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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

服部千之先生との出会いと付き合い(6)星ヶ丘住宅

2005-08-06 | 名古屋・豊田の思い出
1966年頃は名古屋市営地下鉄の東山線は、今のように藤が丘までではなく、星ヶ丘までではなかったか。服部先生のお宅は、当時、日本住宅公団の星ヶ丘の賃貸住宅で正に2DKではなかったか。学会の都市計画委員会が終った後、1軒飲みに行き、遅くなると豊田までタクシーで帰ったこともあったが、次の日が日曜日の時など服部先生は「家に泊まっていったら・・」と言っていただき、2,3回泊まらせてもらった。
帰りに「ヒマラヤ」のショートケーキを買われたり、花屋で花を買われたりしていた。奥さん、お嬢さんへのお土産だが、そういう家族への心遣いも学んだ。お宅で風呂にも入らせて貰ったが、脱衣室が一番「片付きにくい」ということも分かった。奥さんとの馴れ初めやお嬢さんの名前の由来等もお聞きした。下のお嬢さんは「栄ちゃん」と言ったが、当時、服部先生が取り組んでおられた「栄東再開発」問題に由来していると伺った。もうあれから40年近く経ってしまった。

服部千之先生との出会いと付き合い(5)マッターホルン

2005-08-03 | 名古屋・豊田の思い出
上の「テンプレート」は正にマッターホルンである。前に一度書いたかも知れないが、服部千之先生は、良く休暇にはスイスアルプスに出かけておられた。その鮮やかな写真も頂いた。私もインターラーケンから登山電車で雪渓のところまで登ったことがある。まことに自然は偉大だと思う。最初、建築や都市など人工空間に携わっているなら、外国のそういう空間に出かけるのかな、と思ったらそうではなかった。とにかく東京、大阪、名古屋等のコンクリート・ビル群に長くいると、やはりおかしくなり、四角い人工空間ではなく、ぐにゃぐにゃな自然空間に接したいと思うのは人間の本性ではなかろうか。人間も元々ぐにゃぐにゃなものであるからである。さあ山や海に出かけて自然の懐に戻ってみよう。

豊田高専時代の研究リズムー豊田、名古屋、京都ー

2005-08-03 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専には、1966年4月から1970年3月まで4年間勤めた。前半の2年が助手、後半の2年が講師で、助手から講師の境目26歳で結婚した。今なら若い部類だろうが京大大学院同期の梶浦恒男君も延道安弘君も若干年上だが既に結婚していた。この豊田高専の4年間の研究、活動は、はっきりした実りが直接もたらされた訳ではないが、後の大きな「肥し」になったと考えている。勿論、豊田高専が本拠だから豊田で教育しつつ研究した。助手仲間は藤谷幸弘君と中谷勉君で、藤谷君は京都工芸繊維大学出身で同年齢、中谷君は名城大学出身で若干年下だった。三人で当時の学科主任の山本和夫教授(京大建築卒、先輩)とかけあって、週1日の「研究日」を確保し、私は名工大の服部千之先生のゼミの日に合わせた。それから月1回のペースで京大の巽和夫先生のゼミに出させて貰った。その日は「オープン・ゼミ」と称して卒業生を含めたゼミにして頂いた。こうして、日々、週、月の研究リズムが定まったのである。名工大へは豊田駅前から名鉄バスで往復した。京都へは名鉄バスで「名鉄メルサ」まで行き、時間は少し余計にかかるが、新幹線より安い名神高速道路経由の京都行きバスに乗り換えた。この費用は、若手に対する竹中奨学金(20万円「建築技術革新に関する研究」)を使った。

服部千之先生との出会いと付き合い(4)シャガール

2005-08-02 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田・名古屋にいたのは24歳から28歳までの4年間で、1966年から1970年までだった。まだ20歳台で若いので元気があったが、まだ教養の上では「粗野」の部類だったと思う。学生時代、絹谷先生にはお宅に招いて頂いてご馳走になったこともあったが、西山先生に関しては研究室でコンパで店に行ったりしたが、個人的に誘われたりしたことはなかった。名古屋に来て服部先生は、そうではなく大学院生も良く飲みに連れ出していた。私もお相伴にあずかり「教養」をつんだのである。
建築学会の都市計画部会の会合の後も皆で飲みに行くのが通例だった。御園座近くの「大甚(だいじん)」などにも行った。そこで、長峰晴夫さんから、奥さん共々ピアノが少し弾けるが、これは「隠し財産」だ、と伺った。そういう言葉を聞いたのも初めてではなかったか。服部先生は、行きつけの地下鉄・池下駅近くの「プランタン」という店に良く連れて行かれた。そこで、色々「教養講義」を聞いた。絵画の話もあったが、実は、その店に服部先生所有のシャガールの版画が飾られていたのである。版画は一つにつき番号をつけて何枚も刷られるので、その一枚だったと記憶する。ふわふわと浮いたようなシャガールの絵の背景はかなり濃いブルーで、シャガーリアンブルーという言葉も覚えた。
服部研の院生・学生達は少し「辟易」していたが、私には楽しい時間だった。

服部千之先生との出会いと付き合い(3)建築学会東海支部

2005-07-28 | 名古屋・豊田の思い出
服部先生は、30歳台の若い時から建築学会東海支部の都市計画委員会の牽引車(幹事長?)だった。委員長は、出来たばかりの名古屋大学建築学科の早川文夫教授だった。早川先生は、私より30歳近く年配で西山先生に近かった。東大の建築学科のご卒業だが住宅金融公庫におられ、名古屋大学に建築学科が出来ることになり計画系は東大が世話をして早川先生が来られたのだった。計画系の助教授は柳沢忠先生で病院中心の建築計画が専攻(東大・吉武研出身)だった。早川研の助手は名工大から佐藤圭二さん(現・中部大学教授)、東大から室野さんの二人がおられたと思う。室野さんは私の金大附属高校の先輩だったが、その後「行方不明」となり現在に至っている。都市計画委員会の委員は他に日本住宅公団名古屋支所の長峰晴夫さん(東大・建築卒、後に近畿大学、名古屋大学教授等、故人)や玉置伸吾さん(京大先輩、後に福井大学工学部長、故人)、名古屋市役所の松尾博雄さん(名工大卒)、名工大助手の桜井大吾さん(後にRIA名古屋支店長)ら活発なメンバーが多く、若い(25歳位)私はその末席に服部先生の紹介で参加することになった。

服部千之先生との出会いと付き合い(2)交換価値と使用価値

2005-07-25 | 名古屋・豊田の思い出
今、名工大(名古屋工業大学)のキャンパスがどうなっているのか知らない。当時(1966年)頃は、正門から入って左手に鉄筋コンクリートの4,5階建てがあり(いまの24号館辺りか)、その2階に服部研究室があったと思う。教官室と、ゼミ室(院生研究室)が隣り合わせでセットになっていた。正門から入って右手に生協食堂の棟等があったと思うが(今はなさそうだ)、昼食時になると、服部先生は、生協食堂に行くと思いきや、桜井大吾助手に頼んで桜井さんの自動車で栄あたりに繰り出すことも多かった。付き合わされた院生としては、出費がかさんだかもしれない。しかし、このことに対して「服部理論」を言っておられた。生協食堂は、確かに安くて良いが、質が今一つ、揚げ物も早めに揚げているので食べる頃には冷えていて不味い、商品はなによりも使用価値が大切だ、と。使用価値というと、マルクスの『資本論』第一章商品の項の価値、交換価値、使用価値の分析が思い浮かぶ。服部先生は、そのことも踏まえ、価値の本質も重要だが、使用価値をどう判定し高めていくかも大問題、と言っておられた。今もその通りではなかろうか。(と言って服部先生は、美味いものを食べる理屈付けにしておられた。)
後注:名工大生協食堂の名誉のために言うと、その後、服部先生の発言が効いたか、直ぐに温かい揚げ物が出るようになった。

服部千之先生との出会いと付き合い(1)

2005-07-24 | 名古屋・豊田の思い出
服部千之(はっとり・ちゆき)先生とは、私が豊田高専助手として就職した1966年4月から先生が亡くなられる1987年4月までの21年間の交流だった。特に私が京大に戻るまでの最初の4年間は、右も左も分からない生まれてはじめての地、名古屋・豊田等の東海地方で色々教えて頂き、私が独身の前半2年間は時々、星が丘のお宅に泊めてもらう等公私にわたりお世話になった。
服部先生に世話になったのは、京大・西山研究室の先輩であったからである。服部先生は、名工大のご出身だが、大学院は京大の西山研究室に来られ、修士課程を出られると住宅金融公庫に就職、やがて名工大の城戸 久先生の「引き」もあって母校の名工大に講師で戻り、直ぐに助教授になられた。京大の大学院では三村浩史先生(現・京大名誉教授)、住田昌二先生(現・大阪市大名誉教授)亡くなられた湯川利和先生(当時・奈良女子大学名誉教授)等と同期で「花の(昭和)34年組」であった。服部先生は、当時30歳代前半で、既に東海地方では都市計画分野のトップランナーだった。というのは、未だ名古屋大学建築学科は1962年にスタートしたばかりで計画系の重鎮で早川文夫先生がおられたが未だ大学院も出来たばかりだったから老舗の名工大の役割は大きかったのである。そういう時に私は服部研究室の門を叩いたのである。

豊田高専に初出勤

2005-07-23 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専に初出勤したのは1966年(昭和41年)4月13日である。発令が4月1日だから約2週間遅れて出勤したことになる。今なら「大目玉」かもしてないが、当時は「大目」に見られていたようだ。何故2週間も遅れたかおいおい語っていくが、とにかく当日、助手としての研究室に落ち着いたら、ドアにノックがあった。入ってこられたのが、平野常一さんで庶務係長だった。何か規則上色々文句を言われると思ったら「中々貴方は豪傑ですね」と言われてしまった。平野さんとは、4年間色々と付き合っていただいた。平野さんは私より5,6歳は上だが、当時30歳位で独身だった。名古屋大学の法学部のご出身であったと記憶する。名大に勤めだされたが、豊田高専に出向となっていた。これでも分るように豊田高専は国立なのだが、他所にいくと「トヨタの附属ですか?」と聞かれることもあった。それほど豊田市ではトヨタの力が強く、昔は挙母(ころも)と言っていたのに豊田に市町村名すら変えられていたし、トヨタの厚生課長クラスが豊田市長でトヨタの社長は、豊田市長を良く知らないといった状況だった。豊田高専は二期の高専として1963年にスタートし私が行った時には5年制で4年生が最高学年だった。とにかく優秀な学年だった。

豊田、名古屋の思い出(序論)

2005-07-15 | 名古屋・豊田の思い出
京大の大学院修士課程を出て、豊田高専助手になったのは、1966年4月である。それから4年間豊田高専でお世話になり、京大助手で戻った。だから、この4年間は、最初の「社会大学」だったと何処かに書いた記憶がある。ここで出会ったのは、建築学会の関係で、名工大の服部千之先生(助教授)、桜井大吾さん(助手)、高橋博久先生(講師)、名古屋大学の早川文夫先生(教授)、佐藤圭二さん(助手)、室野さん(助手、金大附属高校先輩)、日本住宅公団名古屋支所の玉置伸吾さん(京大先輩)、長峰晴夫さん(学生時代から著書を通じて知っていた。東大建築出身)、名古屋市の松尾博雄さん(名工大出身)たちだった。また、豊田高専では、藤谷幸久さん(京都工芸繊維大学卒、同年)、中谷さん(名城大卒)の助手仲間、教授の山本和夫先生、橋本先生(以上京大先輩)、助教授の杉浦昭三先生、手塚二郎先生、課長の平野常一さん等である。
又、何よりも、この時期に名古屋で現在の妻に「出会い」、名古屋で結婚した。これらの「名古屋・豊田社会大学」の様子をしっかり思い出し、位置づけを試みたいと思う。

北村 君先生の思い出

2005-07-14 | 名古屋・豊田の思い出
北村 君先生は、私が奈良女子大に赴任した1974年の次の年に奈良女子大学を定年退官された先生だから、「カテゴリー」としては、奈良女子大時代に入れるべきかもしれないが、ここでは名古屋・豊田時代としておく。というのは、私と妻とが、というか妻に私がついて、名古屋で結婚する前に北村先生をたづねたことがあるからだ。妻は、扇田先生のゼミだったが、北村先生も恩師の一人である。どういうことで、北村先生のところにだけ行ったのか良くわからない。その時が私としては北村先生に初めてお目にかかった時だ。北村先生は、家政学部住居学科では、最初の奈良女子大学出身の教授だった。そして、もちろん、その頃には、後に私が奈良女子大学に勤めるとは夢にも思わなかった。北村先生は教え子の旦那にもうすぐなる私に、与謝野晶子の次の歌を贈られた。
「柔肌の熱き血潮に触れもみでさみしからずや道を説く君」
その意味は、すぐに分った。あれから、もう38年にもなる。その北村先生は、もういない。

早川文夫先生を佐藤圭二さんと訪問した時の感慨

2005-07-10 | 名古屋・豊田の思い出
佐藤圭二さんは学年は1年上だが、歳は同じと思う。長らく名古屋大学の早川文夫先生の研究室の助手をしておられたが、今は中部大学教授である。私達が還暦を過ぎた4年ほど前に、90歳を越え奥さんと有料老人ホームに入っておられる早川文夫先生を訪問した。早川先生は東大・建築のご出身だが、戦前の故・西山卯三先生との「付き合い」について聞き取りのために伺ったのだった。思ったより「付き合い」は薄い感じだった。先生は、かくしゃくとしていて近所の散歩に我々を誘った。最後の別れ際に90歳の早川先生が60歳の我々に言われた。「今日は、若い人に会って楽しかった」と。そこで、私の感慨を後で佐藤さんに送った。

若き人に会えて楽しと言われけり卒寿を訪ぬ還暦うれし 市路

服部千之先生の思い出(1966~1970の頃)(0)

2005-07-10 | 名古屋・豊田の思い出
私は京大大学院修士課程を出てすぐ豊田高専に就職した。1966年4月であった。4年後に京大助手で戻るが、その間、名工大の服部千之先生の研究室に出入りしていた。服部先生は、京大・西山研究室(大学院)の7年先輩であった。住田昌二先生(大阪市大名誉教授)や三村浩史先生(京大名誉教授)と同期である。当時、服部先生は、30歳台で名工大助教授であったが、建築学会東海支部の都市計画委員会の「幹事」だった。委員長は、早川文夫先生(名古屋大学教授)、委員に長峰晴夫さん、玉置伸吾さん(以上、当時、日本住宅公団名古屋支所)、佐藤圭二さん(当時、名古屋大学助手)、桜井大吾さん(当時、名工大助手)、私等で皆若かった。服部先生の思い出は色々あるが、ここでは、海外体験を色々聞いた話をする。(1)先生はスイス・アルプスに行くのがお好きだった。当時、何故、都市計画家がスイス・アルプスなのか、と不思議だったが、大分後に「都市の人工とアルプスの自然」という対比に気づいた。(2)オランダに注目しておられた。私は後に人口周密国として「住宅問題・蘭学事始が必要」と言ったことがあるが、先生はとっくにそのことに気づいておられたのも後に知った。(3)アメリカではボストンがお好きだった。私は、未だアメリカに行ったたことがない。行く時には、ボストンは行きたい都市の候補の上位に絶えずあるが、何時になることやら・・。服部先生は、若くして老成しておられた。50歳台で亡くなられたのは誠に残念だった。