東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

ぴいぴい作り

2013-06-14 10:45:58 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011175 ぴいぴい(鞴のり人形笛)を作っているところです。昔の今戸焼の土人形の中には土人形単体のものもあれば、紙や木片による細工と土人形の組み合わさったものもありました。

 例えば、この「ぴいぴい」以外にも「魚釣り」だとか経木箱入りの人形、枡入りの恵比寿大黒などです。

こうした際物的な玩具は縁日の露店や歳の市の縁起物

として売られたものだろうと考えられ、その製造は今戸の窯元だけで作ったのではなく、パーツである素焼きの木地を今戸で、木片や紙の細工、笛の仕掛け、ガラス片などはそれぞれ異なった職分の人の手を経て、手内職のおばあさんなどによって組み立てられていたのではないかと思うのです。

 私の場合、ひとりで何役も兼ねて作っていますので「お染の7役」のようなものだと思います。

何といって手間なのは鞴の部分作りです。あらかじめ切断しておいた木片のサイズにあわせて紙の蛇腹を折りますが、昔の伝世品は反故紙を染めて貼り合わせて作ってあるので、それに準じて、本物の反故紙だとかびていたり虫食いがあって使いづらいので「反故代用紙」という和紙を買ってきて、染料とアラビアゴムを混ぜて色を染めると同時に紙の目地から空気が漏れにくいようにします。明治出来の「ぴいぴい」には紫色に染めた反故紙が多いですが。緑や赤なんかもあります。江戸時代天保年間のぴいぴいの配色見本が残っており(吉徳これくしょん)その中では紙はねずみ色と指定されているので、染料ではなく、胡粉と墨とを混ぜ合わせたねずみ色で紙を塗ります。画像の中に見えるねずみ色のこより状の紙が蛇腹になるところで、ねずみ色の蛇腹は現在のところ画像左端に見える「たぬきのぴいぴい」用になります。画面奥に見える「犬のぴいぴい」や「招き猫のぴいぴい」は明治調に作って居るので蛇腹は紫色に染めた「反故代用紙」です。「招き猫のぴいぴい」には当時の作り手によって何種類かのよく似てはいても微妙に異なる型や配色のパターンがありますが、今作っているのはそのひとつで比較的愛嬌のない無愛想な表情の猫です。この猫のよだれかけには顔料ではなく赤のスカーレット染料で着色してその上に胡粉の白でドーナッツ状の模様を描き込んでいます。スカーレット染料単独で塗るとドス黒い感じの色になってしまうので、お手本の伝世品にも地に黄色の顔料を塗ってからその上からスカーレット染料を重ねて発色をよくしてあります。

 土台の鞴を伸縮させて空気を動かすことで人形内部の笛が鳴くという他愛のないものですが、昔あったものを今に再生させたいという気持ちで作っています。

 現在入手できる「反故代用紙」の印刷柄は「古事記」「高砂(謡本)」「朝顔日記(浄瑠璃床本)」と「大福帳」の4種類くらいで、浄瑠璃床本だとちょっとわざとらしくなってしまう気がするので一番よく使うのは「古事記」、気分によって「高砂」や「大福帳」も用意はしてあります。時々町の中華料理屋さんで「十八番」なんて屋号のお店があって中華料理屋なのに看板の文字は勘亭流だったりするようなちょっと妙な感じ不自然さが「朝顔日記」をあまり使わない理由です。


今戸焼(51)紅鉢型雲華土風炉(作根弁次郎 作)

2013-06-14 10:13:07 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010224 この土風炉の作者「作根弁次郎」という人は陶磁関係の文献で「嘉永年間の今戸焼の上工、、」という表記がされています。旧・今戸八幡の狛犬の基台に刻まれている今戸焼の陶工の名前には含まれておらず、狛犬が再建された時よりも後の時代に出てきた人なのでしょうか。

  私自身が直接お話を聞くことのできた今戸焼の関係者、古くからの今戸町の古老のお話の中で、「猫屋」という屋号が必ずといってよいほど出てきたものです。例えば葛飾お花茶屋にいらした白井本家・善次郎家の白井和夫さんのお話、今から20数年前に今戸町内で燃料屋を営んでいらしたお爺さんの話、そしてたびたびこのブログにご登場いただいている最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお孫さんである武佑さん(昨年末にご他界されました。謹んでお悔やみ申し上げます。)のお話にも「猫屋」のことを聞きました。

 この「猫屋」という屋号は作根弁次郎さんが作ったという猫脚のついた炉台が大変な評判となったからであるようなことが有坂与太郎の著作に記されています。その話を知るまでは、招き猫などの猫の土人形を手がけた人がいたからなのだろうかと思っていました。

 またこの「作根弁次郎」さんこそは、尾張屋・金澤春吉翁の実父なのだそうです。そのため金沢家と作根家とは親戚関係にあり、春吉翁がご生前ただひとりの弟子を仕込んだ、というのは作根家の通称「清さん」と呼ばれていた作根清二郎という人で、残念ながら夭折されたそうです。

 画像の土風炉作者「作根弁次郎」さんの話に戻ると、この人は例えば忠臣蔵で有名な播州赤穂の焼き物に大きな影響を与えたとかで、赤穂焼という焼き物には雲華焼風な仕上げの技術が伝わっているのだそうです。

 かねてから気になっていること、、、。春吉翁は作根家に生まれ、尾張屋・金澤家の養子に入り、家業の土人形で有名な人ですが、いくつ頃に金澤家に入られたのか、、?翁の語った話が記録されていますが、年少の頃より煙草が好きで、「吸いたければ働け」と養父兼吉翁に言われて仕事に励んだということです。十代の頃の話でしょうか。土人形製作が中心であったにせよ、春吉翁には実父の弁次郎さんからろくろや焼成などの「猫屋」さんの技術が伝わっていたのかどうか、、?春吉翁の仕事風景の画像が残っていますが、中には手回しろくろの上に人形を乗せて仕事しているものや、窯詰めのところで、小さな人形を入れる「サヤ」や重しとして伏せて乗せてある「焙烙」のようなものが見えます。これらは春吉翁が自分でこしらえたものなのかどうか気になるところです。

 春吉翁の娘さんである花さんの懐古談によれば、バーナードリーチは本所に窯を築いた折には、リーチの師匠である「浦野繁吉」(浦野乾哉)と春吉翁が親戚であった関係からリーチのために焼き物のひととおりを手伝ったということなので、技術としては人形や箱庭細工以外の今戸の焼き物ができる人であったのでしょう。

 さて「猫屋」作根家のその後の消息についてどうなったのかということも知りたいところですが、昭和はじめの「今戸焼共同組合」による刷物には「猫屋」の名前がありますが、昭和8年の「郷土風景」という雑誌の記事に記されている当時の今戸町内にある窯の列記には含まれてはいません。春吉翁のお孫さんの武佑さんからお聞きした話では第二次大戦の末期、武佑さんは作根家に疎開していたそうで、そこは群馬県の太田市であったといいます。その後についてはご存知ないそうですが、どこかで、関西の方に移ったとかいう話を読んだかしたように憶えているのですが実際のところはわかりません。

 画像の土風炉の底には「作根弁次郎」という陶印が押されています。