もう27年ほど前のことだ。父・瓜生留雄(明治41年2月14日生)から金沢の妹夫婦宅で聞いた話である。父についての過去ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/0941aba2c428c96c1f019812dcbc918b
私は、自分史をいづれ書きたいと、私が小学校時代に「別れた」父に父が旧制四高の同窓会に金沢に来た折、私も金沢に行って、知らない過去のあれこれを聞いたのだ。そのノートが地下室から出てきた。そこから私の「ルーツ」の一端を記録メモとして書いておく。
「瓜生(うりゅう)の本家は、代々、加賀大聖寺藩の藩医であった。私の祖父・余所吉は、かの海軍大将・外吉とは血縁的には遠く、又従兄弟であったが、それぞれ分家であった。祖父・瓜生余所吉は、幕末に末っ子として生まれ、代々、数十石の若輩の家柄であったが、漢籍の素読など良くこなし、御一新とともに師範学校に入らされ、19歳で卒業の後、直ちに郷里・大聖寺の錦城小学校の校長となり、以後、県教育課長、県視学官、育成院長などを歴任した。明治末に石川県で「教科書疑獄」が起こったが、「瓜生視学官だけは潔白!」と新聞にも書かれたほど清廉潔白な人柄であった。祖父が県庁に勤めていた頃、父(留雄)は、本多町で生まれ住んでいたので県庁の祖父(父からは親父さん)に弁当を届けに行くこともあった。
余所吉のつれあいの「いく」、つまり私の祖母は、大聖寺藩の筆頭家老・佐分利氏の三女で余所吉の母(私からは曾祖母)がその嫁を御家老の娘ということで甘やかしたため、我の強い感じのパーソナリティになったのではないか、と父・留雄は推測していた」
私が生まれた1941年(昭和16年)段階で祖父・余所吉は既に亡くなっている。しかし祖母・いくは存命で、私を大変可愛がってくれたとのことだ。しかし私の記憶が発生する前に亡くなったので全く覚えていない。
(以上は、父に聞いた1/4位である)
関連:瓜生余所吉の業績:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ba7c8803f8cee5f959a2ac0c4501414f
私は、自分史をいづれ書きたいと、私が小学校時代に「別れた」父に父が旧制四高の同窓会に金沢に来た折、私も金沢に行って、知らない過去のあれこれを聞いたのだ。そのノートが地下室から出てきた。そこから私の「ルーツ」の一端を記録メモとして書いておく。
「瓜生(うりゅう)の本家は、代々、加賀大聖寺藩の藩医であった。私の祖父・余所吉は、かの海軍大将・外吉とは血縁的には遠く、又従兄弟であったが、それぞれ分家であった。祖父・瓜生余所吉は、幕末に末っ子として生まれ、代々、数十石の若輩の家柄であったが、漢籍の素読など良くこなし、御一新とともに師範学校に入らされ、19歳で卒業の後、直ちに郷里・大聖寺の錦城小学校の校長となり、以後、県教育課長、県視学官、育成院長などを歴任した。明治末に石川県で「教科書疑獄」が起こったが、「瓜生視学官だけは潔白!」と新聞にも書かれたほど清廉潔白な人柄であった。祖父が県庁に勤めていた頃、父(留雄)は、本多町で生まれ住んでいたので県庁の祖父(父からは親父さん)に弁当を届けに行くこともあった。
余所吉のつれあいの「いく」、つまり私の祖母は、大聖寺藩の筆頭家老・佐分利氏の三女で余所吉の母(私からは曾祖母)がその嫁を御家老の娘ということで甘やかしたため、我の強い感じのパーソナリティになったのではないか、と父・留雄は推測していた」
私が生まれた1941年(昭和16年)段階で祖父・余所吉は既に亡くなっている。しかし祖母・いくは存命で、私を大変可愛がってくれたとのことだ。しかし私の記憶が発生する前に亡くなったので全く覚えていない。
(以上は、父に聞いた1/4位である)
関連:瓜生余所吉の業績:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ba7c8803f8cee5f959a2ac0c4501414f