伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

9月の終りに、二見浦( ふたみがうら )に寄り、志摩の海へとドライブ

2021年09月30日 | 伊勢志摩旅情


高波の押し寄せる 「大野浜海岸の海景」 ~  2021年9月28日撮影

 今夏から初秋の9月にかけては、三重県の南部 ( 伊勢・志摩・度会郡以南 ) は例年になく雨天が多く、お盆も彼岸も雨降り続きであった。 9月下旬の彼岸明けも、24日は一日中曇り空で、25日の昼前から翌26日の夜半にかけては、伊勢志摩地方に南東方向から雨雲の塊が次々に流れ込み、北西方向へは進まず停滞後に南下し、三重県の南部に集中豪雨をもたらせた。
 津市以北の中勢から北勢地方にかけては、残暑を思わせる程の日射しの晴天であったようだし、隣接の愛知県や奈良県、和歌山県にも晴れマークがついていた。

 天気図を見ると、前線も気圧の谷も見られずに、北から張り出した高気圧に覆われていたのに、伊勢市以南は祟られたように、雨足の強いドシャ降りの雨天が丸一日半ほど続いた。 全く不思議な雨天の空模様であった。
 翌27日は朝から久しぶりの日射しが眩しく、カラリと晴れ、29日までの3日間は良く晴れた秋日和となった。
 しかし、月末の30日は朝から小雨模様で、気象衛星の画像を見ると、はるか南方洋上に停滞気味の大型の台風外周の雲がかかり始めた様子が読み取れた。
この日拾ってきた 「二見海岸石」( 緑色片岩 ~ 左右幅約12cm )
 この間の秋晴れを利用し、志摩地方の海岸に行ってみようと、28日の朝から二見浦の江海岸に立ち寄った処、大潮なのか潮位が高く、しかも大波が砕けて次々と打ち寄せていた。
 海風も強烈と言う程では無く、江の川河口の防波堤下の海岸に下りたとたん、天気は良いのに高波がひどくて、浜砂利などの小石を見回る事は諦め、1つだけひと握りの形状の佳い緑色片岩の海石を拾った。

 池の浦を眺めながら、高速道路から続く伊勢・二見・鳥羽ラインの自動車道を少し戻り、第二伊勢道路を経て、志摩の大野浜 ( 大王町名田 ) まで、ノンストップのドライブとなった。
 外洋だけに、快晴であるのに高波がさらにひどく、渚の浜砂利はガラガラと強烈な音を立てながら、浚われては打ち返し、明らかに大型の台風から来る「うねり」の影響で、弧状を描く砂利浜も3分の1程度しか露れていなかった。 とても小礫探しどころでは無く、渚はかなり危険な状態であった。
 但し、防波堤から眺める海景は、希に見るほど見晴らしが良く、水平線上に神島や渥美半島が浮かび、その背後の三河地方の山々まで見渡せた。


高波の押し寄せる 「大野浜海岸の突端」 ~   2021年9月28日撮影


 大野浜では写真を撮っただけで、渚での小礫の物色は諦めて、すぐに隣の名田漁港へと回った。 ここでも、目前の「明神島」や突端の岬へ打ち寄せる高波は、巨大な程の砕け波となって次々にがぶっては砕け、波消しブロックに囲まれた漁港内の渚へも、その高波はサブザブと打ち寄せていた。


高波の押し寄せる 「名田漁港の海岸」 ~  2021年9月28日撮影


 ここの突堤には、外来の釣り人が一人だけいたが、見ている間も無く引き返し、帰って行った。渚を見ながら、少しだけ「黄色玉石」と「准那智黒石」を拾い集め、海景の写真を撮って車へと引き返した。
 気が付くと時折潮風の勢い ( 風の息 ) が強まり、晴天下の海は、荒れた海面を除けば、心地よいほど秋さながらの海景であった。
 帰りの道端には彼岸花がちらつき、昼前の眩しいほどの日射しも、凌ぎよい秋の到来を感じさせた。


この日に名田の渚で拾ってきた 「准那智黒石」 ~ 最長幅約2.5cm


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猛暑の8月の最後に、志摩の海へ … 。

2018年08月31日 | 伊勢志摩旅情

押し寄せる白波のきれいな「国府白浜」~ 2018.8.26 撮影

 今年の夏は、7月から8月にかけて猛暑日の連続で、8月最後の31日まで体に応える程の暑さに見舞われた。 夏バテと熱中症を避ける為に、夕方までは外出を控えた日々が多く、お盆前に参墓用のシキビ(シキミ)と榊を切りに度会の林道へ行ったぐらいである。
 例年のように、何度も川歩きや志摩の海に行く事はなかった。


夏の日の「国府白浜」の全景 ~ 2018.8.26 撮影


 台風の影響で、涼しい日があったのはお盆明けの17日からの数日間で、朝から秋風のような西寄り~北寄りの冷やりとした肌寒さを覚えるような涼風が吹いていたものの、日が昇るに連れて真夏の青空と灼熱の太陽の熱射が暑さを呼び戻し、夏と秋が同居したような日々は下旬までは続かなかった。


弧状を成すきれいな砂利浜の「名田の大野浜」~ 2018.8.26 撮影


 台風一過の下旬半ばには、又暑さが倍増したかのようにぶり返し、このままでは今夏は川へも海へも行けずじまいに終わるのかと、焦燥感に見舞われたので、8月最後の日曜日の26日になって、朝から猛暑を押し切って志摩の海に出かけた。
 別に目的はなかったが、夏になると毎年ドライブがてら遊びに行っていたので、志摩の海を見なくては、ひと夏を終えられないような気持ちもあった。


夏の日の外洋側の「安乗海岸」~ 2018.8.26 撮影


 まず最初は、安乗の海岸まで直行した。 自宅から約45分で10時過ぎに着いた。 灯台にまでは行かず、安乗漁港のある的矢湾とは反対側の外海に面する海岸を少し歩いた。 ゴム草履が砂に食い込む度に、昼前だと言うのに熱砂の熱さが容赦なく足首にまて伝播し、夏の海辺を体感させた。 この浜には親子連れの行楽客が複数いた。


サーフィンを楽しむ国府白浜の若者達 ~ 2018.8.26 撮影


 次に国府白浜に立ち寄った。 8月最後の日曜日とあって、ここもサーファーを含め、かなりの海水浴や肌焼きをしているの若者らがひしめきあっていた。 阿児の松原へと続く、寄せ波のきれいな弧状の海岸を暫し見渡しただけで、甲賀の城の崎へと車を走らせた。


大潮の干潮時の甲賀の「城の崎」~ 2018.8.26 撮影


 甲賀漁港を仕切る防波堤下の突端の海岸は、大潮の引き潮時とあって岩礁がむき出しになっていたが、ここにも家族連れの行楽客と思われる人々が、遊びがてら磯ものを採集していた。 引き潮時の城の崎は、砂浜が無く、テチラポットもむき出しになり、満ち潮時の雄大な寄せ波の海景とは打って変って、意外と殺風景であった。


岩礁の露われた殺風景な「城の崎の海岸」~ 2018.8.26 撮影


 その後は、猫の額ほどしか無い海岸のスペースに、船着場程度の拵えの名田漁港に行って海女漁を見ようとしたが、昼時のせいか、海女船も海女も出ていなかった。 猛暑日の真昼だったので、さすがに当地には釣り人も外来者もいなかった。
 最後立ち寄ったのは、いつもなら我輩貸切りの名田の大野浜である。


名田漁港より眺めた「志島の市後浜」~ 2018.8.26 撮影


 大野浜は、出鼻に囲まれた程よいスペースの、寄せ波の実にきれいな弧状の砂利浜である。 ここの漂礫の中には珍しい地層(葉層)や断層(層内断層)、時には褶曲模様や、階段状断層が示す「稲妻模様」の小石が混じっている。
 他にも段丘堆積層由来の、我輩が名づけた「黄色玉石」(きいろだまいし)が打ちあがっていたりする。 数は少ないが、渚にぽつんと黄色い瑪瑙のような小石が見つかる。 中身はフリント質チャートであるが、潮かぶれのせいか、表面が瑪瑙や玉髄質、時には中身までオパール化したようなきれいなものまである。
 以前に、このブログ(バックナンバー)に記しておいた。


この日、大野浜で拾ってきた「層内断層入りの漂礫」~ 左右幅約9cm

この日、大野浜で拾ってきた「竹箒に乗った魔女模様」のような紋様石 ~ 左右幅約6.5cm
この日、大野浜で拾ってきた「ハート形の漂礫」~ 左右の最長幅約6cm

 午後1時を回った頃、適当に昼食をとり、帰りは伊勢道路の出口の浦田橋あたりが混雑する事を見込んで、少し遠回りになるが、鵜方から南下し浜島の手前で西進し、南伊勢町回りのサニーロードへと車を走らせた。 道はすいていてすいすいと走れた。 途中で停車する事も無く、鍛冶屋トンネルを抜け横輪口を過ぎてから、右折して上野町の市道に入った。
 かなり暑い中ではあったが、いっぷくがてら雨渕川と横輪川の合流点の川原に下り、タオルを水流に濡らして汗を拭った。

 ここには、現地性の方解石脈の貫入した蛇紋岩の礫や、曹長石脈入りの角閃岩(伊勢青石)がたくさんあり、横輪川の上流から流下して来た堆積岩類と共に、かなり佳い水石が見つかる事がある。 特に残存曹長石脈が示す紋様には、鑑賞に値する程の見事な「紋様石」となる形姿模様のものがある。

この日の帰りに、横輪川で拾って来た「伊勢青石の滝石」~ 滝の高さ約10cm


 ふと気付くと、タオルを再度水洗したすぐ横に、脈幅3㎝程の曹長石脈の貫入したひと抱えもある青石が転がっていた。
 最初はつまらないなと思ったが、方向を変えて眺めると「滝石」に見えないこともない。 裾を少しカットし台座をつくれば、それなりに鑑賞出来そうな気がした。 ダメ元でと思いながら、重い大礫をかかえて車に戻った。

 家に着いたら、午後3時を少し回っていた。 予定より1時間程オーバーで、身体はかなりバテていた。





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真夏の日、志摩の海辺にて

2015年07月29日 | 伊勢志摩旅情

夏の日の志摩の海 ~ 国府白浜の眺望

 夏台風が消滅し、真夏日となった。連日の好天と猛暑に海に行ってみたくなった。伊勢市内からだとすぐ北に伊勢湾があるので、古くから二見ヶ浦海水浴場が有名である。ここは遠浅の砂浜ビーチで、夏場はかなり賑わうのだが、海水のきれいさでは志摩の海には及ばない。
 もう、若いころのように、泳いだり、素潜りで魚を突いたり、貝を獲ったりする気はないが、こう暑いと海水に浸かりたくもなる。海風に晒されるだけでもいいからと、志摩の海岸まで行くことにした。
 平日のせいか道路の混雑も無く、国府の白浜まで約50分で着いた。


夏の日の国府白浜

夏の日の国府白浜北端の岩場

 ここは、以前は阿児の松原へと続く、白砂(はくさ)の砂浜海岸がゆるやかな弧を描き、正に「白砂清松」の美しい外海のビーチであつたが、今は波消しブロックが続き、防波堤を隔てた陸域にはゴルフ場がある。鵜方から国府を経て安乗に至る道路も拡幅舗装され、随分交通至便になった。
 平日のせいか、この日は海水浴客も殆どいなく、サーファーもまばらであった。ほど良くそよぐ潮風が、汗ばむ肌に一抹の涼を与えてくれる。デジカメを引っさげて、少しだけ渚を歩いてみた。かつて一面に広がっていた浜木綿の群落も、今は僅かに残っているだけに過ぎない…。

僅かに咲いていた国府白浜の浜木綿

 昼前ともなると、夏陽が容赦なく肌を焦がし、灼熱のエネルギーが止めどもなく体内の汗を搾り出す、サングラスも欠かせない。水分補給も頻繁にしないと、熱中症になってしまいそうである。


夏の日の甲賀漁港

 国府白浜の次に行ったのは、甲賀漁港のある城ノ崎である。漁港には何隻かの漁船が停泊していた。ここは観光化されていないので、少し殺風景であるが、外洋に突き出たこの小さな岬は、激しい海食によって荒磯となっている。ここの沖合いは恰好の海女の漁場であろう。岬の先端から外海に続く岩礁や暗礁の群れが、打ち寄せる磯波を砕き、しぶく白波がとてもきれいであった。

砕け波のきれいな甲賀の城ノ崎


 せっかく真夏の志摩の海に来たのに、サーフィンと海女漁を見ない事には帰れない。市後浜なら、平日でも年中サーファーがいる。県外から来る若者が多いが、今は夏場のシーズンで、天気も良く風もさわやかだし、言うことはない。ここ市後浜は、サーファー達の楽園である。時折、波高の高い大波が押し寄せるので、見ていても楽しい。

サーファー達の楽園と化す夏の日の市後浜

市後浜で波乗りを楽しむサーファー達

市後浜の渚で、サーファーを眺めるふたりの女の娘


 正午を過ぎてから、海女漁を見に行ったのは名田(大王町)の小さな漁港であったが、残念ながらここには今しがた海から上がったばかりの、2~3人の海女さんしかいなかった。丁度お昼時でもあり、午前中の仕事を終えたのであろう、船揚場の横の海女小屋にたむろっていた。いずれもイソドの海女さん達である。
 午後も漁に出るのか、ウェット・スーツが干してあった。

こじんまりした夏の日の名田漁港


 仕方なく、いつも遊びに行く大野浜に寄ってみた。ラッキーな事に、数人の海女さんがすぐ近くで素もぐり漁をしていた。その少し沖に海女船(あまぶね)も2隻停泊している。やはりイソドの海女さん達で、昨今は白装の海女着ではなくて、どの漁場でも真っ黒なウェット・スーツ姿である。

大野浜沖での夏の日の海女漁 ~ 対岸は市後浜のある志島

大野浜沖で海女漁のスナップ

 かつて絵葉書で見たような昔時の素朴な風情は無く、写真を撮ってもさっぱりで、とても絵にはならない。一部の観光海女を除けば、志摩では全てウェット・スーツ姿で、これだと男の海士(あま)も一緒に潜れるらしい。

大野浜で拾った茸形の漂礫(長さは、7~10cm)

大野浜で拾い集めた瑪瑙化した漂礫(サイズは、1~3cm)

 大野浜では、時折がぶる寄せ波にゴムゾウリごと足を漬けて、独り悦に浸っていた。いつものように人気のない礫浜を辿り、きれいな茸形の小礫や、半ば瑪瑙化したフリント質の小石をいくつか拾った。
 昼下がりの午後1時半をしおに、伊勢への帰途に着いた。    (7月28日 記)


磯波のきれいな夏の日の大野浜の渚

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秋晴れの志摩半島を、久しぶりにドライブ !!

2013年10月22日 | 伊勢志摩旅情
Nakiri_beach

 先週、伊豆の大島(東京都)に、大雨と強風によって甚大な土砂災害をもたらせた台風26号が通過し、伊勢志摩は爽やかな強風の秋晴れとなった。それも束の間、週末の土・日にかけては、その台風に引っぱられるように上空に寒気が南下し、台風のもたらした南からの暖気とぶつかり前線が発達、日本列島の太平洋側は雨雲の通り道となって、終日ドシャ降りの大雨にみまわれた。 そして、週明けの月曜日、再び汗ばむ程の快晴の秋日和となった。
Futamigaura
 台風一過のあと、再び快晴となった秋半ばの絶好の日和に誘われて、10月21日(月曜日)、朝から久しぶりに志摩半島に車を走らせた。二見ヶ浦から堅神に出て、伊勢二見鳥羽ライン(高速道路)の出口から逆行し、新設の第二伊勢道路に入る。
Dai_2_isedouro
 伊勢、二見からだと有料道路を経由しなければ、この新しい道路には入れないので少し不便である。そのせいか交通量が少なくスムーズに走れるが、殆どがトンネルである。全部で4つ、手前から「朝熊トンネル」「堅神トンネル」「鳥羽河内トンネル」「白木トンネル」である。この内、鳥羽河内トンネルは最長で、3kmを越え、トンネルの半ば過ぎから左カーブとなっている。最後の白木トンネルを抜けると、アルファ形のループになった下り道路をひと回りして、国道167号線へと合流する。

Kamishima
 白木から鳥羽に向かい、安楽島を経てパールロードに入った。有料だった昔に比べて、かなりの交通量がある。それも今浦大橋を渡った本浦辺りまでで、本浦から先は志摩半島の臨海道路ではあるのだが、箱田山鳥羽展望台を除けば、道路は雑木のブッシュに視界を遮られ、海景は殆ど眺望出来ない。 それでも的矢湾に近づくと、ちょっとした展望スペースが設置されていて、今では高層ホテルのビルが樹立する相差町や、的矢湾の湾口を挟んで、安乗半島から先志摩へと続く、志摩半島東岸のリアス式海岸が見渡せる。Ousatu
 途中に「志摩スペイン村」があるが、改修中の的矢大橋に差しかかると、一見フィヨルドの湾入を思わせるような、曲がりくねった的矢湾の穿入蛇行した溺れ谷を目にする。 パールロードを抜け、バイパス道路を経て再び国道167号線に入ると、なだらかなアップダウンの隆起海食台上の志摩の幹線道路が、波切(大王町)を経て先志摩の御座へと続く。
Hirohama
 この日は和具の広浜に行き、潮騒と共に、少し荒れた磯波の打ち寄せる砂浜海岸に下りて渚を散策、打ち上がったアラメの続く中、小粒のビーチ・グラスを拾う。以前は随分あったこのきれいな海Beach_glass_3
からの還元品は、水に濡れて宝石さながらであるが、地元民らに拾われているのか、どの海岸に行っても今はまばらである。 帰りは海辺の村道をとり、布施田の海岸に立ち寄ってから、お気に入りの名田(大王町)の大野浜に下りた。
Fuseda
 よく晴れわったのどかな日和の下、荒波の打ち寄せる秋半ばの志摩の海景は、心地よい海風を全身に受け、どの海岸に行っても実に快適であったが、昼下がりには残暑を思わせる程の、汗ばむ陽気となった。
 交通網が整備され、真新しい道路も増えて利便性が充実して来たせいか、志摩地方の道路を走るのは、気晴らしには持ってこいである。 午後3時前、伊勢の街に戻ってみると、行き交う人々の半分は半袖姿であった。

Ounohama


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志摩の外海、海岸紀行

2010年10月27日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~【 後編 】

 

上空から見た片田~布施田

 

片田(大野・麦崎)から布施田へ

 深谷水道を越え、少し行くと、正面に信号交叉点とコンビニ(サークルK)があり、ここで国道は旧道と新設のバイパスに分かれる。この紀行文は、志摩の外海の海岸紀行なので、旧道沿いの案内となる。旧道といっても国道(260号線)であり、当地志摩町の幹線道路に変わりがなく、真新しいバイパス国道から眺める志摩の入江の景観に比べれば、いささか古風であり見晴らしはかなり異なるが、見るべき場所などは実にたくさんある。

 

片田の大野浜  交叉点から左に入り、少しアップして下ると、目前に遥か先の麦崎の半島まで続く、大変美しい見事な弓なりの湾入「大野浜」が見えてくる。ここでも道路は防波堤と一体化し、大野の村落(片田地区に入る)は左下に見下ろす形となる。湾入と言っても、外海は激しい怒濤の熊野灘の海であり、先志摩の外海岸は、岬角部が海食によって削られ、土砂が沿岸流や潮流によって運ばれ、その土砂が岬角間の湾奥を埋めて、砂礫の堆積した弧状のビーチとなった訳である。この海水の三作用は、地質時代の第四紀を通して繰り返されて来ており、特に海食作用は、岬角部を削り取ったばかりでなく、低地に堆積していた段丘堆積層(鵜方層)までも抉り取り、その後、平衡状態に近づいて行った結果として、外海岸(そとかいがん)の出入りの激しかったリアス式地形は次第に均されて、ほぼ直線化してしまっているのだ。このような一つの半島において、内湾(英虞湾)側と様相を異にする外洋側の海岸線は、「対置海岸」(離水地形であるにもかかわらず、その後の海水の作用によって、沈水海岸のようになってしまった海岸線)の一種とみなす事が出来る。

片田稲荷神社  話が少し専門的になってしまったが、大野の村落は砂州の上に発達したかのように見え、明らかに海抜0m地帯で、元々低湿地帯だった場所柄、少しずつ地盤沈下も起こっているのではないかと思われる。村落の中には海跡湖の残骸のような「中スカ池」(明治期以降、周囲から埋め立てられ面積が縮小している)があり、以上の事を如実に物語っている。あと大野では、道路のすぐ右下に、朱色の鳥居の目立つ由緒ある片田稲荷神社がある。

 

片田の大野浜から麦崎を望む  大野を過ぎると、アップ・ヒルとなって、すぐにバス停のある小広いスペースに出る。この丘陵地の高台から南に突き出した岬をくまなく埋め尽くすように、外海岸にかけて民家の密集する片田の漁村となる。但し、村内には洋風の建物もチラホラ見られ、かつて明治の中頃から昭和の初期にかけて、アメリカへの出稼ぎ移民が続き、外地で成功を収め、裕福な資産家となって里帰りをした人達のいた、言わば史実の名残と言えそうだ。一時は、片田を「アメリカ村」と称した時期もあった。

麦崎灯台  岬の先端は「麦崎」と言い、先志摩の最南端である。白いきれいな無人灯台が、海食崖の上にポツリと立っている。漁港廻りの舗装された幅広い迂回道路と、路地のような村道があり、ダウン・アップして灯台への細道へと続く。小丘上に立つ灯台の真下は、海食地形のオンパレードである。急傾斜した互層を成す中生代白亜紀の地層(的矢層群)が見事な層理を見せ、下から眺める海食崖は目を見張らせる程素晴らしい。海食崖の下は、日南海岸に見る「鬼の洗濯板」のような海食台や、波食棚、溶食プール、海食ノッチなどの微地形が色々と観察できる。波食棚の泥岩層の中には、真っ黒な二酸化マンガン鉱より成る、大・小のノジュール(団塊)が含まれている。又、狭いながらも、灯台の裾は展望台になっており、熊野灘の海を見渡す絶好の場所と言える。右手には、和具沖合の大島・小島が水平線上に、帽子を伏せたように浮かぶのが眺望出来る。麦崎の波食棚の泥岩層内のノジュール

 

 国道まで村道を戻り、右側にある片田小学校の前を通り、漁港へのアクセス道路の分岐点過ぎて西に1kmほど行くと、布施田の村落に入る。かつては、両村間の沿道には人家が殆ど無くて、畑地だけが広がっていたが、今はごく普通の家々が立ち並んでいて村界がはっきりしない。布施田は、道路が先志摩半島のほぼ中央にあり、丘陵地上面の幹線道路(国道260号線)を挟み、民家が内・外両方の海側にまたがって、南北にベルト状に分布している。見かけ上、外洋側の漁村と内湾(英虞湾)側の高台の農村が合体したような感じである。字名を調べると、面白い事に、「浜村」と「畑(野)」、そして「根中」、「北中」とほぼ三つに分けられるようだ。旧家の屋敷地のとり方や、家屋の間取りなどを見ても、明らかに他の漁村とは違ったものが見られ、人々の気風もかつては農村型が多かったと聞く。布施田の東寄りの外海岸のビーチは、300mほどが近畿自然歩道(麦崎・磯笛の道)となっている。小さな漁港のある海岸へは、普通車が落に通れる村道が下っており、漁港から西方に海岸沿いにアップしながら村落を通り抜けると、和具の広の浜に出る。布施田から西の先志摩の海岸は、表和具漁港の突堤までほぼ真っ直ぐな海浜が続いている。

麦崎の海食崖の地層(急斜する的矢層群の互層)

 

先志摩最大の繁華街「和具の町」

上空から見た和具の町 

 国道を布施田からさらに西に1kmほど行くと、先志摩地方最大規模の漁港、繁華街を持つ和具の町に入るが、この途中も、今は沿道に民家などが立ち並び、どこからが和具なの解り辛くなっている。先ほどの広の浜へは、繁華街手前の志摩広域消防組合・志摩分署のある信号交叉点から左に入る真新しい舗装道路がついている。 道路際に「志摩総合スポーツ公園」の道路標示があり、左折し、スポーツ公園の前を通り抜けて、500m先まで進むと外海岸に出る。この広の浜には、サッカー場程のスペースの、浜を見渡す「ふれあい公園」がある。公園には、かつてほんの一時期、鳥羽一郎歌手が歌った「志摩半島」の歌碑がある。

 

街灯の残る和具の「みたま通り」  我輩が始めて和具に行ったのは、昭和40年、高校2年生の時である。部活仲間だったT氏に連れられて、彼の親戚を訪ねての志摩の旅であった。伊勢の町から賢島に出て、巡航船に乗り英虞湾を横断、途中「間崎」(英虞湾内の離島)に寄港しただけで、船はおよそ30分で着いた。当時、初めて訪れたこの和具の町は、このような志摩の海辺の方田舎に、伊勢の市街地並みのこれ程の町があったのかと、度肝を抜かれたものだ。彼の叔父は、剣道の師範で、整骨院を営みながら「武徳館」という剣道場を開いていた。 昼には、仕出しの寿司をとってくれてご馳走になったが、ネタの魚が新鮮でとても美味しかったのを、いまだによく覚えている。昨今は特に、元は沿岸漁業を営む漁師さんたちの、船上での即席ご飯だった「手こね寿司」が人気を博し、志摩の和具と言えば、即「手こね寿司」と出てくる程、当地の名物料理として全国に広まった。 和具は昔ながらの魚処であり、寿司処なのだ。

和具漁港に架かる「志摩大橋」

 昭和の頃の和具の町は、志摩町の中心地として町役場があり、他に銀行や農協、漁協、電信電話局、郵便局、交番、診療所、観光案内所、観光旅館、映画館(劇場)、銭湯、大衆食堂、八百屋、駄菓子屋、パチンコ屋など、何でも揃っていて、随分活気に満ち溢れていた。町に入ると国道筋約500mが商店街であり、この道路の中ほどから英虞湾岸の船着場に向かって、900m程一直線に伸びる「みたま通り」がある。かつては、この通りも300mほどはにぎやかな商店街であった。時を隔てた現在も、かつて繁華街だった頃の面影を残すかのように、電柱には提灯形の街路灯がぶら下っている。そして、程よい入江の英虞湾岸の港まで、ずっと町街地が南北に続くこの町には、外洋側の表和具漁港と、内湾(英虞湾)側の和具漁港の二つの立派な港がある。内港のすぐ前には、早くから実習船(しろちどり・はまゆう)を持つ水産学校(現在の県立水産高校)が開設され、若い船乗りたちの育成にも力を入れて来た。今、この船着場の目前には、入江を跨ぐように視界を横切って、一つアーチの白い志摩大橋(バイパス国道の橋)が架かっている。

和具沖の「大島・小島」  和具を語る時、忘れてはいけないのは、外洋の沖合2.5kmほどの所に、大島、小島の二つの小さな離島(無人島)のある事である。特に大島には浜木綿の大群落があり、夏季の「潮かけ祭り」の祭事場ともなっている。ここへは、夏場のみ観光客用の期間限定の船便があり、大島へはその時期を捉えて訪ねる事が出来る。島々の近海は、海女の格好の漁場であり、両島は和具の海女たちの休息地でもある。

 

越賀から御座へ

 和具の町を抜けて、左手の和具漁港過ぎ、岩井戸崎付近のアップ・ダウンを2度繰り返すと、目の前に湾入が見えてくる。この当地の一番東の浜は、社田方(さだほう)の浜(又は神社浜)と言い、越賀漁港となっている。このビーチの西の出鼻は城山と称し、先端には「城山休憩所」と書かれた、コンクリートの突堤のようなちょっとした展望台がある。ここには、城山休憩所を経由してこの出鼻を一周する、全長200mほどの小道(近畿自然歩道)がついている。城山を越えると、すぐ西隣りに似たようなスペースと形状の湾入がもう一つあるが、ここは「西方浜」である。

 越賀の漁村は、外洋側に古くからの村落が密集し、次第に丘陵上面から内湾の越賀浦の方向へと拡張していったようである。かつては、漁業中心の漁村形態の村落だったとみえ、越賀港は、古く江戸時代には、鳥羽、安乗、浜島とともに、志摩四津のひとつとして知られた港であったと言う。当地の北西には金比羅山(海抜99m)がそそりたち、北西からの季節風が遮られるので、先志摩地方では冬場も一番暖かく温暖である。当地の畑地で栽培される「越賀茶」は、志摩地方では特に上物とされている。

越賀の阿津里浜  越賀の幹線道路(国道)は、表海岸に沿って進むので、繰り返すリアス式地形の湾入が見え隠れし、海景は変化に富んでいて、とても良い眺めとなっている。西方浜の西方にもう一つの出鼻「天神山」があり、この丘上の越賀中学校の下を通り、アップ・ダウンを繰り返すと、又、見事な湾入が目前に展開する。ここは海水浴場としての再整備が成され、観光ビーチと化した、著名な越賀の「阿津里浜」(あづりはま)である。護岸も大変きれいに階段風にアレンジされていて、黄色い砂地の浜の真ん前には、離れ島を成す大・小2つの小島がある。左手の大きい島は「城ヶ島」、正面の小さな島は「雀島」(すずめしま)と呼ぶそうだ。漣の寄せ返すビーチの沖には、熊野灘の海が広がり、言うまでも無く、ここは先志摩地方きっての景勝地なのである。阿津里浜海岸には、トイレ付きのモーター・プールを備えた休憩スペースも作られている。

 道路を隔てた阿津里浜の反対側には、志摩観光協会のモダンな建物があり、「海女資料館」「海女小屋体験」「観光案内所」の立看板が立っている。その裏手は、志摩オート・キャンプ場となっている。ちょっと覗いてみると、「海女資料館」はワン・フロアのみだが、なかなかのものだ。入場無料なので見学するとよい。

 

 阿津里浜の隣に、ノリの浜と呼ぶもう一つ小さな湾入があるが、阿津里を過ぎると、とまん崎から続く雑木林となり、道路は少しアップし、雑木の繁る山越え道となって、この先、海は全く見えなくなる。やがて細長い下り坂にさしかかるが、雑木林の連なる南岸は、地形図上では荒見崎から参宮浜を経て岩井崎に続く、程良い展望地のはずなのだが、この広大な雑木林のスペースは、幾つかの企業の私有地となっていて、地元民も一般人も海岸へは近づけない。手付かずのまま、長い間ずっと荒れ放題になっている。かつて、我輩は、一人この雑木林(私有地)の藪道に迷い込み、苦労して岩井崎まで行った事があるが、見晴らしはブッシュに覆われてまるでダメだった半面、いろんな野鳥がいて、このままの方が良いのかも・・・、とさえ思ったものだ。このエリアは、今にして、言わば「止め山」であり、「入らずの海岸」なのだ。

 

 さらに、道路は少しアップし、右手の金比羅山の麓を迂回して回りこむように、細長い下り坂をカーブしながら進んで行くと、民家がチラホラ見えてくる。道路を下った所に、御座の入口に当たるひと塊の村落があり、「御座白浜」のバス停がある。ここから北方が御座である。御座港へは、ここからさらに右回りの幹線道路(国道)を少しアップし、Sカーブを下り、再度Sカーブの坂道をもう一度アップ・ダウンして1kmほど進むと、間もなく到着する。

 御座港は、こじんまりした船溜りに、定期船の桟橋を備えた英虞湾口の漁港で、先志摩半島先端の北海岸に位置している。湾を隔てた対岸には、浜島の町がはっきりと眺められる。以前は、英虞湾を横断して浜島に行き来する奥志摩フェリー(志摩勝浦観光汽船が就航させていた)があったが、今は巡航船が発着しているだけである。港からは、賢島行きと浜島行きの2航路の小型の定期船が出ている。

 御座の村落は、沿岸漁業と海女漁中心の漁村であるが、岩場を廻ったすぐ西方に、500mほどの長さの弧状を成す遠浅のビーチを持っている。白砂の大変きれいな寄せ波の静かな「御座白浜」である。夏場は海水浴場となり、海水浴客やキャンパー、観光客らで大変にぎわい、常設の海の家などの設備もよく整っている。季節限定ではあるが、当地のドル箱ビーチなのだ。

日和浜の岩場での磯釣り  御座白浜の西方は、金比羅山同様に、独立高峰を成す黒森(海抜96mの岬山)で、その突端は荒磯を成す御座岬である。この残丘状の小山に繋がるビーチの低地は、元は砂州のようで、どうも黒森は陸繋島らしい。反対側の外洋は、日和浜と言って、海女の稼ぎ場である。御座も又、和具、越賀とともに、先志摩地方における海女漁の本場なのだ。日和浜の荒磯は、御座岬の方へは荒々しい海食地形の岩石海岸が続き、正に絶海の果ての孤島ような印象である。海食崖には互層を成す的矢層群の地層が激しく褶曲し、複数の断層によって断ち切られ、弱帯には海食洞が幾つも出来ている。御座岬の周辺は、海食台や離れ岩だけでなく、沖合にまで暗礁、岩礁が無数にあり、古来、「御座のヤスリ」と称し、船頭たちに恐れられていた。古謡にも、

伊勢の神前岬(こうざき) 国崎(くざき)の鎧
御座のヤスリが邪魔になる

とさえ、謡われている。

御座岬稲荷  日和浜の東方は、遥か先の岩井崎まで、砂礫のビーチがきれいな汀線を形成して続いている。このビーチには、一般道路が無くて立ち入れないのは残念だ。黒森上端の御座岬灯台(無人灯台)へは、オート・キャンプ場のはずれから、黒森東斜面の別荘地へ登る九十九折りの簡易舗装の急坂を、300mほど車で途中まで登り、そこから、コンクリートの階段のある尾根伝いの急な山道を登って行く。およそ15分、360mほどの距離である。山頂には御座岬稲荷神社の祠があるので、やや道幅もあって手入れが成されている。但し、山頂の御座岬灯台に行っても、ブッシュに囲まれていて視界が遮られ、見晴らしは全く効かない。黒森は私有地なのか表示板等も無く、別荘があるだけで、観光化は微塵も成されていない。灯台へは、只、山道を登って戻って来るだけである。

御座の石仏  御座港界隈の名所を書き忘れたが、漁港の船溜り左手の岩場の岸(波打ち際)に、潮仏(入り口の道角に「女性の守り仏・石仏地蔵尊」の案内板がある)があって、満ち潮時に訪ねるとすっぽり海水に浸かっている。離れ岩を成す目の前の岩島には、ごく小さな海食洞門もある。もう一つの名所は、金比羅山北麓の谷間にある、由緒ある寺院、「爪切不動院」である。変化に富んだ境内は、アップ・ダウンが激しいが、寺院には、昔、弘法大師が爪で削って作ったと伝えられている、ご本尊の不動明王(秘仏である)が祀られている。この不動堂のそばの岩場からは泉水が湧き出しており、幾つかの見所を擁し、あたりは樹木も鬱蒼と繁っていて、ちょっとした幽秘境の趣がある。現在のここの管理人さんは、かつて上段の構えの名人であった、剣道の達人である。

 

 日が暮れると、夏から秋にかけての御座漁港は、夕映えが凪いだ英虞湾を染め抜き、茜色の夕空とともに、大変美しい海景を眺めさせてくれ、志摩の果てならではの、素晴らしい旅情をかきたてる ・・・ 。

 

旅のおわりに

 この拙稿では、志摩地方の外洋側の海岸にスポットを当てながら、風景の描写ばかりでなく、志摩の風土や村落の事、それに筆者の回想なども雑えながら、思いつくままに筆を進めてみた。志摩地方は、昭和から平成の時代へと歴史が移行して来た中で、道路網だけは驚くほど整備され、充実したと思う。

 半面、消えていったものも少なくない。かつて、英虞湾周辺の未舗装の道路は、数少ないバスの便では所要時間がかかり、オート三輪などが走るぐらいで、マイカーもまばらであった。それに代わり、定期船やフェリーが各港の間を頻繁に行き来し、志摩の海ならではの光景を見せていたものだ。海女漁も、志摩への旅情をそそる白い磯着から、黒いウェット・スーツに代わり、風物詩として見るには、実に風情がなくなった。

 しかし、昔も今も、海岸に働く人々の姿は変わらず、そこに豊かな海産物を育むきれいな海の風景・風物があってこそ、伊勢志摩国立公園の中の「志摩」としての魅力なのではないだろうか。

 筆者は、地元の人々だけでなく、四季折々に当地を訪れ、この変化に富んだ海の国立公園を旅する多くの人々にも、この「志摩」を大切にして頂きたいと思う一心で、この旅行記を記述した。以上の趣旨を述べて、本稿の終わりとしたい。

御座白浜

( 2010年10月25日・完 )

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志摩の外海、海岸紀行

2010年10月22日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~【 中編 】

 

大王崎の上空から眺めた波切

大王崎の界隈を北から南へ

須場浜(すばのはま)から眺めた波切の灯台  志摩は、その昔、万葉人が「美し国」(うましくに)、「御食つ国」(みけつくに)と詠んだように、新鮮な海産物の豊富な、お伊勢さんの隣国である。 特に東に突き出した小高い大王崎の付け根の漁港が、波切であり、南北に続く荒磯は、「老崎」や「大里浜」、「須場の浜」、「宝門の浜」、「船頭の浜」、「米子の浜」を始め、地元の海女たちの絶好の漁場となっている。

 波切の北方には、畔名(あぜな)と名田(なた)の村落があり、いずれも防波堤の外に船着場程度の漁港しかないが、沿岸漁業と農業を主とする半農半漁の村落である。

 

畔名の海岸風景  市後浜の上を走る幹線道路は、志島を抜けるとすぐ右手に国道260号線への分岐路があり、左先の畔名へは下り坂となるが、この道を下ると畔名の村落に入る。ここは、弧状をなす湾奥の防波堤とこの道路に挟まれた、幅数十mほどの低地に細長く家屋が密集しており、次第に南北の丘の上へと居住区が広がっていった様相を見せている。元の地形は、海跡湖的な湿地帯であったのだろうと思われる。

 海岸に出るには、普通車だと路地道が狭く、厳しくて入れないゆえ、一旦、志島のはずれの分岐点の少し先まで引き返し、畔名小学校への小道(普通車一台が、すれすれに通れる程度の道幅しか無い)を大廻りしなければならない。地元民しか滅多に来ない、こじんまりした弓なりのビーチの両端は、小高い岬になっており、絶壁を成す海食崖真下の岩場や荒磯は、磯釣りには良いかも知れない。ちょっと面白い事に、この海岸にはカラスよりトビが多い。北方の小さな岬を「鳶ヶ巣」(とびがす)と呼称するのも頷ける。

 

 元の道路に戻り、畔名から、さらにアップ・ダウンを繰り返し少し進むと、舗装道路は海岸に向かうカーブの下り坂となり、左手前方に狭い低湿地があり、防波堤の向こうに海が開けてくる。ここは名田の大野浜である(ブログのバックナンバー参照)。 最近、道路際からすぐ前の防波堤に登る道が整備されたばかりだ。このこじんまりした礫浜のビーチは、まだ地元民もたまにしか来無いが、付近の藪道は東海自然歩道となっている。

名田の明神島 この大野浜の低地を越えたすぐ先に、舗装道路から左折して入る、名田の狭苦しい海岸へのバイパス道路が、最近ついた。名田の村落は、沿岸の狭い谷間に家屋が密集し、上方の幹線道路(県道)までへばりつくように建て込んでいる。突堤のすぐ前には、駱駝の背中のような明神島(地形的にはホッグ・バック-豚の背構造-の「離れ岩」的な岩島)が突き出ている。昔は祠を祀っていたようだ。特にこの近海は、海女たちの格好の漁場である。

 

 かつて、近海を航行する船舶の難所の一つだった、大王崎のある波切は、岬の灯台巡り(大王崎灯台。有料で公開されていて、登る事が出来る)で有名であるが、志摩地方では、魚市場を持つ比較的大きな漁港町である。ここは、漁村のイメージは全くと言ってよいぐらい無くて、細い灯台道に続くメイン道路には、真珠製品の販売店や海産物店、みやげ物屋などが並び、観光旅館や民宿の他、釣り客の為の渡船宿もある。早期より鵜方からの国道(260号線)が整備されて通じ、賢島や英虞湾とともに、志摩めぐりの観光コースのメインになっていた。冬場を除けば観光客の来訪も頻繁で、港湾北の干拓も進み、波止めブロックで護られた長い突堤が出来、無料駐車場やペーブメントなど、周辺域の整備も急ピッチで成されつつある。

米子の浜から眺めた波切の灯台  大王町は、当地波切を「絵描きの町」としても広めようと、そのP.Rに力を入れている。著名画伯や文人も数多く訪れ、灯台の見える風景は、写真よりも絵画の方が目栄えがし、地元の画家による名画も少なくない。地元の名人画家と言えば、先年亡くなられた甲賀の南幸男先生が偲ばれる。「波切」をテーマに数々の風景画の大作を描かれているが、どの作品も実に素晴らしい構図とタッチの名画であり、アーティストとしてばかりではなく、教育者としても遺憾なくその才能を発揮された立派な方であった。先生の知遇を得た者の一人として、合掌を禁じえない。

 当地から西方には、握りこぶしを英虞湾に突き出したように、丘陵地を成す登茂山半島が伸びているが、一直線に伸びる完全舗装の貫通道路が湾岸まで続いている。先端は、登茂山の頂上とともに、英虞湾を見晴らす優れた展望台(桐垣展望台)となっている。この登茂山半島は、英虞湾に臨む程良いスペースの自然公園であるが、最近はリゾート地としての開発も進められ、新設ホテルや人工ビーチ(次郎六郎海岸)の他、屋外スポーツ施設等もかなり増えている。

 

海跡湖を成す大王町・船越の大池  大王町から英虞湾を取り囲む、先志摩半島の先端の御座までは、点在する村落をつなぐ国道260号線が唯一の陸上経路であったが、最近になって、平行して延びる立派なバイパス道路が、英虞湾側に完成した。この先志摩半島に行く付け根の部分が船越(大王町)で、陸けい砂州の低地の真上に立地した漁村である。太平洋側には弧状の前浜がビーチ・カスプを見せて広がり、道路際には、この海湾を眺める「船越前浜小公園」が設置されている。前浜から数百mと離れていない英虞湾側は、湾奥の入り江が天然の良港となっている。但し、外洋に出るには、以前は御座岬を大廻りして行かなければならず、実に不便であった。低い地峡となった陸上を、その昔、男たちが人力で船を引っぱり、担ぐなどして運び出して行ったであろう事が、その地形から容易に伺え、それに基づく地名(船越)の由来がよく理解できる。

深谷水道  防波堤と一体化した船越の道路(国道260号線)を通り、村落を過ぎると、左手に葦の生える海跡湖のような「大池」を見る。海に近い池畔には船越温泉の小屋がある。そして、退治崎へと続く丘陵をアップ・ダウンすると、間もなく「深谷大橋」と言う小さな橋に出るが、この下は、志摩地方唯一の運河である「深谷水道」(ふかやすいどう)となっている。この人工の水路は、幅20m程だが、 英虞湾と外洋を行き来する小型漁船専用の通路であり、船越の漁船にとってはこの上なく便利になった。深谷水道を超えると、その先は志摩町となる。

船越の前浜

 

掲載写真は、上から

大王崎の上空から眺めた波切
須場浜(すばのはま)から眺めた波切の灯台
畔名の海岸風景(漁港と言っても、船着場のみである)
名田の明神島
米子の浜から眺めた波切の灯台
海跡湖を成す大王町・船越の大池
深谷水道
船越の前浜

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志摩の外海、海岸紀行

2010年10月16日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~ 【 前編 】

 

上空から見た安乗岬

 

志摩市の5町について

 志摩地方は、つい近年、志摩5町がひとつになり、志摩郡から「志摩市」となった。伊勢神宮の別宮、「伊雑宮」のある磯部町は、的矢湾の奥半分を取り囲む場所に位置し、西方には「天の岩戸」や「鸚鵡石」など、古来の名所があって、昔は逢坂峠を越えて内宮裏の館町へと続く山路道(伊勢の側からは「磯部路」(いそべみち)と言っていた)を、古くから人々が盛んに往来していた。

国府白浜から安乗半島を望む  その東の阿児町は、志摩電鉄が鳥羽から賢島へと開通(昭和4年に開通)してからは、 鵜方を中心に志摩地方の中核地となり、鵜方は、駅前を中心に新興都市型の町へと急速に広がり、発展し、志摩地方最大の繁華街となった。特に賢島は、その後、阿児町最大の観光地へと変貌し、海岸線の入り組んだ波静かな南の英虞湾は、真珠筏の浮かぶ風光明媚な海景が展開し、伊勢志摩国立公園最大の観光資源となっている。この陰に隠れたようなもう一つの観光地が、北の突端、「安乗岬」である。さらに、町内の各地に通じる道路網が整備されて以降は、国府の白浜とともに、志島の「市後浜」(いちごのはま)がサーフィンのメッカとなり、シーズンになると県内・外の若者たちで賑わいを見せている。

 先志摩地方と阿児町をつなぐ位置にある大王町は、波切漁港と船越漁港中心のこじんまりした町で、東の小高い突端、大王崎は、灯台(有料公開)が観光のシンボルとなっていて、細い灯台への坂道にはみやげ物屋が軒を連ね、空をも遮っている。最近は、英虞湾に突き出し西に伸びる、登茂山半島の丘陵地や海岸がリゾート地として開発され、展望台とともに数々の観光施設が出来ている。

 志摩町は、陸繋砂州の上に立地している船越の村落から、西方に延びた鋸型の先志摩半島の殆どを占めるが、今は当地方唯一の運河である「深谷水道」が町界を成すので、はっきりしている。かつては幾つかの漁村が点在し、漁業中心の素朴なイメージの志摩の果てであったが、縦貫道路やバイパスが貫通し次第に散村と化し、俗化されて来ている。志摩町の中心地は、和具漁港であり、かつて外洋から内湾へと続く繁華街には、映画館やパチンコ屋も複数あったし、早くから水産学校(明治35年創立。現在の県立水産高校)が設置され、カツオ船などもたくさん出入りしていた。志摩町は、真珠養殖とともに、海女漁の最も盛んな場所でもある。

 阿児町から五ヶ所湾に続く沿岸部途中の浜島町は、どちらかと言えば「奥志摩」である。合歓の郷のある大崎半島によって区切られ、沿岸海域が英虞湾の多島海や有湾台地とは少し異なり、外洋的要素も加わった、英虞湾口北岸の漁業と観光の町である。ここでも海女漁は見られるが、かなり以前から遠洋漁船の入港もあり、鳥羽、渡鹿野と共に、船乗り相手の遊女のいた、三大色町の一つとしても発展して来た。漁村を骨格に、この港町は今、近代的な温泉を掘り備えた複数のリゾート・ホテルが並び、夜のネオンが怪しげに観光客を誘(いざな)うようだ。

 

安乗岬から志島へ

 国の重要無形民族文化財に指定されている、「安乗文楽」で知られる安乗の村落は、短い陸繋砂州の上から西方背後の丘陵地の高台へと立地した漁村である。ここの灯台は、北に突き出した小高い岬の突端にあり、その手前の芝生広場(元は、安乗中学校の跡地)の一角に、町が設置した簡易食堂兼休憩所と、安乗埼灯台資料館(入館無料)がある。ここへは、村落横の防波堤を通り、狭い急坂を上るが、普通車一台がやっと通れる道幅である。四角柱の灯台は、古い歴史があり、内部が有料で公開されていて登ることができる。的矢湾の湾口を隔てて相差の菅崎が間近に見えるが、渡鹿野島はここからは見えない。この灯台は、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台として、そのロケで一躍有名になり、当時の写真などが内部の螺旋階段の上り口に飾られている。

 もう一つ安乗を知らしめた文学作品に、明治の漂白の詩人として著名な伊良子清白の詩集、「孔雀船」に収録された「安乗の稚児」という詩がある。最初の部分のみ記すと、

志摩の果て安乗の小村(こむら)
早手風岩をどよもし
柳道木々を根こじて
虚空(みそら)飛ぶ断(ちぎ)れの細葉

 

 今は、志摩地方の国道等も整備が進み、バイパスや各村落へのアクセス道路も出来て、交通至便になった。鵜方から国府(こう)を経て、安乗へ向かうかつての一本道も拡幅され、立派に舗装されている。

槇垣のある旧道(正面突き当たりに、国府神社がある)  安乗から国府へは小高い丘の上を通るが、ブッシュに囲まれていて見晴らしはきかない。途中に、今は高層ホテルの立ち並ぶ温泉歓楽街となった、渡鹿野島(的矢湾内の離島)の村落対岸の船着場に出る、アスファルト舗装の幅広いアクセス道路が出来ている。そこを通り過ぎ、切通しの坂を下ると、国府の手前右手の雑木林の中に、由緒のある古い国分寺(跡)がある。そして、目前に磯波の寄せる広々とした砂浜海岸が開け、遥か先の岬(城の崎付近)まで3kmにわたって弓なりの海浜となる。 夏場はサーファーや海水浴客らでにぎわう「国府白浜」である。臨海地は「志摩パークゴルフ場」となっているが、街村的な村落は海抜0m地帯に密集しており、かつては半農半漁で生計を立てていた。ここは、昔から海からの砂風除けの為、独特な槙垣のある村落として大変有名であり、その槙垣は今も旧道沿いの各家々に残存する。在所の中には国府神社があり、この村落を護っている。又、古くから当地の農家は、風習としてどの家も隠居制を敷き、今も屋敷内に年寄りの為の離れ家(別棟)を持っている家がかなり見られる。

国府の国分寺(跡)   

 国府を過ぎると、間もなく防風林の松林となり甲賀に至る。当地の海浜は「甲賀白浜」とも言い、歴史的に著名な「阿児の松原」があり、万葉集を始めとする古歌にも歌われている。夏場になるとサーファーや海水浴客らで賑わい、松林の中には「阿児の松原スポーツセンター」がある。その管理棟の前には、 

「阿胡の浦に船乗りすらむ乙女らが 玉裳のすそに潮満つらむか」(詠み人:柿本人麻呂) 

の歌碑が建っている。但し、この古歌に詠まれた「阿胡の浦」が、今の場所なのかどうかについては異論もある。

 ところで、この「伊賀・甲賀」の文字の一方を充てる、当地「甲賀」という地名であるが、由来は古く戦国時代を遥かに遡り、大化の改新以後、各地に国府(こくふ)の置かれた時代かららしい。但し当地の「甲賀」は、後年に文字を充てたものらしく、諸説ある中で、元は「国府ヶ浜」(こうがはま)だったのが短縮されて「国府ヶ」となり、「甲賀」の字を充てたのだと言う説を採りたい。

 

 甲賀のはずれの右手は、海潟湖(かいせきこ)の跡のような低湿地帯となるが、海沿いの旧道は上り坂となり、坂を登りきった丘の上が志島(しじま)である。この丘の上から東側の海岸まで、ダウン・ヒルの急斜面に家屋が密集し、下の漁港まで続き、まとまった村落となっている。

王女丘古墳  志島といえば、志摩地方では大・小の古墳群の集中する場所としてよく知られている。古墳は全部で15基あり、このうちの第11号古墳は、一番高い場所にあり、正式な学術調査も行われ、「王女丘古墳」(おじょかこふん。割石積・横穴式・石室古墳)として広く知れわたっている。当地ふのり海岸の渚付近の丘上の塚穴古墳(4号古墳・円墳)と共に、以前は覗いて内部が見学出来るようになっていたが、今は雑草で覆われている。「おじょか古墳」へは、道路沿いに案内板があるが小さくて解りにくい。志島のバス停の少し先にある、「フードショップ 出口食品」横の細い路地を少し入った、民家の入口横の小丘がそうである。志島古墳群は、鉄刀、古鏡、勾玉、管玉、金鈴、金環や蓋杯、埴輪など、豊富な副葬品の出土例から見ても、志摩地方最大級の古墳遺跡である。

遠浅・白砂のビーチ「市後浜」  この他、志島は、古来、沿岸漁業を主とし、農業を従として生活を営んで来た村落であるが、海女漁も盛んで、かつては村内婚の多さでも有名であった。稼ぎ頭で働き者の女娘(おなご)は、昔は磯桶ひとつで嫁入りして行ったとさえ言われている。

 最近、志島は、漁港の南の市後浜(いちごのはま)が脚光を浴びるようになり、シーズン・オフでもサーファーや観光客が訪れるようになった。阿児町も地元も、この程よい距離の遠浅・白砂の景勝ビーチを観光資源として売り出しており、夏場は大変な混みようである。専用道路や駐車場(有料・無料)、トイレにシャワー小屋、それにリゾート・ホテルもあって、当地のドル箱ビーチとなりつつあるようだ。

「おじょか古墳」の説明板

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詩情漂う秋の日の志摩半島

2010年10月01日 | 伊勢志摩旅情

志摩市大王町名田「大野浜」

 

暑さ、寒さも、彼岸まで…

 今年は、夏の季節が延長したのか、九月半ばを過ぎても残暑ではなく猛暑日が続いた。日本列島全体が、異常な暑さに見舞われた。しかし、昔の人は、「 暑さ、寒さも、彼岸まで! 」とはよく言ったもので、秋分の日を境に、丸一日の地雨の後、一気に気温が下がり、伊勢志摩地方にも晩秋のような秋が足早にやって来た。朝夕はめっきり冷え込み11月の気候みたいであるが、昼日中(ひるひなか)はまだ、初秋の残暑のような日差しである。時折そよぐ秋風は実に爽やかであるが、涼しすぎて、半そでだと肌寒さを覚えてしまう。そして、何故か感傷的な気持ちにさせられてしまう。

 

九月の終わり、志摩の海へ行くと…

名田の大野浜  九月もいよいよラストとなった29日、朝から好天に恵まれ、山の景色がくっきりと見えるほどシーイングもよかったので、久しぶりに志摩の海辺に行った。場所は道路に近くて、つい最近、車が防波堤の上まで乗り入れられるように整備された、名田の大野浜である。このこじんまりした礫(さざら)のビーチは、真夏でも殆ど誰もいなくて、我輩貸し切りのようなとてもいい遊び場である。ここは波切の少し北で、サーフィンのメッカ市後浜(いちごのはま。阿児町志島)の手前だ。海を隔てて左手前方には安乗の村落をへばりつかせたような安乗岬が眺められる。さらに水平線を右に辿ると、ブルーの海原の彼方に神島や伊良湖岬がかすかに見える。

 

名田の大野浜にて、秋を感じる

 数日前の嵐のせいか、ビーチカスプの形もかなり崩れ数も減少していたが、いつものように、程よい長さの弧状の渚に降りて、漂礫の小石眺めながら、打ちあがったアラメの続く満潮ラインにそって歩き、漂着物を物色する。いつもよりたくさん、しかも大きな軽石が散乱していた。サングラスをしていてもまぶしい陽射しの中で、時折、海風が何かを運んできた。何だろうと思ったら、「秋の詩情」である。志摩の海辺にもやっと秋が来たのだ…。

「今は、もう秋…、誰もいない海 ♪♪~~」(歌:トワ・エ・モア)

 つい、昔のフォーク・ソングを口ずさんでしまう。自作のメロディーの方がいいのにと思いながらも、これは、青春の頃に感じた、秋への「センチメント」なのか、「ノスタルジー」なのか…。

 

秋の歌など、雑感…

 秋の歌は、フォーク・ソングだけでなく、唱歌から歌謡曲まで、いつまでも心に残る名曲が少なくない。我輩の好きな秋の歌は、秋風がテーマであったり、海の歌だったり、悲しい恋歌だったり、とにかく哀愁や哀調を帯びた短調の旋律なのだ。

 一番好きな曲はと言うと、ダ・カーポさんがかつて歌っていた「夏の日の忘れもの」であろう。

「もう、夏は終わったの…、赤いサンダルひとつ… ♪♪~~」

 さらに、舟木一夫さんのかつての「B面コレクション」の中に収録されていた「想い出通り」が実にいい…。

「立ち止まることなく、時は流れゆき…、愛だけがはぐれて、迷う街… ♪♪~~」

 好きな曲を幾つか記すと、季節感は無いが、青春時代に聴いた本間千代子さんの「海ほうずきの頃」がある。声は細くてあどけなかったけれど、純真で甘っぽくてよく澄んだ彼女の当時の歌声が、記憶のざわめきの中にはっきりと残っている。この他、中山千夏さんの「あなたの心に」とか、本田路津子さんの「秋でもないのに」や、牧村三枝子さんの「はまゆうの花」(TBS系テレビドラマ"女の一生"主題歌)がある。

 同じ秋の歌でも、歌手によってかなり違ってしまうのは、どうしても否めない。例えば、日本の抒情歌になってしまっている「旅愁」や、「里の秋」の他、「浜辺の歌」や「赤とんぼ」、「もみじ」など、ソプラノ歌手の鮫島有美子さん(国際的に活躍する、日本が生んだ超一流のソリスト)の歌唱ともなると、聴いていてしびれてしまいそうだ。声質・音量はもとより、感情移入、抑揚、ビブラートなど、発声楽的な完成度はもとより、類まれな彼女の感性は実に魅力的であり、国際舞台でのトップ・クラスでのボーカルは、先々まで他の追随を許さないであろう。何度でも聴きたくなる程、実にすばらしく、歌に魅了されずにはいられない…。

 また、同じ歌でも、コーラス・グループやデュオ歌手が歌うと、その歌の良さがかなり違ってくる。例えば、スリー・グレイセスの歌った「夏の日の恋」や「山のロザリア」、ボニー・ジャックスの「ちいさい秋みつけた」、伊藤ゆかり&ダークダックスの曲「秋が突然」(NHK・TV"歌の祭典"より)など、いい感じの歌をいくらでも拾い出す事ができる。デュオでは、キャッツ・アイの「めっきり冷たくなりました」が、今の季節にピッタリだ。

 さらに、古い歌を引っ張り出すと、ザ・リガニーズの「海は恋してる」や、ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」、ワイルド・ワンズらの「想い出の渚」など、昭和60 年代まで遡ってしまい、エレキバンド・イン・グループサウンズや、カレッジ・フォーク・バンドの時代のヒット・ソングを列挙する事となり、切りがないので、これぐらいにしておこう。

 

自作の、「秋」にちなんだ作品をひとつ

 志摩の海辺では、素材を見つけ、情景を描写し、これまでにいろんな詩を書いた。抒情詩もあれば歌謡詞もある。我輩の詩は、どこか子供っぽくて、寂しくて、女性的でいけない。例えば、

黄昏の今来た小道
振り返ると 誰かいるような…
あの人が微笑んでいるような…
でも、それは冷んやりとした
秋風のざわめき

(以下、省略。「黄昏の小道にて」より)

こんな調子である。

 

 自作のC.D化作品をひとつだけ記すと、「秋風さらさら」(リリック歌謡曲。松崎昌子さん編曲・ボーカルのインディーズ盤)が、季節感があって、とても気に入っている。

秋の陽射しに 呼び止められて
独りで辿る 野辺の小径(こみち)
コスモス揺れている 風の通り道(みち)
ひと時 私も 風になり
秋風さらさら 何処(どこ)へ行こうか
遥か彼方の あの人の街よ

揺らぐ木漏れ陽 落ち葉の絨毯(じゅうたん)
ふたりで歩いた 学園通り
色づく銀杏(いちょう)に プラタナス
あの頃 通った カフェテリア
秋風さらさら 枯れ葉に染まり
過(よ)ぎる青春 想い出の街よ

悲しみ色の 夕焼け雲(ぐも)に
侘しさ預けて 辿る小径
梢(こずえ)に熟(う)れてる 残り柿(がき)
夕暮れ かさこそ 風の声
秋風さらさら 面影呼べば
口笛吹いてる あの人がいる

 

秋が突然めっきり冷たくなりました

  

写真上から

  • 志摩市大王町名田の「大野浜」
  • 同じく、名田の「大野浜」
  • 「秋が突然」(EPレコードのジャケット)
  • 「めっきり冷たくなりました」(EPレコードのジャケット)
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「伊勢すずめ」の名水紀行

2010年09月12日 | 伊勢志摩旅情

五十鈴川・法度口

 

伊勢志摩~奥伊勢に「涼」を求めて

 今年は、9月に入っても、残暑が衰えないどころか、夏の北太平洋高気圧の勢力が強烈で、日本列島をすっぽりと覆ったまま真夏の猛暑を長引かせ、いまだに熱中症を発症させている。とにかく、「涼」を求めて自然の真っ只中に出たい。さて、何処へ行こうか ・・・ となると、あまり人のいない静かな水辺となる。海・山のシーズンが過ぎたのに、週末や連休には、伊勢志摩のビーチには避暑やレジャーに訪れる人々が後を絶たない。山間の渓流や滝、観光鍾乳洞などもみな同じであろう。

 昨今は、「○○百選」とか、「△△紀行」とかのフレーズがよく目につき、里山や里野(さとの)や里海(さとうみ)、人里離れた千枚田(棚田)、古街道の並木道や峠路、山野辺の径(こみち)など、古風で鄙びた自然環境への憧憬と旅情が、乾ききった庶民の心中を魅了し、行楽へと誘っている。とにかく「涼」と「水」を求めて、伊勢志摩から奥伊勢にかけての各地を巡ってみた。

 

まず、「伊勢志摩・奥伊勢の三名水」を紹介しよう。

  1. 天の岩戸・水穴の流水(鍾乳洞の地下水流)・・・ 当地は、志摩市磯部町恵利原にある神話にまつわる散策の名所。神聖視されている鍾乳洞(瀧祭窟)の洞内滝より豊富な地下水が流出し、日本名水百選に選定されている。但し、弱度の硬水である。当地を訪れ、飲用に採水してゆく人も少なくない。
  2. 伊勢市宇治今在家町高麗広手前の湧水 ・・・ 高麗広に至る五十鈴川左岸の道路際に湧き出ており、癖の無い良質の湧き水である。口コミでその場所が知れ渡っており、車横付けの採水者が絶えない。眼下の渓流には、「鮑石」(鰒石。あわびいし、又はあわびいわ。さらに川上の「鏡石」とともに、五十鈴川上流の古来の名所)がある。内宮前から剣峠に至る県道を2.4km程入ると、すぐ右手に見える。
  3. 度会郡大紀町木屋の手前の湧水 ・・・ 水道水を飲み慣れている者には、とにかく冷たくて美味しい湧き水である。道路際の断層破砕帯の崖から湧き出ており、地元の木屋では昔から貴重な飲み水として利用している石清水(いわしみず)である。土砂崩れが頻繁な県道の道路際ゆえ、最近、この破砕帯を含む岩盤や崖錐から成る崖面全体がコンクリートでコーティングされ、頑丈な防護壁が出来たが、昔ながらの湧水はそのまま保存され、以前からあった地蔵尊を祀る為の小さな祠も、崖にくりぬかれている。正に「知る人ぞ知る」、霊験あらたかな「超名水」と言える。車を乗りつけ、ポリタンクをいっぱい持った遠方からの採水者が絶えない。場所は現地に行けばすぐ分るが、木屋の久保橋の手前約500mの地点である。

木屋の湧水

度会郡大紀町木屋の手前の湧水

 

次に、伊勢志摩近郊の五大瀑布を紹介しよう。

養命の滝

  1. 大 滝(伊勢市宇治今在家町高麗広、神路山)・・・ 神宮宮域林の山中にあり、地元の参詣者にしか知られていないが、伊勢志摩地方最大の古来の名瀑。赤色チャートの造瀑岩(ぞうばくがん)に懸かり、落差は目測で約20m。白布を垂らしたような見事な滝である。内宮前から高麗広の大滝口(当地には、高麗広公民館がある)までは、約8.4kmである。
  2. 養命の滝(伊勢市前山町)・・・ 前山町の「式部塚」から約1km村道を上った、亀谷郡川の源流付近の細暗い小谷にある小滝(大・小二つある)。滝壺のある左側の大きな滝が本来の「養命の滝」で、目測での落差は約4m。以前は縄注連縄が張られていたが、今はない。鼓ヶ岳の西麓にあたり、石墨千枚岩の岩盤に懸かり、古来、神聖視されている。当地へは、要所に道しるべがあるが、山に入る林道風の一本道をジャスト1km行くと、伊勢自動車道(高速道路)を跨ぐ陸橋に出る。陸橋を渡った所までは普通車が入るが、あとは山道を徒歩。約100m歩けば、右下に見える小谷奥の小さな二つの滝に行き着く。
  3. 飛 滝(伊勢市横輪町)・・・ 横輪町の山里散策名所のひとつ。以前はそばに「真如院」と記されたお堂があったが、今は崩壊している。目測での落差は約10mの小さな滝であるが、名前の通り造瀑岩の中ほどに突き出した岩棚に懸かり、飛び跳ねて落下している。横輪の在所奥のはずれから、北方の小谷に入る林道を約1.3 km進み、さらに車止めスペースから少し険しい山道を300m程辿る。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  4. 切原の白滝(度会郡南伊勢町切原)・・・ 切原の山中にある、目測での落差は約15mの小滝。五ケ所川の上流にあり、あたり一帯は林間の閑寂な散策地として整備され、「白滝-大広山自然公園」となっている。白滝への道は、切原の在所から剣峠への県道を辿ると、分岐点等、要所に道しるべがあるので分かりやすい。白滝は不動尊を祀ることから、別名「不動滝」とも呼ばれているが、褶曲構造を伴うチャート層に懸かる構造性(断層)の滝で、造瀑岩に穿たれた滝幅は約2m。瀑頂部は節理や裂罅(れっか)に支配され、数段の階段状になっている。滝壺は長径約7m、短径約5mの勾玉形で、深さは通常1m程度であるが、底が小礫で埋まっている。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  5. 白 滝(度会郡度会町野原新田)・・・ 宮川の支流、七洞岳(海抜778.3m)から流れ出る尾合川(おごうがわ)の上流にあり、林道際の岩壁に懸かる姿の美しい滝。落差は10数m程であるが、周囲の木々とよくマッチし、滝しぶきとともに、目栄えのする名瀑である。野原新田の在所から尾合川沿いの林道を5.5km程遡るが、桜のシーズンか紅葉の頃が良く映え、一度は眺めておきたい。

 

続いて、河川水のきれいな趣のある納涼地・三選を記すと、

  1. 愛洲の郷(度会郡南伊勢町五ヶ所)・・・五ヶ所川の河畔にある山城の跡地で、剣祖「愛洲移香斎」にちなんだ自然公園。用水路(水濠)として掘られた素掘りの隧道とともに、古井戸の跡などが見られる。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  2. 彦山川の滝の堰堤(度会郡度会町火打石)・・・ 彦山川の谷川にある最大落差の石積みの堰堤(元は滝であった)。当地を訪ねると、すぐそばに用水路への導水路があり、ごく浅い素掘りの隧道が見られる。当地へは火打石の在所から、彦山川右岸の林道火打石線を400m程遡り、トタン小屋(倉庫)の所から藪道を少し下る。水音が聴こえるので、瀬音のする右下への藪道を行く。眼下に巨大な滝壺があり、スリル満点であるが、滑りやすいゆえ足場に要注意。
  3. 五十鈴川上流の法度口(はとぐち)・・・ 宇治橋の上流約800mの地点にある、五十鈴川の古名所。以前は清流の早瀬に、自然石の簡素な飛び石状の堰が築かれていただけであったが、現在は大幅に改修され、飛び石だった堰も隙間無く整然と並べられ、河床にも大きな自然石が敷き詰められ、落差のあった早瀬は、自然石を積み、両サイドに魚道を備えた独特の堰堤となっている。特に夏の朝夕は、河筋を渡る涼風とせせらぎが心地よい。ここは、かつて、これより上流は神域につき「不浄厳禁の法度」が立っていた所で、汚れを濯ぎ身を清める為の、内宮神域近くの古からの御手洗場(みたらいば)でもある。

 

最後に、よく整備された河川の親水公園を二つ紹介しよう。

  1. 藤川河畔の西の瀬公園(度会郡大紀町藤)・・・ 藤の在所にある西の瀬橋付近の河川敷を利用した親水小公園。地元では桜の名所として知られているが、最近護岸工事等の整備が成され、程良い水遊びの場となった。
  2. 松阪市森林公園内の堀坂川河畔(松阪市伊勢寺町)・・・ 森林公園内の水遊びの場として、堀坂川の川床を含めた河川の改修と整備がきれいに成されている。

 

 以上の他、あまり人の行かない隠れた池沼や溜め池なども含めて、さらに探ってみると、もっとよい場所が見つかるかも知れない。

彦山川・堰堤横の素掘りの導水路左・彦山川・堰堤横の素掘りの導水路
下・藤川河畔の親水小公園

藤川河畔の親水小公園

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2010年処暑 … 奥志摩の果て、宿田曽にて

2010年08月23日 | 伊勢志摩旅情

田曽岬付近の入浜

田曽岬付近の入浜

 

志摩をめぐる「国道260号線」

 今夏も処暑となり、ひと夏が過ぎ行こうとしている折、奥志摩の果て宿田曽への国道を走った。先志摩先端の御座から英虞湾の海岸に沿って五ヶ所地方へと、当地の湾岸を巡るこの「国道260号線」は、今でこそ立派な幹線道路となっているが、昭和の時代までは、国道とは名ばかりで、かつては「幻の国道」とさえ囁かれていたこともあった。特に岬角部は、車の通行できない九十九折の細道が続くなど、陸路を阻む難所の連続であった。それが、最近は、バイパス道路の建設や幅広い明るいトンネルも複数掘られ、 随所に未整備箇所を残しているものの、立派な舗装道路となった。特に、浜島から南張を経由し宿浦に至るルートは、真新しくよく整備され、広々としたビュアーもよく、海を眺めてのドライヴは、四季を通じて快適そのものである。

 

奥志摩「五ヶ所湾」の海里

 浜島より西、五ヶ所湾(南伊勢町)辺りまでの熊野灘沿岸地域は、「奥志摩」とも呼ばれ、海浜に浜木綿の群落を見ながら、スケールの大きな急峻なリアス式海岸が続く。五ヶ所湾はその複雑に入り組んだ形から、別名「楓湾」(かえでわん)とも呼ばれ、志摩半島の英虞湾とは又、異なった風光明媚な海景を呈し、海里(うみざと)のすぐれた郷土文化を生み出している。

 

宿田曽漁港と田曽岬

 五ヶ所湾の周辺には、幾つかの隠れた名所や名勝地があり、奥志摩の観光資源となっている。宿田曽漁港は、遠洋漁船の基地港のひとつであるが、熊野灘に突き出した田曽岬付近は海釣りのメッカでもあり、大物ねらいの釣り人らの格好のポイントとなっている。

 

田曽岬の荒磯

 漁港の防波堤から田曽岬へと続く荒磯をたどると、巨大な岩盤を成す的矢層群の地層が崩落しており、風化と海食作用の相乗効果によって、海岸線が内陸へと後退してゆくすざまじい現場を目にする。 スケールの大きな海食地形とともに、岬角間には、汀線にビーチ・カスプ(礫堆)の続く小じんまりした人気(ひとけ)の無い入浜があり、様々な漂着物を探る事ができる。自然物では、流木や海草や貝殻、軽石の他、時にはサンゴのかけらが打ち上げられていることもある。

 

お宝探しのひと夏の探検

 少し危険ではあるが、奥志摩の岬の果て、誰もいないこのような隠れたビーチや荒磯は、新鮮な風景写真はもとより、何か未知のお宝に出会うかも知れない魅力がある。酷暑の熱波が、容赦なく体力を消耗させる真夏日の昼日中(ひるひなか)ではあったが、この日は、ひと夏のちょっとした探検を楽しんだ。

 

宿田曽漁港に入港するウィンド・クルーザー

宿田曽漁港に入港するウィンド・クルーザー

 

浜島海岸の浜木綿の群落

浜島海岸の浜木綿の群落

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