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東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸神社の狛犬銘文(阿型)

2010-04-13 09:36:26 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010274 今戸神社(旧・今戸八幡)に残る狛犬一対。今戸焼工人によって寄進されたもので、基壇に刻まれた名前は、当時の工人さんたちを偲ぶものとして大変貴重です。

●阿型狛犬(正面向かって右)

(左側面) 

(裏面) 當町火鉢屋中

白井善次郎 松本甚三郎 吉川久次郎 橋本三次郎 橋本金五郎 吉川長助 �叩田新兵衛 宇田川音八 永嶋金次郎 岩本新五郎 深谷惣七 森仁平次 町田亀次郎 井上米次郎 小泉瀧次郎 柳澤儀八郎 上田八五郎 

土器屋

岩本多郎吉 宮川助三郎 川嶋佐吉 

(右側面)

 宝暦二壬申年                                                         

再興

  文政五年

壬午八月吉辰

  本多五郎兵衛忠廣

石工

 淺草新堀

 小松屋 右兵衛門作

(正面)

 淺草

 新堀

 (横書き・左←右) 作 門 衛 右 竹 田 岡

※(横書き)としてある部分以外は当然縦書きで、連名はひとり一行で刻まれていて、右から左の順で刻まれています。

云型の狛犬の台座銘文はこちら→

 


今戸焼⑧ 涼炉(しゅうろ)(白井善次郎作)

2010-04-12 17:00:06 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010284 2007_0101_000000p1010283 御煎茶用の炉です。下に敷板(或いは炉台?)を敷いて、上に急須(ぼーふら・湯沸かし)をかけます。陶印があり、「白井善次郎」の作であることがわかります。「善次郎家」は今戸にあった白井3家の本家です。昭和20年の東京大空襲で被災されるまでは今戸で製作されていたそうですが、戦後葛飾区のお花茶屋(宝町)へ移られました。今から十数年前、当主の白井和夫さんを訪ね、直接お話しを聞く事ができました。これと同じ手のものを拝見しながら聞いたので、これが「白みがき」という仕上げであることは確信できます。惜しいことに、当時お話を理解、整理するだけの予習をしていなかったので、断片的なことしかわかりません。「白みがき」は「黒みがき」同様に那智石で磨いてから再度焼くのか?同様のものの中には部分的に黒鉛を刷り込んで焼いたような斑のあるものもあります。一般に「雲華焼」(うんげ)と呼んでいるようですが、今戸では何と呼んでいたのか?橋本三治郎の「村雲焼」という名前との接点があるのだろうかと考えているのですがわかりません。

土色は⑦の半田焙烙同様、中京か関西の白い土を使用していますが、表面の磨きのきめ細かさは、こちらのほうが断然丁寧で艶もあります。こちらは確実に「白みがき」ですが、半田焙烙はどうなのか? 「風門」と呼ばれる口の形はこれは鷺のシルエットの形で、へら彫りで足の表現が観られます。他にも扇面型や瓢箪型の風門もあったようです。

上から内側も画像に撮ってみました。穴のあいた火袋部分だけは、耐火粘土を使い、本体との接合が難しいのだそうです。

それにしてもお話を聞いた当時、こっちにもっと予習の知識があったら、もっといろいろわかることがあったのに、、と悔やんでいます。


今戸焼⑦ 半田焙烙(はんだほうろく)(白井善次郎作)

2010-04-12 10:16:41 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010281 炉や土風炉に灰を盛るとき使う道具だそうです。

陶印があり、「白井善次郎」の作であることがわかります。今戸焼の歴史を事典などで調べると必ず「白井半七」の名前が出てきますが、今戸には白井家は3軒あり、この「善次郎」家が本家なのだそうで、「半七」家は「善次郎」家から7代前に分家し、現在今戸でただ一軒伝統を守っていらっしゃる「白井」さんもまた遡って6代前に「善次郎家」からの分家なのだと「民芸手帳」に書いてあったかと思います。当然「白井善次郎」の名前は今戸神社(旧今戸八幡)の文政5年の狛犬阿型の基壇「當町火鉢屋中」の連名の筆頭に刻まれています。

土色は白く、明らかに東京の土ではなく、中京や関西方面から取り寄せた土を使っているのがわかります。他の窯業の産地でもそうなのでしょうが、製品によって土を使い分けるのですね。ですから、東京の土(江戸在地系の土質)ではなくても今戸焼の製品は存在するわけです。

茶道については語る資格はありませんが、炉や土風炉に灰を盛るときに使う器を「灰器」と呼び、「半田焙烙」はそのひとつなんだそうです。「半田」は泉州「半田」という地名からきているそうで、ひとつの決まったスタイルなのでしょうね。

白井和夫さんの話(これは直接聞いたものではなく)では、「磨き」には「下磨き」と「本磨き」があって、「本磨き」には那智石(または鴨川石)と使うが、「下磨き」には蛤の殻を使う」んだそうだと、ゆうべ書いてあるものを見ました。


今戸焼⑥ 真塗りの土風炉その2(橋本幸斎作)

2010-04-12 08:27:44 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010278 これは「道安型土風炉」というのだそうです。「紅鉢型」というものに比べると、下ぶくれなフォルムですね。内側の底に「風炉師」「橋本幸斎」という陶印があります。橋本姓の今戸焼屋さんは何軒もあったみたいだし、そのどれかの家のものだったのでは、と思っています。底についている三つ足が、「橋本三治郎」の土風炉と異なります。

何かに「橋本幸斎」の名前が載っていないか探していますが、今のところ見つかりません。

内側の底部分に緑青(酸化銅つまりグリーンスパン)のようなものが残っています。灰を入れてならした上に五徳を置いて、その上に茶釜を乗せますね。この緑青はどうやって湧いたものか?

①茶釜から湧いた。②五徳から湧いた。③真塗りの漆の成分に含まれていたものから湧いた。 この3つのどれかだと思っているんですが、、、。真塗りは「まぬり」ではなくて「しんぬり」と読むのだそうですね。「意味は黒漆で仕上げる技法。」と読んだのですが、漆に混ぜるものは何なんでしょうか。黒炭粉のようなもの?他の黒い顔料?ちょっとわからないですね。

 

 

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今戸焼⑤ 真塗りの土風炉(橋本三治郎作)

2010-04-11 12:31:17 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010280 私は茶道のことは全然わかりませんので、正直茶道具に関して書く資格はありません。しかし、今戸焼の製品を知る上で紹介させていただきます。

画像「は「紅鉢型土風炉」と呼ばれるもの。内側底に「對�貎斎」「橋本三治郎」という陶印があります。今戸神社(旧・今戸八幡)に残されている文政5年再建とある古い狛犬一対の基壇に奉納した今戸焼職人の名前がありますが、向かって右側の阿型の狛犬のほうに「當町火鉢屋中」の連名の中に「橋本三次郎」という名前があり、同じ家系なのではと思います。明治12年東京府勧業課発行「東京名工鑑」という本があり、その中にも「橋本三次郎」の名があります。「浅草区今戸町四十六番地  今戸焼工 橋本三次郎 三十三歳 / 所長 村雲焼 / 製造種類磨キ焼茶器 手爐 火鉢 七輪 火入 / 助工工人  弟子一人 /博覧会出品  内国博覧会へ村雲焼手爐火入及ヒ手焙 共ニ村雲焼 ヲ出シテ花紋賞牌ヲ受タリ /  開業及沿革  父三次郎ヨリ傳習シ二十一歳ノトキ相續シ 以来 風爐地板等ノ茶器ニ属スルモノハ逐年衰勢ニ傾クト雖モ其他ハ益盛況ニシテ維新前ニ比スレバ其製造高凡ソ五割ヲ増加セリ」 とあり、同じページに同じ住所に「今戸焼工 橋本徳次郎 五十二歳」「父三次郎ヨリ傳習シ二十八歳ニシテ父ノ業を續キ」とあるので兄弟のようです。 また「今戸町三十八番地」「今戸焼工  橋本松五郎 二十六歳」「村雲焼」とあり「父榮太郎ニ就テ十五歳ヨリ修シ」とあるので親戚でしょうか?

「橋本三次郎」という名前は世襲されていたようですが、今戸神社文政5年の狛犬の「三次郎」と明治12年に33歳の「三次郎」は親子でしょうか?記述では「21歳のとき三次郎を襲名した」とあるので襲名は明治元年ということになります。代々の三次郎の何代目かが、この土風炉の作者ということかと思うのですが、、。「今戸焼の村雲焼」とはどういうものか?

この土風炉には黒漆が施してあり、素焼き生地を那智石で磨いてから施漆したのか、或いは「黒磨き」にしてから施漆したものか、どうなのでしょう?漆の定着にはどちらが適するのかわかりません。もっとも今戸焼での土風炉製造の起源は京都の御用土風炉師「天下一宗四郎」が2代将軍秀忠に招かれて江戸に入って作ったものであり、真塗りの土風炉は京都が本場なのでしょうから、京都にまだ伝統が残っているのでしょう。

中に灰をならして、その上に炭火を入れるのでしょうが、表面に塗られた黒漆は焦げたりしないものなのか、、、。実際この品物には底や側面にヒビが入っているものの、焦げた形跡は観られません。不思議です。

土風炉の生地の製作者は「橋本三治郎」ではありますが、漆の仕上げまで一貫してひとりで行えるものなのか、別に漆工に仕上げを任せたものなのか。漆塗りって埃が禁物って言いますね。土いじりの工房って埃っぽいはずですよね、、、経験上鼻毛が伸びます。風炉師というのは、漆まで一貫した技術を持つ職人さんなのか?

こうした疑問も茶道について全くわからない私ゆえの事なだけ??? 

 

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今戸焼④ 胞衣(えな)器 

2010-04-11 10:42:47 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010275  胞衣壺とか胞衣桶など、出産の際に出た胎内の膜などを後産として収めて縁の下など土中に埋める風習があります。今戸焼で作られたものは画像のように皿形で成形後、中心に「壽」の印をキラ(雲母)で押します。皿型2枚を合わせて土中に埋めるそうです。東京都内の近世遺跡からもこうしたものは出土しています。昭和に入って、完全な壺型の器も登場して焼かれていたということです。昭和3年発行の「東京今戸焼同業組合」の「仲買渡シ相場表」にも「納器 一個 五銭五厘」と表示されています。

画像は光のため白っぽい土色に見えますが、実物はもう少し赤みを帯びています。


今戸焼③ 縁日鉢

2010-04-11 10:24:51 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010276 今戸焼の主力製品のひとつは植木鉢でした。植える植物の種類や用途によってさまざまな形状のものがあり、素焼きのもの、燻した瓦質のもの、ろくろによる爪挽きのもの、機械ろくろにシッタ、石膏型で成形するもの、板作りで作る四角いものなどさまざまです。画像は「縁日鉢」と呼ばれるもので、焙烙を少しだけ深くしたような、ごく平べったい形です。新年向けの植物、福寿草、などを植えて縁日の露店で売られたといいます。

これは機械ろくろによる成形でしょうか?撮影の光線のため、白っぽく見えますが、実物の土色はもっと赤みを帯びています。

縁日といえば、入谷の朝顔市、浅草観音様の四万六千日のほおずき市の植木鉢も今戸焼で作られていたようですが、時代の波で、プラスチック製のものに変わってしまいました。

菊の栽培用の鉢は、黒くいぶした瓦質のもの、蘭の栽培用のものは、根の通期性をよくするため、たくさんの空気穴をあけたものが作られたそうです。


今戸焼② 灯火器

2010-04-10 21:03:46 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010274 右は「ひょうそく」とか「たんころ」とか呼ばれているもの。植物油を注ぎ入れ、中心のへそのようなところにイグサなどを灯芯として立て、火をつけて使ったといいます。透明釉あるいは黄瀬戸や飴釉のような感じの釉薬をかけ焼いたもの。

左は「灯明受け皿」と呼ばれるもの。透明釉をかけて焼いたもの。

左の土色はいかにも「江戸在地系」と呼ばれる東京の土のようですが、右は幾分白っぽい。しかし東京の土でも採取地によって土色の幅はあったようでもあり或いは、まったく他所の焼きものなのか、自信はありませんが、こういうものも今戸焼にあったというイメージは持てると思います。

ちなみに、今戸焼の製品は必ず、江戸東京の土で作られたか、というとそうでもなく、多治見などから取り寄せた土を使う作例もあるので、複雑です。ただ、日常雑器の類は地元の土のものが多いのではないでしょうか?

これらの灯火器は、障子紙を張った行灯の中で、風を防いで使ったのではないでしょうか?植物性の油の鈍い光で闇夜を照らした時代。現代の照明に慣れた私たちからは、薄暗い室内だったことでしょう。


今戸焼① 猫こたつ(行火)

2010-04-10 19:42:13 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010273 今戸焼の中でも土人形、今戸人形へ関心のある私ですが、母胎である今戸焼というブランド名の定義は曖昧で、どれが今戸焼でどれがそうでないか、ということについては?が多いのです。

落語や文芸などに表れている名称から、こういうものがあった、というイメージはあるのですが、、、。どちらかといえば荒物屋などで扱う日常雑器類というイメージで、もちろん落款だの窯印だのがない製品がほとんどでしょう。どちらかというと「今戸焼」といえば、身近すぎて、安価なもの、という感じが一般的ではないでしょうか?

中には、茶道具など幾分高級志向のものに、窯印のあるものも存在はします。しかし製品そのものに「今戸焼」という窯印をつけるようになるのは、懐古調なブランド名として、日常生活から離れてしまった頃からではないでしょうか?

私は学者でも研究者でもありませんから、間違いなどあれば、ご存じの方にお教えいただきたいのです。

画像は「猫こたつ」または「猫行火」。明治頃には今戸で作っていたといいます。画像のこたつが100パーセント今戸であるとは言い切れませんが、こうした感じのものはあったようです。外側の覆い部分の照りは、「黒みがき」といって、素焼きした生地を那智石(あるいは鴨川石)と灯明油によって磨きあげ、黒鉛を塗って再度焼いて仕上げた、と聞いています。また、中の手あぶりは焼成中に炉内に松の枝を入れ、密封すると燻されて瓦質になるとか聞きました。画像のものには燻された素地に銀色の吹き付けのような柄がありますが、これも一般的な今戸焼の仕上げだったのかどうか?今戸や葛飾近辺以外の関東近県でもこうしたものは作られていたかもしれず、画像のものは、あくまで、こういった感じのものも今戸にあったというレベルでしか把握できません。

十数年前、今戸にあった燃料屋さんのおじいさんに聞いた話ですが、大震災前は、上記のように松の枝を燻しに使うため、帆船で茨城県の岩井あたりから川伝いに運んできていた。といいます。

「黒みがき」「白みがき」という言葉は、白井本家である善次郎家の白井和夫さんから聞きました。聞いた話をしっかり理解できているか自信はないのですが、、。

昭和40年代のはじめ頃までは、遊んでいた町内の家々とか縁下でよく見かけたものですが、いつの間にか昔の道具となってしまった、という感じがします。猫こたつがごろごろしていた頃はまだ「今戸焼」という名前はどこのお年寄りにも通じていたのではないでしょうか?