東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形「狐 馬」(尾張屋春吉翁 作) ※★(検索 今戸焼 干支 馬 午)

2016-07-14 07:43:16 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。

この人形は手が込んでいて、馬と狐それぞれを別々に型抜きして成形してから組み合わせてできています。馬の部分だけ単体で仕上げた人形もあります。

春吉翁作の狐の人形の面描きですが、狐拳・子守狐・口入稲荷狐・羽織狐・三方狐・鉄砲狐の極く一部は鼻と口を描き分けていますが、鉄砲狐そしてこの狐馬は一点で省略しています。狸の人形と共通していますね。これはどんな意味があるのでしょうか?

狐馬の人形は都内の近世遺跡のあちらこちらからかなり出土しており、人気のある人形だったのではないでしょうか?また、作者も複数いたのかもしれません。

「狐馬」という言葉の意味ですが、、、

狐馬」とは、「狐に馬」もしくは「馬に狐」を略したことわざ。そのことわざは「馬の背に狐を乗せたよう」もしくは「狐の背に馬を乗せたよう」を略したもの。狐が馬に乗っているところから「落ち着きがないこと。言うことが当てにならず、信用できないこと」。狐が馬を化かして背に乗っているのか、もしくは狐がたぶらかされて馬の背に乗っているのか。すまして、でも居心地悪く馬の背に乗る狐。前を向いて、しかし不安に狐を乗せる馬。はたから見るとふらふらしていて危なっかしいけれど、何やら滑稽でもある。(以上はよそのページから引用させてもらいました。)

とあり、皮肉なモチーフで江戸っ子好みだったのかもしれません。春吉翁によるこの人形でもまた配色といい、筆の穂先の美しい面描きといい洒落たものだと思います。

本来今戸焼の土人形に限らず、全国の土人形の産地では「十二支」の干支ものを揃えて作るとか、縁起ものとして干支の人形をひととおり集めるとうことはそれほど盛んではなかったのではないかと思います。そのためどこの産地にも十二支が揃っているということでもなく、今戸の古典にもそれらしいものは確認できません。「狐もの」のくくりとしては今戸の狐のバリエーションは多く、春吉翁以前の時代にはより多くの種類があったという近世遺跡からの出土品の例が少なくありません。しかし、今戸の古典的な馬の人形に限ればいくつもあり干支の馬として拾えば、多いかもしれません。この「狐馬」はその代表的なものと言ってよいほど昔からポピュラーなもののひとつだったと思われます。

この記事はだいぶ以前にアップしたものですが、旧ブログサイトの閉鎖と引っ越しなどにより埋もれていたものを虫干しのため再度アップしたものです。

 

 

 

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春吉翁のご命日

2016-02-29 14:05:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 今日2月29日は江戸から続いた最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のご命日です。翁は昭和19年2月29日にお亡くなりになられ、それによって江戸明治と脈々と続いていた今戸人形作りの伝統の灯が消えてしまいました。翁のご生前には、翁の実父であった今戸焼の名工といわれた作根弁次榔の流れである「猫屋」(招き猫屋ではなくて、弁次郎の作った「猫足つきの炉台」が評判になって屋号を「猫屋」と名乗ったというような話)の清さんという人を弟子にとって仕込んでいたこともあったそうですが、その人が夭折してしまったため、後継ぎを諦めたと聞いています。もしも後継者があったならば、今頃江戸から続いた生粋の今戸人形の姿が私たちの身近に花咲いていたかもしれません。

 ともあれ翁のお作りになった人形も残されていること、ご生前の昔語りの内容や逸話が記録されていることで、辛うじて江戸から続いた今戸人形の姿を偲ぶことができることはありがたいことだと思います。月日が流れた現在、翁の作品に接することのできる機会はかなり限られており、手軽に接することは簡単ではないかもしれません。しかし翁の作品をはじめ江戸、明治の今戸人形の姿を広く知ってもらうことが、本来の今戸人形や今戸焼を知るよすがになるのは確かだと思います。

 4年ぶりのご命日。4年前は当日にどか雪が降ってご墓所の通路を雪かきしたりで大変でしたが、今日は天気も落ち着いていてよかったです。自宅の近所赤羽でお花を作ってもらい、自転車で浅草今戸町まで出かけてきました。お掃除させていただき、お花とお線香をお供えしてお参りさせていただいたあと、春吉翁の窯場のあった跡も寄らせていただきました。

帰りに隅田公園にまんさくの花をみつけました。

 

 ※春吉翁の作業風景の画像は春吉翁のお孫さんである武佑さんから複写させたいただいたもので、春吉翁について記したりする際に使用してよい由お許しをいただいています。

 

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今戸人形「子守狐」(尾張屋春吉翁 作)★

2015-04-06 20:22:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)



最後の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)はたくさんの種類の今戸人形をお遺しになられています。

そのどれもが手慣れた筆のタッチ、今戸らしい配色できらきらとして美しく、表情に情感があります。



この「子守狐」もそのひとつ。構図としてもポピュラーなものとして知られているのではないでしょうか?



何といってもお母さん狐と子供の狐の表情。母性といったものに溢れていると思います。こうした表情を筆先でさらりと描けるというのがすごいと思います。



柘植の横櫛なのでしょうね。黄色の発色も微妙な色。着物の配色もいかにも今戸人形といった感じです。



不思議なことに、この型のお人形の出土品はまだ観たことがなく、明治時代あるいはそれ以前の伝世品も伝わっているのか知りません。



しかし、春吉翁一代の創作とも言われていないので、古い型なのだと思います。



自分的には今戸人形の中で一番好きな人形だと言えるかもしれません。ただし、画像の尾張屋さんの作が好きなのです。戦後、尾張屋さんの人形から型どりされて作られているものがあり、尾張屋さんの人形よりも二まわり小さくできていますが、とりあえず尾張屋さんの型から抜いているので形はだいたい同じですが、表情といい、配色といい、どうしてこうなってしまうのか?という作行きです。おまけに「今戸焼」という印まで入っていて、型以外にどこに今戸らしさがあるのか疑問に感じています。


★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

 

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今戸人形「子抱き(大)」(尾張屋春吉翁 作)★

2015-04-02 04:47:49 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)



最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。今戸人形の中でもよく知られた型です。また春吉翁作の人形の中でも比較的大きな部類に入るものではないかと思います。

背面の帯部分に四角い枠の中に「尾兼」という印があり、型としては春吉翁の養父である尾張屋5代目・金澤兼吉翁(天保4年?~大正8年・76歳)が起した型なのだと思われます。



「子抱き(大)」という名称は、有坂与太郎による著作に表記されているとおりで、(大)に対し(小)とある人形はこの型とは別の形です。



赤子に乳を与えている構図の人形であることは共通しています。



土人形で似た構想のものは、他の地方にもあるようで、山姥と金時になっていたり、マリア様に見立ててあるものもあるようです。



この尾張屋さんの人形は純全たる風俗スケッチという感じです。お母さんは既婚だから眉を落としていて、ほほ笑んだ口には鉄漿(おはぐろ)の黒が覗いて見えます。



子守狐同様、このお人形もまた母性豊かな表情ですばらしいと思います。



戦前で途絶えてしまった人形ですが、戦後になって、途絶えてしまった今戸人形を惜しみ、当時の郷土人形の愛好家がそれまで人形製作をしていなかった白井孝一さんに人形作りをすすめたのを機に、現在に至っているのはみなさん御存じのとおりです。この「子抱き」(大)については当時の愛好家のおひとり、湯島で飾職をしていた袴田穣さんがご自分が大切にされていた今戸人形を戦時中湯島天神下にあった防空壕の中に油紙に包んでおいたものが湿気でやられて色がとれてしまったものを白井に提供された型どりを促したのがきっかけだそうです。現在ではそういった経緯が忘れ去られ、白井さんでは背面の「尾兼」の刻印を消して「今戸焼」という刻印を入れてあたかも自家製オリジナルの如く作っていらっしゃいますが、本来尾張屋さんの人形の型であった事実を風化させたくありません。



 



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今戸人形「寒紅の丑」(鈴木 たつ作他) ★

2015-03-29 08:40:35 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

底冷えのする厳しい寒さの毎日です。暦では昨日1月22日が今年の「寒の土用の丑」の日のようです。

ものの本には「寒の土用の丑」に作られた紅には口中の荒れや女性の病に薬効があるとして重用されていたとか、、。またこの日には紅を商う小間物屋は画像のような今戸焼で作られた牛の姿をおまけとして配ったということです。



昭和のはじめの有坂与太郎の著作には、作者は今戸・長昌寺前の「鈴木たつ」であると書かれています。たつの母親の「鈴木きん」もまたこれを作っていた、またたつの姉の「江川しん」(川向の向島に住んでいた)は専ら木地を作っていたとも書かれています。昭和のはじめまではまだこの一族によって生産され、供給していたのは向島の「小町紅本舗」であったとか。現在浅草に「小町ヘアー」というお店がありますが、もしかすると「小町紅」と関係のあるお店なのでしょうか。まだ聞きにいったことがないのでわかりません。



牛には黒塗りと金塗りと2種類あり、配られた際、どのような区別がされていたのか、または2つ対で配られたのかなど不明な点があります。何か参考になる本などありましたらご教示いただけると幸いです。一時はこれらのような牛は古物としてかなり見かけたものですが、最近ではあまりそうした機会も少なくなってしまったような気がします。当時としてかなり出回っていたものだったような気がします。



上記の有坂与太郎の著作によれば、磁器の固焼き製の牛が登場してから、昔ながらの土の牛が駆逐されてしまったようなのです。ひとつ疑問なのは、紅丑の習慣は明治から遡ることはない、と記されているのに、都内の近世遺跡からの出土品の中には色のとれてしまった同じような牛がみられることです。






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浅草と深草 ★

2015-03-26 23:05:26 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


以前からずっと気になっていたこと。

今戸焼が生れたのは浅草。今戸人形の発生の母胎となった京都・伏見人形のふるさとである伏見には深草という地名がある。古い文献には「深草焼」という名称も残っている。



浅草深草。「浅い」と「深い」。余りにもシンメトリックに対称的な地名。どちらかが何かを基準にして対比的に名づけられたかのよう、、。



浅草については、、、



「江戸東京学事典」によると
「浅草の地名の由来には、諸説があり、アイヌ語のアツアクサ(海を越すという意味)にちなむとか、チベット語のアーシャ・クシャ(聖のおわす所の意味)に由来するなど。定説は「江戸往古図説」が「往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか」と述べているらしい。(以上よそのHPから引用させていただきました。)



深草については、、



「寛永14(1637)年刊の『洛中絵図』(以後発刊年省略)に深草町とある。町名の由来は不明だが、「地名の国語学的分類」(以後「地名分類」と略す)では、町内に深い草地があったなど土地の状況からの命名と推定される。」。(以上もよそのHPから引用させていただきました。)とありますが、いつまで遡ることができるのか明記されてはいないのでよくわかりません。



しかし浅草についてはまた、、



「往古、草深い武蔵野の中で浅草の一画は茅や芝草ばかり浅々と生い茂っていた草原だったので、京都の深草と対比して「浅草」の地名が生まれたのであろう……これが定説だそうだ。(他にも諸説ある)」(以上もよそのHPから引用させていただきました。)ので、やはり深草に対して浅草という名前がつけられたものでしょうか?



ただ浅草と最初に呼んだ人は「深草」を知っていて、それに対比させてつけたのであれば、深草との何かしらの共通点をもって名づけたのでしょう?それは何なのでしょうか?川でしょうか?



江戸の古い川柳に「かはらけ(土器)は 浅い深いの土で出来」というのを読んだことがあります。



浅草の地名は浅草寺の創建以前に遡るとされているので、今戸焼の起源とされている時代よりもはるか昔です。しかし、浅草寺の創建以来、瓦や土器類の需要はあっただろうと思われますし、今戸焼以前にそれらを作る人はいたのではないか、と考えれば、土師の存在を想像でき、伏見、深草あたりの土師の流れを汲む人たちが「深草」に対して「浅草」と名付けたとしても不思議ではないと思いますがどうでしょう。はからずも、浅草寺縁起に土師中知(はじのなかとも)という三社様のひとりの名前が出てきます。



私は歴史に疎く、学問にも疎いので、あくまで勝手に空想しているまでのことなのですが、これらについてわかる本があったら読んでみたいです。



画像は左が古い伏見人形の「子抱き」です。新しくても明治はじめ、あるいは江戸末に遡るものでしょうか?黄色い部分は「きはだ」の煮出しのように見えます。右は尾張屋春吉翁作の今戸人形の「子抱き」で関東大震災以降の作ですが、この型自体はもっと昔に遡るものでしょう。いづれにしても、今戸人形が伏見人形からの抜き型から生れたということがわかる一例です。



 


また、伏見人形を母体にしながら独自を発展をした今戸人形の特徴の中には型だけではなく、彩色の仕方(配色や振り金・砂子(真鍮粉)など、また動物などの眼の入れ方など)に伏見の面影を残しているものが少なくないと思います。猫ひとつでも、白目(地色として黄色や金色を置いて)の上にまんまるな黒目(瞳)を置くとか鼻孔の表現として朱色で点をふたつ置くなどは伏見の面影ではないかと考えられるのです。
また、古い今戸人形には植物の煮出し汁を部分的に置くという技法が散見されますが、これなども、古い伏見人形にも観られることなので、おそらく伏見人形の影響下で今戸でも採用した技法のひとつではないかと思っています。


 



 



 



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今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(鈴木たつ 作)★

2015-03-26 00:06:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)以外にも戦前までは、代々今戸人形師の系譜をひく土人形作者の名前が辛うじて記録されています。旧浅草区今戸3丁目にいた、「鈴木 たつ」と「加野 とく」の2人です。

そのひとりが画像の人形の作者「鈴木 たつ」です。



有坂与太郎の著作に、今戸人形の全盛期であった嘉永年間の今戸人形の作者の地図(今戸町内の分布図)が掲載されています。(出典については定かに示されていない。)この中には上記、尾張屋・金澤春吉翁の養父である尾張屋・金澤兼吉翁の名がある他、「土直」こと「するがや惣三郎」という名前があります。また「あぶ惣」(虻惣)という屋号も記録されており、同じ家であるかのような記述があります。



この「あぶ惣」の末裔で後継者が「鈴木 たつ」であると述べられています。この人は今戸の長昌寺のそばに住み、芋屋渡世の傍らに「寒紅の丑」「貯金玉」「鉄砲狐」「口入稲荷狐と羽織狐」を作っていたとあり、特にこの「口入稲荷狐と羽織狐」それと「寒紅の丑」の作者として知られていたようです。この人の母親は「鈴木 きん」といい、同所で同様な人形を作っており、その妹が明治43年頃向島区寺島町に移った「江川 しん」で、「しん」が木地を作り、「きん」が彩色した、という内容が書かれていますが、その娘の「たつ」の場合どうだったのでしょう。



「芋屋渡世」とあるのは、生芋の卸し販売なのか焼き芋屋なのか、、、。仮に焼き芋屋だったならば、火を使う仕事なので、小さな人形の木地を焼くくらいのことは可能だと思います。雑器などの生活器物ではないので、ごく低温の甘い焼きであっても構わないのではないか、と勝手に想像しているのですが、、、。



この一家について詳しく記録されているものが少なく、今となっては知る手掛りもありません。今から20年ほど前、今戸町内で戦前から炭屋を営んでおられたお爺さんに昔の今戸焼屋さんについてお話を伺ったことがありましたが、「鈴木 たつ」についてはわかりませんでした。また、長昌寺付近の自治会の方にも戦前のことを伺いましたが、「芋屋」についてもわかりませんでした。



時既に遅かった上、この辺りは橋場の一部を除いて、ほとんど戦争で被災し、その後転出、転入のあった土地なので戦前の事でさえ難しいです。また、昭和戦前の記憶がある世代の男性だと、出征されて夭折されているケースもこの辺りでは多かったようです。清川の玉姫稲荷神社の神主様(おそらくご先代)にも伺ったのですが、わからないとの事でした。



仮に、地元で生れ育ったとしても、土の狐ひとつに関心がない限り、どこの誰が作っていたか、などと気にかけないほうが自然で当然なのかもしれません。



画像の狐の話に戻ります。「鈴木 たつ」による羽織狐ですが尾張屋さんの型とは微妙にモデリングが異なります。これが「あぶ惣型」というものでしょうか?股引きから爪先にかけて真っ黒に塗られていますが、草履の部分は前に出ぱっています。ちょっとロンドンブーツのようにも見えてしまうのですが、、。



羽織狐の近世遺跡からの出土例は意外と多くないのですが、一点、豊島区染井の遺跡から出土したものを記憶しています。そして、その出土品のモデリングは、この「あぶ惣型?」のによく似ていたと思います。



 



 


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今戸人形「口入狐・羽織狐」(尾張屋春吉翁作)★

2015-03-20 08:28:14 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)



右の2体が「口入稲荷」の裃狐と女狐、、通称「口入狐」、左の立ち姿のが「羽織狐」です。



言わずもがなの事ですが、口入稲荷は清川にある「玉姫稲荷神社」の境内に鎮座する社で、元禄14年、新吉原の廓内に高田屋七兵衛という口入所があって、家内に稲荷の社が鎮座されていたが、霊感に基づき同社を現在の地に移したため、それから口入の呼称がおこったとか、、。



また、羽織狐は玉姫稲荷の土蔵裏から狐の像が発掘され、それに倣って作られたもので、これは祈願する時にその使いとして用いられるが、念願の叶った時には裃を着けて額を持った狐を奉納するきまりであると、有坂与太郎の戦前の記述にあります。



また、ある説には、現在吉原神社に合祀されている九郎助稲荷の荒廃するに及んで、羽織狐も口入稲荷から授与されるようになったのだといわれるが、憶測の域を出ない、、とあります。



羽織狐の姿は遊び人のようで、左手を羽織の中でげんこつに構えていざという喧嘩に備えているポーズで、このポーズを「やぞう」と呼ぶところから、この狐を「やぞう」と呼ぶ人もあったようです。



尾張屋さん作のこの人形をはじめて見るまで知らなかったのですが、草履を履いているのですね。鼻緒を描かれているのです。草履の先がしっかりと出っ張って造形されています。知らなかった頃は裸足なのだと思っていました。



「口入狐」の画像の女狐が両手を前に正座していますが、これとは別に宝珠を抱いているのもあります。



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撫牛と金縛り

2015-03-16 11:07:26 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

この撫牛はおそらく今戸のものではなくて、伏見、深草の辺りの産のものではないかと思っています。瓦質でできています。
日本全国に瓦質、土焼きに彩色、木彫りなどさまざまな撫牛がかつては作られていたと思います。お寺によくある「おびんづる様」「撫仏」などと同様神社の境内にもおおきな「撫牛」があり、願いを込めて撫でる(自分の体の問題のある部位を)と平癒するとか、牛であれば眉間に「梅鉢」だの「宝珠」だの「大黒様のレリーフ」があってそこを撫で擦りながら心願すれば幸せになれる。最近どこかの神社で付け焼刃のようなエイリアン風の招き猫が雨後の毒キノコのように出現していますが、上記の先例をぱくったものではないでしょうか。

撫牛も記録などでは大流行し、京都の伏見をはじめ各地で作られ、家内にお祀りして心願する。ということが各地にあったようです。
中でも有名なのは延享年間に伏見で起こったという撫牛製造者どうしの「本家争い」です。「保寿軒」という窯元と「木村虎悦」という製作者の間で争われ、それぞれ本物はうちのだ、まがい物に注意しろ、といったビラも配られていたとか、、。これに似ているのが嘉永5年の浅草寺境内(三社権現鳥居横)での「丸〆猫」の本家争い。近世遺跡から「丸〆」の陽刻のある招き猫と「本丸〆」のものとが出土されています。

さて、画像の撫牛に出会ったのは、まだ20代の頃、谷中、根津、千駄木界隈をときどき歩いていたある日、昔流れていた「藍染川」の跡である「へび道」から曲がって入っていったところに「古道具屋」があり中古の湯呑み茶碗だとかコップや花瓶、行火とかガラクタに混ざってこの牛があったのです。

お牛さまの鼻の部分穴が通っていますが、当時穴に凧糸のようなものが通してあり、その店の中では壁のフックに紐でぶる下げてあったんです。
面白いな、と思って値段を聞いたら「安い!」当時の物価でマックのチーズバーガーセットより安かったのですぐさま買い求めて帰りました。
偶然に手に入れたものでも新しく買った本とか、寝しなに枕元で読んだり、眺めたりしませんか?そうしていつの間にか眠りに入ったのです。
夜中に息苦しくで目を覚ますと、目は見えるが体が金縛り状態で身動きできない、声も出せない。すごく重いものの下敷きになっているように苦しい、、、、自分の布団の真上に大きな黒い牛が蹲っていて、私の顔を見つめているんです。牛さんの瞳って純粋で穢れのない澄んだ目ですよね。
その眼で私を見ているんですが、「モー」とも何も言わない、、。予期せぬことなんでびっくりして、、。そういう金縛り状態がその夜何度もありました。牛さんの背後にはエメラルドグリーンとバイオレット色の煙のようなものが渦巻いていました。

そういうことが何日かあって、牛さんが何か訴えているのではないか、、、そうだ鼻の穴に通してある凧糸が嫌なのかと思い、はさみで切りました。
それ以降夜中に姿を見せなくなりました。その後部屋の状況によっていろんな場所に移動させていましたが、ひどいことに一時、アトリエのイーゼルの横に置いていたこともあり、飛び散ったウルトラマリンの油絵の具が背中にくっついてしまったままでした。でも絵の具がくっついたと言って夜中に出てくることがありませんでした。固まった油絵の具は「ストリッパー」、という溶剤を塗って暫く置いてから拭き取ることはできるんですが、せっかく時代を経た質感をダメにしてしまうのも嫌だし、「痛い」といってまた布団の上に出てきやしないかと二の足を踏んでいました。(ストリッパーが肌につくとひりひり痛くなるんです。)
今のところ夜中に出てきません。もしかすると十五夜さんが一緒にいるから遠慮しているのかもしれません。




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落語「今戸焼」より★

2015-03-16 10:04:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

以前、落語「今戸の狐」について採り上げましたが、もうひとつの演目である「今戸焼」についても触れてみたいと思います。

落語そのものについては、ただ笑って聴いているだけの私ですので、うんちくを披露するだけの知識もありません。話に登場する言葉の端だけについてだけ触れます。



この演目は八代目三笑亭可楽師匠所演のCDを聞いたのみですが、さらさらと実に淡々と噺されていますね。



タイトルの「今戸焼」は噺のサゲの「今戸焼の福助」に由来するばかりなのですが、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助というものが聴き手に周知されていたのですね。それだけ身近なものとして知られていたのでしょう。



「役者の福助」は成駒屋・中村歌右衛門家の大切な名跡である「中村福助」です。歌右衛門家では福助の名跡を空けてはいけない、と言われているそうなので、5代目歌右衛門(4代目福助として明治の劇界で絶大な人気を得た)以来常に名跡を継いでいる人があったようです。 歌右衛門家では児太郎→福助→芝翫→歌右衛門という順繰りに襲名していきます。では噺に登場するのはどの福助さんか?



この噺には「吉右衛門」「宗十郎」という名前も出てきます。播磨屋・初代中村吉右衛門紀伊国屋・沢村宗十郎です。吉右衛門は六代目尾上菊五郎とともに下谷二長町の市村座で人気をあげた人なので時代は大正以降です。この時代の沢村宗十郎は帝国劇場の専属として売っていた7代目と考えられます。この人は今戸にあった料亭「有明楼」を経営していたことでも知られています。この七代目宗十郎が亡くなるのは昭和24年なので、大正~昭和24年の間の中村福助さん。2人います。



先年お亡くなりになられた6代目中村歌右衛門さんも昭和8年に福助を襲名されていますが、まだ年少でした。そのお兄さんの「慶ちゃん福助」と呼ばれて美貌で人気のあった5代目中村福助(本名を慶次郎といった)こそが、この噺に出てくる「役者の福助」でしょう。現在の中村芝翫さんのお父上です。



今戸焼の土人形の福助ですが、いろいろな種類がありました。「叶福助」という人形もあったのですが、一番ポピュラーだったのではないかと思われるのが、画像のようなお福さんと夫婦の福助さんです。長年神棚にお祀りされていたのでしょう。煤けて色や絵付けがわかりません。この夫婦のタイプは両手を膝に置いたポーズのものもあります。画像の福助さんは扇、お福さんは宝珠を手にしています。



落語の「今戸焼」はYouTubeに八代目三笑亭可楽師匠所演の映像があります。まだご覧になられていない方はどうぞ。



YouTube 八代目 三笑亭可楽「今戸焼」→

 




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落語「今戸の狐」から★

2015-03-15 10:48:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


皆さまご存じの落語「骨の賽」(今戸の狐) 。

以前、知人から寄席の招待券をもらうことが多かったので、割とよく出かけたものですが、この演目は生で聞いたことがないんです。古今亭志ん生師匠所演のCDだけは持っていて聞いています。他の演者のは知らないのですが、細部など違うのでしょうか?



あらすじについては、私などが今さらと思うので省略します。

ここでは、噺の中に出てくる今戸焼の狐について長年不思議に思っていることを記したいと思います。内職で狐の絵付けをしている場面。これは昔、今戸焼の陶工の中に「木地屋」と呼ばれる人がいて、土人形の素焼きまでを専門として、業者が素焼きを仕入れ、別の人間が内職で色付けしていたという話と内容が合います。



噺の一番終わりの場面で、遊び人が勘違いして良助の家に上がり込んできて、戸棚の中の狐についてのやりとりで「金貼り」「銀貼り」という言葉がでてきます。遊び人にとっては「金張り」「銀張り」という博打の符牒が良助が内職で仕上げた狐の仕上げの種類との「金貼り」「銀貼り」と重なってくるところが面白いところですが、この「金貼り」「銀貼り」に相当する今戸焼の狐を私は未だかつて見たことがありません。金箔や銀箔を土人形の一部に貼りつけるのか、それとも全体に貼りつけるのか、、?箔を立体に貼りつけるのは結構面倒な作業のはずです。



2枚目の画像の手前に見える小さな狐のひとつ、黒ずんで見えるのは、これはまがい金泥(真鍮粉)を膠で溶いて塗ったものです。金泥には赤口、青口とあって、いずれも塗ったときにはきれいに輝いていますが時間が経つと酸化するのか真っ黒になります。こうしたまがいの金泥による仕上げは、歳の市で売り出される恵比寿大黒や寒紅の売り出しのおまけの紅丑などによく見られ、またこのような小さな狐に塗られる作例は見られます。しかし箔を貼ったものは見たことがありません。あるいは、どこかに残っていたら、後学のため、見せていただきたいと思います。



画像の狐たちは、今戸焼でお稲荷さんの奉納用に作られた「鉄砲狐」(一説に形が鉄砲の弾に似ているから)と呼ばれるもので、今戸で最も作られていた型のひとつです。地元浅草・下谷のお稲荷様はもとより、都内各地、成田山新勝寺の出世稲荷をはじめ下房一帯、相模のお稲荷様でも見かけていますし、埼玉県内でも、、。また東松山や熊谷付近、秩父地方では今戸の鉄砲狐を真似たよく似た狐も見られます。今戸には他にもたくさんの狐の種類はあったのですが、数の多さからいっても、噺に出てくる狐はこの型のものではないかと思います。作り手もたくさん、大きさもいろいろあったようですが、こうして並べてみると型も微妙に異なり、色も泥絵具だったり染料だったり、面描きのタッチも違います。お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の色手本にも配色が示されていて、台座のしましまは丹と群青、狐の足元は黄色(石黄?)と指定されています。2007_0101_000000p1010209



塗りが新しいものでも、型自体は台の低い型が古い型であると、誰かに聞いたことがあります。



3枚目の画像は私が再現を試みたものです。



ちなみに「骨の賽」ならぬ「土の賽」は今戸で作られていたようです。



YouTube動画 古今亭志ん生(五代目)「今戸の狐」→


★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

 

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今戸人形 「晴れ着」(明治時代・尾張屋兼吉翁作?)

2015-03-12 05:54:27 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


状態がよい人形ではありませんが、形や配色を把握できるという点では「こんな人形もあったんだ!」という作例を知る手がかりのひとつになると思います。新しい「おべべ」を着せてもらってうきうきしている心情の伝わってくる姿ですね。私は昔の「ローカルCM」のお宅なんですけど、この人形を見ると古い関西のCMを思い出します。「まあ きれいにならはって! ええ好みの着物やこと。そいつぁー岩田だよ。岩田呉服店」というのがあるんですが、うれしそうに両振袖を開いて見せたりするんです。まあCMに限ったことではなく、よい着物を身に着けたときにする姿なんでしょうね。

この人形の背面には「尾兼」の彫りがあり、最後の生粋の今戸人形の製作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)の養父であった金沢兼吉翁のお作りになった型なんだと思います。色の配色、色材の様子から、関東大震災後の春吉翁の作ではなくて、まだ今戸人形がおもちゃとして現役に作られていた明治時代のものだと思われます。振袖や裾に描かれた菱状の花模様は「羽子板持ち娘」にも見られるパターンですね。目のまわりの赤いぼかしもいかにも今戸人形という感じです。今日では娘さんたちが晴れ着を着る成人式とか大学の卒業式くらいなものなのかもしれませんが、思わずこんなポーズととってしまうということがありそうな気がします。(眉の描き込みがないので、既婚の女性なんですかね。でも着物や仕草は若々しい感じに見えるんですが、、。結髪的にはどうなんでしょうか。)

 

 

 

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乾也雛と○草雛

2015-03-03 21:19:29 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

今晩こそは「ひゐなの宵」ということになりますか。だいぶ前に「乾也雛と浅草雛」という記事をアップしたことがありました。
その続きということで記してみたいと思います。
最初の画像は当然ながら我が家の手持ちの人形ではありません。三浦乾也作の「室町風土雛」です。
モデリングもさることながら彩色の描き込み、、すごすぎます。展示のガラスケース越に撮ったものなのでちょっとぼやけていますが描き込みのすごさはおわかりになるかと思います。底にだったか背面にだったかへら彫りで記してあったかと思いますが、展示の仕方で廻って観ることができません。
これって型つくりなのか、完全に一品ものの手づくねのものなのかも触ってみないとわかりません。

2枚目の画像は手持ちの土雛で供箱。「深草雛」と記されています。上の乾也作の雛とは違いますが、雰囲気としては似た方向性のものではないかと思っています。一番眼につくのは台に描かれた「繧繝縁模様」(うんげんべりもよう=グラデーション風のたて縞模様)です。顔がお団子にちょこっと可愛い鼻をつけた様子も方向性としては近いと思います。今から4年か5年前、これの実物を見たくて、京都府総合資料館の「みかづきコレクション」蔵の同様の作の閲覧申請をして8月の末の京都へ一泊二日の強行軍で出かけたのです。更に遡ること今から30年くらい前だったか、玩具研究家の故・斉藤良輔さん監修だったかの「日本の人形」だったか「雛」だったか、新聞社から出版されたムック本があり、その中で郷土雛の東と西というテーマでカラー図版があって、その中に、この手の人形が「今戸人形」として紹介されていたこと。それが「みかづきコレクション」のものだということは後に藤田順子さんの「母と子のお雛様」だったか「お雛まつり」だったかに同じ画像で紹介されていたことで知りました。また「お人形は顔が命の吉徳さん」の先々代・山田徳兵衛さんの「人形百話」だったかによく似た人形の白黒画像があって「浅草雛」というものであることを知ったのです。京都まで閲覧に行った後、ほとんど同じつくりの現物が我が家に来たわけですが「深草雛」の箱書きがあって、「あれー?」という感じがするのですが、先の「繧繝縁模様」にしても乾也の雛とよく似たパターンなのはまったくの偶然ではないのだろうと考えています。「みかづきコレクション」にはしっかり「浅草雛」として登録されています。「浅」と「深」の一文字の違い。「かはらけは深い浅いの土で出来」という古い川柳がありますね。清水晴風の「雛百種」の中に浅草だったか江戸だったかの雛が含まれていて、この画像のに似た傾向のものだったような。そして以前アップしたことがある今戸人形の「一文雛」もお団子顔系です。
これら地下で何かしらつながっているのかどうかと思っています。せっかく我が家に来てくれたお雛様なので、いずれお手本として作ってみたいとうずうずしています。乾也作の「室町雛」に比べると地味にも見えますが、これでかなり描き込みのあるお雛さまです。

「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁 作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→
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今戸人形?「ちょっと変わった裃雛」

2015-03-01 18:15:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

3月に入りました。日々の雑事の追われて気がつかないことが多い中、春は着実に近づいています。昨日のご墓所参りで隅田公園には既に盛りの過ぎた紅白の梅の木々が見られたり、うちの町内の比較的人通りの少ない細道の梅の木や椿の木の間をたくさんの「めじろ」が飛び交っていました。まだグレイな地面にもぎざぎざのタンポポやタネツケバナの小さな葉っぱが放射線状に貼りついていました。雛まつり目前。これまでいくつかの今戸人形のお雛様やその周辺のお人形をとりあげてきましたが、ちょっと不思議な感じのものがしまってあったのに気がついてアップしてみました。
今戸焼の土人形のお雛様といえば、一番ポピュラーなものであったであろう「裃雛」です。伝世品として残っているもの、近世の遺跡から大量に出土する遺物の量から見ても、今戸人形のお雛さまを代表するものだと思います。以前にもスタンダードな裃雛をアップしていますが、今回のは感覚的にちょっと違う?ような気もするのです。構図としては裃雛そのものですがモデリングとしては前後の肉付けが厚く、ぼってりとした印象。男雛の顔がややたて長で首が埋まっているように太い。女雛のあご周りは特に丸みを帯びて「肝っ玉母さん」の故・京塚昌子さんをイメージしました。ガラ(土玉)は入っておらず振っても鳴りません。面描きの筆があまり延ばさずちょこっとしたタッチですが筆の穂先は鋭く、慣れた筆使いではあります。(尾張屋春吉翁のタッチにも似てはいるような、、。)でもこんな感じの面描きの裃雛は我が家にはこれ以外ありません。
ひとつ気がつくのは帯紐と櫛?の部分に使われている銀(アルミニウム粉)です。銀で思い出すのは今戸人形の流れを汲む千葉県飯岡の土人形。あまり見たり触れる機会の少ない人形ですが、かなり末期に近い飯岡人形の裃雛の図版では着物の群青色の上に、粒子のかなり細かい銀色の粉を叩きつけてあるのを記憶しています。飯岡の人形といえば、かなりダイナミックな筆使いで子供の描画にも通じる野趣にあふれた作風というイメージがありますが、実際のところ画像の裃雛は「飯岡人形」の初期に近いものなの?」「今戸人形」なのか?頭をひねっているところです。

また男雛の底には古い三越の値札(たて書き)が貼りついていて「♯9 壱號 拾参銭」と記されているので、土雛が大人の趣味家の収集対象となり、三越呉服店(または百貨店)の陳列会場で即売されていたものではないかと想像しています。お詳しい方にお教えいただきたいところです。

今戸人形の雛やその周辺に関するこれまでの記事

今戸人形「裃雛」(江戸時代後期)→
今戸人形「裃雛」(明治時代)→
今戸人形「裃雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→
「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「官女」→
「今戸の土偶で雛まつり」→
「地口ゑ手本から①」→

拙作「仕事場」での記事「身に余る光栄」→

「吉徳さんと裃雛」→
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捻り人形「招き河童」

2014-07-03 22:13:11 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010897 まだ仕事が済んだわけではないのですが、久しぶりに昔の人形の作例をご紹介したいと思います。画像ぼけぼけで済みません。

 とても小さなもので高さ2.5センチくらいでしょうか。残念なことに招く手先が損じていますが、私にとっては形があるだけでも十分な資料です。

損じている部分から覗く土色は江戸の赤い土ではなくて白っぽいものです。しかし、浅草辺りで鬻がれていたものと言ってよいでしょう。

 今戸人形の範疇に入るかどうかというところで断言できませんが、東京で作られたものと考えて間違いないでしょう。

損じているほうの手はあきらかに別作りで作って接合したもので「捻りの人形」「小捻(しょうねん)」という類のものと考えてよいでしょう。

戦前の有坂与太郎の著作等では「小捻」の作者の系譜には江戸東京系と関西系とがあったようです。

昨年の暮れにお亡くなりになられた捻り人形の名人葛飾の「杉立命光」さんと立話とさせていただいたことがありますが、杉立さんは遡ると京都の系統の流れを汲むのだと仰っていました。また、杉立さんはご自分の捻りの細工に使用する土は「本山木節粘土」(もとやまきぶしねんど)だと仰っていました。木節粘土はキメが細かく、粘りがあり、収縮も少ないので人形に向くのだそうです。

 画像の河童は木節粘土かどうかわかりませんが、関東の土ではなくてキメの細かい中京、関西の土と言って間違いはないのではないでしょうか。

古い尾張屋さん(江戸明治からの伝統を伝えていた最後の正当的な今戸人形屋さんで昭和19年に亡くなられた)の河童の人形の型では愛嬌のある可愛い表情のものがありますが、この人形は妖気のある、ちょっとおっかない顔ですね。そもそも河童は妖怪のひとつでもあり、滑稽な伝説もあれば、恐ろしい行いもしていたようなので、こんな表情のが本来なのかもしれませんね。

使用されている色は尾張屋さんの「藍色」とも、戦後人形製作を始められた白井さん(人形作りの古い伝承はない)の「澱んだ緑色」とも異なる草色がかった色ですが頭髪に「べんがら」の茶を置く辺り、やはり今戸に近しい感じがします。
河童が招く動作は画像の人形に限らず、一文人形にも招く河童があるのでパターンとして確立していたのかもしれません。

それにしても「招き猫」に限らず「招き狸」「招き狐」あり「招き河童」ありと、今戸焼の土人形には古くから招くパターンというものがあったというのは楽しいと思います。

古い今戸焼の河童の土人形の作例としてご参考まで

尾張屋春吉翁作 「客引き河童」→

尾張屋春吉翁作 「河童の火入れ」→

尾張屋春吉翁作 「娘河童」→

 

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