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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

スメタナの「モルダウ」(ヴルタヴァ)、1968年プラハの春

2005-12-31 | 名古屋・豊田の思い出
1968年の始めにチェコスロバキアではアレクサンデル・ドゥプチェクが共産党第一書記になり、「人間の顔をした社会主義」いわゆる「プラハの春」が始まった。危機感を抱いたソ連は、結局8月にワルシャワ条約機構軍を派遣し介入、潰した。その時にプラハの町中に鳴り響いていたと言われるのが、スメタナ作曲の「わが祖国」の中の「モルダウ」(ドイツ語、現地語ではヴルタヴァ)である。
私は、当時、結婚したばかりで豊田にいた。ラジオで、このことを知り曲も聞いた。以来、「モルダウ」を聞くと、1968年の「プラハの春」を思い出す。(写真は、ヴルタヴァ川とプラハ城)

私達の結婚式1968年3月27日

2005-11-20 | 名古屋・豊田の思い出
前田真子さんの結婚式に出て、私達の結婚式を思い出した。私達の結婚式は、1968年(昭和43年)3月27日に名古屋の東海銀行主税町(ちからまち)クラブで「人前結婚」で行われた。司婚者に服部千之先生(当時、名古屋工大助教授)夫妻をお願いした。当時、私は豊田高専に勤め、日ごろ京大大学院西山研先輩の服部先生の研究室に出入りし、そこで彼女と「再会」していたからである。西山先生はお忙しく日程の関係で出席してもらえなかったが、京都からは先輩の巽 和夫、上田 篤、三村浩史(以上、当時、京大助教授)先生、広原盛明、高口恭行、同輩の延藤安弘(以上、当時、京大助手)さんに来てもらった。名古屋でも先輩の玉置伸吾さん(当時、日本住宅公団)達にも出てもらった。住宅問題に関心のある人が多かったので、結婚式披露宴後のアトラクションで名古屋周辺住宅地めぐりのマイクロバスツアーを本多老人の協力で仕立ててもらったりした。思い出すと色々あるが、今回はこの辺にしておく。

柳沢 忠先生の最終講義の印象(病院における中庭)

2005-11-18 | 名古屋・豊田の思い出
柳沢 忠先生は、私が豊田高専にいた頃(1966年~1970年)、名古屋大学・建築学科の助教授だった。教授が都市計画の早川文夫先生、助教授が建築計画の柳沢 忠先生だった。お二人とも東大の建築学科のご出身である。「新興の旧帝大」の名古屋大学工学部に建築学科がつくられることになった時、教授陣の構成は、計画系が東大、構造系が京大の「老舗」が世話をしたためだ。構造系では例えば「御大」の横尾義貫先生(京大教授)が兼任で行かれた。一方、京大の計画系の「御大」だった西山先生が「憤慨」しておられたことも記憶している。それ以降のことは飛ばして、私が奈良女子大にいる時に柳沢 忠先生の名古屋大学教授の定年退官の会があり、出かけた。最終記念講演は勿論、病院計画のことで、手術の進歩に合わせて手術室を抜本的に改革された話だったが、最後に設計された最新の病院を示して、これからは「癒される中庭のあり方も重要」と言われたことは、長く頭に残っている。懇親会で、柳沢先生と懇談した時、「私の名前は忠、口の真ん中に心がある、だから言ったことは間違いない」と言われたことも覚えている。柳沢先生は、有名な柳沢吉保の末裔である。(写真は名古屋大学豊田講堂)

猿投山(さなげやま)

2005-11-12 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田高専にいた1966年から1970年にかけて、高専から何度か猿投山(さなげやま)に登った。わらび取りにも行ったと思う。名前も面白く記憶に残った。豊田高専の私のゼミの1回生の金子 宏君はホームページで山登りを楽しんでいる様子を綴っているが、何時も「いいなあ」と思って眺めている。私が今までに登った最も高い山は御嶽山ぐらいで世に「百名山」(ひゃくめいざん)などと言うが、全部登るのは到底無理で、少なくとも郷土の白山や隣の立山あるいは日本一の富士山位は登りたいと思うが、はたしてどうなりますか。
あとは猿投山のように低い近くの山には、時々「散歩」の延長の積りで行きたい。明日も奈良の春日原生林の山に行く予定だ。今後とも高い山は幾つかにして低い山を中心に「百My山(ひゃくまいざん)」で行こうかな。
さて猿投山は、約600m強の山である。豊田高専からも北の方に見えている。山の向こうが瀬戸市である。600mといっても結構きつかった記憶がある。猿投神社の辺りから登る。写真は途中の200段ほどの段を登るところだ(インターネット検索)。当時の豊田高専校長の須賀太郎先生は、名古屋大学工学部教授を定年で辞められた後に来られたので、70歳近くではなかったか。日本山岳会東海支部初代支部長であった。木の杖をついて私の前をゆっくり着実に登られている先生の姿は今も思い出す。私としては、もう一度、豊田高専の卒業生と登るのが一つの夢である。

山本和夫先生の思い出

2005-10-25 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専建築学科教授の山本和夫先生は、橋本敬治郎先生より年配で、構造を担当しておられたと思う。実は、私は山本先生から京大で「一般構造」を習った。先生は、京大建築学科を出られた後、文部省の施設部に入られたようで、当時(1962年、3年頃)、京大の施設課長(部長?)をしておられ、非常勤で教えておられたのだ。そこを定年の後に豊田高専に移られたのかどうか、はっきりしない。私が助手で赴任した1966年度は建築学科の主任をしておられた。助手は、私のほか、先に言った藤谷幸弘さん、そして中谷勉さん(名城大学出身、高校で橋本敬治郎先生に習う)の三人だった。当時はっきりしていなかった助手の研修日について、我々三人は山本先生に掛け合って認めていただいた。それで「晴れて」週に一日、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りするようになったのだ。山本先生は、体を大切にされる先生だった。私が4年後の1970年に京大に助手で移るときにお宅で「送別宴」を開いてくださり「健康第一」と言われた。豊田市栄町の官舎においてである。正に「感謝」であった。その後、定年の後に山本先生は京都の自宅に戻られて、そこで亡くなられた。優しい柔和な目じりに皺を寄せた山本先生の顔は、今も忘れない。

橋本敬治郎先生の思い出(2)出身や経歴など

2005-10-25 | 名古屋・豊田の思い出
橋本敬治郎先生は、1966年当時は、豊田高専の建築学科の助教授で、50歳位であった。京大建築を昭和17年(1942年)卒なので、昭和8年(1933年)卒の西山卯三先生より普通だと9歳下となるが、一旦、東北大学に入って、又、京大にきたことなどがあったようで、西山先生より一寸下という感じだった。先生は山形県の酒田のご出身で米どころである。また戦後に大火のあった所で、その話もされていた。先生は無口の方でご自分から経歴のことを「ああだ、こうだ」とは言われなかったが、長年の付き合いで自然と分かってきたのである。大学を出てから「兵隊」にとられて大陸に渡り、戦後は長くシベリアに抑留されていた。その時代のことも若干お聞きしたが、余り詳しく言いたがらない感じだった。大変苦労されたことが言葉の端々ににじみ出ていた。復員されて結婚されたようだ。奥さんも酒田方面の方で、一人息子がおられた。岐阜の工業高校の教師をしながら建築史の勉強をしておられ、昭和38年(1963年)に豊田高専が出来ると同時に移られた。
当時の高専は(今でもそういう面があるが)、その土地の国立大学工学部が世話して出来た。だから豊田高専は全体として名古屋大学の工学部が世話をし、校長が名古屋大学工学部教授だった電気工学の須賀太郎先生だった。ところが建築学科に関しては、名古屋大学には昭和37年(1962年)に、東大に都市工学が出来たと同じ頃に出来たばかりで、人材が派遣できず、老舗の名工大からでも良かったが、どうも派遣を「拒否」(?)したようで、建築学科に関しては「京大(関西)世話」となったようだ。橋本先生もそうだが、京大出身の教授に山本和夫先生がおられたし、私と同時に赴任した助教授の手塚二郎先生は大阪市大(旧・都島高専)のご出身、私と同じ助手の藤谷幸弘さんは京都工芸繊維大学出身、という具合だった。

西山卯三先生の思い出(20)村夫子(そんぷうし)になるな!

2005-10-24 | 名古屋・豊田の思い出
西山卯三教授室で、豊田高専の橋本敬治郎先生に引き合わされ、結局、博士課程進学は止めて豊田高専に助手で就職した。当時も、博士課程を出て学位論文を書いて学位を得ていても中々就職がなく30歳過ぎてようやくという例も多かった。特に理学部で「オーバー・ドクター」問題は厳しかったようだ。私は、当時としては「若く」24歳で高等教育機関、それも「国立」に就職できたので、後々、年金の計算の時に定年の63歳まで39年間も勤めたことになり、少しは有利のようだった。当時は、そこまで頭が回らなかった。
私が豊田高専に就職するに当たり、西山先生は、研究計画をきちんと立てて遂行すること、決して村夫子(そんぷうし)になるなよ!という趣旨を言われた。当時は、(今も、か?)教養が浅く、辞書を見て、意味が分った。「村の物知り。田舎の学者。」である。西山先生は「田舎?に行くと、専門家が少ないから、すぐ審議会の委員等に推され、先生、先生と言われる。それに慣れると良くない、振り回されるのも時間ももったいない」とも言われた。肝に銘じて4年間を過ごした積りだが・・。(1966年4月~1970年3月)

橋本敬治郎先生の思い出(1)

2005-10-19 | 名古屋・豊田の思い出
私が京大建築の大学院修士課程を修了して豊田高専の助手になれたのは、橋本敬治郎先生のおかげである。1966年の修士論文発表会の後、西山卯三先生が「一寸、教授室にきてください」と言われた。又、さらに「絞られるのかな」と思って恐る恐る行くと、中年(老年?)の紳士がおられた。その紳士が橋本敬治郎先生だった。当時、豊田高専の助教授であられた。京大では西山先生の後輩、昭和17年(1942年)卒である。助手募集に来ておられるのだった。色々と豊田高専のことや働く条件のことを説明して頂いた。私は延藤安弘君や、梶浦恒男君と一緒に博士課程に進むことになっていたので、何故急に西山先生は私を「就職させようとするのか」一寸不審だった。とにかく「二三日考えさせてください」と返事した。先の友人や先輩にも相談して行くことに決めた。その後、西山先生のお気持ちをお聞きしたことも大きいが、橋本先生が無口だが信頼できそうだと思ったことも決めた大きな理由である。橋本先生は建築史が御専攻で中仙道の宿場町の研究をしておられた。以後、橋本先生は、豊田高専から岐阜高専の教授を経て金沢工大の教授を務められた。豊田高専時代は勿論、以後、私が京大や奈良女子大学に移っても、ずっと奥さん共々家族的付き合いが、先生が金沢を引き払い岐阜の家で亡くなられるまで続いた。追々、先生との思い出を語っていきたい。

豊田高専の初期学生達(1)

2005-09-09 | 名古屋・豊田の思い出
8月16日のブログに豊田高専のM君がヘーゲルの『精神現象学』を読みこなしていたことを紹介した。他にも優秀な学生が色々いた。私が就職して2年目(26歳、1967年度)に卒業研究の学生3人(5年生20歳)の面倒をみたが彼等もそうだった。Kan.君、Kat.君そしてY.君ではなかったか。私の研究室で私も入れて4人で撮った白黒写真がどこかにあると思う。Kat.君のテーマは一寸失念しているが、Kan.君は都市計画に関するもので、T市に就職し、都市計画一筋で、都市計画課長にまでなったと思う。Y.君は実家の瓦製造業に関するテーマだったと思う。国鉄(現JR)に就職した。この二人とは今も年賀状のやり取りが続き、40年近い付き合いとなる。彼等もあと数年で定年で、私と「同じ世界、世代」となる。Kan.君はホームページを開設したようだが、楽しみに時々訪問したいと思っている。

服部千之先生の思い出(7)三大自由業

2005-09-07 | 名古屋・豊田の思い出
名工大の服部研究室に出入りし始めた頃(1966年頃)、服部先生から、アメリカでは、三大自由業と言われる職業があるが、それらは医者、弁護士そして建築家である、と伺った。この後の分析、位置づけの言い方が面白く記憶に残った。
この三大自由業を大きく(?)分けると、医者、弁護士グループと建築家に分かれる。前者は「人の弱みにつけこむ職業」、建築家は「いわば人の強みにつけいる職業」というのである。というのは、体、病気のことや事件、法律のこと等は普通の人は殆ど分からない(弱みを持っている)から専門職の医者や弁護士にすがる、だからいわば金に糸目をつけない。しかし、建築を建てようと思う人は、金もあるし、大体の構想は持っている。常日頃過ごす建築は、体の内部構造や法律の内容のように分かりにくいものではなく、多くの人は一家言を持っている。だから、そういう人を説得し納得してもらうには、建築家には強靭な思想、理論、図を描くスキルそして何よりも人間的魅力が必要だ、と服部先生は言われたのである。

玉置伸吾さんの思い出

2005-09-04 | 名古屋・豊田の思い出
玉置伸吾さんは大阪の出身、高校は北野高校だ。私より京大建築2年先輩だ。学部を卒業すると、すぐ日本住宅公団に就職、名古屋支所に配属された。そこで前に話した長峰晴夫さん(9月1日ブログ参照)と机を並べていた。ここに私が3回生の時(1962年)に、私の問い合わせに答えてもらった手紙がある。私が公団に入っても研究は出来るか、と問い合わせたのである。「出来ない訳ではなく自分もしているが、出来れば大学院に行った方が良い」との答え、玉置さん自身「大学院へ行っておけば良かった」と書いている。そのこともあり、私は大学院へ行ったが、修士を出てすぐ豊田高専に就職したので、名古屋で玉置さんと付き合うことになった。大変エネルギッシュな先輩で、豊田市の総合計画をつくったとき、代表は早川文夫名大教授だったが幹事で実質推進役が玉置さんだった。名古屋での研究実績も認められて、その後福井大学・建築学科に移り工学部長もやられるが、定年間際に急逝された。何とも言えない淋しい気持ちである。

長峰晴夫さんの思い出

2005-09-01 | 名古屋・豊田の思い出
今日、建築学会で近畿大学に行った。ふと長峰晴夫さんも昔一時ここに勤めていたな、と思い出した。長峰晴夫さんは薩摩の出身、東大建築学科卒、私の京大先輩の絹谷祐規(きぬたに・すけのり)先生とは「建築学生会議」を通じて友人だった。長峰さんは、東大卒業後、日本住宅公団に就職、名古屋支所に勤め、以後、近畿大学、名古屋大学、鈴鹿国際大学(?)に勤務された。私は、京大3回生の時(1962年頃)『現代建築と都市』(彰国社)を読んだ。当時「若手」の冷牟田純二、長峰晴夫、田畑貞寿、土肥博至さん共著だった。これに感心して長峰さんに手紙を書いた。返事の中に「学生時代に『資本論』を読むべし」とあったので4回生の時に読んだ。その後、私が豊田高専に就職して、名古屋でお会いした。その頃、名古屋の再開発問題で『朝日ジャーナル』に長峰さんが紹介されたことがあり、自宅トイレに『聖書』と共に『資本論』が置かれていたという記事を読んだ時、さもありなんと思った。長峰さんはクリスチャンだった。亡くなられて何年経つだろうか。今日思い出したので「思い出」の一部を語っておく。豊田・名古屋での私の「教養」は服部千之先生と共に長峰さんに多く負っている。

ヘーゲルの『精神現象学』について

2005-08-16 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田高専に就職したのは1966年で約40年前だ。4年生が最高学年で18歳、私が修士出たての24歳、兄貴と弟の関係で、私が今年63歳で定年になったが、彼等も多くは57歳で定年(60歳)まで2,3年と思う。初期の豊田高専には凄い学生が何人かいた。M君もその一人だ。ヘーゲルの『精神現象学』を読みこなしていたのだ。私は、ヘーゲルはマルクスの「師匠筋」で弁証法の本家とは知っていたが、岩波文庫で『小論理学』を持っているにすぎなかったので、「凄い学生がいるもんだ」とびっくりした。彼は今どうしているだろうか。ヘーゲルは、その中で「主人の労働、奴隷の労働」ということを言っているようだ。主人は、奴隷を自由自在に使って物を作らせるが、本人は、それを消費、享受するにすぎない。奴隷は、主人の命で苦難の労働をするが、彼等はその中で物の性質、本質を知ることになる。認識の発展を担っているのは実は奴隷であると言うことになる。(清水正徳著『働くことの意味』岩波新書より)
M君に刺激され、一応『精神現象学』は買って本棚の隅にあるが何時読むことになるのだろうか。

豊田高専独身三羽烏

2005-08-08 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専に4年間いたが前半2年は最後の独身時代だった。構内にあった独身官舎で隣り合ったのは、同僚・助手の藤谷幸弘さん、事務官の庶務係長・平野常一さんであった。平野さんが一番年上、藤谷さんと私は同期だった。
毎晩どこかの家で語り合ったりレコードを聴いたりした。名古屋で服部千之先生や長峰晴夫さん、玉置伸吾さん等との「語り」も大いに教養を豊かにしたが、平野、藤谷さんとの「語り」もそれに劣らず教養となった。今までは京大西山研究室というある意味で「狭い」世界での付き合いが中心だったが、特に平野さんは異分野、異地域の人だけに話していて面白かった。年齢も一寸上の「兄貴」で名大法学部出のインテリという感じだった。クラシック音楽でも平野さんがバッハ、藤谷さんがモーツアルトというものだから私は「ベートーベン」といわざるをえなかった。給料日になると豊田の町に下りていって、レコード屋でお目当てのレコードを買い帰ってレコード大会だった。平野邸でする時など、いい香りがしているので聞くと床の間で香を焚いて掛け軸もかけられていた。こういうライフスタイルの人物に会ったのも生まれて初めてだった。又、平野さんは歌人でもあり歌集もあり貰ったことがある。平野さんは定年を前に退官し郷里の桑名に奥さんと住んでおられるが、一度又三人でレコード大会をしたい気分である。

新婚旅行の行き先

2005-08-08 | 名古屋・豊田の思い出
現在は新婚旅行というと大抵海外となる。逆に私の父母の場合は、そういう習慣が始まったところで、近場の温泉地だったようだ。私達の場合は、その中間となる。
私達が何処で結婚し、新婚旅行に大略何処に行ったかは、このブログを丹念に読んで頂いている方には既に判明している。二人で相談し、中国地方とした。行くならば瀬渡内海側だけでなく日本海側にも行こうとなった。
私達が結婚したのは1968年3月27日であるが、そこから1週間の当時としては「長旅」だった。名古屋ー京都(学生時代の付き合い地、二条城前の国際ホテル)-竜野(学生サークルで行った所、醤油、三木清、三木露風、赤トンボ荘)-姫路城ー倉敷(浦辺鎮太郎先生の設計活動地、倉敷国際ホテル)-広島(原爆ドーム、丹下健三設計のコルビュジェ風ピロティ式の平和記念館、市電)-秋吉台ー萩(吉田松陰の松下村塾、高杉晋作邸等の維新旧跡、萩焼、伝統旅館、日本海の幸)-出雲(出雲大社、菊竹清訓設計の稲のはさかけ風の宝物館、伝統旅館)-鳥取砂丘ー城之崎温泉(城之崎にて、西山卯三先生設計の「ゆとう屋」泊)-若狭湾(原発銀座)-金沢(兼六園、金沢城、私の実家)

キーワード:学生時代共に行った所少々、建築、歴史、自然・環境
当時は真面目に「学習旅行」的側面も追求していたことが分かる。