西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

『群像としての丹下研究室ー戦後日本建築・都市史のメインストリームー』を読む

2012-07-09 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
7月1日の『朝日新聞』読書欄で豊川斎赫さん(小山高専建築学科准教授、1973年仙台市生まれ、東大建築学科大学院修了)著の『群像としての丹下研究室ー戦後日本建築・都市史のメインストリームー』(オーム社刊、平成24年5月10日初版発行)が紹介されていて興味を惹いた。

少し値段が高いが、確かに戦後一人だけ日本人の建築家・都市計画家を挙げよ、と聞かれれば、丹下健三となると思うので、「清水の舞台」から飛び降りる積りで今日買った。(消費税とも4200円)

まあ、私は1960年に京大の建築学科に入学したので、ちょうどその年は丹下さんが「東京計画1960」を発表した年であり、その後、京都の西山夘三さんが、それに刺激を受けて「京都計画」を発表したり、西山さんは丹下さんと共同で1970年の大阪万博会場の計画・設計にアプローチするので関係がある。

この本でも、丹下研の直接関係者以外の日本人では西山夘三さんが最も多く言及されているようで、それは巻末の索引を見れば明らかだ。

ついでに言うと、東大の都市計画の教授の高山英華さんは良く言及されているが、建築計画の吉武泰水さんは全く言及されていない。

大阪万博で「お祭り広場」を提案した西山夘三さんの名代は上田 篤さんであって、丹下研の磯崎 新さんに対応する。その頃(1966年頃)、上田さんは大学院博士課程に進みたいと言っていた僕、延藤安弘君、梶浦恒男君を呼んで、博士課程に進学したら大阪万博に取り組んで貰うから、と「言い渡した」が、僕ら三人は「拒否」したので、1級上の高口恭行さん(当時京大助手)が中心にならざるをえなかった。

まあ、そういう風に個人的「思い出」も含めて、じっくり読み込んでみたい。

世界のル・コルビュジェ、日本から世界への丹下健三というイメージで・・・。

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