東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

お知らせ「中野ひな市」

2015-03-10 16:33:58 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


お世話くださる方がいらして、今年の信州「中野のひな市」での「全国土人形販売」の枠に入れていただくことになりました。
「ひな市」は例年3月31日と4月1日の2日間、長野県中野市で行われるもので、全国から「中野の土びな」を求めて愛好家が殺到するので有名ですね。恥ずかしい話、湯田中温泉を兼ねてぶらりと中野へ行ったことはあるんですが、「ひな市」の当日はまだ現地にいたことはありません。「中野の土びな」がこんなに人気があり、町の挙げての全国的行事にまで発展したのは、ひとえに作者の「奈良政治さんと久雄さん」の人形作りに対する一途さと出来た人形の入念さが人を惹きつけるという事実に尽きますね。現役の日本の土人形産地の中で圧倒的な人気です。(今さらここで言うことでもないんですが。)
 ただ一度中野へ行ったことがあるのは、自分で土いじりを始める前だったかと思います。既に中野市内に「土人形博物館」が小高い丘の上だったかにありました。「松川」という駅だったかから歩いたところに「奈良さん」の家があり家の前にドラム缶でできた焼成窯がありました。
玄関に張り紙がしてあって「ひな市準備のため、人形はお売りできません」といったような貼り紙がしてあって、「そうか?もうすぐ雛市なんだ」とそこで認識したんです。馬鹿ですね。でもせっかく来たので玄関から「仕事場見せてください」ってお願いしてあがらせていただいたんです。たぶん「抜け駆けで人形を買いに来た不心得者」と思われたようでしたが「仕事見せてもらうだけでいいんです。」とお願いしたら、「どうぞどうぞ」とお忙しい中見せてくれました。注文ノートみたいなものがあって何年待つかどうかわからなくても欲しいという人が既にぎっしり種類と住所、電話番号など記入してあって、ミーハーなところで、自分も数種類記入して帰りました。「一年半くらいあとで問い合わせてください。」と言われたんですが、その後には自分の関心が現在の方向に気持ちが固まってきていて、手紙で「昨年ノートに何種類か作ってくださいとお願いしたのですが、申し訳ありませんが、他の方にお回しください」なようなキャンセルの要件でお送りしてしまって失礼なことをしてしまったな。と今でも申し訳なく思ってます。でもお忙しそうだから、、、。
 時代はもっと遡って、中学生の頃、赤坂TBSの近くに「撰・大木」という民芸店がありました。広くはない店内にはこけしから土人形、張り子など愛好家垂涎の的になりそうなものがぎっしりと詰まっていて、お年玉を握りしめて出かけていましたね。毎月催事案内のハガキが送られてきて、マンスリーに作者の人が店内で実演して仕事を見せてくれるというのがあり、奈良さんも実演されているのを観に行きました。
「うちの胡粉は伏見で使っているような上等なものではないんだよ。」とか中学生だった自分に話してくれたのを思い出します。
 奈良さんの人形に纏わる思い出は他にもあって、昔、日本橋の東急百貨店(白木屋)で毎年正月に「全国郷土玩具展」という催事があって、全国の作者から届いた郷土玩具が手に入るということで初日の開店時間というものは大変なものでした。玄関が開くとエレベーターに走る人(エレベータに一番乗りに乗っても後から入った客が先に降りることになってしまう)何番のエレベーターからでないとあそこの曲がり角で転ぶとかいろいろベテランの人が作戦を練っているみたいでした。運動の苦手な私でもまだ若かったのでエスカレータを駆け上ったりして、目指すは土人形コーナーの「奈良さん」のケースなんです。一度ケースの真ん前に早く辿り着いて手に取ろうとしたら、後ろから何十人という人が押してきて、その圧力でガラスケースが「バリバリ」割れてケースに陳列してあった出来上がった人形が倒れたり落ちたりしてこなごなになり、血が散乱したこともありました。(私も手を切ったひとりで保健室で手当てを受けました。恥。)常連の人には複数でタッグを組んで如何に能率よく中野人形をゲットするか戦術を練ったりしてる人もいたような、、。いつも黒いジャンパーを着ている人だったな、、。「日本人は浅ましいね。」ってフランスご出身の人形愛好家が眉をひそめてました。(自分もそのひとりなんだろうな、と。)
 余計な思いで話になってしまったのですが、「ひな市」もそれくらい全国から欲しい人が集まって「冬空の下2日前3日前から並んだ」とかそれでもダメだったとかいうような話も聞いたことがあります。あと郷土玩具愛好家の間で「人形が欲しければある人に拝み倒してまわしてもらう、、、その人は自分が如何に奈良さんと懇意にしているかということで天狗だとか、でも他の人間が奈良さんと親しくなると不機嫌だとか、、、。」という話も聞いたり、人気がありすぎて、欲しければ試練をくぐって、、。みたいな話をいろいろ聞きますが、今では中野市のほうでいろいろ混乱とならないような対策とかシステムとかをしっかり検討されているのではないでしょうか。

奈良さんのお人形は大小にかかわらず祈るかのように心を込めて作られていて細部にまで気が入っています。だからこそ人を惹きつけるんですね。(あんなに手間がかかっているのに、奈良さんの原価がそんなに高くないというのもすごいことです。まさに人間性。もっとも世の中には廉価に入手して信じられないようなマージンをふっかけるブローカー的な人もいるようです。)
いつかまた仕事場を見学させてもらって人形作りの基本的なものを学ばせてもらえたらな、、と思います。当然産地によって型が違うとか配色とか装飾の仕上げ方が違うのですが、材料の扱い方とか基本的なものは共通していると思います。
今回、「全国枠」に入れていただき(20年くらい前に他の方のお世話で招き猫ばかりを出させていただいたことは一回だけあったのですが)当然買ってくださる方がいらっしゃればうれしいですが、何よりも拙作の世間様の目に直接触れる機会となって欲しいと思っています。荷造りしている画像を張り付けましたが、これらは無事現地に届いたとのことでひとまず安心しました。
中野にお出かけの方、ついでがあったら拙作のもご覧くださいませ。(規定により一種類一点の出品ということなので数的にはそんなに送っておりません。)

中野ひな市HP→

 

 

 

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今戸焼⑪ 紅塗りの手あぶり火鉢 その②(白井半七 作)★

2015-03-10 15:59:44 | 今戸焼(浅草 隅田川)


手あぶり火鉢です。陶印には「白井半七」とあります。「白井半七」といえば、今戸焼に関する記述には必ず出てくる作者ですね。とりあえず「東洋文庫」の黒川真頼著 前田泰次 校注「増訂 工芸志科」から引用します。この本は明治11年刊の「工芸志科」上下二冊(博物局版)と明治21年刊の同書「増補訂正 工芸志科」(宮内省博物館蔵版)の2種類を本に基づいて校注したものだそうです。その今戸焼の項より、、。

○貞享年間、土器の工人白井半七という者あり、今戸に於いて始めて店茶家に用いる所の土風炉を製し、又火鉢等の種々の瓦器を造る。世人是れを今戸の土風炉師と称す。尋で其の地の工人これに倣い業を開く者あり、漸く数戸に及ぶ。



○享保年間二世白井半七という者、始めて瓦器に釉水を施し楽焼と等しき者を製す。爾ありてより以来工人又これに倣い、業を開く者数十戸に及べり。多くは食器にして雑記は甚だ尠し。衆人之を用呼んで今戸焼という。



○三世も亦白井半七と云う。四世も亦同名なり。後に蘆斎と号す。五世も亦同名にして蘆斎と号す。初世より以下数世、土風炉及び楽焼きを製す。その他の職業年序を経て漸く盛んなり。又婦女の塑像を造る、翫弄物なり。其の製伏見人形に似て甚だ麁朴なり。而れども精巧ならざる所に奇作ありて、好事の輩は今戸人形と唱えて之を愛翫す。



○明治年間六世白井半七、世業を襲ぎ土風炉を作り、又楽焼を能くす、最も名声あり。(中略)其の他の工人土器及び楽焼き塑像を製する物多し。其の戸数遂に四十に及ぶ。其の他の工人業を営んで今日に至る。



これは明治21年に訂正刊行されるまでの流れです。6世半七までの記述で終わっていますが半七の名前は9世まで続いています。



7世白井半七(1857~1933)は今戸で業を継いでいたが、関東大震災に遭い、兵庫伊丹に招かれて、伊丹に窯を築いた。養子の半次郎氏(1898~1949)が8世半七を継ぎ、関西で茶陶を製作していたが、小林一三氏(阪急電鉄会長、宝塚歌劇の創始者)に請われて、宝塚市に窯を移した。九世半七(1928~1987)は戦後、宝塚市の都市化に伴い三田市の郊外に移し、昭和62年に亡くなったとあります。



手あぶりの話に戻ります。この手あぶりも橋本三治郎のと同様、磨いてからべんがらを混ぜた漆で仕上げてあり、胴のところに、桜の花やつぼみの模様が刻まれています。代々の半七の陶印や銘がいろいろありますが、どれが何代目のものか虎の巻があればいいのですが、今のところそういうものが存在するのかわかりません。



今戸で製作していて大震災に遭い、伊丹に移住したのが7世で、7世までは「墨田川 半七」という陶印を使っていたという話ですが、これも作品によりけりでひとりの人物が色々な印を使い分けていたということもありそうなので、ご専門の方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。



この手あぶりには「白井半七」の印だけですが、関西へ移ってからの半七の作品は関西の茶人の好みに合わせ、上品な作風になっているようなイメージを持ちます。それからすると、橋本三治郎の製品とも共通点をもつ、この手あぶりは、まだ今戸で作られていた時代のものではないかと思うのですが、所詮素人考えで、わかりません。



「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが、桜の花の陰刻のある今戸焼の他の器物についても記事でとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。



隅田川の灰器(白井善次郎作)→



炉台(橋本三治郎作)→



紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→



★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

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