東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(48)「隅田川の灰器」(白井善次郎 作)

2012-04-02 01:44:49 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010526桜は開花したのでしょうか?

今年は例年に比べて遅いようですね。卒業式向けには遅くて残念だったかと思いますが、入学式向けにはラッキーかもしれません。

桜ということで思い出しとりあげます。茶道については皆目わからないので、猫に小判かもしれません。箱に「隅田川灰器」と書いてあります。

白井家の本家「白井善次郎家」で作られたものです。底に「白井善入」という陶印があります。何代目の善次郎さんの作でしょうか?

器の側面に桜の花びらが陰刻され散りばめてあります。「桜=隅田川」ということなのでしょうか?そういえば、これまでこの「今戸焼」のカテゴリーでとりあげた器物のいくつかにも桜の陰刻のあるものがありました。特に橋本三治郎作の炉台には桜の蕾に「隅田川」という文字も陰刻されていたので、やっぱり「桜=隅田川」という趣向なのか?もちろん今戸の川向かいの墨堤の桜は昔から有名ですし、「長命寺の桜餅」という名物まであります。浅草側の岸辺も今では隅田公園の桜で有名ですし、言問橋の袂には瀧連太郎の「花」(春のうららの隅田川♪)の碑もありますね。

今から20年くらい前に葛飾区の宝町にいらした「善次郎家」の白井和夫さんを訪ねて、焼成窯や仕事場を見学させていただいたことがありました。同じく葛飾区内青砥の内山英良さんのお宅にもお邪魔したのですが、どちらをお訪ねした時も感動しました。趣味品とか民芸品という看板ではなく、ごく普通に植木鉢とか焙烙だとかを作っていらっしゃるんです。「ああこれが今戸焼の本来の姿なんだ、、、、、。」と。内山さんのお宅の敷地には粘土の山があって、近くで採取された土なんです。「これは粘い土」「あっちはさくい(粗い)土」とお聞きして、ふたつを混ぜ合わせて製品に合う土にブレンドするそうでした。

白井和夫さんの家(善次郎家)は東京大空襲のあと、葛飾に移られて家業を続けておいでだったそうで、もとは今戸にいらした訳です。今戸神社の狛犬の基壇の連名に刻まれている「白井善次郎」家なんです。白井和夫さんから7代前(8代前だったか?)に善次郎家から分家したのが「白井半七家」で、同じく狛犬の基壇に名前が刻まれています。知名度としては「半七」のほうが知られているので「半七家」が本家のように書かれているものもありますが、「善次郎家」が本家で、「半七家」は分家。それと今、今戸にいらっしゃる白井さんは幕末頃、「善次郎家」から「清二郎」という人が分家してそこから続いているそうです。「半七家」は七代目の時、関東大震災で罹災されたのをきっかけに小林一三ら関西のお茶人に招かれて、兵庫県の宝塚に移住され、あちらで窯を築いたそうですが、それ以降も代々の当主が変わる度に本家の「善次郎家」に挨拶に上京されるのが慣わしだったそうです。

お邪魔した当時、和夫さんから色々なお話をお聞きしたものの、こちらが理解するだけの予習をしていなかったので、今になって本当にもったいないことをしてしまったと後悔しています。「みがき」のことや昔の今戸のことなど、、、。有名な言問団子の都鳥の皿も善次郎家で焼いて納めていた話、隅田川に架かる「吾妻橋」の土台の煉瓦や丹那トンネルの煉瓦作りの技術指導にも和夫さんのお爺さんの善次郎さんが関わっていたとか、、。それと今戸焼の土人形の尾張屋さんの話、「猫屋」さんの話も出てきたので、最近尾張屋さんの金澤家からお聞きした話と繋がってくるのです。

画像の灰器に話に戻ると、和夫さんのお話で、白井家の楽焼では釉薬をかけてから砂を振るとか(或いはその反対?)聞いた憶えがあるのですが、画像の口縁の辺りに砂っぽいものが見えるのが、このことなのか?と思っています。「半七家」の作の香合でも砂っぽいものがついているのを見た憶えがあるので、同じことなのでしょうか?できることならば、今こうした現物を持って、和夫さんに質問できたらよかったと思うばかりです。

「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが桜の花の陰刻のある今戸焼の器物について他にも記事にとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。

炉台(橋本三治郎作)→

紅塗りの手あぶり(白井半七作)→

紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私も茶道には無知ですが、今戸焼にも茶道の器が有... ()
2012-04-02 22:26:29
中は前面に茶色の釉薬を塗っていて、素朴な感じを出しています。
外は縁だけに塗っていて、見た感じも良いですね。
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琢さま (いまどき)
2012-04-02 23:05:25
コメントありがとうございます。
そうですね。「今戸焼」というと落語なんかに出てくるくらいに、どっちかというと日用雑器とか土人形というイメージはあると思いますが、実際茶道具とかも作られていたということは少しづつ知るようになりました。この灰器ですが、側面や底の白く見えるところはマットな感じに透明な釉薬がかかっているんです。「今戸焼」と呼ばれるものの幅の広さには実際私も驚いてしまいます。
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私には焼き物のことは皆目分かりませんが、読んで... (都月満夫)
2012-04-07 20:32:47
北海道には伝統を感じられる場所も物もありません。
こちらの桜は、蝦夷山桜。開花は5月です。
したっけ。
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都月さま (いまどき)
2012-04-08 21:04:04
コメントありがとうございます。私も焼き物に造詣深いわけではありません。ただ今戸焼の土人形にはじまってその母胎である今戸焼について知りたいという気持ちだけなんです。最近コマーシャリズムに乗って、名前が持て囃されているようですが、実際のところ、昔のこととか、震災戦災で葛飾区方面に移られた今戸焼の流れについてあまり触れられていません。強いていうならば、本来の今戸焼の姿は葛飾区内にこそ残っているとも言えるような気がしますし、それに感動しました。また昔の製品を知ることによって本来の今戸焼の姿を知ることができるような気がします。歴史ばかりを強調して実際の伝統的な今戸焼の姿から変わってしまったものを江戸伝統のもののように伝えるマスコミの功罪は測り知れないものだと思います。京都や金沢などの街ではこういうことがあるのでしょうか?
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なるほど・・・。 (都月満夫)
2012-04-14 14:15:00
伝統は伝統を知るものによって伝統として受け継がれる。
報道というものはある一面しか伝えることはできませんから、受け取る側は一面しか見ないで理解した気になる。
本物を伝えるということは難しいですね。
したっけ。
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都月さま (いまどき)
2012-04-18 01:49:48
ありがとうございます。こんなこと言うとちょっと生意気かもしれませんが、「今戸焼」に関しては、知りたくていろいろよ読みかじり、観かじりしていると昔のものはこうだった、という氷山の一角は見えるように思います。最近ある方から、このブログでよくとりあげさせていただいている「最後の生粋の今戸焼の人形師だった、尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)」の「最後の」という意味はどういうことか?今でも今戸焼の人形は作られているのに何故か?というご質問をいただきました。そのうちこの件について触れてみたいと思います。
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