西山卯三教授室で、豊田高専の橋本敬治郎先生に引き合わされ、結局、博士課程進学は止めて豊田高専に助手で就職した。当時も、博士課程を出て学位論文を書いて学位を得ていても中々就職がなく30歳過ぎてようやくという例も多かった。特に理学部で「オーバー・ドクター」問題は厳しかったようだ。私は、当時としては「若く」24歳で高等教育機関、それも「国立」に就職できたので、後々、年金の計算の時に定年の63歳まで39年間も勤めたことになり、少しは有利のようだった。当時は、そこまで頭が回らなかった。
私が豊田高専に就職するに当たり、西山先生は、研究計画をきちんと立てて遂行すること、決して村夫子(そんぷうし)になるなよ!という趣旨を言われた。当時は、(今も、か?)教養が浅く、辞書を見て、意味が分った。「村の物知り。田舎の学者。」である。西山先生は「田舎?に行くと、専門家が少ないから、すぐ審議会の委員等に推され、先生、先生と言われる。それに慣れると良くない、振り回されるのも時間ももったいない」とも言われた。肝に銘じて4年間を過ごした積りだが・・。(1966年4月~1970年3月)
私が豊田高専に就職するに当たり、西山先生は、研究計画をきちんと立てて遂行すること、決して村夫子(そんぷうし)になるなよ!という趣旨を言われた。当時は、(今も、か?)教養が浅く、辞書を見て、意味が分った。「村の物知り。田舎の学者。」である。西山先生は「田舎?に行くと、専門家が少ないから、すぐ審議会の委員等に推され、先生、先生と言われる。それに慣れると良くない、振り回されるのも時間ももったいない」とも言われた。肝に銘じて4年間を過ごした積りだが・・。(1966年4月~1970年3月)
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