今戸焼の土人形の福助の型としては福助とお福の夫婦タイプよりも更に古い?と考えられるのが、この「叶 福助」です。この叶福助のルーツは現在の大丸百貨店の創業とも関わっているようです。
嘉永5年の丸〆猫(まるしめのねこ)の大流行に先がけて文化年間に江戸市中で流行したようです。このことは街談文々 第壱話ー第五話)の記録に残っています。
これは文化文政期(1804-1829年)の巷の話題を書き記したもので作者は石塚豊芥子、別名集古堂豊亭とも言った人だそうです。
第弐 叶福助起原
一 当春より叶福助と号(なずけ)し頭大きく背短く上下(裃)を着し
たる姿を人形に作り、張子又は土にて作り一枚絵に摺出し、
其外いろいろのものに準(なぞ)らへ、尤(もて)あそぶ事大ニ流行す。 後には
撫牛の如く蒲団に乗せ、祭る時は福徳ますとて小(ちいさ)キ宮に
入(いれ)、願ふ事一ツ成就すれハ蒲団を仕立上ル事なり。 其根元なんと
いふ出処を知らず、 唯愚夫愚婦の心ニも応せさる願立
いたしけるこそうたてける。 其節の落首に
とくし(特祠)よりよひ事ばかりかさなりて
心のままに叶福助
叶福助伝ト小本出板
福助伝
一 ある人のいふ江都の士何某みやこ在勤のおり福介とい
ふ小者(ずさ)主人の出世を神にいのり、やがて
昇進有りしとかや。 主人も誠忠を感じ、福介なきのち
も深草なる土偶つくに、かの福助が形ちを製させ、いますが
ごとく配前なせしといへり。 こと替りし物なれば夫より手遊(てすさび)ニも
商(あきな)ふ時ハ斉の晏子に同じけれハ、人とけいする事も知らず。 衣
服に眠子が紋ハあれど舞台の心いきおぼつかじ。 あたまは
頼朝の異名をかふむりながら、人品つたなし。 朝比奈にハ髭
なく梶原にでじまなし。 只大文字屋の昔を思ふのミ
されど誠忠四方にひびきて、衆人尊敬して福助
をいのるしるしあり。 嗚呼称すべし娼家の神棚に三
平自慢のお福のめん、揚場の上にたつハ容人大
明神の御使者なるかや
あをげただ君子の
徳や涼風の
ふくハうちはの
絵こそめてたき
立川えんま師述
右は 立川談洲楼焉馬翁の福助の賛なり因(ちなみ)ニ爰に書ス
戯文 叶福助親類書
一 高百千万石 本国 深草 福神組西宮夷三郎支配
生国 今戸 叶福助
拝領屋敷宿処当分手遊方(てすさびかた)ニ住居仕る
一 毘沙門様御代、私父福寿延命小判改御役相勤候節
へやずみ被罷出(まかりだされ)、見習被仰付(おうせつけられ)文福元甲子年福寿
金銀等銭沢山ニ罷成(まかりなり)、願の通隠居被仰付(おうせつけられ)此旨於
鶴亀の間(まにおいて)、七福神御列座出世大黒天殿被仰渡(おおせわたされ)、直(ただち)に
御金蔵白鼠番被仰付(おうせつけられ)、 当時金貸仕(つかまつり)候
於多福女郎娘
妻
豊芥按(あんずる)ニ
此叶福助の人形の起りハ新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋
市兵衛初メハ河原見世にて追々仕出し、京町弐丁目へ移り
大娼家となりぬ。 此先祖至(いたっ)て悋惜(りんせき)にて、日々の食物菜の物
も下食(げじき)成(なる)ものを買置、夏の間ハ南瓜多く買置、秋迄も惣菜に
ものしける由へ、近辺の者悪口ニ唱歌(となえうた)を作り「ここに京町大文じ
やの大かぼちゃ、其名ハ市兵衛と申まス、ほんに誠ニ猿まなこ
ヨイハイナヨイハイナト」、 大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此唱
歌大評判になり、大文字屋ハ寿々(ますます)大繁昌せり
此歌の手遊(てすさび)に是ニもとづき、 大頭の人形に上下を着せ叶福助ト
名号(なづけ)何まれ願ひを懸ケ、利益のある時ハ布団拵(こしらえ)上る事なり
又上の山方に頭大き成る男に柿色の上下を着せ、 年頃十二三叶福助ト云々
見世物に出したり。 是等もあたま大キ由へ顔を晒して利分を得たり
相良侯ハ撫牛を信して出世ありしとて世の人是をまなぶ。 叶
福助も今に廃(すた)ることなし
以上は江戸市中での流行を綴ったもので、実は京、大阪での叶福助の流行が江戸に移入された後に江戸バージョンの話の内容にすげ替えらえたのではないでしょうか?新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋 市兵衛とあるのはオリジナルの話では現在の大丸百貨店の前身の大文字屋の創業者・大文字屋 下村彦右衛門の物語だったようです。
大丸百貨店創業にのついては大丸百貨店のHPに
大丸の歴史は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。この名古屋店で初めて、商標にちなんだ「大丸屋」という屋号を使用している。名古屋店出店の翌年、1729年、大阪、名古屋の繁栄に呼応して京都に仕入れ店を設置、仕入れ担当者を常駐させ、問屋などの仲介を廃して直接仕入れを行うようになった。今でいうところの本部集中仕入れ、セントラル・バイイングである。そして1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。進出計画は、開店の7年前である1736年(元文元年)から開始され、開店5年前の1738年(元文3年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった。
とあります。この下村彦右衛門という人は背が低く頭が大きかったそうで、福助人形のモデルになった人だと言われています。また、最初に店を出した京都・伏見こそは、今戸人形の母胎となった伏見人形の生産地で、たくさんの福助の人形の型が残されています。
画像の今戸の「叶 福助」もまた、伏見人形の型から抜き型されたものと考えられます。また江戸での「叶 福助」の流行は、「大丸屋」の江戸での開店に伴って、意図的に仕組まれたものではなかったかと想像することもできそうです。江戸での開店から文化年間までは50数年間以上の開きがあるのですが、本家の伏見人形の福助もまた、「大文字屋」の創業に合わせてすぐに流行したものとは限らず、「大丸屋」の繁盛に便乗して流行したものとも想像でき、また京、大阪での福助の流行から遅れて江戸に流入した訳ですから、じわじわと世間に浸透していったことを想像すれば、どうでしょうか? 販売促進の手法として途中から導入されたとか、、、?
もういちど街談文々 第壱話ー第五話の記録に戻りますが、頭大き成る男に柿色の上下を着せという表現から、当時の今戸の「叶 福助」の人形は裃が柿色=べんがらの顔料で塗られていたのではないかと想像できます。このことは、江戸時代からの老舗人形問屋である浅草橋の吉徳さんに残されている天保年間の人形玩具の配色手本帳に描かれている福助の裃がべんがらに指定されていることに通じていると思いますし、実際残っている今戸焼の福助がそう塗られている事実とも符牒が合って面白いと思います。両耳のところに穴が空けてあり、麻の繊維の髪が植えつけてあります。これは伏見人形からの模倣でしょう。今戸人形に限らす、各地の伏見系の土人形の福助には、こうした工夫がよく見られます。また、眼点の位置、つまり目線が下向きに描かれているのは、神棚にお祀りした場合、下から拝む人の目線と合わせることを意図しているものだと思います。
更に空想を巡らせば、丸〆猫の「丸に〆」というのは、大丸屋の「丸に大」との因果関係があったのかな?ということにもつながるのかどうか?
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福助さんの由来も分かり、「丹嘉」さんのHPを見たところ、現在の伏見人形では福助さんの目線は下向きとは限らないようでした。伏見の福助さんは、神棚に飾る存在から、もっと身近なものになったようで、うれしい気持ちです。
いつもながら、大変参考になる記事をありがとうございました。
伏見のことは地元でよくご存じですね。私は3度しか行ったことがありません。福助と大丸との関係は昔、荒俣さんの「福助さん」という本で読んだことがあったので何となく憶えていましたが、大文字屋がはじめて伏見に店を出した件は今回はじめて認識したようなものです。大丸は東京駅八重洲口の東京店は、子供の頃、民芸品に興味を持ち始めた頃、正月なんかの初売りでそういうものを売る催しがあったのでお年玉を握りしめて行ったことはよく憶えているのですが、それ以外の買いものとなるとあまり行っていないような気がします。今八重洲口の工事をしていますが、大丸のビルはなくなってしまったのですね。気がつきませんでした。実はすごく昔のことですが、赤羽にも大丸があったのです。幼稚園の頃だったかと思います。LALAガーデン(赤羽すずらん通り)の今「ダイソー」になっているビルが当時そのまま大丸でした。ビルの屋上に「丸に大」のマークの塔が建っていたのです。