西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

父・瓜生留雄への聞き取り81年5月14日~15日

2008-04-24 | 金沢の思い出
もう27年ほど前のことだ。父・瓜生留雄(明治41年2月14日生)から金沢の妹夫婦宅で聞いた話である。父についての過去ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/0941aba2c428c96c1f019812dcbc918b

私は、自分史をいづれ書きたいと、私が小学校時代に「別れた」父に父が旧制四高の同窓会に金沢に来た折、私も金沢に行って、知らない過去のあれこれを聞いたのだ。そのノートが地下室から出てきた。そこから私の「ルーツ」の一端を記録メモとして書いておく。

「瓜生(うりゅう)の本家は、代々、加賀大聖寺藩の藩医であった。私の祖父・余所吉は、かの海軍大将・外吉とは血縁的には遠く、又従兄弟であったが、それぞれ分家であった。祖父・瓜生余所吉は、幕末に末っ子として生まれ、代々、数十石の若輩の家柄であったが、漢籍の素読など良くこなし、御一新とともに師範学校に入らされ、19歳で卒業の後、直ちに郷里・大聖寺の錦城小学校の校長となり、以後、県教育課長、県視学官、育成院長などを歴任した。明治末に石川県で「教科書疑獄」が起こったが、「瓜生視学官だけは潔白!」と新聞にも書かれたほど清廉潔白な人柄であった。祖父が県庁に勤めていた頃、父(留雄)は、本多町で生まれ住んでいたので県庁の祖父(父からは親父さん)に弁当を届けに行くこともあった。

余所吉のつれあいの「いく」、つまり私の祖母は、大聖寺藩の筆頭家老・佐分利氏の三女で余所吉の母(私からは曾祖母)がその嫁を御家老の娘ということで甘やかしたため、我の強い感じのパーソナリティになったのではないか、と父・留雄は推測していた」

私が生まれた1941年(昭和16年)段階で祖父・余所吉は既に亡くなっている。しかし祖母・いくは存命で、私を大変可愛がってくれたとのことだ。しかし私の記憶が発生する前に亡くなったので全く覚えていない。
(以上は、父に聞いた1/4位である)

関連:瓜生余所吉の業績:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/ba7c8803f8cee5f959a2ac0c4501414f

郊外戸建住宅の将来

2008-04-24 | 地域居住学
私自身、「郊外戸建住宅」とも言うべき住宅に現在住んでいるが、こういう形態の住宅は、将来どうなるのか、どうしたらよいのか、自分の問題としても考え続けている。(西村一朗・前田真子著『これからの郊外戸建住宅地』(せせらぎ出版、2005年参照)

で、先だって「研究会」で青木 仁さんの話を聞いたのも刺激になって、戸建住宅そのものが、どうなるのか、どうしたらよいのか少し考えてみた。

青木 仁さんは「細街路、ミニ戸建」でいくべし、と大胆に言い切っておられる。(青木 仁著『日本型まちづくりへの転換 ミニ戸建・細街路の復権』)

戸建住宅に「サザエさん家族」のように三世代が住んでいる場合は、順繰り順繰りにバトンタッチされるので、安定した継続性が保たれる。まあ住宅内部を二分して、「シーソー」のように「上世代」と「下世代ー子供ありー」が入れ替わりながら内装をやりかえて住み続けられる。

「核家族」の場合は、子供が独立して出て行って戻らないとすると、「老夫婦」「一人住まい」そして「空き家」となる方向だ。「空き家」になる瞬間に、子供がこの家を売るなり貸すなりして、新しい若い「核家族」が入居すれば、これも一つの「順繰り」型となる。

「老夫婦」や「一人住まい」の段階で、青木さんは、大きな戸建は不必要、例えば半分は売って、その資金であと半分の「ミニ戸建」を造ったら良い、と言っているが、ここにいくつか問題点があるのでは、と思う。
・子供家族(孫含む)が時々訪問する場合、狭すぎるのではないか。
・近所の人や同好の士が来にくくなるのでは・・。
・過去の「思い出物ー家財や本、アルバム、手紙葉書等ー」の収納・展示は?
・周りの緑の確保は出来るか。
・町並み・庭並みは崩れないか、等。

この段階では、一寸した「仕事場」「売店」や「サロン」、医者や看護師、介護者などの往診や訪問対応、地域の人達に声をかけやすい等々の理由から、道に面した出入りしやすい部屋(応接室になっている場合もあり)を「地域に開かれた空間」としたらどうか、と考えている。そうであれば半分に割りにくい。

もちろん、グループ・ホーム、二人コーポラティブ住宅等の方向もあるだろう。
(考察・続く)