苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけどボクらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め! ひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島」

で、この歌をあえて四字にすると「止泣放笑」となるかな・・・。

まあ、この時代、そういう気持ちでやっていきたい。今どき、色紙に書くとしたら(まあ、そういうことはないが・・・) これかな、と思う。

念のため『広辞苑』第六版を調べてみたが、そういう「言葉」は、登録されていない。はたして将来の第○版(○≧七)の『広辞苑』に載るだろうか。まあ無理だなー。

京大T3会の余韻

2011-05-12 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、今日と一昨日の京大T3会の余韻(今日的言葉では、余震)がメイルを通じてあった。

今回参加しなかった友人への連絡先が送られてきた。私が「彼はどうしているかな?」と言ったためだ。50年前のクラス集合写真(白黒、全員は網羅されていないが、2/3位は含む)が送られてきた。別の動静を聞いた友人からのメイルもあった。いやー熱を感じる。

まあ「古稀」にしてこういう会を立ち上げたからには、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)そして卒樹(90歳)と「寿(ことぶ)いていきたい」ものだ。

京大T3会(クラス会)発足

2011-05-11 | 京都の思い出(学生時代)
昨日、雨の中、京都のKKR(国家公務員共済)くに荘(京都府立医大病院裏)に昼前に行った。

そこで行われた京大T3会発足の会(午餐会など)に出席のためである。ほぼ50年(半世紀)ぶりに会う友人もいる、果たして会っても分かるだろうか、自分も分かって貰えるだろうかの不安があった。

というのは、私が入学した1960年(昭和35年)頃は、教養課程2年間は、専攻別のクラス分けではなく第二外国語によって、1クラスに数専攻の学生が混じっていた。そのうちの建築専攻者は、3年(関西では3回生という)以上でずっと一緒で、卒業しても若いころは10年に一回、最近では少なくとも5年に一回は「建築クラス会」で会っているので、風貌の変化も含めて良く知っているのだが、他の土木専攻、鉱山専攻、原子核専攻、電子専攻の友人とは、1962年3月に「分かれた」ので少数の友人を除いては、会うのは49年数か月ぶりなのである。

我々「T3(工学部3組)」は「ドイツ語組」であり、全員で53名(全員男性)、土木が一番多く、次いで建築、更に鉱山、原子核と電子は少数で2人と1人だった。今回参加は、土木13名、建築8名、鉱山6名計27名で過半数で、原子核と電子は残念ながら欠席だった。この間、亡くなった友人は3名。ついでに言うと、当時の京大工学部入学者は600人台、教養部では10数クラスがあったと思う。

我々の担任教授は、1回生時は藤岡謙二郎先生(人文地理学)、2回生時は、多田政忠先生(物理学、日本初のノーベル賞の湯川秀樹先生と、中学ー府立一中、高校ー三高、大学ー京都帝国大学理学部とづっと同期)だったが、お二人とも鬼籍に入っておられる。

一部家業等で現役も若干いるが、殆どはリタイアして年金生活者である。まあ年齢が69歳~71歳位(現役から2浪まで)であるからそうなるのであろう。職業経歴では、ゼネコンが一番多いかと思うが、建設省や大阪市など国や地方自治体の役人も特に土木卒で結構いるし、私のように大学や研究所勤務も一定のまとまりだ。京大で教授になったのは土木で二人いる。

受付に行って会費を払いプログラム等を貰った。名札を付けた。建築の連中は全部分かる。土木、鉱山でも何人かはすぐに分かったが、名札と顔を見比べてようやく「そうか」と分かった友人、後で学生時代の写真(アルバム)を見せて貰い、ようやく分かる友人もいた。

実は、こういう会をしたらどうかと私も大分前に提案したことがある。昨年度辺りに機が熟してきたのか、東京圏にいる半分位のクラスメートで集まって、西日本の友人も含めて開こうとなって、幹事を選び(14名)、メイルで場所や形態などのアンケートをしたり、卒業後の略歴や個人史、最近の日常や子供や孫のこと、健康のことなどは事前にメイルで依頼があり、全員に配布してあり、自己紹介時間の節約をするなど手際良い運営だった。

最初にこの間、亡くなったクラスメート三人と東日本大震災で亡くなられた方々に黙とうをささげて会はすすんだ。

座を移動させながら殆どの友人と駄弁った。まあ体型を分類すると、メタボ系、ややメタボ系もいるが、私は普通系か。おつむもシルバー系、薄い系、ゴマ塩系などが混じっている。私はゴマ塩薄系か・・・。

以後、15時まで歓談と京大T3会設立の承認、当面2年に一度当分京都で開催、幹事長と幹事次長の選任など行った。懐かしの写真も見せて貰った。

15時に一旦解散、なお夕方の二次会にも参加する友人は残り(15人か)、またそれには参加しないが京大周辺散策に参加する友人も残り、小雨の中、京大吉田キャンパス(2回生時の学び空間)、本部時計台キャンパス(3回生以上の専門課程空間)に行った。京大教授歴任の土木の友人が最近の様子を細かく説明してくれた。私は友人3人と時計台内で京大ビールを飲んだり、時計台前喫茶店でアレコレ駄弁ったが、吉田山に登ったり、真如堂などに行ったグループもあった。

18時から、四条河原町の居酒屋で更に駄弁った。50年の「蘊蓄」を聞くので時間は全くの不足、またゆっくりとなった。書いた本を持ってきた友人もいて一冊買った。

今日の記念写真、記録写真、昔のクラス雑誌のコピーなどを幹事がCD化して配ると言う。楽しみにして又噛みしめたい。幹事の皆さんご苦労さん、有難う。又再来年!

アカン!と思ってきたこと(もの)

2011-05-09 | 色々な仮説や疑問
私が学生時代から「アカン!」と思ってきたが、ずっと「少数派」だったことは以下の如し。

つまり、以下は、ほぼ半世紀にわたり「良い」と考えてきたことである。

原発は止めた方が良い。・・・若狭湾岸の原発群の現地調査で大きくは二つの問題点を指摘、一つは多数の活断層存在、もう一つは莫大な温排水(その後、放射能物質の「垂れ流し」が判明、より大変な問題だ。)→自然再生エネルギー、地表資源。

超高層住居は止めた方がよい。・・・今度の大地震で超高層の特に超高層部の不安増大、価格も超高層部ほど「安く」なっているようで、今までにないこと。)→中層と低層のヴァリエーション。

・マイカーは出来れば止めた方がよい。・・・これは湯川利和先輩の『マイカー亡国論』以来である。→公共交通と自転車、徒歩重視。

食料の自給自足、出来れば地産地消。・・・TPP反対。農林漁業は「第一義産業」へ。自然農業の促進。食育重視。

東京一極集中から全国分散へ。・・・都市と農村の真の結合。縮小コンパクト都市群へ。

日米安保条約廃棄、日米友好条約締結。・・・米軍沖縄基地のこう着を見よ!


これらは、21世紀には徐々に「多数派」になるのではないか。

社会的基準、指針の意味、判断などについて

2011-05-08 | 時論、雑感
昨日、中部電力の浜岡原発を一時全部停止と言う総理大臣要請の根拠は「マグニチュード8程度の東海地震が今後30年間に起こる確率が87%」という地震学者たちの「予測」であり、浜岡原発はその巨大地震の震央に位置するということ」だ。

又、東電の福島第一原発からの放射能漏れに関連し、小学校の校庭等の年間被ばく線量基準として文部科学省は「1~20mSv」を採用、「20mSv/yは放射線を浴びる専門労働者の基準ではないか」と批判を浴びた。文科大臣は「なるべく20mSv/y以下の低い基準に」と国会で言い訳している。

昨日、放射性物質、放射線、放射能等に詳しい友人(物理学者、情報学者)からベクレル(Bq)やグレイ(Gy)そしてシーベルト(Sv)の話を聞いて認識が一歩前進した。

まあ、3~5シーベルトを被ばくすると、LD50(30)(Lethal Dose致死量、50(30)は30日間に半数ー50%ーが死ぬ致死量)になると言う。我々が日々聞いたり見たりしているのは、こういう「生のシーベルト」レベルではなく、「ミリシーベルト」(1000分の1シーベルト)ないし「マイクロシーベルト」(百万分の1シーベルト)レベルである。

で、年間被ばく線量20mSv~100mSvは「低線量域」に入るらしいが、その健康への影響(晩発性ガンの発症など)は良く分かっていないらしい。

こういう専門家や政府が言う基準や指針は、科学的に「絶対」のものではないが、一応の目安にせざるをえない。

早く、地震学も「予知」が出来る段階に至って欲しいと思うし、放射線の低線量による健康影響についての調査研究が進展して欲しいと思う。

それ以前では、どうしても安全側で考え行動せざるを得ないだろう。

浜岡原発停止へ

2011-05-06 | 時論、雑感
菅 直人総理は、本日、浜岡原発(静岡県御前崎)の停止(稼働中のも含め)を要請した。当然である。但し、これは法律に基づくものではないようだ。とりあえず津波対策の高い防潮堤が完成するまでらしい。

この原発が東電の福島第一と同じように地震(今後30年にマグニチュード8程度の東海地震が来る確率が87%と予測されている)や津波が来て被災した場合、当該地域だけでなく東京圏、名古屋圏にも多大な影響を与えると予測されたからである。

東京圏への影響には横田、横須賀などの米軍基地への影響も含まれる。アメリカからの「浜岡停止」圧力が、この決定の最後の決め手になったのでは、と私は推測する。

もう一つ、近くを走る日本の東西を結ぶ東海道新幹線の長期にわたるストップも恐れたと思う。

まあこれで名古屋にいる娘家族(娘、旦那、孫3人)の安全についても個人的に「ほっと」した。

これを逆手に取れば、浜岡しか原発のない中部電力は、自然再生電力等、原発抜きエネルギー開発のトップに立つ可能性が出てきたと言うべきである。そうすれば名古屋が国の中心になる可能性もある。そういう風に、この事態をプラスに捉える事が大切だ。

仏教史を考えてみる

2011-05-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日、京都国立博物館へ行って「法然 生涯と美術」展を見てきたので、昨今読んだ『歴史・科学・現代』(加藤周一対談集)ちくま学芸文庫の中の湯川秀樹先生との対談(言に人ありー富永仲基に興味をもってー)を思い出して読み返してみた。

富永仲基は江戸時代の大阪の人、30歳で亡くなったが独創的学者で、東洋史学者・内藤湖南により再発見された人物だ。

で、仏教とキリスト教を一寸比較して考えてみると、キリスト教には旧約聖書、新約聖書というどういう「宗派」でも共通に基礎としている原典があるが、仏教にはそういうものがない。

そこで、仏教の発展と言うか、仏教史をどう考えるか、そこから仏教の精髄をどう捉えるか、中々難しい問題が出てくるだろう。

加藤周一さんは、対談の中で次のように言う。「・・・仏教の多くの経典の説がお互いに矛盾する、多くの違う説がある、という事実は、誰も否定することができない。その事実にたいして、どういう態度をとるかは、仏教の根本問題の一つだろうと思いますが、日本では、大きくみてその態度に三つの型があった。

その一つは、天台教学が洗練した「最勝」(さいしょう:私注)という考え方ですね。どの経典が一番すぐれているか、その標準は近代的な意味でいう原典批評ではありませんけれども、多くの違う説のなかで、どれがいちばん仏の説を正しく伝えているかを検討しようということですね。(43頁)・・・

もう一つの経典にたいする態度は、主観的な接近の仕方です。信仰の立場からいって、今ここでわが魂の救済のためには、どれが一番役に立つ経典であるか、ーこれが法然ですね。法然から親鸞に伝わった「選択」(せんたく:私注)という考え方。これは、歴史的・客観的立場を離れて、魂の救済を問題にする。

三番目の態度は、どれを選ぶかというのじゃなくて、多くの仏教経典の成立を歴史的な発展とみて、そのなかに教説の発展の内面的な論理をたどろうとする考え方、おそらく思想史的な接近の仕方といえるでしょうが、それが富永仲基のとった態度だったと思うんです。(44頁)」

この考え方が「加上」(かじょう:私注)という方法であった。


法然 専修念仏 享年80歳

2011-05-04 | 思いつきから仮説へ
今年は法然上人800回忌の年だ。京都国立博物館で5月8日まで特別展覧会 法然 生涯と美術 が開かれている。今日、思い立って行ってきた。

平安時代末期に生れ、天台宗で修行の上、鎌倉時代に入り、専修念仏(南無阿弥陀仏)の浄土宗の開祖となった。現在、知恩院が総本山、百萬遍にある智恩寺が大本山である。

後に百萬遍の勅号を後醍醐天皇より与えられたいわれは、弟子の善阿が一週間に百萬遍の念仏を唱えて疫病を除いたことによる。

念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できるという教えは画期的であり、旧宗派の訴えで朝廷より弾圧され法然自身も75歳を越えてから四国に流された。

しかし、恩赦で京都に戻ったが、80歳で亡くなった。当時としては超長命である。四国に流されなかったら、もっと長生きしたかもしれない。

40歳頃から40年以上にわたり、念仏を唱え続けたのが法然長生きの一つの理由ではないか、と思う。元気な意味ある声が、体と心への別の「栄養」ではなかったか。

まあ、一般的に言えば「音読の勧め」である。

株主が会社の責任を追及ー東北電力ー

2011-05-02 | 時論、雑感
今度の東北電力の株主総会で個人株主220人ほどが、原発を廃棄するよう提案するらしい。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110501/t10015654051000.html

NHKニュースに載っている。(上記)

今までの株主総会は、大抵はシャンシャン総会で、たまに「総会屋」が騒ぐが「まあまあ」と「実弾付で」なだめられると腰砕けになるのが常だった。

しかし、こういう市民株主がまとまって現れたのは歴史的ではないか。

市民株主は、電力会社へ、自治体市民は首長や議員に、そして国民は議員や大臣へ、建前でなく本気で問題提起すべきだし、問題提起する時代になってきている。

だから東北電力のみならず、他の八電力会社の株主総会も注目される。

津波対策の居住地二つの考え方

2011-05-01 | 地域居住学
東日本大震災の居住地再建で、大きくは恐らく二つの考え方があると思う。

一つは、大津波が多くを流し去ったことを目の前にして生き残った人たちは、再度そういう目に会わないように、より高い高台に住まいを求めようとするのではないか。

実際、過去の例で高台に移転していたため助かった地区もある。

しかし、そういう高台が簡単に得られないところに一つの難点がある。既に仮設住宅の建設用地選定において、苦労している。

また、元々の低地、海岸に近い所に居住していたのは漁港や農地など毎日のように働く場に近くて便利ということがあった。

だから、やはり元の低地近くに住まざるをえない、という割り切りもありうる。

ただ、その場合、少なくとも二つの条件が必要だろう。

一つは、津波が来た場合、即座に高台へ向けて逃げれるための体勢、ルートが整備され常日頃から訓練されることだ。もう一つは、逃げ遅れ対策として、低地の要所に津波に流されないような中層住宅(5階ほど、屋上もあり)や公共建築等を用意し、いざという時にそこに周りから逃げ込めるようにすることだ。

いずれにせよ、地域の状態を知悉している地域住民の要望を聞きながら早く計画を立てる必要があろう。