西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

椎名 誠著『ぼくがいま、死について思うこと』を読む

2013-06-12 | 生活描写と読書・観劇等の文化
ここ数日、椎名 誠著『ぼくがいま、死について思うこと』(新潮社刊)を読んでいる。椎名さんは69歳で2~3歳「若い」。

ちょっとより多くの人に知らせたい椎名さんの言い分を引用したい。

「・・・社会からつまはじきされてしまった人たちの多くが「自死」の候補者である。いじめなどで行き場を塞がれ、自分で「死」を選ぶ子供があとをたたない。
国家はこの痛ましく気の毒な「異常行動」の連鎖に、現実的には無策である。
こうした異常現象に警鐘をならす役割である新聞やテレビなどの「言論機関」の意識もなにやらおかしい。
ひところ、いじめによる子供の自殺が連鎖的におきたことがあった。マスコミは連日そのことを伝え、大きな社会問題になった。

そのときヘンだな、と思ったのは、そういう事件を報道するマスコミのスタンスだった。
いじめで追い詰められた子供が遺書を書いて自殺する。その遺書を大きくとりあげる。結果的にその子供を自殺に追いやった友達などの追及をする。犯人探しだ。
マスコミの過剰報道は、いじめ加害者を特定し、結果的にその過剰報道が自殺した子供の仇をとるような展開になる。

それはまずい対応ではないのか、とその当時思った。そしてある週刊誌に四ページほど、当時ぼくの思うところを書かせてもらった。
「いじめなどで死ぬな」
というタイトルだったが、ぼくの意図したこととはちょっと違っていた。たしかにタイトルのとおりのことを書いていたのだが、マスコミがそのようにいじめの犯人割り出しをすることによって、自死を選んだ(選ぼうとする・・私注)子供は、結果的に復讐の方便を知ることになる。

遺書にコトの顛末を書いて死ねばマスコミが仇をとってくれる。そう考えたあげくの自殺の連鎖がおきているのだとしたら、この状態はどこか大きく間違っている―と思ったのだ。
自死を美化するような匂いがしていたからである。そうではなくて、影響力の大きなマスコミがきっぱり大きく叫ぶべきは、「子供は自死してはいけない。どんな理由があろうとも自死は許されない行為なんだ」ということではないのか。

それは本音ではなく、嘘でもハッタリでもいい。小さな子供の判断だけで、自分で自分を死なせてはいけない、ということをとにかく絶対的に第一義的に、安易な「自死」の選択は間違いである、ということを強く大きく唱えるべきなのだ。そのことのためにマスコミやその周辺の大人達は全力を尽くして叫ぶべきだ。

子供のまだ小さな頭脳やその経験で、自死という自分で自分の「生」のくぎりをつけるのはあまりにも幼稚な思考で、恥ずかしいことなんだ、という方向に考え方を誘導していくのが、国や学校、マスコミのやるべき方向ではないのか。

それと同時に、いじめで苦しんでいる子供に「いま君がいる世界は人生のなかのほんの瞬間のような「一時期」なのであって、しかも君のいる「いじめられている」世界はまったくちっぽけな”点”のような空間でしかなく、その周辺の四方八方にはもっともっと途方もなく大きな世界が広がっているんだよ!ということを知らせてあげる、という導きかたがあるのではないか。・・・」(180~182ページ)

「生きているだけで百点満点」という鈴木せい子さんの言葉もあるし:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1c7cea9046ef01006c5a2af21201dd45

私の「瞬・点の吾が宇宙を想う時 頭・心の広々とする」の言い方もありますよ。


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